2011年6月26日日曜日

【第31回】『諸葛孔明』(立間祥介著、岩波書店、1990年)

昔から軍師という存在が好きだった。組織の先頭に立つリーダーではなく、リーダーをサポートする役割を担う軍師を、である。武田信玄ではなく山本勘助、羽柴秀吉ではなく竹中半兵衛を。そして、劉備玄徳ではなく諸葛孔明を。

軍師は、リーダーをはじめとした他者の頭脳となり、手となり、また足となる存在である。したがって、稀代の軍師と言われる孔明について理解するためには、リーダーである劉備との関係性について考える必要があるだろう。本書によれば、有名な「三顧の礼」が史実として正しいのかは怪しいようであるが、いずれにしろ、劉備およびその子である劉禅に生涯仕えたのである。その関係性は孔明にとって他に代えがたいものであったといえるだろう。

劉備は、孔明だけに限らず一騎当千の人材を味方にしたのであるが、劉備のなにが人を惹きつけたのであろうか。本書によれば劉備は「人物が大きく、よく人を見分け」たという。最適な人を選ぶというのはコリンズの「誰をバスに乗せるか?」という話(ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則
)を彷彿とさせる組織マネジメントの要諦と通じる部分がある。そうして選んだ人材に自由と責任とを与えて活躍する環境を整える、ということであろう。こうした人を惹きつける魅力を持った劉備のもとであったからこそ、孔明は軍師として持てる才能を最大限に発揮させたのではないだろうか。

事を為すリーダーを支援するフォロワーシップが軍師を構成する一つの大きな要素であろうが、だからといって、軍師自らに語る思想が存在しないということはない。むしろ、その正反対なのではないだろうか。本書に描かれている孔明の言動を追うと、自身が考える社会にとっての善なる影響を与えるために、あり得るリソースをフルに活用して現実的な最適解を見出しているように思える。

では孔明にとっての理想的な社会はなんであったのか。

その一端は、曹操を仮想敵として劉備と孫権とを同盟させてパワー・バランスを取らせた点にあったのではないか、と考える。つまり、宮廷内の宦官が暗躍する旧体制を一新するために、宦官の孫である曹操を倒し、新しい統治形態を創り上げようとしていたのではないか。

実際、本書では軍師としての孔明の活躍だけではなく、統治者のサポーターとしての孔明の活躍も多く描かれている。戦争とは、政治目的を達成する為の手段である」 と言ったのはクラウゼヴィッツであるが、孔明はそれを千数百年前から実践していたのかもしれない。


2011年6月18日土曜日

【第30回】『サザエさん一家の公的保険』(梅本達司著、東京堂出版、2011年)

長谷川町子美術館等から訴えられないのだろうか。

他人のことながら、本書を読みながら常に筆者を心配に思ったものである。公的保険の主な支給事由は負傷、疾病、死亡、障害、失業といった不幸な出来事である。ポジティヴなものといえば出産くらいであろうか。

したがって、こうした支給事由をストーリーに入れ込もうとすれば必然的に本の内容は暗い話題で溢れることとなる。「サザエさん」でお馴染みの、磯野家、フグ田家、波野家、いささか家の四つの家庭に次々と不幸が訪れる。未読の方のために内容を記すことは避けるが、フィクションだと分かっていても幼い頃に「サザエさん」を見て育った実としては少し複雑な心境である。

しかし、社労士を受験する上での学習教材としては素晴らしい。

特に私のような初学者にとっては本当にありがたい。というのも、社労士の受験科目はあまりに多く、それぞれの科目を学ぶだけでは科目を横断した理解を進めづらい。とりわけ、幸運にも公的保険の支給事由がほとんど生じたことがない私のような人間にとっては、具体的なイメージがなかなか湧かないのである。ために、性別、年齢、家庭状況といった特性が明確なキャラクターが織り成すストーリーを読みながら学べることのメリットは私にとって大きかった。

さらに、本書が出版されたのは今年の3月であるために、最新の法改定が反映されている。私が気づいた唯一の不足箇所は、P.141にある再就職手当の説明に特例の内容が反映されていない、ということぐらいである(ただし、私の読み落しがあるかもしれないので、気づいた点があったらぜひ教えていただきたい)。

社労士受験を目指す方、公的保険について理解しておきたい方へお勧めしたい一冊である。私は、八月末まであと一・二回は読み直すこととなりそうである。

2011年6月12日日曜日

【第29回】『民族とネイション』(塩川伸明著、岩波書店、2008年)

「私たち」とはなにか。

日常的にこうした大上段に構えた問いを考え続けると人生が窮屈になりそうだが、時に考えたいことである。自然と発する「私たち」という言葉に含まれる範囲はどこまでなのか。

「私たち」という言葉はアイデンティティーと密接に関連する。本書が指摘するように、人間のアイデンティティーとは単一ではなく重層的である。たとえば、WBC日本代表としてのイチローにとって松坂大輔は「私たち」という括りに入るが、シアトル・マリナーズの一員としてのイチローにとってボストン・レッドソックスの松坂大輔は「私たち」と括れない。「私たち」の持つ意味合いはこのように流動的であり、多様なアイデンティティーのいずれが表に出てくるかは状況依存的である。

こうした「私たち」の範囲が限りなく大きくなったものの一つが、本書のテーマであるナショナリズムである。「ナショナリズムとはイメージとして想像されたものである」と喝破したのはベネディクト・アンダーソンであるが、アンダーソンが『想像の共同体』(定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行)で主張したナショナリズムはネイション(国民意識)に基づくものであったと筆者は言う。その理由として、アンダーソンのフィールドワークの対象となったインドネシアやラテンアメリカにおける国家形成の背景がエスニシティ(民族意識)ではなくネイションに基づくものであったからであるとしている。

では日本におけるナショナリズムの起源をどう考えるべきであろうか。

いわゆる国民国家としての日本の「誕生」は明治維新後の公定ナショナリズムに拠るというのはアンダーソンの主張の通りであろう。しかし、明治以前に「日本人」は存在しなかったのか、というとそういうことではないと筆者は言うが、その理由について筆者はあまり書いていない。

やや飛躍的な解釈になることを恐れずに書けば、明治以前における「日本人」意識は多分にエスニシティに基づくものであったのではないだろうか。隋や唐との貿易や元寇などといった「外国」という等位の存在概念を意識せねばならないときにエスニシティがとりわけ意識されたと考えるためである。戦国時代に日本の統一ということが強く意識されたことも、キリスト教の伝来や南蛮貿易をはじめとした諸外国への対抗意識という部分が強いように思える。

他方で、ネイションは明治以前にはやはり弱かったように思える。各藩を○○の「国」と呼称している点がその何よりの証左であろう。アンダーソンの言う通り、ネイションの高揚は明治政府による「国語」教育の浸透や新聞というメディアの誕生によって醸成された点が大きい。したがって、日本においてネイションとエスニシティが結び付き国民国家が形成されたのは明治以降と考えるべきであろう。

このように日本におけるナショナリズムが形成されたと考えるのであるが、それは固定的な意味合いではなく、概念はゆらぐものである。ともすると日本という概念を意図的に操作する人物が現れる世の中を生き抜くためにも、「私たち」と自分が言うときにそれはなにを意味しているのか、自覚的でありたいと改めて思った。

2011年6月4日土曜日

【第28回】『労働法(第3版)』(水町勇一郎著、有斐閣、2010年)

労働が労働法を規定するのか、労働法が労働を規定するのか。

労働法を学び始めた頃、法が働く人を縛っているようなイメージがあった。労働者を保護するために労働法があるということは分かる。たしかに、労働者にとっての最低限の生活を守るために労働法は存在する。しかし、それを法律で画一的に守る、ということはできるのだろうか。多くの企業にとって、労働法に則した言動を頑なに主張し続けることは「空気を読まない」行為だろう。

しかし、上記について本書を読んだ結果として感じたことを一言で記せばこうだ。労働と労働法とは相互に影響を与え合うのではないだろうか。

判例の積み重ねが労働法の体系を更新し続ける。そして、判例じたいは労働のあり方を問い続ける姿勢の結果として生まれる。したがって、現行の法律に即して行動するという点では法律が労働のあり方を規定するが、現実の労働のあり方が法律へと影響を与える。

その結果、国によって労働法は異なる。これは法律の違いだけによるものではない。国家によって労働観が異なり、働き方が異なるため、それに応じて労働法が異なるのである。筆者によれば、日本では共同体の内部における緊密な人間関係の繋がりが職場にも影響を与え、それが労働法にも影響を与えているという。

では国家単位で働き方と労働法とが相互に影響を与え合うという状況がある中で、企業は労働のあり方について世界展開にどう対応していくべきなのだろうか。経営学を援用すれば、ポーターのマルチドメスティック戦略か、グローバル戦略か、という二つの考え方が思い浮かぶ。すなわち、国家単位の風土に適合させて各国で人事上の対応を変えるのか、企業として全世界で同一の人事制度を適用させるのか、という二つの考え方である。

にわかに回答できる簡単な命題ではないだろうが、企業のグローバル展開を考えるために、労働法の国際比較を行なうことが各企業に求められているのだろう。