2013年10月27日日曜日

【第215回】『はじめての課長の教科書』(酒井穣、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2008年)

 25歳の時に、ある日本の大手IT企業で係長向けのマネジメントのテキストを上梓したことがある。全係長を対象としたマネジメント研修の事前の読み物として配布され、それに基づいた研修がデザインされるという位置づけのものであった。先方の担当者の要求水準は高く、三万字ほど書いていたもののうち、度重なる加筆・修正を経て、結果的に半分程度に削られた。とはいえ、文字数が少なくなるということは、論旨がシンプルになり、中身が凝縮されるということでもあり、納得のいく中身になったと自負していた。

 その一年半後、ややもすると夜郎自大になりかけていた私の目を覚まさせてくれたのが本書である。新婚旅行のためにモルディブへと向かう機中で読んだところ、目から何枚も鱗が落ちるような想いであった。課長や課長になる前の層を読者として想定し、徹底的に課長の視点に立った上で、課長の役割について未体験の者に腑に落とさせながら理解させている。通読するのは今回が三回目であるが、個別具体的なビジネスの文脈から適度な距離を保ちつつ、徹底的に課長の立場に寄り添って書かれたビジネス書は今でも他にないだろう。

 改めてとりわけ感銘を受けた、課長の役割、求められるスキル、取り巻く環境、という三点について述べていきたい。

 第一に、課長の役割について。ともすると、中間管理職である課長の役割は、経営と現場とを両極にする二元論の中の情報の結節点としてのみ描かれる。こうした考え方では、経営が情報の起点になるか、現場が情報の起点になるかという違いはあれども、中間管理職には情報をなるべく希釈化させずに上下に通すことだけが求められる。しかし著者は、野中郁次郎のMiddle Up-Downの考え方を援用しながら、現場と経営を介在しながら自らが第三極として戦略の起点となる存在として課長の役割を位置づけ直す。こうした経営者・現場・課長という三元論としての情報システムは「できる課長」がいることで初めて成り立つものであり、経営者にとっても現場にとってもありがたい存在であろう。

 第二に、課長に求められるスキルについて見ていこう。著者が主張するコーチングによる方向付けの重要性は、現在のビジネス環境において必要不可欠であることは最新の学術的研究でも明らかだ(労働政策研究・研修機構「特集 人材育成とキャリア開発」『日本労働研究雑誌』Oct. 2013 No. 639)。その中でも、具体的に「上司の「沈黙」は、部下への期待値の低さを伝えてしまう」(73頁)という著者の主張は慧眼である。課長が自分自身で思う以上に、部下は課長の「沈黙」に敏感である。「沈黙」があまりに多いと、課長からどんなに創意工夫を求められたとしても、課長の思う正解を探して受身な姿勢になってしまいかねない。オーバー・アクションも考えものであるが、「沈黙」のようにノー・リアクションの与える部下へのダメージについて、課長は留意することが大事であろう。

 第三に、課長を取り巻く非合理な環境をどのように捉えるか、というマインドセットについて取り上げたい。情報経路が複雑になり、オープン・タスクが占める比率が高い現在のビジネス環境とは、意思決定を行う上での変数が非常に多岐にわたる状況であると言える。ために、経営と現場の結節点であり加工情報の第三の発信地点としての課長の位置づけは、本来的に非合理なものとなりやすい。そうであれば、「割り切って、ゲームのようにとらえて手早く切り抜けることで、他のもっと大事な仕事の時間を確保する」(114頁)という考え方もあり得るだろう。ゲームというカジュアルな感覚を持つことによって、下手をすると精神的にダメージを蓄積し易い状況を気軽に捉えることもできるかもしれない。そうした達観した態度が精神的なゆとりへと繋がり、課長起点の創造性や戦略立案という第三極としての役割を全うできることに繋がり得るのだ。

2013年10月26日土曜日

【第214回】『銀の匙』(中勘助、岩波書店、1935年)

 本書は、夏目漱石がその独創性を評価したことで有名である。なにがそれほどまでに独創的なのか。端的に記せば、子どもの世界を子どもの視点で描いていることだと、本書を解説している和辻哲郎が以下のように述べている。

 『銀の匙』には不思議なほどあざやかに子供の世界が描かれている。しかもそれは大人の見た子供の世界でもなければ、また大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。それはまさしく子供の体験した子供の世界である。子供の体験を子供の体験としてこれほど真実に描きうる人は、(漱石の語を借りて言えば)、実際他に「見たことがない」。大人は通例子供の時代のことを記憶しているつもりでいるが、実は子供として子供の立場で感じたことを忘れ去っているのである。(中略)こうなると描かれているのはなるほど子供の世界に過ぎないが、しかしその表現しているのは深い人生の神秘だと言わざるを得ない。(225~226頁)

 子供時代のことを子供の視点で書き、その筆致が他の先行する小説家の書き方や考え方と異なるという点に漱石はその独創性を見出したのである。子供の視点で書けるということは、シンプルで本質を見抜く子供から見た世界を描き出せるということである。では著者は、本書でなにを見出しているのだろうか。それは以下の場面に典型的に現れているようだ。

 次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいえない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいった。この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。(80頁)

 持ち慣れない真新しい鞄を持つときの違和感。恥ずかしいために前を向いて歩けず、唯一信じられる自分の身体感覚に頼ろうと自分の足元を見続ける頼りなげな視線。自分だけでは新たな世界に行く自信がないために、大人に手を引かれることを契機として不安を感じながら踏み出す第一歩。はじめて学校に行った時の経験がフラッシュバックするかのような経験ではなかろうか。書かれてみれば共体感できるものであるが、著者のこの言なくして自分自身でアウトプットすることは難解であろう。

 次に、学ぶというものに魅了される過程について。

 面目ないことだが私には今まで習ったことがかいしきわからない。で、落胆して何度投げ出そうとしたかしれないのを御褒美の菓子やなにかで騙され騙されしてつづけるうちになにか薄紙でもはぐようにすこしずつわかりはじめた。読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけするにしたがい次から次へと智識は幾何級数的に進んでゆくので終いには自信もでき、興味も加わって、家へ帰ればいわれぬうちに自分から机をもちだすようになった、もとよりひとに褒められたいのがおもな動機で。試験には間もなかったが勉強のかいあって次の学期には二番になった。(108頁)

 ものごころがついたときから勉強が好きで、得意だという方もいるだろうが、私には著者の感覚がとてもよくわかる。いやいやながら宿題をする。他人に認められることで自分が「ここにいていい手応え」を得るために勉強をする。過程における喜びなどどうでもよく、ひたすら試験の結果だけを追い求める。しかし、こうした無味乾燥な勉強が積み重なることで、一つひとつの断片の知識が繋がり、勉強するたのしさにはたと気付く瞬間が訪れる。

 こうした主体的な営為の結果として得られる学びの深さに対して、他者から正論ばかりを押し付けられる学習には反感を覚えるものだ。

 私のなにより嫌いな学課は修身だった。高等科からは掛け図をやめて教科書をつかうことになってたがどういう訳か表紙は汚いし、挿画はまずいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさえ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といえばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらったの、正直者が金持ちになったのという筋の、しかも味もそっけもないものばかりであった。おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加えるよりほか能がなかったのでせっかくの修身は啻に私をすこしも善良にしなかったのみならずかえってまったく反対の結果をさえひき起した。(169~170頁)

 深く学んでいる者ゆえに、浅薄な正論を単に押し付けられることへ抵抗感をおぼえるのだろう。小学校の「道徳」の授業も同じようなものであった。誰もが一見して是としか言いようのないものを教材にしたところで、深く考えさせた結果として得られる豊かな学びは得られない。小学校低学年で覚えた掛け算九九を高校生になってわざわざ試験されると、受けさせられる側は自分が馬鹿にされているように感じるだろう。単純な是非の問題をいつまでも繰り返すのは学習にとって逆効果だ。教育に携わる身として、意識しておきたい点である。

2013年10月20日日曜日

【第213回】『悩む力』(姜尚中、集英社、2008年)

 タイトルにある「悩む」という行為は、私たちの日常においてはネガティヴに捉えられることが多い。悩み過ぎはたしかによくないだろう。しかし、悩むことをポジティヴに捉えること、すなわち生きる意味を見出すものとして肯定的に捉えてみはどうだろうか。本書は、このような考え方のもとに、現代における悩むことの意義を論じている。

 ウェーバーは西洋近代文明の根本原理を「合理化」に置き、それによって人間の社会が解体され、個人がむき出しになり、価値観や知のあり方が分化していく過程を解き明かしました。それは、漱石が描いている世界と同じく、文明が進むほどに、人間が救いがたく孤立していくことを示していたのです。(17頁)

 ウェーバーと漱石、西洋と東洋の知の巨人が異口同音に描いた通り、西洋近代文明は私たちに孤独をもたらした。現代を生きる私たちが、その存在自体を否定することは不毛なのであろう。合理化とは分けることである。近代化によって、知の分化、人の分化が進み、そのスピードは上がりこそすれ、下がりはしない。こうした社会において、孤立を前提にした上でいかに生きるか、が私たちに問われているのである。

 こうした前提に立った上で、著者が述べているポイントのうち、ここでは、私、知、相互承認という三つに焦点を当てたい。まず「私」という近代合理主義によって生まれた概念をどのように捉えるか。

 私は、自我というものは他者との「相互承認」の産物だと言いたいのです。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があるということです。 他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえないというのが、私のいまの実感です。もっと言えば、他者を排除した自我というものもありえないのです。(40頁)

 「私」というものを考える際に、他者や世界に対して閉じたものは自己チューと呼ばれるものであると著者は対比的に述べている。それに対して、「私」を徹底的に考える過程で、他者や世界に対してオープンマインドであることを通じて、翻って自分を見つけ出すことができると著者はしている。これを、漱石の小説のテーマとして散見される自我であると著者は指摘する。

 まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みの底を「まじめ」に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。(42頁)

 むろん、自分に向き合うということは辛い作業である。見たくもない現実や考え方に直面することもあるだろう。まして、そうしたありのままの自分をもって他者に開くということは恐ろしくもある。自分の有り様が受け容れられない時には、あたかも人格を否定されたかのように思えることもあるに違いない。しかし、そうであったとしても、悩みながら、他者に開いた上でまじめに自分に向き合うことで他者と出会う地点へとたどり着ける。これが著者の私たちへの助言である。

 次に、知について。

 人間の知性というのは、本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指すのでしょう。しかし、本来そうあるべきだった人間の知性は、どんどん分割されていきました。それは科学技術の発達と密接に関係しています。分割されて、ある部分ばかりが肥大していった結果、現在のようになってしまったのです。(69頁)

 本来的な意味での知とは、自分自身が豊かなリベラルアーツを持つことに加えて、「私」のところでも述べたような、他者とのすり合せが求められる。しかし、 知が分化する過程で、他者と分断され、個人に閉じたものへとなりがちであるのが現代である。私たちは知に対してどのように向き合うべきなのだろうか。

 人類学者のレヴィ=ストロースが言う「ブリコラージュ」的な知の可能性を探ってみることです。ブリコラージュとは「器用仕事」とも訳されますが、目前にあるありあわせのもので、必要な何かを生み出す作業のことです。私はそれを拡大解釈して、中世で言うクラフト的な熟練、あるいは身体感覚を通した知のあり方にまで押し広げてはどうかと考えています。(78頁)

 新しい何かを獲得する、最新の情報を入手する、といった行為もたしかに大事であろう。しかし、それでは際限がないし、分化したものを分化した状態で吸収しても自分のものにはならない。目の前にあるもの、自分が持っているものを統合することで何かを生み出すこと。こうしたスループットやアウトプットを行うことで、翻って良質なインプットが引き起こされて、知が涵養される。

 私たちの社会は、いますべての境界が抜け落ちたような状態になっていて、そこに厖大な情報が漂っています。たしかに、人間の脳というのは際限がなく、放置しておくと限りなく広がって、得手勝手にボーダーレスな世界を作り出していきます。 しかし、現実の肉体や感覚には限界があります。だから、反対に、自分の世界を広げるのではなく、適度な形で限定していく。その場合でも、世界を閉じるのではなく、、開きつつ、自分の身の丈に合わせてサイズを限定していく。そして、その世界にあるものについては、ほぼ知悉できているというような「知」のあり方ーー。(79~80頁)

 情報の入手ソースが広がり、量が増えている現代において、それをどのように最適化するか、は非常に重要な問題である。それに対して、身体という有限なメディアを活用することで、自身の中で知を身近なものとして涵養する。さらには、身体メディアを用いることで、知を開き、他者と交流をすることで知の相互交渉を試みる。こうした知を相互に育んでいくことが現代の私たちには求められているのではないだろうか。

 最後に相互承認について。

 他者を承認することは、自分を曲げることではありません。自分が相手を承認して、自分も相手に承認される。そこからもらった力で、私は私として生きていけるようになったと思います。私が私であることの意味が確信できたと思います。 そして、私が私として生きていく意味を確信したら、心が開けてきました。フランクルが言っていることに近いのですが、私は意味を確信している人はうつにならないと思っています。だから、悩むこと大いにけっこうで、確信できるまで大いに悩んだらいいのです。(160頁)

 自分を開くことで他者を受け容れる。自分を開いたからといって、すべての他者が自分を受け容れていくわけではない。自分は開いているのに、他者は開いてくれないという状況は辛いこともあるだろう。しかし、その中の一部の他者と相互に開き合うこと、換言すれば、相互に承認し合える関係性を築けることで、自分の生きる意味が見えてくる。そうすることが自身の心身の健康状態を保つことができ、加えて、その過程における悩みや苦労を著者は肯定的に捉えるのである。

 自分自身に「私はなぜ働いているのか」と問うてみることがあります。すると、いろいろ考えた挙げ句、他者からのアテンションを求めているから、という答えが返ってきます。お金は必要ですし、地位や名誉はいらないと言ったら嘘ですが、やはり、他者からのアテンションが欲しいのです。それによって、社会の中にいる自分を再確認できるし、自分はこれでいいのだという安心感が得られる。そして、自信にもつながっているような気がします。 人間というのは、「自分が自分として生きるために働く」のです。「自分が社会の中で生きていていい」という実感を持つためには、やはり働くしかないのです。(128頁)

 相互承認をもとに生きていく意味を見出していく。そのためには、私たちの生活の中の大半を占める働くという時間をどのように過ごすか、が大事になってくる。大きなことを企てたり実行することは必ずしも必要ではない。目の前の同僚、目の前のお客さま、こうした個別具体的な存在に価値を提供し、承認されること。こうした積み重ねが組織を活性化し、社会をより良いものへと連鎖させる起点になるのではないだろうか。

2013年10月19日土曜日

【第212回】『口語訳 古事記[神代篇][人代篇]』(三浦佑之、文藝春秋社、2006年)

 古事記とは、語り部が語ったものを文書に起こして編纂されたものだと言われている。ために、書物になっているとはいえ、ソシュールの概念定義に即して言えば、ラングではなくパロールに近いものである。こうした語りを前提とした書物の役割とは何だろうか。

 わたしたちの使う文字は、ある一つの世界へと物事を集約しようとしますが、語りごとはいくつもの世界へと拡散しようとする表現だと言えるのではないかと思っています。語りは、文字のようにただ一つのものを求めようとはしないのです。その言葉はかならず消えてしまいますが、不確かな耳しか持たないわたしたちの世界とは別の世界にも届かせようとする言葉、それが語りごとなのです。(神代篇・12~13頁)

 ラングが世界観を集約する機能を有するのに対して、パロールは世界観を拡散する機能を有すると著者はしている。つまり、読み手に多様な解釈可能性を与え、それぞれに即した気づきを与えることが古事記の役割なのであろう。これは、天皇制を正当化し<日本>という国家を形作るために正史として正確かつ一義的に編纂された日本書紀とは異なる点である。世界観の発散と収束の観点に鑑みれば、両者は真逆の機能を有した歴史書なのである。

 神話とは、人と、大地やそれをとり囲む異界や自然、あるいは神も魔物も含めた生きるものすべてとの関係を、始源の時にさかのぼって説明するものだ。それを語ることによって、人が今ここに生きることを保証し、限りない未来をも約束することで、共同体や国家を揺るぎなく存在させる。神話とは、古代の人びとにとって、法律であり道徳であり歴史であり哲学であった。だからこそ、人が人であるために神話は語り継がれた。(神代篇・276頁)

 世界観に対するベクトルが異なるとはいえ、最古の歴史書である以上、国民が抱く自国のあり方を規定するという機能を日本書紀と古事記とは持っている。歴史の源が神話として描かれることはキリスト教・ユダヤ教・イスラーム教といった主要な宗教と同じであり、これが「日本教」という言葉遣いが時に為されることの理由であろう。神話に対する感受性が乏しくなってきた現代においても、古事記で描かれる英雄たちの物語を読めば、現代の日本における物語の構成との類似性に気付かざるを得ない。両者の間には、綿々と受け継がれる何らかの影響があるのだろう。

 これら三人の英雄はまったく同じだというわけではない。スサノヲには神話的な英雄性があり、共同体に秩序をもたらす役割が与えられている。ヤマトタケルは天皇の命令を受けて遠征し悲劇的な最期をとげる。オホハツセワカタケルは天皇となって国家を支配する。それぞれが置かれた時代を映しながら、共通する正確や内容をもって語られてゆく。そうした物語のらせん状のくり返しも、音声表現が見出した語り口だとみてよい。(神代篇・250頁)

 似たような物語の構造が時代を超えて繰り返されるのみならず、古事記の中においても、似たような構造が繰り返される。過去のエントリー(『古事記講義』(三浦佑之、文藝春秋社、2003年))でも述べたが、古事記における英雄物語の構造は似ている。これは著者が述べるようにパロールという特性から生じたものであろう。

 <私たち>の国家を形作る歴史書を紐解くことで、日本史というパラダイムから私たちの意識が完全に解き放たれることはない。しかし、<私たち>の歴史というパラダイムの存在を自覚した上で、<私たち>と異なる国家や文化に属する方々と節度を持った上で交流すること。グローバリゼーションがすすむ現代社会においては、英語というラングに頼るのではなく、こうしたマインドセットを持つことが求められるのではないだろうか。

2013年10月14日月曜日

【第211回】『古事記講義』(三浦佑之、文藝春秋社、2003年)

 日本最古の歴史書と言われる古事記。歴史には、それを語る主体たる国民、そして国民の集合である国民国家を創り上げる作用がある。こうした観点からすれば、古事記には日本という国家のかたちや文化が現れていると言えるだろう。

 著者は、世界の神話には「つくる」「うむ」「なる」という三つの語り方があるとした上で、古事記は「なる」というタイプに該当するという丸山眞男の著述を引用している。偉大なるGodが無から有を創り出したり、神を生み出すのではなく、次々と神々が自ずから成り出すという多神教の発想。こうした考え方は、寒暖の差があり、雨が多く、自然が豊かな環境において成立する発想である。

 自然は肥沃な大地を生み出すとともに、危険な存在でもある。こうした自然に対してどのように接するか、ということが日本列島に古くから住む人々にとってのテーマであるとともに、古事記における神話のテーマとなる。その特徴を最初に顕著に表しているのがスサノヲの物語である。

 スサノヲのヲロチ退治を見てみよう。結婚前の少年であったスサノヲは、得体の知れない化け物であるヲロチの生け贄になるクシナダヒメを救う為に名乗り出る。ヲロチに酒を飲ませるように工夫を凝らし、したたか酔わせた後で、八つの頭をそれぞれ剣で切り刻む。こうして見事にヲロチを倒した後に、クシナダヒメと結婚して家族を設ける。シンプルな物語ではあるが、知恵と勇気とを持って自然の脅威を克服し、ただ破壊するだけではなく再生産という文化を築き上げる様が描き出されている。

 この構図は古事記における以降の英雄叙事詩にも引き継がれている。

 次にヲウス、後のヤマトタケルを取り上げよう。凶暴なクマソタケル兄弟の征伐を命じられたヲウスは、猛々しくはあってもまだ少年であった。まともに対抗するほどの力強さはない。そこでヲウスは、女装してクマソタケルの宴席に紛れ込み、酩酊した二人を個別に殺す。ここで興味深いのは、死の間際のクマソタケルから、ヲウスの勇猛さを見込んでタケルの名をもらい、ヤマトタケルと名乗るようになる点である。純然たる悪としての敵が存在するのではなく、主人公が成長する糧として敵が存在するという日本の物語の典型がここに現れていると言えるだろう。

 最後に出雲神話に出てくるオホムナヂについて述べる。「因幡の白兎」として知られる白兎を薬の知識で救う点は、医薬という知恵によって自然を克服するというポイントである。さらに、根の堅州の国を訪れ、スサノヲから与えられる幾多の試練を克服して、彼の娘であるスセリビメと結婚するのである。オホムナヂの成長物語であるとともに、スサノヲから英雄が継承されるという物語は、現代にも至る皇統の継承性・正統性という視点でも捉えられ、興味深い。

 古事記には、自然の克服と協調、その過程における少年の成長、文化を築き上げると言う意味での結婚と家庭の創造、というポイントが提示される。こうした日本における英雄のあり方と、ジョゼフ・キャンベルが述べるヒーローズ・ジャーニーという西洋における英雄物語とを対比しながら考えることも趣き深いのではなかろうか。

2013年10月13日日曜日

【第210回】『直感力』(羽生善治、PHP研究所、2012年)

 直感という言葉を著者がタイトルに取り上げると、なにか天才的なひらめきのようなもののように思えるかもしれない。しかし、本書を読み終えると、その印象は百八十度変わる。著者の実践に裏打ちされた暗黙知が詳らかに形式知化されており、プロフェッショナルの言語化能力の高さに驚くばかりである。直感に関して、著者は大別して三つのポイントを述べている。

 第一に、直感を養うことについて、三つの要素の重要性が記されている。

 その感覚を得るためには、まずは地を這うような読みと同時に、その状況を一足飛びに天空から俯瞰して見るような大局観を備えもたなければならない。そうした多面的な視野で臨むうちに、自然と何かが湧き上がってくる瞬間がある。(19頁)

 細かい点の近くに寄って深く読むことと、高い所から大局を俯瞰して眺めること。カメラのピントを合わせるように、遠くと近くとをバランスよく眺めることである。

 現場へ出かけていって、進行形の勝負を肌で感じて考える。こうしたことも直感を培うためのひとつの方法である。 最近はそうした現場感覚を意識して、タイトル戦が行われている会場へ出かけ、控室で研究する棋士が増えている。その場に身を置き、対局者と同じ時間を共有しながら、自分の頭で考えることをする。リアルタイムで進行を体感しながら、伝えられてくる対局者の指し手について「どうしてここでこの手を指したのだろう」と、考える。 後日掲載された棋譜だけを見て、結果から理論づけるのではない。次の展開が見えない状態で、対局の当事者ではない自分も局面の予想を立てていくのだ。 こうした経験を積むことでも直感を導き出す力は鍛えられる。(23頁)

 現場で経験を積むことの重要性がここでは述べられている。リアルタイムで、現場における変化を経験し、そこで考えること。こうしたことが直感というたぶんに感覚的なものを養うことに繋がるのである。

 直感を磨くということは、日々の生活のうちにさまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にすることではないかと考えている。(35頁)

 一つのことに没頭するだけではなく、多様な価値観を持つことが同時に重要なのである。将棋だけを突き詰めるのではなく、他の分野のプロフェッショナルとの対話にも積極的に取り組む著者の姿勢をそのまま表していると言えるだろう。

 ではこうした直感を磨く領域をどのように見つけるのか。直感を習得する対象についてが、これから述べる二つめのポイントである。

 追いかけ続けてあるときふと、自分はこれが好きなんだと気づくのが、一番自然なことなのではないかと思っている。そして何よりも「コツが分からないこと」を、難しいからと投げ出してしまうのではなく、「なぜなのか」と探求していく気持ちが大切なのではないか。(中略)何が自分に有益となるのかなどに囚われた心を排し、新たな試みを行っていく必要があるのではないだろうか。(70頁)

 直感を養う対象を見つけるためには、とにかく何かを続けることが大事であると著者は説く。その際に、シンプルで表層的なもので対応できるものではなく、尽きずに探求できる深みのあるものが良いとしている。自身にとっての有益性や経済合理性といった表面的な動機ではなく、新たな試みを続けていきたいと自然に思える領域を探すこと。いつ終わるとも分からないプロセスを、継続することが大事なのである。

 何かを学び習得していく、上達してうまくなっていくというのは、その集中する時間を少しずつ延ばしていくプロセスなのではないかと思う。(中略) どんな物事でもいいのだが、何かに集中して一生懸命になって集中する時間を延ばしていく訓練をしておくことが必要なのではないだろうか。その訓練が根気をつけていくことにつながり、他に何か違うことを学んだり覚えたりといったときの基礎体力になるのではないかと思っている。(49~50頁)

 選んだ対象をどのように上達させていくか。当たり前のことではあるが、最初から集中して長い時間取り組むことは難しい。集中できる時間を、意識的に少しずつ延ばしていくこと。これが上達するために必要なステップである。こうして一つのことを深掘りしていく上達のプロセスを踏めるようになると、他のものを上達させる上で共通する重要な基盤となることにも着目するべきだろう。

 第三に、直感を磨きながら、情報をいかに受発信するかについて述べていく。

 本を通じてたとえ他人から見たら意味のなさそうなことでも、自分なりに解釈してみることが、想像力や創造力を生み出す源泉になるのではないだろうか。(78頁)

 情報のインプットの重要性として、単になにかを覚え込むのではなく、自分の文脈に引き合わせながら解釈を試みることを著者は指摘している。つまり、ここでは受動的な読書ではなく、いわば能動的な読書をすることが、直感を磨き上げることに繋がる。

 アウトプットは、単なる出力ではない。記憶するための手段でもない。人は必ず、アウトプットしながら考え、それを自分にフィードバックしながら、インプットされた知識や情報を自分の力として蓄積していくようにできているのではないかと考えている。(117頁)

 インプットの重要性の対の概念としてアウトプットの重要性が挙げられている。能動的な読書や情報収集をかたちにすること。このフィードバック・プロセスを回すことによって、知識や情報を自分の対象領域や文脈に即して直感的に活用できるようになる。


2013年10月12日土曜日

【第209回】労働政策研究・研修機構「特集 人材育成とキャリア開発」『日本労働研究雑誌』Oct. 2013 No. 639

 本稿では、本誌に所収されている論文のうち、以下の三つに絞って、人材育成に関わる実務的な見地から考察を加えることとする。

 (1)中原淳「経験学習の理論的系譜と研究動向」
 (2)三輪卓己「技術者の経験学習 ー 経験と学習成果の関連性を中心に」
 (3)松尾睦「育て上手のマネジャーの指導方法 ー 若手社員の問題行動とOJT」

(1)中原淳「経験学習の理論的系譜と研究動向」

 中原論文はレビュー論文であり、経験学習の諸理論が丹念に整理されている。整理の過程で述べられている重要な示唆は以下の二点であろう。

 第一に、各理論を通底するルーツとしてジョン・デューイの学習観が見出されるという指摘が興味深い。とりわけ、デューイが経験と内省を接合させた背景に、「日常生活から切り離された場において、日常経験からは切り離された記号・抽象的概念を注入することが学習である」とする旧来の学習観があったことに留意するべきだろう。つまり、経験学習理論が盛んになる背景には、日常の生活や職務と遊離した文脈や方法における学習に対するアンチテーゼが内包されているのである。

 第二に、デューイの学習観を下敷きにすることによって半ば必然的に導かれる、日常経験をあまりに重視させる現代の経験学習ファッショへ警鐘を鳴らしている点である。中原が述べるように、学習における経験重視と知識重視とは「揺れ続ける振り子」であり、経験至上主義に基づいた人材育成施策は現場任せの無為無策になりかねない。丹念に各理論の主張と理論的射程とを読み解きながら、内省的に実践的応用を果そうとする地道な努力が、スタッフ部門にもライン部門にも求められる。

(2)三輪卓己「技術者の経験学習 ー 経験と学習成果の関連性を中心に」

 三輪論文は、製造業での技術職を対象とした調査結果に基づく実証研究である。以下では、「キャリアの発展段階(職位)によって重要な経験や学習成果がどのように異なるかを明らかにする」(以下「キャリアの発展段階」と略す)「自律的な学習意欲の強さによって、経験学習がどのように異なるかを比較する」(以下「自律的な学習意欲」と略す)という二つのリサーチクエスチョンについて述べる。

 「キャリアの発展段階」に関しては、経験を説明変数に置き、学習成果を結果変数として置いた場合に、メンバーとしての状態と、初めてリーダーにつき始める時期との間に大きなギャップがあることを明らかにしている。これは、三輪も述べる通り、一人前になるためには十年かかるという熟達研究の知見(Dreyfus,1983)が実証的に証明されていて興味深い。リーダーとして、自身に関わる職務の全体像を把握するようなチャレンジングな経験に携わることが、社員の大きな成長を促すことになるということであろう。

 次に「自律的な学習意欲」について考察を行う。三輪は、因子分析を行うことによって「自律的な学習意欲」を「有能欲求」と「知的好奇心」という二つの因子に切り分けて分析を行っている。その結果として、「知的好奇心」は経験からの学習へ影響を与えないのに対して、「有能欲求」の強弱は経験からの学習に影響を与えるとしている。この際に留意が必要なのは、三輪がどのような質問項目をもとに因子を構成したか、である。

 表3(33頁)を見れば分かるように、「知的好奇心」と三輪が名付けているものはインプットに関わるものであるのに対して、「有能欲求」はアウトプットに関わるものである。すなわち、特定の知識や情報をインプットしようとする志向だけでは職務へ適用することによって得られる経験学習のループを回すことには必ずしも繋がらない。そうではなく、アウトプットありきで特定の他者への貢献を目指すことで、結果的に経験学習というインプットおよびスループットというループを回すことができる。このように解釈すれば、より実務へのインプリケーションを図ることができるのではないだろうか。つまり、アウトプット欲求を高めるように、換言すれば、アウトプットをしかけとして用いるように学習経験を組むようにするのである。

(3)松尾睦「育て上手のマネジャーの指導方法 ー 若手社員の問題行動とOJT」

 松尾論文では、OJTのあり方の変容に現場がキャッチアップできていない点が問題提起されている。松尾は、OJTを演繹的OJTと帰納的OJTとに分類したLohman(2001)を基にして、クローズドタスクではなくオープンタスクが多くなった現在の職場においては、帰納的OJTが求められる領域が拡がっているとする。帰納的OJTが求められる領域では、職務分掌に応じて求められる知識・スキルを予め付与するという旧来の演繹的OJTでは充分に機能しないためにコーチングの重要性が指摘されてきた。

 職場の機能不全という社会学的な要因を明らかにしながら、問題行動を起こす若手社員への対応という心理学的なアプローチを取り、「育て上手のマネジャーの指導方法」を導出するのが本論文の主眼である。この分析・考察においては、インタビューデータをもとに因子を抽出する手法をとっている。尚、インタビューデータじたいに、実務に携わる人間にとっては極めて示唆に富んだ箇所が多いため、具体例に一度目を通されることをお勧めしたい。

 具体的なインタビューデータを基にして、「育て上手のマネジャー」の関与のあり方を、成長期待、共同的内省、方法の改善という三つのプロセスに抽象化している。この三つは、成長期待から共同的内省、共同的内省から方法の改善へ、方法の改善が成長期待へと繋がる、というループ構造を持っているという松尾の指摘は整合的である。三つの中でも特に重要なものは成長期待であり、その理由としてピグマリオン効果を挙げている点も納得的である。

 本研究は実証的調査ではなく探索的調査であるため、今後の実証がなされるまで留保が必要な点もあるだろう。しかし、理論的な実証を徒に待つのではなく、実務的な見地から実証していくことが、私たち実務家には求められるだろう。具体的には、たとえば管理職研修や若手社員へのインタビュー施策で用いる余地はあるだあろう。研修やインタビューといった現場における人材育成においては「引き出し」がものをいう。本論文の考察を用いてみて、それが機能しないケースが発生すれば、自身の「引き出し」から他の理論や実践知を使えばよい。こうした実務と理論の相互交渉的アプローチが私たちには求められているのではないだろうか。

2013年10月6日日曜日

【第208回】Sheryl Sandberg, “LEAN IN”

The author is very famous as a COO of Facebook.com. Her career and life has been full of excitements, challenges, and difficulties. We can learn and think about our career and life through this book, especially chapter 4.

“Careers are a jungle gym, not a ladder.”As Lori describes it, ladders are limiting - people can move up or down, on or off. Jungle gyms offer more creative exploration. (No.785 by kindle ver.)

She is right. The image of our current career is like a jungle gym. Our surrounding conditions including economical change, company strategy, and needed skill set are changing dramatically. And also, the more complicated and diverse our life style becomes, the more difficult and tough to forecast our own life in the future. Then we can’t create and develop our career stably like climbing a ladder. We not only have to climb a jungle gym, but also can enjoy climbing our own diverse style!

while I don’t believe in mapping out each step of a career, I do believe it helps to have a long-term dream or goal.A long-term dream does not have to be realistic or even specific. It may reflect the desire to work in a particular field or to travel throughout the world. Maybe the dream is to have professional autonomy or a certain amount of free time. (No. 813 by kindle ver.)

As career image looks like climbing a jungle gym, our career goals will be diversifying. Though it is not stable one, we have to draw our career goals, in order not to be drifted by our environments. It will be helpful for us to be motivated by them. Then she suggests us to have “eighteen-month plan” cited as below.

I also believe everyone should have an eighteen-month plan. (An omission) First and most important, I set targets for what my team can accomplish. (An omission)Second, I try to set more personal goals for learning new skills in the next eighteen months. (No. 868 by kindle ver.)

Her suggestion of career span is very interesting and understandable. If the economical condition is stable, we can see our future career for more than 30 years, as our parents and grand parents once could. On the other hand, if we don’t have any plan, we tend to be drifted by our outer factors. I think that eighteen month is suitable for us.

In my personal life, I am not someone who embraces uncertainty. (An omission) But in my professional life, I have learned to accept uncertainty and even embrace it. (No. 895 by kindle ver.)

According to her, when we agree to be faced on uncertain situations in our career, we don’t have to like it in our private life. If we have to face many  uncertainties even in our private life, we tend to feel stressful by them. We only do with uncertainty in our professional career, in order to develop our own important career by ourselves.

Taking risks, choosing growth, challenging ourselves, and asking for promotions (with smiles on our faces, of course) are all important elements of managing a career. (No. 940 kindle ver.)

Her summary of career development is understandable. It will be important for us to adjust her summary cited as above to our career lives.

2013年10月5日土曜日

【第207回】『孔子』(井上靖、新潮社、1995年)

 蔫薑という架空人物を孔子の弟子として仕立て上げ、蔫薑の視点から孔子とその一門の様子を描く小説である。『論語』の世界観を著者独自の視点から解説する壮大な作品であり、『論語』をより深く理解する上で興味深かった。特に感銘を受けた三つのポイントとともに、著者の人間らしい一面について最後に触れたい。

 第一に、孔子の考え方の根幹を為す仁について。

 ”仁”という字は、人偏に”二”を配している。親子であれ、主従であれ、旅で出会った未知の間柄であれ、兎に角、人間が二人、顔を合せれば、その二人の間には、二人がお互いに守らなければならぬ規約とでもいったものが生れてくる。それが”仁”というものである。他の言葉で言うと”思いやり”、相手の立場に立って、ものを考えてやるということである。(中略) 子は紊れに紊れた天下を、少しでも秩序あるものにするには、この世の中を造り上げている最も根源的なものから正してゆかねばならない。そのように考えられて”信”とか、”仁”とか、そういう問題を取り上げられたのでありましょう。(59~60頁)

 仁という言葉からはどこか難しいニュアンスを感じるものであるが、シンプルにその意味を「思いやりである」と著者は大胆に解説を試みている。こうした思いやりの心が大事になるのは、世の中が乱れているからだという。現代を生きる私たちが、改めて大事にしたい考え方であろう。

 さらに著者は、子貢と孔子との対話から仁を恕という言葉に言い換えられるとしている。趣き深い表現である。

 ーー子貢問うて曰く、一言にして以て終身、これを行なうべきものありや。子曰く、それ恕か。己れの欲せざる所を人に施すこと勿かれ。(中略) ここには、四十六年前、陳都に於て、”仁”という字の解説をなさった時の、子のお声が、そのまま聞えております。陳都では、”相手の立場に立って考えてやること”と、仰言いましたが、ここでは、それを”恕”という一字の言葉に置き替えていらっしゃいます。(290~291頁)

 第二に、死に関する孔子の考えについての考察を取り上げたい。

 ーー逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎かず。 という子のお詞があります。(139頁) 川の流れも、人間の流れも同じである。時々刻々、流れている。流れ、流れている。長い流れの途中にはいろいろなことがある。併し、結局のところは流れ流れて行って、大海へ注ぐではないか。 人間の流れも、また同じことであろう。親の代、子の代、孫の代と、次々に移り変ってゆくところも、川の流れと同じである。戦乱の時代もあれば、自然の大災害に傷めつけられる時もある。併し、人間の流れも、水の流れと同じように、いろいろな支流を併せ集め、次第に大きく成長し、やはり大海を目指して流れて行くに違いない。(141~142頁) ”逝くものは”は、確かに大きいお詞であります。海のように何でも収め、何でも容れるところがあります。子御自身の、己が人生に対する歎き、悲しみとも受取れましょうし、人間そのものの淋しさを唱っているという解釈もできましょう。或いはまた、厳しい人生教訓として読むこともできます。何に使われようと、まあ、それはそれで結構なことで、子も亦黙って、それをお許しになろうかと思います。(148頁)

 ある人物の死というものは非常な悲しみを伴うものである。孔子もまた、顔回や子路の死を嘆き悲しんだ。しかし、顔回の死を経てこの詩を詠んだところに詠嘆を禁じ得ない。自分にとって大事な人の死であっても、それは大きな自然の営為の一部に過ぎないのである。それを嘆き悲しむばかりではなく、その人の生きた意味が現在以降の世界に繋がっていると意識すること。それは、川の上流から水幅が増し、やがて大海へと繋がるような、人間個人と社会・世界との関係性である。壮大な連環を想起させる孔子の言葉は、深い。

 第三に天命について。

 人間はこの世に生れて来た以上、生れたことを意義あらしめるために、己がこれと信じた一本の道を歩むべきである。その場合、それを天からの使命感によって支えることができたら、素晴らしいことである。と言って、天はいかなる援助もしてくれるわけではないし、いかなる不運、迫害をも防いでくれるわけではない。それと、これとは違うといったところがある。こういうことを理解するのを、”天命を知る”というのであります。(331頁) 人間がこの世に生きてゆく上には、”天命”という頗る正体の判らぬ、合理的と言えば合理的、不条理と言えば不条理の掟のようなものがあって、どうやら人間という生きものは、それから逃れたり、自由になったりすることはできないもののようであります。 吉凶禍福の到来は、正しいことをしようと、しまいと、そうしたこととは無関係。もう一度繰り返しますと、大きい天の摂理の中に自分を投げ込み、成敗は天に任せ、その上で、己が正しいと信じた道を歩かねばなりません。未曾有のこの乱世に於ても、これ以外に、いかなる生き方もないようであります。(334頁)

 乱世を生きた孔子のリアリスティックな一面が凝縮されている。天命という言葉からは観念的・理念的なものを想起させられがちであるが、孔子の視線は現実を厳しく捉えて離さない。正しい行いであろうとそれが成就しないことは当然ある。天はそれを支援してくれるわけではない。しかし、そのように覚悟をした上で、正しい行いを継続すること。他者の支援を期待せずとも行ない続けることことが、翻って天命なのである。

 最後に、孔子の弟子の人物評について触れたい。子路や顔回と比較してともすると地味な印象のある子貢に関する以下の人物評が私には最も響く。

 ーー居なくなってから考えてみると、たいへんなことをやってくれている。みんなやってくれている。”やる!”とも言わないし、”やった!”とも言わない。そして、どこかへ行ってしまう。あとには、やった仕事だけが遺っている。ーーこれが子貢であります。(中略) ーー併し、おそらく、世の中の大きい仕事というものは、文明、とか、文化とかいうものは、なべて、このような人たちによって、このような人たちによって、このような人たちの組合せによって、ごく静かに、目立たない形で生み出されて行くものではないでしょうか。最近、しきりに、子貢のお陰で、このような思いの中に入っている自分に気付きます。(214~216頁) 子に対する子貢の質問の特徴は、どこにも自分を覗かせていないということであります。自分の考えも、自分の見方も、いっさい持ち出さないで、ひたすら師・孔子の言葉を記録し、記憶しておこうという態度であります。(239頁)

 たしかに、子路や顔回もすごい人物だ。しかし、私は、子貢のようにありたい。