2012年10月27日土曜日

【第119回】Leveraging the Impact of 360-Degree Feedback‏


This book is a perfect guideline to develop and implement 360-degree feedback in an organization, so I highly recommend this book to HR and L&D managers and staffs. Especially, there are three important points as below.

Point 1:
360-degree feedback should not be implemented as a stand-alone event. In addition to the assessment, there must be a development planning and follow-up component.

As CCL, purpose of using 360-degree feedback should be human performance development tool. So, it is good for 360-degree feedback to be imbedded in continual training programs for example leadership training and succession planning. And also, if 360-degree feedback is implemented as a stand-alone event, it will not make attendants start first step to his or her own development plan (though it will be good for him or her to be aware of own performance).

Point 2:
Boss support is critical for the 360 process, as well as for getting participants to set specific development goals.

What is said above comes from the viewpoint of the job characteristics as a boss. Comparing to any other rater of 360-degree feedback, his or her boss may be the best rater who can see and watch his or her performance in a daily business life. Considering about this point, asking boss to be supportive attitude to 360-degree feedback is important.

Point 3:
The 360-degree feedback process works best if it begins with the top executives of the organization then cascades through the organization.

Of course, implementing 360-degree feedback is good not only as development indicator for target attendants, but also as CSF indicator for company itself, because 360-degree feedback materials must be based on company’s business strategy and corporate mission.

2012年10月20日土曜日

【第118回】『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(山岡淳一郎、草思社、2007年)


 後藤新平と言えば関東大震災後における東京復興である。3.11後の復興の時期に、なにかと比較の対象となったことが記憶に新しい。もちろん名前は知っていたが、 恥ずかしながらこれまで彼の人物像に深く触れる機会がなかった。

 まず考えさせられたのは「公」に対する後藤の意識である。権力者はともすると民衆に対して滅私奉公としての「公」を強いる傾向にあるが、後藤はそうではなかった。為政者としての後藤自身が「私」を捨てて、大衆とともに生きようとするというあり様が震災からの復興をはじめとしたチャレンジングな政策の実現を可能にしたのであろう。

 こうした「公」の意識を後藤が持てた理由はなにか。

 そこにはいろいろな要素が影響しているのであろうが、とりわけ彼を取り巻く多様な対人関係に着目したい。彼の周囲には、いわゆる「右」から「左」まで様々な価値観を持った人材が揃っていたそうだ。目標を共有してプロジェクトを実現するためには、目標の実現と関係のない価値観までが同一である必要性はない。むしろ、困難なプロジェクトを実現させるには、異なる価値観を持ったメンバーが集まっていた方が強いのかもしれない。現代のダイバーシティを先取りするような彼の有する人間関係こそが、「公」的なプロジェクトを成功させる要因となったのではないだろうか。

 では、プロジェクトの実現へと至るために多様性を受容し、他者を客観的に理解することができたのはなぜか。

 注目したいのは、後藤とその若き日における師匠にあたる安場保知とのやり取りである。後藤より十二歳年長で同じく安場の下に仕えていた阿川光裕から後藤は「師匠の安場をも絶対視するのではなく客観的に見つめよ」と言われたという。至言であろう。一方的に何かを信じるということは、それを自分の中に入れこむだけに過ぎない。そうではなく、対話を通して他者の貴重な知恵や意見を自分の中で咀嚼する。そうすることが実践に結びつく抽象度の高い知恵を紡ぎ出す。対話を通じて自由と自律を重視する姿勢こそが、多様性の受容と客観的な他者の把握に繋がったのではなかろうか。

 自由と自律を重視する後藤の思想が凝縮されていると考えられるものが「自治三訣」と呼ばれる彼の考え方である。それを引用して終わりとしたい。

 人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう

2012年10月14日日曜日

【第117回】『重力とは何か』(大栗博司、幻冬舎、2012年)


 科学を学ぶということは、世の中を見る目を養うということであり、多様な視点で物事や事象を観察することを可能にすることではないだろうか。

 高校生に至るまで、私たちは文科省の規定に合致した範囲の学習内容を、受身的に学ばざるを得なかった。そうした学び方の結果として、特定の科目に対して苦手意識を持ったり、嫌悪の感情を抱くということも残念ながら生じてしまう。

 それに対して、それ以降の圧倒的多数の大人にとって、何を学ぶべきかという制約はない。したがって、自分たちのペースで自分たちが分かる内容を自分たちのやりたい方法で学べば良い。学習指導要領にあるような固くてせせこましい学び方に捉われず、柔軟におおらかな学び方をたのしみながら試していけば良いのではないか。

 このような大人の学びにとって、本書のように、基礎的な領域から改めて科学を学び直すことができる書物というのはありがたい。科学というと左脳的なイメージを持たれがちであるが、科学を学ぶということは世界を視る視点が広がることであり、感性や悟性を磨くということにも繋がるものであろう。すなわち、働く上でまた生きていく上でのアナロジーに満ちたものである。

 たとえばビッグバンについて。ビッグバンは宇宙の始原に関わるイシューであるために、ビッグバン理論が哲学の領域に与えた影響は大きいと言われている。本書の解説によれば、ビッグバンでは空間自身が膨張するということが指摘されている。空間が膨張するということは、二点間の距離が伸びるということであり、したがって、必ずしも空間の外側の存在を必要とするものではない。つまり、伸びるという言葉を見ると内側が伸びた先にある何もない空白の外側を前提として考えてしまうが、ビッグバン理論ではそうした発想は必ずしも前提とされていない。

 ビッグバン理論をアナロジーとして捉えることで、内と外の二分法という発想に捉われずに済む発想を持つことが可能になる、と言い換えても過言ではないのではないだろうか。

 さらに興味深いのは理論が破綻することに対する科学者である著者の感覚である。自分自身の研究でも基盤となっている先行する理論が破綻することは、自身の研究のやり直しにも繋がり、前途を塞がれる感覚を持つことがよくあるだろう。しかし、著者の考え方は違う。理論が破綻する状況とは大きなチャンスであり、これまで知らなかった世界がこの世に存在することの証左である、というのである。

 旧来の理論が破綻して、新しい理論が構築されることになれば、従来よりもより普遍的な理論を手にすることができ、新たな知見をもとに世の中をよりよくする可能性が高まる、ということであろう。これは企業や社会的組織におけるイノベーションを志向する私たちにとって勇気づけられる考え方ではなかろうか。

2012年10月13日土曜日

【第116回】『経営は「実行」』(L・ボシディ+R・チャラン+C・バーク、日本経済新聞社、2003年)


 五年前に本書を読んだとき、私は人材育成のコンサルタントであり、かつ修士課程の学生であった。タイトルにある「実行」という当たり前のことを企業の中で継続し続けることの難しさを分からなかったからか、それほどインパクトのある書物ではなかったことを記憶している。今回、本書を読み直してみて、実行をいかに企業の中で実現させるかについて気づきを得られる点が多々あった。

 実行とは、計画を立てたあとに粛々と遂行するという生産管理におけるPDCAのDに当たるものではない。そうではなく、体系的なプロセスであり、絶えずフォローすべきものである。したがって、戦略計画を立てる段階において、結果に責任を負うべき全ての関係者を巻き込み、どのようにして実行するのかを確認し合うことが重要である。

 では体系的なプロセスとは具体的にはなにを指すのか。本書では人材プロセス、戦略プロセス、業務プロセスという三つの要素から成り立つとされている。

 まず人材プロセスについて、多くの企業は現在のポストにおける仕事の評価を重視しすぎていると著者は警鐘を鳴らす。実行する文化を創り込むためには、明日の仕事ができるかどうかという観点から人材プロセスを見直すことが重要なのである。著者の一人であるボシディは、アライド・シグナルに復帰して人材プロセスを構築し直した際に、真っ先に人事部門の人材を強化したという。その結果として、会社全体を実行へ向けて動かせるようになったそうだ。人事部門を事業に結びつけることを通じて、人材プロセスをアップグレードすることが企業には求められているのであろう。

 戦略プロセスにおいては、戦略をトップが用意するという従来のスタンスは望ましくない。そうではなく、戦略の中身と細部については、実行に最も近い社員の考えを前提にして決めるべきである、とされている。むろん、トップは現場から上がってくる情報を受身的に待てば良いということではなく、現場とトップとの戦略レビューを効果的に活用するべきである。現場の担当者に対してしつこく質問を繰り返すことで、実行可能なレベルに落とし込み、その責任の所在を明らかにする。こうした一連のプロセスを回すことで、戦略レビューの場をトップが人材について学び人材を育成する格好のコーチングの舞台に設えることができるのである。

 ここまで述べた人材プロセスと戦略プロセスとを連動させるものが業務プロセスである。業務計画をレビューする際に特に重要な点として挙げられているのが、参加者個々人が持つ想定についての議論である。部門や役職が異なればある事象について抱いている想定が異なることは当たり前であるが、往々にしてそうした差異は明らかにされないことが多い。そうではなく、前提条件になる想定を議論することで、現実的な目標を設定することが業務プロセスにおいて肝要である。

 実行とは計画に基づいて行うという静的な行為ではない。むしろ、人材プロセス、戦略プロセス、業務プロセスを統合させることで常に動的に創り込む作用であることを意識し、愚直に「実行」し続けることが現代の企業には求められているのである。

2012年10月8日月曜日

【第115回】『竹田教授の哲学講義21講』(竹田青嗣、みやび出版、2011年)


 オルフェーヴルが凱旋門賞で負けた。フォワ賞あたりから期待が高まり、また直線半ばで先頭に立った状況から、「スミヨンの仕掛けが早すぎた」という批判がネット上では為されている。しかし、オルフェーヴルに跨がるスミヨンと、感想を述べる私たちとの間にある二つの軸の差異にあまりに無自覚ではなかろうか。

 一つめは空間軸である。テレビ画面を通じて全体を見渡せる私たちに対して、最後方付近で待機しているスミヨンからは動きながらラフスケッチとして把握できるに過ぎない。加えて、二つ目の軸である時間軸の相違が大きい。私たちは結果的にソレミアに差し返されたという時点からレースの状況を振り返るために、レース後からレース中を省みることになる。それに対して、スミヨンはレース前のオルフェーヴルや馬場の状況および調教師とのミーティングからレースに臨むために時間軸の矢印が私たちと真逆である。したがって、私たちはソレミアを重点的に考えられるが、オルフェーヴル陣営からすれば人気薄のソレミアはほぼノーマークで、キャメロットをはじめとしたアイルランドやフランスの馬を仮想敵と置いていただろう。過去からレースを捉えた場合、スミヨンの仕掛けが早かったということは果たしてできるものだろうか。

 私たちは自分の視座に立って物事を見る。それは致し方がない。しかし、自分の視座に立っていることに無自覚で、他者を批判することは無益である。そうではなく、他者の視点に立とうとする努力をし、他者のパフォーマンスを他者の目線で振り返ろうとする営為が、翻って私たちの視座を豊かにすることに繋がるのではないだろうか。

 これはなにもスポーツを鑑賞する場合にのみ当てはまるものではない。本書のテーマである歴史的な哲学者に向ける現代を生きる私たちの眼差しもまた、スミヨンの騎乗への批判者に該当しがちであるから注意が必要だ。

 著者は自分たちの世界像の視点からのみ哲学者の理論を捉える姿勢を一貫して批判する。そうした姿勢では、古今東西の哲学者が「生きるとはなにか」を考え詰めて紡ぎ出した結晶の価値を削ぎ落す結果となってしまうからである。時代背景や環境を踏まえた上で、哲学者たちの思想を読み解くことが、私たちの視野を拡げるきっかけになる。

 たとえば本書で最初に取り挙げられているプラトンの理論を見てみよう。プラトンと言えばイデア、イデアといえばキリスト教的唯一神、キリスト教的世界解釈と言えば本質実在論、と結びつけられ、現代ではプラトンの理論は否定的に捉えられがちである。しかし、これはプラトンが生きたギリシャの世界像を括弧に括り、現在の世界像から批判しているにすぎないのかもしれない。むしろ、現代の世界像を括弧に括り、プラトンの理論を捉えようとする努力こそが私たちには求められるのである。

 では現代の世界像を括弧に括ってプラトンを読み解こうとするとどうなるか。

 プラトンがイデア論へと至った背景には、自然哲学派が提示していた万物の原理を水や火といった物質に置く理論や、ピタゴラスの提示した原理を数に置く理論といった客観的な対象を基盤とする認識からの脱却という姿勢を見逃すわけにはいかない。つまりプラトンは、従来の客観的な対象物をもとに事物を解釈するパラダイムを脱却し、人間の有する内在的な価値によって物事を把握するというパラダイムを提示したのである。

 ここで真善美のイデアという概念に繋がる。イデアを説明する思考装置としてプラトンが用意したのがかの有名な洞窟の比喩である。私たちの前方に見える影だけを見ていては投影される元となる事物を把握することはできない。前方ばかり見るのをやめて後方を振り返ること。すなわち、自分が見ているものが太陽の光源によって照らされている仮象に過ぎないという事実を自覚すること。この自覚によって、自分自身の主観的な信念に気づき、真のイデアを目指すメタレベルでの認識、すなわち善なるイデアによる把握が可能となる、とするのである。

 その際に私たちが忘れてはならない点は、プラトンは、イデアという最終ゴールに焦点を置くのではなく、イデアに至るプロセスに対して焦点を当てていることである。善なるイデアは人間の主観に影響を受けざるを得ない。人間の感受性は美的感覚の網の目のようなものであるため、完全なもの(真のイデア)を想起することはできない。しかし他方で、その網の目を少しずつ編み変えていき、より深い美意識を持つという発展可能性は常にあるとも言える。こうした人間の審美性を深めていく原理をプラトンは善なるイデアと名付けたのではないか、というのが著者の主張であり、このように捉えれば私たちが現代で生きる糧ともなるように思える。

 時間軸と空間軸の差異を無視して今・ここの視点から他者を批判することは容易い。しかし、そこからなにが生まれるのであろうか。今・ここの視点を括弧に括り、過去の・その場所での考え方に寄り添おうとする営為こそが、歴史上の人物の知恵から学ぶということなのかもしれない。

2012年10月6日土曜日

【第114回】『自己啓発の時代』(牧野智和、勁草書房、2012年)


 著者は現代の日本を後期近代と位置づけて論調を進めている。では、そもそも「後期」の前にあり、その基底を為す近代における社会のあり方とはなにか。その特徴として著者は、国民国家の介入や科学的知識が国民に浸透し、それがヒト・モノ・情報の流動性の上昇と相俟って、共同体の内部に保持されてきた慣習や伝統が相対化される社会としている。端的に言えば、旧来の土着の慣習や伝統の価値が相対化される、ということである。

 それに対して後期近代とは、あらゆる行為や関係性や制度のあり方が「本当にこれでよいのか?」と省みられるようになる。その結果として「さまざまな行為の前提が揺らぎ、そして自らの行為の結果が次なる行為の条件を形成するまでに社会的流動性が上昇した社会」が後期近代である現代日本社会である。つまり、近代では価値が相対化され諸文化が並立していたのであるが、後期近代においてはその個々の価値に基づく行動を起こした自己に対する絶え間ない内省がなされるようになった。

 このような何でも自己の内面に惹き付けて考えてしまう現象について、フーコーの四つの概念を用いて著者は捉える。第一は倫理的素材であり、これは「自分自身のどの部分と向き合い、自己実践の素材とするのか」という観点である。第二の服従化の様式とは、「どのような様式や権威にもとづいて、「自己の自己との関係」を定めていくか」という観点。第三の観点として倫理的作業が挙げられており、これは「どのような手続きを通して自分に働きかけていくのか」という観点である。最後の第四の観点は目的論と呼ばれ、「自己実践を通して、どのような存在様式を最終的に目指すのか」という観点を示すものである。

 このようにフーコーを理論付けとして用いながら、あらゆる現象を自己の内面に惹き付けて考える人々の現象を、具体的に三つのメディアを用いて著者は分析している。

 まず自己啓発書と呼ばれるジャンルのベストセラーを分析の対象とし、「自己啓発」に関する言説構造の歴史的な変遷を取り上げている。ここで私たちが気に留めるべきは、現代における自己啓発書の書き手が、常に自分自身が読者に対して優位に立てるしくみを設けている、という指摘である。ここ十年の自己啓発の著者は、自身が解く法則と、読者がそれを受けて行う実践とを区分して記し、読者の成果が出ないことに対して実践の不備を指摘し、著者の法則の正当性を防御する構造を設けているのである。つまり、読者が成果がでないのは読者の実践不足のせいであり、自己啓発書の著者の提唱する法則に瑕疵があるのではない、ということである。こうした自己啓発書の著者が必ず読者に対して優位に立てる黄金律を著者は「万能ロジック」と形容している。昨今の自己啓発書に目を通した方には首肯できるのではなかろうか。

 次に著者が俎上に乗せているものは就職用の自己分析マニュアルである。著者の分析によれば、就職活動において学生が取り組む自己分析じたいは数十年前から行われていたそうだ。しかし、現代におけるその大きな特徴は、分析内容が自分自身の価値観や性格といった内面に傾注しすぎる点である。こうした傾向は、社会的な背景と自己分析用書籍とが相互に影響を与え合うことで循環構造を持っている。すなわち、採用市場が悪化し学生が好むポジションの採用枠が減少することで、学生側は是が非でも受かるために自己分析に力を入れるようになる。他方、そうした学生側のニーズを受けてメディア側が自己分析をマニュアル化し、作業課題を定型化することで「本当の自分」や「やりたいこと」を導出し、エントリーシートに落とし込む作業の自動化を促進する。こうした両者の相互影響により、学生を過剰に自身の内面に向き合わせる構造ができあがる。この構造が先述した万能ロジックと相俟って、自身の希望通りに就職できない学生を、自身の自己分析に努力が足りないと思わせ、病的に自身を内省させる悪循環へと導いている、と考えるのは思い過ごしであろうか。

 三つめとして、女性のライフスタイルの言説の変遷が取り上げられており、具体的には『an・an』が分析されている。私自身が『an・an』をはじめとした女性向けの雑誌に目を通したことがないためここでは著者の著述のみを用いる。著者によれば、二〇〇〇年代の『an・an』がたどりついた構造として、「日常生活のあらゆる事項を内的な自己変革・強化等の呼び水」とすることで、「「自己の自己との関係」を自ら調整・コントロール可能とする、またそれを望ましいとするような「自己の体制」」を構築したという。この分析結果からすれば、女性向けの「ファッション」誌が、外的なファッションについてではなく性格・相性・キャリア・価値観診断といった内面に焦点を置いている点は興味深い。

 こうした三つの自己啓発メディアの分析から、どのような読者層が対象であろうとも内的世界への働きかけを促していることが分かる。これは、フーコーの言葉でいうところの「自己の自己との関係」の調整自体を自己目的化させる構造を有していると言えるだろう。

 自己啓発メディアに警告を発しているように読めてしまうが、著者はそうではないと何度も述べている。自己啓発メディアの発する「自己の自己との関係」のしくみに基づく一種のゲームにうまく乗れる人はそれでか構わないと指摘している。その上で、ゲームにうまく乗れない、おそらくはマジョリティに対して、ゲームから抜け出す道を本書では狙っているそうだ。こうした誠実で筋の通った意図がありつつも、抑制的なものいいに終始する著者の姿勢は、学術書のスタンスとして、また世に意見を問うスタンスとして、読んでいて清々しい一冊である。