2016年2月28日日曜日

【第551回】『角川インターネット講座9 ヒューマン・コマース』(三木谷浩史、角川学芸出版、2014年)

 その企業経営の姿勢に関する好き嫌いはあれども、日本におけるeコマースの草分け的存在とも言える著者の言葉には、傾聴すべき部分も多いのではなかろうか。

 楽天の主力事業である楽天市場のeコマースについてもう少し考えてみよう。人にとって「買い物」とは何だろうか。私は、本質的に買い物には2つの機能があると考えている。ひとつは「買う」という経済取引の機能、もうひとつは「楽しみ」というエンターテインメントとしての機能だ。従来重要だとされてきた部分、価格が安いとか、配送が早いというような特徴は、経済取引の面では必要な基本要素だが、それ以上に私自身はeコマースでは「ストーリー」が重要だと考えている。(Kindle No. 32399)

 eコマースの特徴として2000年前後に喧伝されていたのは、著者の言う前者の部分、すなわち経済取引に関する利点であった。無論、そうした側面があることは間違いないのであろうが、経済的利点のみを謳ったサービスでは差別化できない。ではどのようの差別化を行うかを検討する上で、著者はストーリーが大事であるとしている。

 ストーリーを考える上では、製品やサービスの供給側によるストーリーも重要であろう。食品領域でのeコマースで成功しているオイシックスがこの典型であろう。それに加えて、需要側によるストーリーもまた重要であり、Amazonや楽天といった顧客の声をダイレクトに反映するシステム構築をいち早く始めた企業を想起すれば良いだろう。静的な製品やサービスに、動的なストーリーをデザインすること。そうしたデザイン化されたストーリーをもとにビジネスを展開できるeコマースの主体者が、顧客への提供価値を向上できる。

 このように考えると、eコマースのポイントとして、物流の重要性(Kindle No. 35547)と、資本よりもクリエイティビティーが重要である点(Kindle No. 35565)が提示されているのも納得的だろう。

2016年2月27日土曜日

【第550回】『角川インターネット講座3 デジタル時代の知識創造』(長尾真、角川学芸出版、2014年)

 インターネットというインフラができあがったことによって、知がどのように流通して創造されるのか。知の集積体として書籍が、本書では取り挙げられている。

 電子化された本は、拡張を目指した輝かしい挑戦の一方で、拡張を求めたがための限界をまざまざと見る結果に終わった。すべてはテクノロジーに依存することからくるものであり、新しさを追い求めることの結果だった。新しいことに何の価値もなかったのだ。より深く、より遠く心を通じあう手段を求めただけだったのに、それを実現する方法は開発途上のコンピューターや周辺の機器に頼るほかなかった。これらを繋ぎあわせ、都合のいい結果を追い求めたその果てに、一切を失う「無」が待っていた。あのシンプルな紙の本がもつ堅固な安定性、物静かな永続性の足下にも及ばなかった。本とは…ほんとうにただものではなかった。
 電子化された本への挑戦よりも、本の電子化が急激に進んでいった。(Kindle No. 10620)

 インフラが整えば必要な情報が流通するというわけではなく、情報の受け手としてのデバイスが必要であることがよくわかる。デバイスが整うことで、情報の受発信のあり方、情報の内容や形式といったものが形成されるのであろう。

 紙であれ電子であれ、パッケージされた入れ物にとどまる世界から、入れ物から出て、外形や実体をなくして存在する情報は、ウェブという網の中に生きていくことになる。入れ物を出て流浪する文字の行方に視点を移していかねばならない。デジタルは情報がリンクしあい、そこに新たな文脈を形成する。この基盤を堅持し育むことが否応無しにやってくる。(Kindle No. 10733)

 インフラとデバイスという制約要因はあれども、デジタル化の動きにより、私たちが利用できる知の形態は進化する。知の形態の進化とともに、私たち自身もアジャストすることが求められることも忘れてはならない。

2016年2月21日日曜日

【第549回】『角川インターネット講座2 ネットを支えるオープンソース』(まつもとゆきひろ、角川学芸出版、2014年)

 村井純氏の講座に続く第2弾ではオープンソースがテーマとなっている。ソースコードが公開されて技術者がオープンにやり取りするためには、どのようなコードを書くかが重要となる。

 コミュニケーションで重要なのは、わかりやすく説明すること。プログラミングでも同様だ。よいプログラマーは、わかりやすく読みやすいソースコードを書くことに腐心する。そのためには、特定のプログラミング言語コミュニティで共有されている作法や問題解決のフレームワーク、ベストプラクティスといったものに精通する必要がある。(Kindle No. 4552)

 恥ずかしながら、プログラミングの授業でコードを書くたびに、一回で動くことが稀有なため、加筆・修正を加えることで、コードがいつも複雑になってしまった。しかし、その後に先生が示す模範例を見ると、「こんなに簡潔にできたのか」と驚くばかりにシンプルなものであった。オープンソースの可能性を担保するものは、上述したようなシンプリシティにあるのであろうし、それはソースコードだけに留まらず、ビジネス全般に言えるのかもしれない。

2016年2月20日土曜日

【第548回】『角川インターネット講座1 インターネットの基礎』(村井純、角川学芸出版、2014年)

 学部時代に著者の授業を受けてインターネットの可能性を学んだ身として、十数年を経て読み解いた本書でも、改めてインターネットの現時点における可能性を学ばさせられた。可能性と今後の変化について学べる意欲作にして入門書である。

 いま明らかになっていることは、もう人間がみなインターネットに参加する前提で社会はできているということだ。これからつくる社会は、それを基点にして考えなくてはいけない。(Kindle No. 79)

 現代におけるインターネットの新しさとは、それ自体の新しさではなく、それが前提となって形成される社会の新しさにあると著者は喝破する。いわば生活インフラとしてのインターネットを所与としていかに生活をデザインするか。

 地球規模のグローバル社会と国際社会とは、決して相反するものではない。最初は別々の世界だったサイバー空間とリアル空間が、GPSの位置情報とタイムスタンプによって融合していったように、グローバル社会と国際社会も密接な関係をもって発展していくだろう。国際社会は、インターネットというグローバル社会をどのように維持し、発展させていくのか。いま議論が白熱しているグローバルガバナンスの論点は、そこにある。(Kindle No. 3092)
 いままでグローバルな空間をもっていなかった人類は、インターネットという基盤によって、ようやくそれを手に入れた。インターネットの使命は、多様なセグメント、多様な人類の力を連結させることだ。(Kindle No. 3119)

 国家と国家の関係からなる国際社会においては、多様な人々による関係性が鍵となる。それに対して、グローバル社会というものが存在するとしたら、そこでは統合性が鍵となる。均一化するグローバル社会と、多様化する国際社会とを統合するインフラとして、インターネットの可能性が見出される。


2016年2月14日日曜日

【第547回】『虞美人草』(夏目漱石、青空文庫、1907年)

 やや難解な作品であった。漱石にしては登場人物が多いように感じ、誰がどういった役割なのかを把握することが難しかったようだ。内容に深くは馴染めなくとも、それでも読ませるのだから、漱石は凄い。

 山門を入る事一歩にして、古き世の緑りが、急に左右から肩を襲う。(Kindle No. 1172)

 燐寸を擦る事一寸にして火は闇に入る。(Kindle No. 1599)

 上記の二つの引用箇所はそれぞれ節の書き出しである。場面の転換とともに情景の描写が見事である。

 二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を軽蔑している。(Kindle No. 3889)

 古くからの仲ではあれども、同一の対象をめぐり静かな闘いを繰り広げる二人の緊張感がよく伝わってくる。物理的にいっしょに歩きながらも、心の乖離の様子がイメージできる。


2016年2月13日土曜日

【第546回】『「経験学習」ケーススタディ』(松尾睦、ダイヤモンド社、2015年)

 著者の『「経験学習」入門』は、経験学習を学ぶ最適の入門書にして最良のテクストの一冊である。その実践編とも呼べる本書では、経験学習のメソドロジーを実務に活かした事例がふんだんに解説されている。実務家にとってありがたいガイドブックだ。

 本書のポイントは、経験学習の定着を現場や個人の対応に任せるのではなく、しくみ化することである。著者は185頁において、異なる事例から学びを抽出し、サポートのしくみを以下の六つにまとめている。

(1)方針支援:バリュー・ビジョン、めざす人材像
(2)ジョブアサイン支援:人材育成(開発)会議、現場の改善・改革
(3)リフレクション支援:1on1ミーティング、振り返りワークショップ
(4)スキル支援:コーチング研修、指導経験の共有
(5)アセスメント支援:育成力の評価、1on1の効果測定
(6)経営陣による支援:経営陣の率先垂範

 職場において経験学習を導入する第一歩として、こうした六つの観点をもとに取り組むことは有効であろう。一見して模倣することが簡単なように見えたり、面白味を感じさせるというのは、秀逸な事例の条件と言えるだろう。以下では、とりわけ感銘を受けたポイントについて、述べていきたい。

 まず(4)について。コーチを担う対象に対してコーチング研修を行えば、コーチングを現場でできるようになるわけではない。ヤフーの事例で示唆的なのは、コーチのコーチを支援することの重要性である。毎週のピアコーチングや月に一度のシャドーコーチングを行うことによって「コーチのコーチ」を強化し、彼(女)らが他の管理職のコーチングを支援するのである。ベストプラクティスの共有を図るにはこうした取り組みの繰り返しが重要なのであろう。

 次に(5)については、昭和電工での事例が参考になるだろう。同社では、職場での指導者が新入社員に対してOJTを行い、入社6ヶ月後にアンケートによるフィードバックを行っているという。OJTは、ただ単に行えばいいというものではない。教育対象である新入社員各自に対して、効果がどのように出ているかをフィードバックし、それを以って改善していく仕組みがループが重要なのである。

 こうした個別の工夫とともに大事なのは、トータルで捉えて、しくみ同士を結びつけるという観点である。一つひとつを行うだけではせっかくの取り組みが定着せず、職場における日常の変化に対応できない可能性がある。したがって、個の観点とともに、全体の観点を踏まえて、愚直に結びつけるためにデザインし続けることが私たちに求められている。


2016年2月7日日曜日

【第545回】『野分』(夏目漱石、青空文庫、1907年)

 漱石の小説において三角関係が基底として存在することを指摘したのは柄谷行人であった(『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人、講談社、1990年))。本作では、文学者である白井道也を軸に置きながら、高柳・中野といった若者とのやり取りを描くことで三つの辺から成る関係性を描き出している。後年の代表作『こころ』を彷彿とさせる本作は、道也と高柳との関係は先生と私、中野と高柳は結婚前の先生とKを想起させる。むろん、先生・K・お嬢さんという愛に纏わる三角関係を描いた『こころ』との違いは明瞭であるが、読み比べてみると面白いだろう。

 諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊いものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり(Kindle No. 399)

 白井「道也」という名前にも漱石の含意があるのだろう。道也は、教職に就いていた時分に生徒たちに道のために生きることを説く。論語であれ老子であれ、定義の違いはあれども、道を重視し、道のために生きるということは古典において主張されてきたテーマである。しかし、遠大で形の見えない道を志向することは、若い学生にはイメージしづらいものであり、道也は学生から受け容れられなかった。一世紀以上も前に描き出された、古典や思想を巡る先生と生徒の対立構造は、現代にも通ずる構造であり、近代化以降の人々が抱える大きな課題の一つなのではないか。

 苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです(Kindle No. 1296)

 道のために生きる上で苦しむことの必然性を述べ、そうした状況を論説するのではなく、それを体現することが文学者の職分であることを道也は高柳に述べる。苦しさを徒らに正当化したり意味付けすることはあまり好きではないが、主体的に生きることに苦しさが伴うという点については同意できるし、勇気付けられる。

 秋は次第に行く。虫の音はようやく細る。(Kindle No. 1589)

 場面転換において漱石が見せる表現には呻らさせられるものが多い。上記引用箇所もその一つである。

 それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。ーー君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼らから見くびられるのはもっともでしょう(Kindle No. 1797)

 他者からわかってもらうことを私たちは半ば無意識に求めてしまうものなのではないか。もちろん、自分にとって大事な存在にわかってもらうことは、生きていく上で重要なことに違いない。しかし、多くの人にわかってもらいたいと思うことは、自分自身を低める行為に繋がるとする道也の指摘は傾聴に値するだろう。理解してもらうために自分自身を低めることは、翻って自分自身を苦しめることに繋がる。相手に最低限のことを理解してもらえるようにコミュニケーションをとりたいものだが、決して迎合してはいけない。

 わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得るために働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。こう働かなくって満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています。(Kindle No. 1816)

 ここに来て、本書における道とは、老子における道であろうと私は解釈したが、いかがであろうか。名付けることを放棄し(できないのだから)、自ずから然りの精神で働くという姿勢は、老子が理想とする無為自然を彷彿とさせる表現であろう。

 自己は過去と未来の連鎖である(Kindle No. 2298)

 本書の最後に描出される道也による講演の冒頭である。本作じたいもお勧めの一冊であるが、特にこの講演の部分はぜひ一読をお勧めしたい箇所である。自明のことを述べているように一見して思えるが、特に「鎖」という点が示唆的である。私たちは連なった鎖である以上、過去を捨て去って自己を描き出すことはできないし、かつ将来における可能性の胚胎としての自己も同時に併せ持つ存在である。そうであれば、時間軸を断ち切ることを考えるのではなく、過去と将来という時間軸を現在にどう意味づけるかが重要なのではないか。

 先例のない社会に生れたものは、自から先例を作らねばならぬ。束縛のない自由を享けるものは、すでに自由のために束縛されている。この自由をいかに使いこなすかは諸君の権利であると同時に大なる責任である。諸君。偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります(Kindle No. 2353)

 漱石が一世紀以上も読み続けられ、その新鮮さが薄れない原因は、近代化以降の人々が抱く普遍的な不安や悩みをテーマにしているからであろう。ここでは自由を享受する権利と行使する責任とがはっきりと提示されている。とりわけ、最後の一文は、私たちが襟を正しながら、読み返したい至言である。


2016年2月6日土曜日

【第544回】『近代日本の陽明学』(小島毅、講談社、2006年)

 大塩平八郎や西郷隆盛が陽明学から影響を受けた人物であったことは理解していたが、それ以外にも多くの歴史的人物が陽明学と近しい存在であったことは知らなかった。そうした事実に基づく、陽明学が近代日本にもたらした影響に関する著者の仮説は興味深い。

 そもそも、人々がみなで共有できる「歴史認識」などというものが存在しうるのかという、きわめて原理的な問いである。わたしの語る「近代日本の陽明学」は、あくまでわたしの物語であり、あなたにはあなたの、こなたにはこなたの、「近代日本の陽明学」がありうるだろう。無限の相対主義に陥るやもしれないこの泥沼でもがき苦しむことなしには、「近隣諸国との友好」などあり得ない。反・陽明学的心性を持つわたしからの、これはみなさんへの挑戦状である。(10頁)

 まず議論の前提として、自身の主張も含めた知の相対化を著者は強く主張する。自分自身が主張していることや同意見であるとしているものを絶対視したい心境は私たちに根深く存在するものだ。そうした存在に依拠することで、私たちは安心感や信頼感を得ることができるからである。絶対的な存在なしで生きられる人は、少ないものだろう。しかし、だからといって何かを盲従したり盲信したりすることに害悪があることもまた、いうまでもないだろう。そうであるからこそ、「無限の相対主義」の中で、私たちは自分の視座を幅広く持ちながら、いつでも反論され得る状況の中で生きることが求められるのである。

 何が彼を陽明学に引き込み、ついには決起にまで至らせたのか。ごくごく単純化して乱暴にいえば、それは「彼の気質がもともとそうだったから」というほかはない。大塩の考えが陽明学者になってから変わったのではなく、そういう考え方をする人だったから陽明学に惹かれたのである。そして、これもまた、陽明学者の多くにあてはまることである。(23頁)

 陽明学が人に影響を与えるということではなく、陽明学を受け入れられる素地を持つ人物がいて、陽明学が自然と受容されるものだと著者はする。思想とは、そうしたものなのかもしれない。