2017年11月26日日曜日

【第781回】『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、早川書房、2015年)

 私たちにとって、記憶とはどれほど大事なものなのだろうか。記憶が不鮮明だと気持ちが悪いし、記憶が失われることに私たちは恐れを抱く。また、記憶を共有していることが、他者どうしを結びつける要素にもなり得る。

 本書は、人々から記憶を失わせる竜を巡る物語である。竜を倒そうとする者、不便は感じながらも安定した社会を守るために竜の存在を守ろうとする者、記憶を失って路頭に迷う者。そうした人々と交流しながら、主人公の老夫婦は、偶発的な経緯で竜を倒す旅に同道することとなる。

 二人で一緒に歩いてきた道ですもの、明るい道でも暗い道でもあるがままに振り返りましょう。(364頁)

 いざ竜が亡くなって記憶が戻るかもしれないという時に、夫婦は、喜びとともにあるいはそれ以上に不安を抱く。しかし、不安を抱きながらも、記憶がどのようなものであろうとも、お互いが歩んできた道は変わらず、そこに喜びを見出す。


 当たり前に私たちにあるものを、大事にしたいと思った。


2017年11月25日土曜日

【第780回】『武士の家計簿』(磯田道史、新潮社、2003年)

 家計簿とは生活の有り様を数値で表したものである。したがって、ある時代の人々の生活を理解するためには、その時代の家計簿を見ると良いのだろう。本書では、江戸時代末期の武士の家族における明治維新以降までの家計簿をもとに、当時の武士の生活、および時代の大きな転換前後で生活がどのように変わったのかが詳らかにされている。新鮮な発見に満ちた書籍であり、古本屋でこの家計簿が含まれた文書を見つけた著者の興奮の様子が伝わったくるようである。

 武士と百姓町人の家計簿を比べたとき、最も違いがあらわれるのは交際費である。武士家計では交際費の比率がずば抜けて高い。猪山家の場合、祝儀交際費が消費支出の一一・八%になる。生活必需品以外の支出としては家族配分銀についで多い。(74頁)

 支出の中で交際費の占める比率が高いと聞くと「武士は食わねど爪楊枝」という言葉が頭に浮かぶ。しかし、自分自身のプライドや娯楽で交際費が高かったわけではないと著者は述べる。

 現代人からみれば無駄のように思えるが、この費用を支出しないと、江戸時代の武家社会からは、確実にはじきだされ、生きていけなくなる。つまり、その身分であることにより不可避的に生じる費用であり、私はこれを「身分費用」という概念でとらえている。逆に、その身分にあることにより得られる収入や利益もある。これを「身分利益」とよびたい。つまり、身分利益=身分収入マイナス身分費用という構造式を考えることができる。(75~76頁)

 武士同士の社会における交際にコミットしなければ、武家社会から排出されてしまうから、交際費がかかるというのである。この指摘は、戦乱の絶えなかった室町後期や戦国時代と比較すれば分かりやすいだろう。つまり、戦乱が多かった時代であれば、他者との付き合いよりも戦場で手柄を立てることによって立身出世ができたのに対して、平和状態が長く続いた江戸時代では手柄を戦場で立てる機会がほとんどなかったのである。そうなると、武士同士での安定的な社会の中で認められることが必要だったのである。

 この身分利益という概念を用いれば、なぜ明治維新後に士族の反乱がマイノリティーで、多くの士族が唯々諾々と武士階級の解体に応じたかがわかる。

 今日、明治維新によって、武士が身分的特権(身分収入)を失ったことばかりが強調される。しかし、同時に、明治維新は武士を身分的義務(身分費用)から解放する意味をもっていたことを忘れてはならない。幕末段階になると、多くの武士にとっては身分利益よりも身分費用の圧迫のほうが深刻であった。明治維新は、武士の特権を剥奪した。これに抵抗したものもいたが、ほとんどはおとなしく従っている。その秘密には、この「身分費用」の問題がかかわっているように思えてならない。(77頁)


 江戸末期においては、身分費用が増加したことに伴って身分利益が圧迫していたという。だからこそ、身分費用の負担に耐えられなくなっていた多くの武士にとって、わずかな身分収入にしがみつく理由は、少なくとも生活面では弱かったのであろう。


2017年11月23日木曜日

【第779回】『漱石論集成 増補』(柄谷行人、平凡社、2001年)

 万人に推奨する書籍ではない。しかし、著者の他の書籍が好きで、かつ漱石を読破している方にはオススメのコアな一冊。「こういう読み方があるのか」「この作品とあの作品はこのように繋がっているのか」といった知的興奮に満ちた読書経験に誘われることだろう。

 『行人』の前半では、われわれはいまにも三角関係が行きつくところまで行くようなスリルを感じる。しかし、なにごとも起らないばかりか、弟の二郎の方も「自己と周囲と全く遮断された人の淋しさを独り感じ」る男になっている。小説は唐突に一郎の内的世界に移行してしまい、嫂の問題は忘れ去られてしまうのである。これは『門』の宗助が妻をそっちのけにして参禅してしまうのと同じことである。『夏目漱石』のなかで、江藤淳はそれを他者からの遁走であり、自己抹殺=自己絶対化の論理であると批判している。だが、事実はそうではない。これらの小説の主人公たちは、元来倫理的な相対的な場所にいたのだが、ある時点から漱石固有の問題をかかえこんでしまい、まったく異質の世界に移行してしまったのだ。彼らは倫理的に他者にむかうことを放棄したが、ひとは倫理的であるためにはまず自己の同一性・連続性をもちえていなければならない。(31~32頁)

 『行人』の最後の唐突かつ長い手紙も、『門』で宗助が突如として参禅する最後のエピソードも、なんでこうなるのだろうと疑問に思う読者は多いだろう。少なくとも私はそのように単純に疑問を持っていた。なぜ漱石はそれらのエピソードを最後に持ってきたのか。著者の仮説は納得的であるし、このように捉えれば漱石の他の作品における作品構造も推測できそうであり、著者は以下のように続ける。

 漱石の小説は倫理的な位相と存在論的な位相の二重構造をもっている。それはいいかえれば、他者(対象)としての私と対象化しえない「私」の二重構造である。他者としての私、すなわち反省的レベルでの私を完全に捨象してしまったとすれば、そして純粋に内側から「私」を了解しようとすればどうなるか。それを示しているのが『夢十夜』だ。この「夢」は漱石の存在感覚だけを純粋に暗示するのだが、われわれは漱石のどの作品にもこういう「夢」の部分を、すなわち漱石の存在感覚そのものの露出を見出すことができるのである。『坑夫』の出口のない地底の迷路もそうだし、『それから』の冒頭と最後にあらわれる「赤」の幻覚にしても然りである。(38頁)


 現実と夢、倫理と存在論。この二つの対比軸によって捉えると、それぞれの作品における漱石の物語の描き方を垣間見ることができるのではないか。こうした思考の補助線を持ちながら、漱石の作品を読み直すと面白そうである。


2017年11月19日日曜日

【第778回】『龍馬史』(磯田道史、文藝春秋、2010年)

 龍馬の生涯を語れば、そのまま幕末史の生きた教科書となります。幕末史は複雑ですが、龍馬を主人公にしてみてゆけば、それが何であったのか、はっきりした像が見えてくるはずです。(7頁)

 近世史を専門とする著者が本書を著した目的はここによく表れている。土佐藩を脱藩し、江戸や京都といった時代の中心を為した地域に精通し、薩長をはじめとした雄藩の人物との接点になった坂本龍馬。だからこそ、彼をつぶさに見ていけば、幕末史が見えてくるのであろう。

 龍馬を生んだ時代背景から著者は論を進めている。

 江戸時代は、教科書的には既に兵農分離が済んだ時代だとされています。しかし、実際は兵農分離が進んでいる地域とそうでない地域との差が大きかったのです。(中略)
 土佐や長州は郷士が非常に多く、学校教科書が教える兵農分離の社会とはほど遠い。また、南九州も郷士が多く、熊本藩、人吉藩、薩摩藩、佐賀藩などは郷士だらけといってもいい状態です。(中略)
 後に明治維新の原動力となったような西南雄藩は、郷士が多く兵農分離が進んでいなかったという傾向が明らかです。(中略)そして、戊辰戦争において、新政府軍に抵抗した東北諸藩も郷士が多い。さらに言えば、維新以後に、いわゆる士族の反乱が起こった地域も、そこに重なってくるのです。(13~14頁)

 郷士に対する著者の分析が興味深い。郷士が多かった地域におけるエネルギーの大きさとまとめれば良いだろうか。維新を起こした側も維新に抵抗した側も、郷士が多かった藩でであるいうのだから面白いではないか。固定された身分制度ではなく、流動性があることが、社会にエネルギーをもたらし、変化をもたらす動因となるのであろう。

 大政奉還と武力倒幕は、一般的には対立する概念と思われていますが、そうではありません。いきなり幕府を軍事力で倒すとなると、土佐藩のような親幕府的な心情を抱いている藩はなかなか踏み切れません。大政奉還を経ての新政権構想を掲げることで、土佐藩のみならず各藩を次々と巻き込み、事実上、幕府を無きものとしてしまう、それが、薩土盟約を実現した段階での、龍馬の構想だったのではないでしょうか。(98頁)

 これこそが戦略的思考というものであろう。正直に言えば、なぜ江戸末期において、大政奉還を経てから武力倒幕がなされたのか、もっと言えば、大政奉還の意義はなんだったのか、がよくわからなかった。結果が分かっている現代の視点から見れば、大政奉還は無駄であり、戊辰戦争だけでよかったのではと思えたのである。

 しかし、大政奉還によって徳川家を全大名と同じ地位にした上で、薩長土が天皇を担いで官軍となれば、他の諸藩が天皇の名の下に味方になりやすくなるのである。反対に言えば、徳川幕府が続いていればいくら弱体化していても、変化によって既存の大名勢力がどうなるかわからないような権力主体の変更運動に協力することは難しかったのかもしれない。だからこそ、大政奉還を慶喜にさせた上で、クーデターのように徳川討伐を官軍として敢行するという二つのステップを踏んだのである。


 たしかに龍馬を眺めることで、江戸末期から明治に向けた変化を理解することができるようだ。


2017年11月18日土曜日

【第777回】『夏目漱石と西田幾多郎』(小林敏明、岩波書店、2017年)

 亡くなった時期が異なるために、両者が同世代だとは気づいていなかった。直接的なコミュニケーションは推測の域は出ないが非常に限られた機会であったようだが、同じ頃の生まれであり、近しい問題意識を持っていたという。

 図らずも、漱石作品のあの執拗な心理描写と西田哲学のあの回りくどい論理表現は同じ苦吟を表現しているが、それは徒手空拳、自分の意思と思考だけを頼りに「近代」と格闘した彼らの「人生」の現場を赤裸々に映し出しているのだ。(11~12頁)

 小説と哲学という異なるフィールドでありながら、近代という新しい時代精神に対する意識が共通していたようだ。時代の大きな変わり目において、まさに生き死にをかけて取り組んだ両者の作品だからこそ、近代を経て大きく時を経た今日においても、私たちを魅了するのであろう。

 漱石山房や京都学派というような非血縁的な擬似家族共同体ができあがると、彼らはその中心にいて特別な「父性」を発揮した。彼らの手紙や人々の証言を参照すればわかるように、彼らは自分の「弟子」たちに専門知識を教示しただけではなく、目をかけ、可愛がり、叱り、励まし、面倒を見、相談に乗り、ということをじつに小まめにやっている。これはやはりひとつの能力というべきである。この「父性」がなかったら、あれだけ多くの「弟子」が彼らのもとに集まってくることはなかっただろう。(146頁)


 漱石の小説の中には、彼の弟子たちをモデルとしたものが多く出てくる。あの描写からもわかる漱石を取り巻くひとつの共同体と、京都学派と呼ばれた西田とその弟子たちによって形成された共同体。こうした共同体は自然発生的なものであるのだから、その中心にいる漱石と西田という存在に特色があることは容易に想像できる。その特徴を父性として見出した上記の箇所は興味深い。


2017年11月12日日曜日

【第776回】『漱石激読』(石原千秋・小森陽一、河出書房新社、2017年)

 文学者や文芸評論家といった専門の方々がどう読まれるかはわからないが、漱石好きの素人としては面白おかしく読めた。長編小説を網羅的に扱ってくれているため、このような読み方があるのだなぁと感心しながら、興味深く読める。

 著者たちの読解が全て正しいとはさすがに思わないが、首肯する部分がとても多い。小難しく捉えない普通の漱石好きであれば、新たな視点や読み解き方に出会い、また読み直したくなるのではないだろうか。

小森 登場人物Aが手紙を書いて、それを小説のなかで読んでいるのは別の登場人物B。しかし、Aが書いた「汝」に読者がなることによって、読者はBの位置に立てる。
石原 そういうことなんです。
小森 つまり登場人物についての小説を読みながら読者がその人物を演じていく、そういう小説内世界への読者の参加の道筋を意識的に開いているのではないかという話でしょう?(28頁)

 『文学論』を基に、漱石が後期三部作で盛んに用いた手紙というメディアを用いる効用を解説しているところに唸った。手紙が出てくる漱石の小説は私が特に好きな作品であり、なぜそこに惹かれるのかの理由が、この部分を読んでよくわかった。それとともに、こうした手法が『文学論』で既に触れられていたということに驚く。

石原 読者が想像力を働かせる空間がぐんと広がった。考えてみれば、『彼岸過迄』は語りの当事者性が奪われた小説です。逆に、その語りの当事者性がもろに出てきたのが『こころ』です。『彼岸過迄』『行人』『こころ』の流れを語りの当事者性で切ってみると……
小森 その読み込み方は面白い。
石原 『行人』は脇にいた人でしょう。『こころ』は本人が語る。
小森 『行人』は脇にいた人がどんどん当事者性を突きつけられていく。
石原 巻き込まれていくということを、全部話が終わってから傍から語る。語りの当事者性をめぐる実験をおこなっている感じがします。その発端となった『彼岸過迄』はいろんな方法意識の玩具箱みたいになっていて、何が出てくるかわからない面白さがあるわけですね。(238頁)

 手紙を書いた主体によって、その印象が変わるというのだから面白い。恥ずかしながら、そこまで全く意識して読んでいなかったが、なるほど、思い返してみると印象が異なるように思える。後期三部作を改めて読み直したい。


2017年11月11日土曜日

【第775回】『しんがりの思想』(鷲田清一、角川書店、2015年)

 リーダーシップ開発の重要性を仕事の中で感じている身として、副題が「反リーダーシップ論」と銘打たれている本書には興味があった。私の印象としては、著者が否定しているリーダーシップは、いわゆるヒロイック・リーダーと呼ばれる、自分自身が正解を持ち野心的な目標を立てて周囲を引っ張るようなリーダーである。したがって、結果的には共感しながら読めた本であった。

 上司の命を待つのではなく、一人ひとりがじぶんで考え、タフに行動する組織がいちばん活力がある。そういう意味では、逆説的な言いまわしになるが、リーダーがいなくてもいい組織を作れるのが真のリーダーだということにもなるかもしれない。(中略)そうだとするとポイントは、リーダーそのひとではなくて、むしろ、仕事をまかされたメンバーがそれぞれに気持ちよく気張れるよううまく調整をするひと、つまりは番頭のような二番手のひとだということになる。(152~153頁)

 著者が否定していたのは、現代における組織において、ヒロイック・リーダーのようなリーダーに対して依存したくなる私たちの傾向でありリーダーシップそのものではない。だからこそ、一人ひとりがそれぞれ他者に影響を与え合いながら、一人ではできない大きなことを成し遂げようとするリーダーシップは重要である。さらに言えば、お互いが認め合うことで、時には他者を支えるフォロワーシップの重要性を著者は指摘しているのである。これが番頭を指しているのであろう。

 専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げにできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に掴んでいなければならない。しかし、現場にいるひとの不安や訴えのなかで、自身の判断をいったん括弧に入れ、問題をさらに聴きなおすこと、別の判断と摺り合わせたうえでときにそれを優先させることもしなければならない。ここでは、「この点からは」「あの点からは」という複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。こうした二様の知性をパラレルに働かせることを、いずれの分野であれ、いまのプロフェッショナルは求められている。(107~108頁)

 誰もがリーダーシップを発揮し、フォロワーシップと相俟って変化に対応しようとする組織においては、専門知の捉え方も以前と異なってくる。いわゆる専門バカのように、自分の保有する知識にだけ造詣があれば良しとされる時代ではなく、他の専門家の主張を理解し、協働できることが求められるのである。

 一般に、制度化された組織では、なすべきことはその分類にしたがってどんどん細分化され、規律化されてゆく。先にもみたトランスサイエンス的な状況においては、それらの間隙を見過ごさないこと、それらをたがいに瓦のように重ね合わせてゆくことが求められる。そのときはたらく知性は、つねに問題の全体をケアするものでなければならない。いいかえると、融通のきかない専門家主義のソリッドな知性に対して、みずからに割り当てられた業務を超えて、他者を案じ、全体に気を配りつつ、そのつどの状況に可塑的に対応できるリキッドな知性こそが、ここでは験しにかけられる。あるいは、既定の制度からは見えない存在、外れてしまう存在、それにも応答してゆこうとするのが「知性の公共的使用」のことだといってもよい。(125頁)


 他者と協働するための条件として、私たちにはリキッドな知性が求められる。専門知は必要条件である。それがなければ、他者に提供できるものがなくなってしまうからだ。しかしそれだけでは足りない。専門知を持つ者同士が対話し、協働するためには、しなやかで柔軟な知性が求められるのである。


2017年11月5日日曜日

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)

 すれ違いがテーマとなる作品では、第三者として全体の構造が見える私たちにはもどかしく、しかしだからこそ、その作品に惹きつけられる。

 映画「君の名は。」では、瀧と三葉がひたすらすれ違い続け、最後の最後に初めて出会うからこその感動がある。また、アンジャッシュの「すれ違いコント」では、次第に大きくなる勘違いが笑いを増幅させてオチで最大化する。本作では、二つの大きなすれ違いを経て物語が進展し、やきもきした気持ちを幾度となく抱きながらも、読後には心地よい余韻が残る。

 フロムは、『愛するということ』の中で、愛の性質を与えるという能動性に見出し、配慮・責任・尊敬・知という四つの要素から成り立つとしている。蒔野と洋子は、その出会いの最初から、他の誰よりも相手を理解し、他の誰からよりも理解されていることを、対話を通じて直感的に感じ取っている。したがって、両者の間に愛という関係性があったことは間違いないだろう。

 しかし、すれ違いによって、両者の愛が異性愛の一つのゴールとも呼べる結婚へと繋がらなかったことを、軽々に運命のいたずらによる悲劇と片付けてよいものかどうか。私には、両者が夫婦として存在し得なかったことをもって悲しい物語と位置付けることはできない。悲劇であったのであれば、読後に残る余韻の心地よさの説明がつかないからである。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」(29頁)

 この蒔野の発言に洋子は共感し、その後も物語のポイントごとに思い出している。すれ違いによって相手の言動の背景を誤解してしまった過去や、それに伴って下した決断という過去であっても、その事実自体は変えられなくても解釈は変えられる。そうした可変的な過去解釈を自身が行うことで自分自身だけではなく他者との関係性も含めて将来に活かすことができるのではないか。

 それは愛およびその喪失の過程においても同様である。洋子は、戦時下での現地取材で負ったPTSDに苛まれ、その後に離婚まで経験しながらも、ジャーナリストとして新しいフィールドを見出している。蒔野も、洋子との出会いの前から悩まされたキャリア・プラトーの状況から、環境要因にも因るブランクを経て自身の演奏表現を再構築し、復活を果たしている。


 帯では「恋の仕方を忘れた大人に贈る恋愛小説」と謳われているが、異性愛だけに留めてはもったいないのではないか。やや大袈裟な物言いになることを承知の上で言えば、人間愛あるいは人間の多様な可能性についての示唆にも富んだ小説として読み解きたい。


2017年11月4日土曜日

【第773回】『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、早川書房、2006年)

 抑制の利いた筆致で淡々と描きながら、読者に場面を想像させる。余分な力が入っていないからか、読み手としても心地よく読み進められる。SF的な状況設定であるがために、現実との距離感を如何様にも取ることができ、多様な読み方ができそうである。

 臓器移植をはじめとした社会的トピックスと紐付けて読めそうなテーマでありながら、個人的には漱石が描いた三角関係を軸とした一連の作品群を思い起こさせた。

 主人公であるキャシー、付かず離れずでありながら友情関係を長期に継続するルース、ルースとの恋仲でありながらキャシーと強い友情関係を一貫して持ち続けたトミー。『こころ』でいうところの、先生・K・お嬢さんという三者の関係を想起してしまう。二者ではなく三者であるからこそ、関係性の拡がりと多様な可能性とが展望されるのではないか。

 新しい環境に溺れる思いだったわたしたちは、しばらくの間、浮き輪代わりにこの論文にしがみついていたのだと思います。(140頁)


 三人が施設から出て、一般社会に出た直後の描写である。施設で出された論文執筆という課題自体には興味を持てない中でも、過去のあたたかい記憶や関係性の名残である論文を精神的な拠り所にするという感覚。大学に入って新しい交友関係を築くことに勤しみながら、中学や高校の友人と会うことを億劫と思いながらも、どこかでそこに安心感を覚えるような感じであろうか。

2017年11月3日金曜日

【第772回】『劇場』(又吉直樹、新潮社、2017年)

 芥川賞受賞作である『火花』も良かったが、個人的には本作の方がさらに良かった。前作では肩に力が入っているように見受けられる箇所がいくつかあったのに対して、本作ではそのような箇所が見当たらない。物語の展開を引っかかりがなくすらすらと読み進められ、二作目にして既に文体が完成の域に達しているかのようだ。

 帯にも書かれているので、いわゆる恋愛小説ということなのであろう。「僕」を主体にした物語展開であり、恋人との関係性が初期の時点から過去形で語られるため、その終焉を予期しながら読者は読み進めることとなる。

「そうじゃなくて、正直すぎて感情をどれかひとつに絞られへんねやと思う」(53頁)

 私たちは、他者から質問を受ける際に何らかの唯一の解答があるかのように思う習性があるのかもしれない。「なぜあなたは弊社を志望したのか?」と問われれば何らかの決定要因があるように考えるし、「AとBではどちらが好きか?」と尋ねられるとどちらも好きでも一方を選んでしまう。

 しかし、ある人物の中に、ある一時点における感情は、本来複数あるのであろう。なぜなら、自分を取り巻く事象は多様であり、それぞれに対する多様な感情がないまぜとなって今という自分の雰囲気を形成するからである。

 表現方法や程度の差はあれども、このような複雑な内面を表現することは他者に対する信頼が前提となる。良い面も悪い面も含めて、感情を共有できるということがお互いの信頼関係であり、そのプライベートの要素が大きくなれば恋愛関係を形成することになるのかもしれない。

 金もないのになぜ腹が減るのだろう。人の親から送られた食料を食べる情けない生きもの。子供の頃、こんなみじめな大人になるなんてこと想像もしていなかった。どこかで沙希の親に好かれたいと願う自分がいた。どちらかというと礼儀正しい方だし好かれるんじゃないかと期待していた。だが、大事な娘と暮らす甲斐性のない男を好きになる親など存在するはずがない。好きな仕事で生活したいなら、善人と思われようなんてことを望んではいけないのだ。恥を撒き散らして生きているのだから、みじめでいいのだ。みじめを標準として、笑って謝るべきだった。理屈ではわかっているけれど、それは僕にとって簡単なことではなかった。(71~72頁)

 終焉を予期しながら読むために、少し関係性がギクシャクするような箇所を読むと過剰に反応してしまう。こうした展開を創り出せるのも、小説家の力量なのであろう。

 デフォルメされてはいるが、過剰に描かれた「僕」の言動を通じて自分を内省させられる。ここまで自分は酷くないという安全地帯を用意されながら、同時に、その安心感の中で自身の言動に向き合わさせられるというような経験である。安心しながら軽くショックを受けるという不思議な感じを得られるのが小説を読む醍醐味の一つであろう。

「沙希ちゃん、セリフ間違えてるよ。帰ったら沙希ちゃんが待ってるから、俺は早く家に帰るねん。誰からの誘いも断ってな。一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。沙希ちゃんが元気な声で、『おかえり』っていうねん。言えるよな?大きな犬も俺の肩に飛びついてきて、ちょっと肩噛まれるけど、その時は痛み感じへんくらい俺も犬好きになってるから」(206頁)


 この最後のやり取りは切ない。誰かが悪いとか、あの言動が拙かったとか、そうした箇々別々の評論ではなく、お互いたお互いを尊重し合っていても結果的にうまくいかないことはあるのだろう。反省し、後悔している「僕」が、最後に別れをきれいに受け容れたのは、お互いの人間性に対する尊敬があったからなのではないか。