2015年4月29日水曜日

【第436回】『先を読む頭脳』(羽生善治・伊藤毅志・松原仁、新潮社、2006年)

 記録によれば、本書を読むのは三度目のようだ。将棋界で長くトップ棋士として君臨する羽生善治さんの思考に関して、人工知能や認知科学を専門とする研究者の方々が解説する本書は読み応えがある。

 羽生さんの言葉を見ると、非常に冷静に自分の行動を眺め、そして的確な言葉で説明する能力を持っていることがお分かりいただけると思います。自分の行動や思考を自分の言葉で説明することを「自己説明」と呼び、この説明能力を磨くことで、効果的な学習ができるようになるという研究が、近年認知科学の分野で行われています。(36頁)

 羽生善治さんの様々なインタビュー記事や著書に触れたことがある方は、首肯されるのではないだろうか。また、将棋界以外においても、あるジャンルにおいて一線で長く活躍される方の発言や書籍を紐解くと同じ観想を抱くことが多い。「自己説明」とは、プロフェッショナルを創り出す一つの要素なのではないか。

 本章の最後で羽生さんは、「言語化の重要性」について言及していますが、思考の言語化が学習に非常に有効であることは、近年の認知科学でも注目されていることです。自分の考えを言語化するという作業は、自分を客観的にモニターして、考えをまとめ、理解したことに対して言語というラベルを貼るということを意味します。その結果、ラベル付けしたその事柄に改めて気づかされ、さらに理解が進むのです。この作業を繰り返すことで、知識が精緻化し、定着していくのです。(167頁)

 自己説明の効果的な鍛錬の一つが日常的に言語化を心がけるということであろう。これはなにも難しいことではない。SNSが発達した現代においては、ブログを用いて自身の考えを開陳して外に開かれたコミュニケーションを取ることは可能だし、より手軽にはFacebook等も用いられるだろう。意識して、自分自身の考えや意見を客観的な視点から文字にすること。そうすることで、私たちは、自分の分野におけるプロフェッショナルとして鍛錬することが可能なのではないか。

 初級者の人や、棋力の低い人の思想では、ある局面を見ると、駒野は位置を確かめてどんな局面にあるのかを理解して、どうなったら嬉しいのか、どうなりたいのか、ということを考えます。例えば、序中盤なら、「駒を得するにはどうすればよいか」とか「飛車や角を成り込むにはどうしたらよいか」といった目標を設定して、そうなるためにはどう指したら良いか、という風に考えます。いわゆる目標状態からの「逆算」です。
 ところが、羽生さんや上級者のプレーヤーの思考は全く違います。ある局面を見ると、見た瞬間にその局面が一局の大局の中のどんな状況かがすぐわかって、どうしたら良いのかといった結論が先に浮ぶのです。これが熟達者の行う「順算」です。(117~118頁)

 羽生さんのような達人たちが、我々素人が想像も出来ないほどの早さで正確な手を指せるのは、この「順算」の能力が大きく関わっていると考えられるのです。そして、この「順算」を支えているのが、「時間的チャンク」であり、これが「大局観」の正体ではないかと考えています。(119頁)

 ここでの指摘は私たちの一般的な通念と逆のことが書かれているのではないか、と私には思える。つまり、プロフェッショナルは先々のことを予見して、そこから逆算して行動を取っているように思うのであるが、著者は違うとしている。逆算ではなく順算こそが、熟達者が行っているプラクティスであるとし、それが大局観と呼ばれるものの正体ではないか、としているのである。たしかに、卑近な例で恐縮であるが、逆算で論理的に検討した内容が、経営者や経営層からの指摘で実務家的でかつ視野の狭いソリューションである、ということはよくある。気づきの多い箇所である。

 問題は自分ではぴったり合っていると思っていても、実は刻々と変化する状況の中で、徐々にズレていってしまう場合があるということです。そのズレた部分で、調子がおかしくなっていることがあるのです。
 時間の経過と共に生じるズレを自覚して、いかに調整して自分に合わせていくか。それを考えることが、おそらく自分自身の努力で調子の波を克服することのできる唯一の方法ではないかと思っています。(143頁)

 スランプと表現しても良いだろうし、単なる調子の浮き沈みと表現しても良いだろう。いずれにしろ、私たちの調子は一定ではないのであるのだから、悪いコンディションの時にどのように対応するか、が求められる。ここでも羽生善治さんは、自分自身の現状を認識することが第一であるとした上で、変化した状況から鑑みてズレた部分をモニターすることの重要性を挙げている。自分の取った言動を変えていなくとも、むしろ環境が変化していれば意味を為さないばかりか環境不適応になることすら起こり得る。心したい対応方法である。

2015年4月26日日曜日

【第435回】『経営学入門(下)』(榊原清則、日本経済新聞出版社、2002年)

 上巻で組織にまつわる理論の整理が為された上で、下巻では企業実務における個別具体的なテーマが取り上げられている。以下では、とりわけ心に留めておきたいと考えた二点について記していく。

 もともとマトリックス組織というのは、組織運営に多大の費用を要し、また手続きが煩雑な「重たい」組織形態です。マトリックス組織は「攻め」の組織であって、「守り」には向いていないといわれています。その意味は、成長段階には適していても、事業環境が悪化しているときには、必ずしも適当な組織ではないということです。グローバル規模で組織の難しさが顕在化し、いわば「マトリックスの呪縛」に苦しめられている多国籍企業は決して少なくありません。(58頁)

 第一に取りあげたのはマトリックス組織についてである。成長段階にない場合においてマトリックス組織が持つ「重たい」組織という特性がマイナスの作用をもたらす、というようにも解釈できるだろう。つまり、非成長段階においては、二つのレポートラインがそれぞれにその存在意義を主張するために課業を作り出すということではないか。そうすることによって不要な課業が増え、たとえば機能優先の施策をそれぞれの機能部門が出すことで、地域内での整合性が取れなくなり、成長がさらに鈍化する。こういった事態に陥るリスクをマトリックス組織は内包していることに、私たちは自覚的であるべきであろう。

 日本企業においては、狭い意味の技術力が不十分だというより、多分それ以上に、技術を武器として競争市場のなかで成果を獲得していく「技術経営」に不十分さが目立つのです。戦略・組織を中心とする経営力の不足が決定的です。(162頁)

 日本企業の海外でのプレゼンスが下がった背景の一つとして、日本企業の有する技術が低下したと言われることがある。しかし、技術力自体に大きな問題があるというのではなく、存在する技術を製品や顧客への提供価値へと繋げる経営にこそ、大きな問題があると著者は指摘する。

『イノベーションのジレンマ』(クレイトン・クリステンセン、翔泳社、2001年)

2015年4月25日土曜日

【第434回】『経営学入門(上)』(榊原清則、日本経済新聞出版社、2002年)

 概念整理ができる書籍は貴重である。ビジネス書の多くは概念を混同したり誤用しているので論外であるし、経営学の学術書では、その研究者の研究領域に比重が置かれるため全体を俯瞰することが難しい。むろん、だからこそ、研究という活動において、私たちは関係のありそうな分野の先行研究を徹底的に行い、自分自身の研究テーマを位置付けるのではある。しかし、そうした過程は、ほんの一部しか学術書という形式でアウトプットされないのだ。だからこそ、本書のような「教科書」としての書籍が貴重なのである。

 組織は意識的に調整された人間活動の集合体ですから、組織のメンバー一人ひとりには、その組織のなかで行うべき仕事があります。その仕事、すなわち「なされるべき仕事」をタスク(task)あるいは課業といいます。そして、タスクがどう関係づけられているか、つまりタスク相互の関係のあり方と、人間活動の調整のためのメカニズムの二つを総称して、組織構造(organization structure)と呼びます。(23頁)

 ここでは課業と組織構造との関係性が為されている。組織全体に通底する考え方ではあるが、企業に勤める身としては、企業で考えるとイメージがわきやすい。こうした課業と組織構造との関係から、組織に関する研究には大きくわけて二つのものがある、と著者は指摘する。

 目標遂行のために組織構造を一定のかたちに特定化したり、既存の組織構造を改変したりすることを組織デザイン(organization design)と呼びます。そして、組織構造と組織デザインを研究する学問領域を、われわれは組織理論(organization theoryあるいはOT)と呼んでいます。(23頁)

 一つめはOTである。これは、組織構造と組織デザインを研究する領域であり、マクロ理論とも呼ばれる組織論の一つの体系である。

 組織を構成しているメンバーの行動に直接的に焦点を当て、個人行動および小集団に固有の現象に関心をよせる研究であり、組織行動論(organizational behaviorあるいはOB)と呼ばれています。これを直観的に組織のミクロ理論と呼ぶ場合もあります。(23頁)

 マクロ理論とも呼ばれる組織理論に対して、ミクロ理論として組織行動論が二つめの体系として指摘されている。こうした組織論の二つの体系の背景には、「組織は戦略に従う」ではないが、密接に戦略論がある。では、戦略とはそもそもどのようなものなのか。

 操作可能な変数のなかで、組織の存続や成長にとってとりわけ重要な変数の画定および修正のことを、組織の戦略(strategy)と呼びます。(29頁)

 有効性と効率性にかかわる組織の基本的意思決定を、戦略(strategy)と呼びます。(35頁)

 二つの捉え方および定義が上記では為されている。まとめれば、「組織の存続や成長にとってとりわけ重要な変数の画定および修正」のために行われる「有効性と効率性にかかわる組織の基本的意思決定」が戦略である、ということであろうか。このように捉えられる戦略に関して、著者は、三つに分けて定義づけている。

①ドメイン戦略ーーすなわち環境との相互作用をどういう範囲で行うか
②資源戦略ーーすなわち独自能力としての経営資源をいかに獲得・蓄積・配分するか
③競争戦略ーーすなわち競合者に対してどういう独自ポジションを展開するか(37頁)

 最後に、HRの実務的な観点から興味深かった点を以下に引用する。

 組織を構成するその諸部分の異質性や多様性を一般に組織の複雑性(complexity)といいます。これは、次元でいうと「単純ー複雑」の次元です。(103頁)

 もともと複雑性とは、作業の効率を高めることをねらって、職能を細分化する結果生まれる構造的特徴です。その場合、細分化された職能を個別にみると内容は単純になりますが、その半面、組織構造は複雑化します。組織構造の複雑化は、その必然的結果として管理上の問題を発生させ、効率を阻害する側面をもちます。要するに、一方で職能の単純化を進めれば、同時に他方で組織構造は複雑化するーーこれは組織が直面する基本的ジレンマの一つです。(106~107頁)


2015年4月19日日曜日

【第433回】『金閣寺』(三島由紀夫、新潮社、1960年)

 小説は面白い。読み手の置かれている外的・内的な環境という文脈によって、その読み取り方は多様だ。本書を読むのは三度目であり、毎回、印象が異なる。一度目は鮮烈な読後感であり、二度目は案外であったのであるが、今回は興味深く読むことができた。かつ、以前に線を引いた箇所とは異なるところに感銘を受けており、本当に面白い。

 私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。父は田舎の素朴な僧侶で、語彙も乏しく、ただ「金閣ほど美しいものは此世にない」と私に教えた。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦躁を覚えずにはいられなかった。美がたしかにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎外されたものなのだ。(28頁)

 本作は、1950年に起きた金閣寺放火事件を題材にしている。吃音をコンプレックスとして持っている主人公は、美に対してコンプレックスを持っており、その美の象徴として金閣が描かれている。美に対する憧憬とコンプレックスというアンビバレントな感情が、ここにくっきりと描き出されている。

 私は退らねばならなかった。不満が私の体を熱くしていた。自分のした不可解な悪の行為、その褒美にもらった煙草、それと知らずにそれを受けとる老師、……この一連の関係には、もっと劇的な、もっと痛烈なものがある筈だった。老師ともある人がそれに気づかぬことが、私をして老師を軽蔑させる又一つ大きな理由になった。(101頁)

 金閣の住職である老師に対しても、主人公はアンビバレントな感情を持っていたと言えるだろう。つまり、老師に何もかも自分自身を分かってもらうことで尊敬したいという感情と、万能ではないという軽蔑の感情とである。尊敬と軽蔑とが特定の他者に混在するというのは一見するとあまりないようにも思えるが、しかし、人間とは多様な有り様から成る存在である。したがって、特定の他者を単純に尊敬したり、軽蔑するということの方が少ないのではないだろうか。

 少年時代から、人に理解されぬということが唯一の矜りになっており、ものごとを理解させようとする表現の衝動に見舞われなかったのは、前にも述べたとおりだ。私は何ら斟酌なく自分を明晰たらしめようとしていたが、それが自己を理解したいという衝動から来ていたかどうか疑わしい。そういう衝動は人間の本性に従って、おのずから他人との間にかける橋ともなるからだ。金閣の美の与える酩酊が私の一部分を不透明にしており、この酩酊は他のあらゆる酩酊を私から奪っていたので、それに対抗するためには、別に私の意志によって明晰な部分を確保せねばならなかった。かくて余人は知らず私にとっては、明晰さこそ私の自己なのであり、その逆、つまり私が明晰な自己の持主だというのではなかった。(171~172頁)

 明晰であるという特質を自己が選択的に選んだということではなく、明晰でなければ自己を保つことができないという発想形態が述べられる。正直に白状すれば、分かるようで分からない部分ではあるが、不思議と魅了される箇所である。

 「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
 「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
 「ないね。あとは狂気か死だよ」
 「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」(273頁)

 主人公と奇妙な相互依存関係にある柏木との対話である。認識こそが外界を如何様にも変えることができる作用であると強弁する柏木に対して、主人公は、内に秘めた金閣を燃やすという決意を踏まえて行為こそが重要だと主張する。主人公のそうした胸の内を見透かしているかのようにあえて認識の重要性を指摘する柏木と、主人公とのスリリングな対話だ。

 過去はわれわれを過去のほうへ引きずるばかりではない。過去の記憶の処々には、数こそ少ないが、強い鋼の発条があって、それに現在のわれわれが触れると、発条はたちまち伸びてわれわれを未来のほうへ弾き返すのである。(325頁)

 遂に金閣へ火をつける直前に、それまでの物語が主人公のモノローグであったという構成に著者はしている。過去が現在を規定するという側面とともに、現在の自分自身が過去の選択的に選ぶことによって未来を創り出すというアンビバレントな可能性をも現出していると言えよう。


2015年4月18日土曜日

【第432回】『人生の目的』(五木寛之、幻冬舎、2000年)

 私たちの自由意志や、努力や、希望など、何ほどのこともないのだ。人は思うままにならぬ世の中に生まれ、「思うままにならない」人生を黙って耐えて生きるのである。(64頁)

 自由という概念は重要だと思うし、大事にしなければならないものでもある。しかし、私たちは、自由を大事にしすぎるあまり、自由に対して過大な期待を持ちすぎているのではないか。自由では<ない>世の中をいかに生きるか、に焦点を当てた方が、時に訪れる自由のありがたみを味わうことができるのかもしれない。

 いずれにしても<絆>は、個人の自由を束縛する側面をもっている。世の中に、いいことばかりはないのだ。心強さ、うれしさがあれば、その裏側に反対のものが一枚仕立ての布地のように重なりあっている。(104頁)

 通常、絆という概念は肯定的な意味合いを以て捉えられるものである。苦しいとき、辛い時に、他者との繋がりとしての絆があれば乗り切れる、といった具合である。たしかに、絆にはそうした人にエネルギーを与える側面もあるだろう。しかし、そのエネルギーは、一人ひとりの自由を束縛することにも繋がる。どのような概念であっても、全面的にポジティヴということはないし、他方でネガティヴということもない。ある概念を考える際には、多様な側面から捉えたいものだ。

 「心の貧しい人々は、幸いである」と聖書(マタイによる福音書)のなかでは語られるが、これは法然、親鸞が語った「悪人正機」の考えかたとほとんど重なっている。ここでいう「心の貧しき者」「悪人」とは、この世でより多くの汗と涙を流しながら生きる人間たちのことだ。さまざまな重荷を背負いつつ、よろめきながら歩く人びとのこと、と素直に考えたい。(141~142頁)

 マタイによる福音書と悪人正機における悪に対する考え方が類似しているという著者の指摘は非常に興味深い。悪人正機という字の印象から、悪を為すことが肯定されていると誤解されることも多いが、一所懸命に生きているのに貧しい状態であることを指しているのである。

 悪は私たちすべての人間のひとりひとりに宿っているはずだ。善人と悪人、天使と悪魔、というように、はっきりと二つに分けないのが他力思想の土台である。私たちはすべてそのような悪を抱いた存在である。親鸞はそれを<罪業深重のわれら>と呼んだ。(162頁)

 悪とは誰もが持つものであり、悪人のみが悪を為すということではなく、私たち全てが悪を抱いた存在であると著者は断言する。そしてこうした考え方が、他力という概念の土台となる。

 自信を失い、とことん無力感におしひしがれた人間が、もし他力の光を感じることができたならば、ひょっとして自信とは別の、人間らしい姿勢が生まれてくるのではないかと空想する。他力を信じる、<他信>とでもいうような心の状態がありうるのではないか。(163~164頁)

 自分で自分を信じるということも大事である。しかし、他力を信じる心の状態を持つことができたら、より豊かな人生を歩めるのではないか。私にはまだまだ遠い心の状態のように思えるが、辿り着きたい理想の境地の一つである。

 最後に「あとがきにかえて」の箇所で著者は本書のタイトルにもなっている「人生の目的」について触れている。この部分を引用して終えたい。

 人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。
 そのためには、生きなければならない。生きつづけていてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」というのが私の立場だ。(325頁)


2015年4月12日日曜日

【第431回】『免疫の意味論』(多田富雄、青土社、1993年)

 自然科学の書籍を読むことは、必ずしも自然科学を学ぶためではない。少なくとも私にとってはそうである。自然科学を概念的に理解しようとすることは、仕事や日常といった他の要素を考える上での思考訓練になるし、興味深いアナロジーを可能とする。

 身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。(18頁)

 本書で私にとって印象的であったのは、自己とは何か、自己を決めるものは何か、という点である。ここで著者は、脳ではなく免疫系が自己を規定するとしている。

 「非自己」の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は「自己」の認識をもとにして成立していたのである。免疫は、「非自己」に対する反応系として捉えるよりは、「自己」の全一性を保証するために存在するという考えが出てくる。
 ここにきて、「外部世界」を視る反応系としてではなく、「自己」の「内部世界」を監視する調節系としての「免疫」が浮かび上がってくる。(47頁)

 では免疫系はどのように自己を規定するのか。ここでは、非自己を認識し、排除するための機能を有する免疫系が、そうした認識と排除によって自己を規定するというアプローチが指摘されている。つまり、外部世界を把握するためのものではなく、自己という内部世界を調節するためのものとしての免疫系が指摘されているのである。

 たとえば、ジグソーパズルの箱の中には、お互いに相補的なすべての断片が入っている。つまり、一揃いなのである。しかしそれらの断片のエッジは、ひとつひとつ違っており、他のジグソーパズルの断片が紛れ込んだとしても部分的にはそれとつながることができるはずである。それは明らかに異物であるが、他のセットの中に入り込んでもつながることはできる。ただし、これによって図形は変ってしまうが。こうして、自己完結的ジグソーパズルは、外部の異物に対しても開かれていることになる(中略)。「閉鎖性」によって成立する「開放性」である。(64頁)

 簡潔にして明瞭な例示である。内部の構成物の多様性と、そうした一つひとつの多様性から一つの統一された像が成り立つ。加えて、一つひとつのパーツは交換可能であり、そうした交換可能性が開放性に繋がる。

 免疫系というのはこのようにして、単一の細胞が分化する際、場に応じて多様化し、まずひとつの流動的なシステムを構成することから始まる。それから更に起こる多様化と機能獲得の際の決定因子は、まさしく「自己」という場への適応である。「自己」に適応し、「自己」に言及しながら、新たな「自己」というシステムを作り出す。この「自己」は、成立の過程で次々に変容する。(中略)こうした「自己」の変容に言及しながら、このシステムは終生自己組織化を続ける。それが免疫系成立の原則である。(104頁)

 著者が超システム(105頁)と名づける自己言及し続けることで免疫系が成り立つというのは、分かるようで分からない。しかし、そこに自己の可塑性とともに統合性とを見出すこともできるように思える。


2015年4月11日土曜日

【第430回】『ハンナ・アーレント入門』(杉浦敏子、藤原書店、2002年)

 アーレントについて網羅的に記された本書。とりわけ興味深いと感じたアーレントの労働観に迫る第5章に焦点を当ててまとめてみたい。

 マルクスはヘーゲルから継承した自己対象化論を深化させ、対象的世界を加工し、新しいものを生み出していく、目的ー手段の中に位置付けられる合目的的行為として労働をとらえ、同時に人間の自己表現、自己実現の行為という意味付けを与えている。そして労働こそが人間の基本的存在様式、人間の本質とされる。そこから労働は人間にとって積極的、肯定的な意味を持ち、人間にとって有意義なものという労働賛美の考えが生じ、それゆえに自己対象化となりえない労働は、疎外された活動として否定されるべきであるという考えを導きだす。(138頁)

 著者は、アーレントの労働観を形づくるために、その対比としてマルクスの労働観を取りあげている。労働に意味を見出すマルクスの考え方に対し、アーレントは異なった捉え方をする。

 アーレントによれば「労働」とは、(中略)生命の必然に拘束された際限のない労苦である。この点でアーレントはマルクスが「労働」と「仕事」を混同していると批判する。(139頁)

 アーレントに言わせれば、労働は、仕事や活動と切り分けて考えるべきもののようだ。このような考え方に立った上で、マルクスは労働と仕事とを混同して捉えていると批判を加える。では、アーレントにとって、労働とはどのような意味を持つのであろうか。

 「労働」とは、人間の「活動力」(activity)の中で最も価値の低いものであったと彼女は言う。(143頁)

 このように断言した上で、なぜ最も価値の低い活動力として労働を定義したのか、その理由をアーレントは六つ述べている。

(1)「労働」とは、生命の必然に拘束され、無限に同じ事を繰り返す行為だからである。(144頁)
(2)「労働」という行為が苦痛に満ちた骨折り仕事であり、人々の嫌悪の対象になっていた(145頁)
(3)「労働」の持つ「無世界性」である(145頁)
(4)「労働」は、他者の存在を必要としない。(145頁)
(5)「労働」は、私的領域に閉じ込められている。(146頁)

 こうした労働の特徴を述べた上で、対比的に仕事について以下のように定義する。

 「労働」においては苦痛の多い体力を消耗するだけの行為が、「仕事」においては自己確証と満足を与えてくれるものとなる。同時に「仕事」は目的と手段の系列の中で行われるものであり、その生産物の特徴は、「永続性」(permanence)と「耐久性」(durability)にある。つまり、「労働」が「目的のない規則性」に従属しており、必然の過程であるのに対し、「仕事」は「独立した実体として世界にとどまりうるほどの」耐久性を備えたものをつくり出し、死すべき運命をもった人間に、その死を超えた、不死の世界をつくり出し、自らが生きた痕跡を世界に残すものである。そしてまた、「労働」が私的領域に閉じ込められていたのとは違って、「仕事」には公的世界を建設する可能性が開かれている。(146~147頁)

 こうした仕事という概念の開放性をさらに推し進めたものを「活動」としてアーレントは定義づける。

 「活動」(action)は、自然や事物に孤立的に対峙してなされるものではなく、複数の人々との関係性において成り立つ自発的行為の様式である。それは常に集合的行為であり、他者の存在を絶対の条件としており、必ず「言論」を伴う。(149~150頁)

 こうした概念定義を踏まえた上で、近代社会において、労働が人々の関心を得て、それによって人々の生活に与える影響について以下のように述べる。

 複数性を許容し、それを基盤とする「言論」と「活動」の空間であるはずの「公的」領域が、「労働」という生命の必然性に制約された画一的行動様式を基軸とする「社会的」領域によって浸食されていくのである。そしてこの「社会」の勃興によって、かつては家という私的領域に閉ざされていた経済的諸問題が全共同体の関心事になる。ここに「労働」が至上の価値を与えられる根拠がある。この中では、目的合理性、道具的合理性が優位性を持ち、「活動」を通じてつくり上げていく人々の共通世界が、没落を余儀なくされるのである。(152~153頁)


2015年4月5日日曜日

【第429回】『決定版 夏目漱石』(江藤淳、新潮社、1979年)

 英雄崇拝位不潔なものはない。ぼくは崇拝の対象になっている漱石に我慢がならなかったのだ。人間を崇拝することほど、傲慢な行為はないし、他人に崇拝されるほど屈辱的なこともない。崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描くことが、ぼくには作家に対する最高の礼儀だと思われる。偶像は死んでいるが、こうしてひとたび人間の共感に捉えられた精神の動きは、常に生きているからである。(189頁)

 「初版へのあとがき」に記された部分に、著者の漱石への想いが端的に現れている。私たちはときに、尊敬を抱く相手に対して、崇拝に近い感覚までおぼえてしまう。著者は、そうした態度は相手に対してむしろ傲慢な行為であり、屈辱的な行為であると断言する。こうした想いを持っているからこそ、本書における漱石に対する批評の鋭さに、読み応えがあるのであろう。

 彼の前にはどのように生きたらよいか、という問題が絶えず掲げられている。そして、これは彼の眼には近代日本の病弊に対して如何なる解答を見出さねばならぬか、という焦燥として映じている。そういう漱石にとって、あの厖大な著作が果してどれ程の意味を持っていたのであろうか。(中略)仮りに百年の後に漱石が残るとしても、彼は「草枕」や「坊つちやん」の作家として残るのではさらにない。彼は、作家でもあった文明批評家として残るのであって、偽物でない文学を志す日本人はこのことを肝に銘じておかなければならない。(50~51頁)

 まず著者は漱石を、作家ではなく一人の生活者として当時の時代・文明に思考を巡らせた人物であると指摘する。漱石=明治の文豪という教科書にあるようなステレオタイプな定義として捉えようとしない、著者の鋭い指摘が心地よい。

 倫理の問題は、最も根本的な形に還元すれば、他人をどうするかということに尽きる。ここで提出されるのが生活の問題であることはいうまでもない。ぼくらの日常生活等というものは、他人に対して如何に行動し、考えるかということの繰り返しであるといってよいので、これはそのまま漱石の長編小説に於て、一貫して発展されている主題であった。(中略)小説作者漱石は、彼には徹頭徹尾俗悪と思われ、かくもしばしば嫌悪の念をもよおさせた日常生活の場から一歩も離れ得ぬ生活者として仕事を続ける。生活者としての自己を放棄することは彼にはそのまま作家生活の終結を意味する。そしてこのように生活者である自己と、作家である自己を見事に一致させ得た所にこの作家の真の独創があったといえるのだ。(106頁)

 生活者であるということは、日常の具体的な事象に拘泥して抽象的な思考や自己を超えた社会に対して意識が及ばない、ということを必ずしも意味しない。漱石の場合、自己自身の生き死にに対する生活者としての強い興味関心を抱きながら、同時に、作家としてのアイデンティティを有していたのであろう。こうした、相矛盾する二つのアイデンティティを統合させたところに漱石の「漱石」たる所以があるのではないか。

 夏目漱石は、最初から生及び人間を嫌悪すべく生れついたような人間であった。しかしあれまでにその精神の奥底で希求しつづけた「死」に際して苦痛を訴えた彼は、又同時に熾烈な意欲に燃えた生活人であることを、期せずして告白したのである。(188頁)

 晩年の漱石と言えば則天去私である。しかし、上記引用箇所で著者は、臨終の間際に「苦しい、苦しい」と漱石が述べた点を指摘する。則天去私に至った偶像として崇拝するのではなく、あくまでも生活者と作家とを統合した人物として漱石を描き出す著者の凄みを感じる。

2015年4月4日土曜日

【第428回】『自己再生』(斎藤隆、ぴあ、2007年)

 この本が出版された直後に読んだ際には、ベテラン選手の再生というコンテクストで読んだものであり、自分には遠い世界の成功物語のようだった。しかし、今回改めて読み、自分自身を投影しながら読んでいる自分に気づき、感慨深かった。

 ひょっとしたら残された時間が少ないときこそ、立ち止まって考える、あるいは体を休めることが必要なのかもしれない。人間、追い込まれているときはどうしても先を急ぎがちになる。このときの僕もそうだった。結果を残したくて仕方がなかった。けれど、追いつめられているときこそ、一度深呼吸をして、自分を客観的に見てみることが大切だと思う。(26頁)

 著者は、引退ということを意識したときに落ち着いて、自分自身を客観視することができた、とする。私自身はまだ自分の引退ということは全く考えられない。しかし、キャリアが一区切りを付ける状態を経験している今、焦るばかりではなく、じっくりと、余裕を持ちながら今の職務に取り組みたいと思った。

 いくら自分の投球スタイルが確立されていないとは言っても、三十六歳になったのだから、自分なりの好みというものはある。特に日本にいたときはどの打者にどの球を投げるか、ある程度決まっていた。しかしアメリカに来たことで、そうした殻がすべて破られ、僕に新しい可能性が開けたのだ。新しい環境というものは過去をリセットしてくれるだけではなく、自分の知らない新たな可能性を自分に提示してくれる。同じ職場にいたら絶対に気づくことはできない可能性を。(98頁)

 キャリアの転機は、自分で作るものなのか、それとも訪れたときにそれを掴むものなのか。おそらく、そのどちらもの要素がキャリアの転機には必要なのではないか、と最近では思う。著者にとっても、野球へのモティベーションを高めるためにも新しいチャレンジが必要な時期であったのであろうし、それを後押しする他者の力というものもあったのであろう。そして困難もありながらも、その変化をたのしむ心のゆとりというものが、自分自身のうちにある新たな可能性の開花へと繋がったのではないだろうか。

 いちばん大切にしたのは、「感性」である。シーズンを通して感性を働かせて投げたような気がしている。そのために必要なことが観察だった。(115頁)

 日常における技術の変容もまた、ここでは描かれている。感性によって投球するというと、力任せに投げるようなイメージを持ってしまうが、著者によればそうではないようだ。感性を重視するために、観察を大事にしたという。スポーツのみならず、通常のビジネスにおいても参考となる考え方ではないだろうか。