2015年6月28日日曜日

【第457回】『勝負勘』(岡部幸雄、角川書店、2006年)

 競馬ファン、特に80年代から90年代にかけて競馬をたのしんで来た方にぜひ勧めたい一冊である。人ではなく競走馬を優先し、その上でジョッキーとして結果を出し続けたプロフェッショナルの言葉には軽重すべき至言が溢れている。

 がむしゃらさが必要な時期もあれば、そうではない時期もある。そして、どんなときでも我慢することができなければ、運を引き寄せることもできないだろう。(104頁)

 常に一所懸命であるのも良くないし、もちろん気軽に構えすぎるのも良くない。しかし、常に我慢することを著者は説く。どのような状況であっても、我慢することを継続できれば、結果的に自身にとっての機会を見出すことができるのであろう。

 大切なのは、一歩一歩進んでいくことを大切にする気持ちだと思う。(104頁)

 老子の「足るを知る」に通ずる言葉のように私には感じられる。つまり、大きな勝ちを狙ったり、無理をするということではなく、地道な一つひとつの積み重ねに意義を見出すこと。さらに、それを継続することに重きを置くことが大事なのだろう。

 十割勝つことなどは不可能なのだが、負けてしまった八割のレースの「質」は絶対に無視できない。「そのレースの中で自分がやれることのすべてをやって、馬の力を出し尽くせていたのかどうか」はとにかく大きい。それは、自分の中の意識としてもそうだし、ライバル旗手にどういう印象を植え付けられたか、あるいは次の騎乗依頼を受けられるかどうかということにもつながっていくのである。(166頁)

 一歩一歩を大事にしていけば、一つの勝ち負けという結果に一喜一憂するという気持ちもなくなるだろう。むしろ、一歩足を踏み出すというプロセスを充分に噛み締め、意識してその一歩を自身の糧にすること。こうすることが、翻って自分自身の結果に繋がり、かつ自身の次の一歩へと繋がって行くということではないだろうか。

2015年6月27日土曜日

【第456回】『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹、文藝春秋、2006年)

 日本人とユダヤ人とは似ていると言われることがある。しかし、両者には大きな違いが存在していることを示した上で、本書ではユダヤに関して焦点を当てて論じられている。

 ユダヤ人がユダヤ人であるのは、彼を「ユダヤ人である」とみなす人がいるからであるという命題は、ユダヤ人とはどういうものであるかについて事実認知的な条件を列挙しているのではない。ユダヤ人はその存在を望む人によって遂行的に創造されるであろうと言っているのである。(中略)
 ユダヤ人は国民ではない。ユダヤ人は人種ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒のことでもない。ユダヤ人を統合しているはずの「ユダヤ的本質」を実定的なことばで確定しようとしたすべての試みが放棄されたあと、ユダヤ人の定義はもうこれしか残されなかったのである。(39~40頁)

 日本は国民国家としてイメージできるのに対して、ユダヤは国民国家として捉えることができない。この前提に立った上で、ユダヤ人やユダヤ文化といった概念を捉えて、日本人や日本を考えると興味深いことが見えてくる。

 日本国と日本国民の関係を「モデル」にして、社会集団統合を構想すれば、この「非人情」こそが常態なのである。それは、「国民」というのは、原理的には、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文化を共有する成員のことだと私たちが信じているからである。だから、そのうちのどれか一つでも条件が欠ければ、国民的連帯感が損なわれるのは当然のことだと私たちは考える。外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人、そのようなものを私たちは「日本のフルメンバー」にカウントする習慣を持たない。それは私たちにとっての「自明」である。(14~15頁)


2015年6月21日日曜日

【第455回】『非営利組織の「自己評価手法」』(P・F・ドラッカー編著、田中弥生訳、ダイヤモンド社、1995年)

 本書は非営利組織を対象として書かれたワークブックである。しかし、営利組織で働く身としても考えさせられる問いが多かった。実際、事前に問いに対して回答した内容をもとにワークショップを行ったところ、気づきを得られるものが多く、興味深い内容であった。

 ワークショップに関して、オススメの時間配分は以下の通りである。

(1)個人ワーク:事前に書いたものを整理し話す準備をする(5分間)
(2)ディスカッション:相互にシェアをする(5分間×2人)
(3)個人ワーク:気づきをメモする(5分間)
(4)ディスカッション:気づいた内容をシェアする(5分間。カットしても良い)

 したがって、一つの質問がおよそ三〇分で終わる時間配分である。

 このワークショップでの一連の問いに関するディスカッションを通じて、特に考えさせられたのは、顧客に関する二つの定義である。

 第1の顧客は、あなたの提供するサービスを受ける人々、支援してくれる顧客とは、ボランティア、寄付者、コミュニティの人々、そして理事や職員のことである。(60~61頁)

 通常、顧客という概念を聞いて思い浮かべるのは、ここでいう「第1の顧客」であろう。しかし著者は、「支援してくれる顧客」と切り分けて考える重要性を述べる。ここでは非営利組織を念頭に置いているはずであるが、営利組織においても「支援してくれる顧客」を考えることが重要だと気づかされた。つまり、「第1の顧客」に対する提供価値を最大化するためには、自分自身や自身の部署を「支援してくれる顧客」との信頼関係を強固なものにすることが重要なのである。

2015年6月20日土曜日

【第454回】『人間の関係』(五木寛之、ポプラ社、2007年)

 著者の書籍はじわじわと考えさせられることが多い。それぞれの本で同じようなことが繰り返されているように思える時もあるのだが、それぞれに深みを感じさせてくれる。

 大事な人と長く人脈をたもちたいなら、常に一歩引いた目を忘れてはならない、ということです。相手を大切に思うからこその態度なのですから。(35頁)

 親しい人物に対しては、近い距離からのみ眺めてしまいがちである。そうすると、嫌なところや厄介な部分にばかり目が向いてしまう。しかし、相手を大切に思うのであれば、敢えて一歩引いて客観的に眺めること。そうすることで、相手の新たな内面に気づくことができるということではないだろうか。

 人間と人間のつながりも、自分個人の意志だけで生まれるものではありません。そこに自分を超えた見えない縁が働いている。
 そう思えば、人脈とは利益の共同体ではなく、運命の共同体ではないか、と思われてくるはずです。(38頁)

 人脈という言葉は、意図的に作るものであると捉えられがちだ。ビジネスの分野でネットワーキングや人脈構築という言葉づかいがなされると、モノのように扱われているとも言える。しかし、人脈とは、モノのように意識して創り出すものではなく、結果として紡ぎ出されるものである、という著者の言葉に耳を傾けることは大事であろう。

 かじかんだ手を揉みほぐし、血行をよくして稽古にはいるというのは、まことに合理的です。高価な道具をこわしたりしては大変ですから。しかし、そんな合理性とともに、動作は自然に美しく、という点にも感心しました。(114頁)

 作法に関する話である。作法とは、合理性と美しさという、理性と感性とが統合されて蓄積されるものである。したがって、頑に墨守すればよいというものではなく、美しく合理的なものが、作法と呼ばれるための条件なのであろう。

 自分の行為は決してむくわれない、そう思いながらも一生懸命尽くし、見返りをもとめない。すべて裏切られても仕方ないし、ひょっとしてほんの少しでも相手がそれに対して好意をしめしてくれたなら、飛び上がって喜べばいい。(169頁)

 何かをするときに目的志向ではなく、ただ単に目の前の相手のために行うこと。そうするマインドセットが他者にとっても、自分にとっても清々しいのではないか。

『人生の目的』(五木寛之、幻冬舎、2000年)
『他力』(五木寛之、講談社、2000年)

2015年6月14日日曜日

【第453回】『火花』(又吉直樹、文藝春秋、2015年)

 年が明けて間もない頃、珍しく神谷さんから渋谷に呼び出された。渋谷駅前は幾つかの巨大スクリーンから流れる音が激突しては混合し、それに押し潰されないよう道を行く一人一人が引き連れている音もまた巨大なため、街全体が大声で叫んでいるように感じられた。人々は年末と同じ肉体のまま新年の表情で歩いていて、おざなりに黒い服を着た人が多かったが、時折、鮮やか過ぎる服を纏い一人で笑っている若者などもいて、むしろ、こういう人物の方が僕を落ち着かせた。神谷さんはハチ公前で煙草を吸っていた。吉祥寺で見る神谷さんには多少慣れてもきたが、渋谷の雑踏を背景に見る神谷さんは、やはり空間から圧倒的に浮いていた。神谷さんが服装に無頓着で現代的ではないことも、その要因の一つなのかもしれなかった。(44頁)

 風景と内面との描写が美しい。 2010年の「キングオブコント」を観て、ピースの作品の世界観や創り込みに魅了された身としては、そのボケを担当する著者による世界観を構成する内面を垣間みるような感覚で本書を読み進めた。

 主人公の徳永と、彼が師事する神谷との関係性が主旋律を為して、物語が展開されていく。まず、神谷が徳永に述べる漫才論が興味深い。

「つまりな、欲望に対してまっすぐに全力で生きなあかんねん。漫才師とはこうあるべきやと語る者は永遠に漫才師にはなられへん。長い時間をかけて漫才師に近づいて行く作業をしているだけであって、本物の漫才師にはなられへん。憧れてるだけやな。本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」(16頁)

 著者による「漫才師」論とも読めるだろう。しかし私は、この「漫才師」をあらゆるプロフェッショナルに置き換えて読んでみたい。そうすることによって、自分たちの職務や取り組んでいることに対して、示唆に富んだ表現のように感じられるのではないだろうか。

 人を傷つける行為ってな、一瞬は溜飲が下がるねん。でも、一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん。可哀想やと思わへん?あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒と一緒やな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさせたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐに抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって(96~97頁)

 ネットでの批判が気にならないかという徳永からの問いに対する神谷の回答の部分である。「ゆっくりな自殺」という表現が印象的である。単なる成長論に留めることをせず、匿名での批評家が自縄自縛に陥る様を描き出し、かつ著者独自の優しさによって淡々と表現されている。

 師匠である神谷からの説諭が前半には多い一方で、クライマックスに近づくにつれて、徳永の精神的自律を表すような場面が増えてくる。

 僕は、結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。神谷さんは、それを知らないのだ。僕の眼に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない。自分の理想を崩さず、世間の観念とも闘う。(115頁)

 孤独という環境においては、自分自身が世界であり、他の環境からのフィードバックがないために、理想を追い求めることができる。笑いにおける理想もそうであろう。しかし、理想を持ちながら、求めずとも多種多様なフィードバックが訪れる世間との結節点にこそ、理想との矛盾は生じる。理想を捨てず、かつ世間とも向き合うことが、地獄の苦しみを与える環境なのであり、私たちはそうした世界に生きているのである。

 僕たちが出演する最後の事務所ライブには噂を耳にして、普段よりも多くのお客さんが駆けつけてくれた。誰かには届いていたのだ。少なくとも誰かにとって、僕達は漫才師だったのだ。(122頁)

 地獄での悪戦苦闘であっても、自分たちの理想が誰かに届いているということに気づく瞬間があるものだ。ここでは、解散ライブという一つの終局点での気づきとして描かれているが、日常においても理想と世間との矛盾の中で、何かが他者に届くことに喜びを感じることはあるだろう。そうしたささやかな手応えこそが、私たちが理想を持ちながら世間で生きる礎となるのではないか。

 必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。(130頁)

 解散ライブで納得のいくお笑いの一つのかたちを示した徳永が至る心境である。本作では、冒頭と最後に印象的な花火のシーンがあるのだが、タイトルは「火花」だ。なぜ「花火」ではなく「火花」なのか。苦しみながら、しかし真摯に、笑いに取り組む徳永と神谷が織り成す化学反応を「火花」として形容したのであろうか。


2015年6月13日土曜日

【第452回】『戦略的人的資源管理論』(松山一紀、白桃書房、2015年)

 優れた教科書とは、私たち読み手が意識していなかった内なる思考を喚起するものであり、既存の知識どうしの繋がりを顕在化させるものではないか。本書は、人事・人材開発の領域における新たな優れた教科書の一冊であろう。本書では、HRMが組織戦略・組織成果・組織文化といった組織に対して与える影響や、組織における人々にどのような影響を与えるかが丹念に述べられている。読み進めていくことで、HRMは、外部環境や組織、そこで働く社員と相互依存関係を持ちながら、時代とともに発展している様を読み取ることができるだろう。

 テーラーによれば、管理の主な目的は使用者の最大繁栄とあわせて、従業員の最大繁栄をもたらすことにある。そして、その繁栄は個々人が最高度の能率を発揮することによって実現すると考えていた。にもかかわらず、当時の労働者たちは組織的怠業によって、経営者に抵抗していた。成り行き任せの無管理がもたらした結果であった。テーラーによる科学的管理法は、こうした無管理状態を払拭し、目に見える管理状態をもたらすことを目的としていたのである。
 テーラーによれば近代科学的管理法において、最も大切なことは課業観念である。組織的怠業を克服するために、テーラーは数々の観察および調査を行い、課業の重要性を認識するようになる。(52頁)

 まず興味深く読んだのが、人事・労務管理から人的資源管理へと至る学問領域を歴史的に著述している第2章から引用した上記の部分である。「科学的管理法は戦前の考え方であり、現代のビジネス現場には適用できない」と現代の視点から捉えるのではなく、当時の視点に立った上で現代における価値を見出すこと。これが歴史から学ぶという態度であり、研究のリテラシーであろう。仮に組織的怠業が起きてしまっている職場環境であったら、テーラーのアプローチは、そのデメリットを踏まえておけば現代のビジネス環境においても有用な解決策になり得る。ある理論が生まれた背景と、その射程範囲を捉えることで、私たちの思考や視野の範囲は広がるものであり、事象を捉える視点がゆたかになるのではないか。

 HRM諸政策が従業員の福利、企業の業績、社会の福利の向上に役立っているか否かを評価していくにあたり、4つのCを適用していくことができるとしている。それが、従業員のコミットメント(commitment)、能力(competence)、コスト効果性(cost effectiveness)、整合性(congruence)である。(中略)
 これら4つのCはもちろんHRM政策の成果とも言えるが、HRM政策と長期的成果を結ぶ媒介要因という意味合いをも有している。(69頁)

 HRMにおける施策と組織における成果との関係性に関して、著者は、ハーバード・モデルを用いて上記のように述べる。ここで重要なのは以下の二点であろう。第一に、HRMの施策と成果との関連性を捉えるフレームワークについて理解することである。第二に、その関係性が必ずしも直結しているのではなく、HRM施策がなんらかの媒介要因となって長期的成果へと繋がるという関係性に留意することである。たしかに、成果を意識して何らかのHRM施策を導入したり改訂することは重要である。しかし同時に、中長期的な成果に繋げる上での一つの媒介要因に過ぎないという節度を保つことが人事には求められるのではないか。

 最後に組織文化とHRM施策との関係性に関する記述が印象的であったため、その部分について触れておきたい。著者は、Kotter & Heskett(1992)を用いて、長期的業績と企業文化との関係性から三つのタイプに分けて解説している(126頁)。私たちは時に、ビジネスにおける唯一無二の正解があると考え、それを探し求め、安易にベスト・プラクティスと称して摸倣しようとする。こうした視点を著者は、普遍的パースペクティブという文言で著し、第一の「強力な企業文化」と整合する捉え方であるとする。次に、第二の類型である「戦略に合致した企業文化」は、適合パースペクティブ、つまり「様々な変数間の適合度が組織成果に正の影響を及ぼす」(108頁)という捉え方に対応する。「強力な企業文化」および普遍的パースペクティブが静的な捉え方であったのに対して、第二の類型ではビジネスにおける動的な側面が着目されている。そうした変数の捉え方をさらに広い視野で捉えたものが第三の類型である「環境に適応する企業文化」である。これは「企業が環境変化を予測し、それに適応していくことを支援し得る文化だけが、長い間にわたり卓越した業績を支え続けるという考え方に基づいて分類された企業文化」(126頁)である。


2015年6月7日日曜日

【第451回】『人が育つ会社をつくる』(高橋俊介、日本経済新聞社、2006年)

 若手社員が企業で育たなくなっている、と言われることが年々多くなってきているように感じる。その背景には何があるのだろうか。著者が二〇代の若手社員に対して行った調査では、「今後も継続して働きたいと思うかどうか」という質問項目に対して、以下の三つの内容と有意な関係があったとしている。

 1 いまの仕事の充実感
 2 いまの仕事を続けることによる、今後の成長の可能性
 3 いまの会社で将来のキャリアがイメージできるか(33頁)

 こうしたアンケート調査の結果を踏まえると、成長実感ではなく、成長予感が若手社員にとって重要であると著者は指摘する。では、いかにして成長予感を若手社員に持ってもらい、成長を意識してもらうことができるのであろうか。マネジメントという観点に焦点を当てた調査の結果、以下の三点が重要であると著者は端的に述べている。

 ①チャレンジングな仕事が日常的に与えられる環境にあり、②コーチング的マネジメントスタイルがとられていて、③健全な成果プレッシャーがあれば、その職場では若手社員が育ちやすいのだ。(64頁)

 どれも個別に考えれば大事であることは自明であろう。しかし、重要なのは、三つの条件がすべて揃っていることが重要であるという著者の指摘である。三つは相互補完関係にあり、企業としては、いずれか一つを導入するということではなく、それぞれをセットで導入し他の施策との整合性を鑑みる必要がある。

 人が育つ組織を作る前提には、働く人々の多様性と、それに付随する働く人々の成長に関する多様性とが挙げられるだろう。多様な成長と多様な人々を背景に、よいキャリアの条件も変容が遂げられているとして、著者は以下の四つを規定している。

 1 日々の仕事で動機を活用している
 2 自分の仕事の意味づけ
 3 中長期的成長実感
 4 人生全体の充実とバランス(84~85頁)


2015年6月6日土曜日

【第450回】『安心社会から信頼社会へ』(山岸俊男、中央公論新社、1999年)

 現在の日本社会が直面している問題は、安定した社会関係の脆弱化が生み出す「安心」の崩壊の問題であって、欧米の社会が直面している「信頼」の崩壊の問題とは本質的に異なった問題だと筆者は考えています。筆者は信頼を、集団主義の温もりのなかから飛び出した「個人」にとっての問題であると考えており、したがって集団主義社会の終焉が生み出す問題は安心の崩壊の問題であると同時に、集団の絆から飛び出した「個人」の間でいかにして信頼を生産するかという問題だと考えています。(9頁)

 ここに、著者の本書における、および本書のもととなる研究における課題意識が凝縮されていると言えるだろう。顔と名前が分かる固定的な集団主義社会における安心の崩壊という現象を踏まえ、一般的他者との新たな関係性を前提にした開かれた社会において信頼関係をいかに構築するか。1990年代に書かれた本書の時代から20年ほどが経った現代においても、私たちは依然としてこの課題に対処しきれていないのではないか。だからこそ、こうしたもはや古典的名著とも言える社会科学の解説書は現代を生きる私たちにとって有用なのである。

 機会費用が取引き費用を上回るようになっても、人々は従来のコミットメント関係を維持する傾向があることを見てきました。そのような状況でコミットメント関係から離れないのは、少し極端な言い方をすれば、すでに桎梏になってしまっている関係から、そこで提供されている安心の「呪縛」のために人々が抜け出せないでいる状態だと言えます。このような状態で安心の呪縛から人々を解き放ち、外部に存在する機会の利用を可能としてくれるのが、特定のコミットメント関係にない人間に対する信頼、つまり一般的信頼の役割です。(80頁)

 不確実性が低い社会、いわゆる日本の「ムラ社会」を理念型とした社会においては、機会損失よりも取引き費用の節減の方がインパクトが大きい。したがって、安心社会およびそうした社会における固定した人間関係に対するコミットメントが求められる。しかし、不確実性が高まる社会においては、そうしたパラダイムからの脱却が求められることは自明であろう。では何が求められるのだろうか。

 一般的信頼は、安心していられるコミットメント関係からの「離陸」に必要な「推力」を提供する、「ブースター」の役割と果たすものと考えることができるでしょう。また、一人一人の個人が固定した関係の桎梏から解き放たれ、関係外部に存在する有利な機会を積極的に利用するようになれば、社会全体では機会と人材の有効なマッチングが可能となります。このことを逆に言えば、一人一人の個人が機会費用を支払いながらコミットメント関係にとどまっている状態は、社会全体としてみると巨大な無駄を生み出している状態です。(80頁)

 不確実性が高まる社会においては、一般的信頼が鍵概念となる。一般的信頼を足がかりにして、閉じられた社会から自分自身を解き放つこと、である。

 高信頼者は社会的な楽観主義者であって、そのため他人とのつきあいを積極的に追求すると考えることができます。そのため、その中で他人の人間性を理解するための社会的知性が身についていきます。これに対して低信頼者は社会的な悲観主義者であって、そのため他人、とくによく知らない他人とのつきあいを避けることになり、結果として他人の人間性を理解するための社会的知性を身につける機会を逃してしまいます。(139~140頁)

 一般的信頼を活性剤としながら、不確実性の高い社会においては、固定的な人間関係に囚われず、新しい人間関係を築いていくことが求められる。社会的知性によって、他者への共感性を磨きながら、他者の立場に立って行動することができるようになる可能性が高まる。こうした「相手の立場に身を置いて相手の行動を推測する能力を核とする社会的知性」を著者は「ヘッドライト型知性」(204頁)と呼んでいる。

 信頼やそれに基づくネットワークに関する著者の知見は、経営学の中でも最近では取り上げられることが多い。特に、相互作用の網の目を自分自身で紡ぎ出しながら、そうした関係性の中で学ぶことの重要性は、経営学習論の領域で越境学習としても注目されていることと符合する。たとえば、中原先生の『経営学習論』や石山先生の『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』を紐解いていただければ、理解していただけるだろう。