2018年1月28日日曜日

【第803回】『質的社会調査の方法』(岸政彦・石岡丈昇・丸山里美、有斐閣ストゥディア、2016年)

 修士論文を執筆する上で質的調査を行った。研究手法についてもそれなりに学んだし、内容についても真摯に取り組んだつもりである。しかし、質的調査の目的とは何か、という原点に立ち返って考えたことはなく、また学んだこともなかった。

 本書では、そうした「そもそも論」から議論を進め、丁寧に質的調査の目的と方法について述べられている。筆者らが質的調査の内幕を詳らかに伝えてくれる稀有な存在だ。質的調査を行った身としては、実感を持ちながら読み進めることができる。

 質的調査の目標を「他者の合理性の理解を通じて、私たちが互いに隣人になることである」(34頁)と定義している箇所を読んでハッとさせられた。ここには、新しい知見を得ることや研究を前に進めるということではなく、徹底して他者や関係性に焦点が当てられているのである。

 もちろん、新しい知見を得ることや、既存研究との位置付けを関連付けることも重要であるし、他の箇所で述べられている。しかし、他者理解をより豊かにすることによって世界の捉え直しを行い、多様な他者との関係性をより緊密にすることに繋がるのである。

 人びとがその生活史においてどの道を選択して、それをどのように語るか、ということを丹念に拾い上げることによって、無理解が生む「自己責任論」を解体することが、社会学の遠い目標のひとつである、と考えることができます。(236頁)


 私たちはマイノリティが起こすトラブルを自己責任として糾弾し、イレギュラーな非合理的なものとして捉えてしまいがちである。そうすることが、マジョリティにとって楽だからである。しかし、本当にそれでいいのか。そのような行動をとる合理性を理解することで、他者をモノではなく人として捉え、大事な存在と見直すことができるのではないか。


2018年1月27日土曜日

【第802回】『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹、新潮社、2005年)

 二つの異なる世界は、物語の冒頭では全く異なるようであり、読み進めるのが難解だ。しかし、読者が読み取れるように細かなヒントを散りばめ、徐々に二つの物語が一つに収斂していく様は見事である。収束していくにつれて、私たちは怒涛のように読み進められるが、私個人としては、想像している方向性とは真逆の結末で驚かされた。

 おそらく、読者が本作を読む場合、どちらかに肩入れをして主従関係を作り出してしまうのではないだろうか。世界を作る側が生きる世界である「ハードボイルド・ワンダーランド」と、作られた側の世界である「世界の終り」。私の場合は、前者を主として後者を従と見做して、読み進めていたために、最後の最後に驚きをおぼえたのである。

 このように解釈すれば、読むタイミングによって、どちらの世界の主人公に共感し没入するかは異なるのであろう。改めて読んでみて、自分自身の読後感を読み比べたいものである。

「いや違うね。親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」(241頁)

 世界の終りでの住民は、その世界に入るタイミングで影を失い、心を失うことになる。しかし、心を失った人々の間での交流は、寒々しいものでは必ずしもない。そこで主人公は、親切さも心の一部なのではないかと考えるのであるが、それを住民から上記のように反論される。

 「親切心」という言葉もあるくらいなので私も親切さとは心の一部だと思っていたし、今でもそう思いたい気持ちもある。しかし、親切というものは、必ずしも心と全くイコールであるかというとそうではないようだ。ここで述べられている表層的というのは頭で考えて他者の目線を気にしているということを含意しているように思える。


 このように捉えると、自分自身の親切な行動として想起するものには、心からだけのものではなく、頭で考えて第三者を意識した客観的なものになっているように思えるのだが、いかがであろうか。


2018年1月21日日曜日

【第801回】『華麗なる一族(下)』(山崎豊子、新潮社、1980年)

 人間の暗い部分に焦点が当てられ、バッド・エンディングへと至る物語であった。しかし、悪が際立つことによって、その反対概念としての善について読者は自由にかつ深く考えさせられるのであろう。本作では、正義は徹底して報われず、ビジネス上でも社会上でも破綻を招くことになる。

 しかし、盛者必衰のごとく、悪もまた、一時的な繁栄は得ても、その後には悲惨な結末を招くことになる。とりわけ、長編小説の最後の部分で、その凄みを凝縮して著者は描き出している。

 人気のないがらんとしたダイニング・ルームには、曾て万俵家の華麗な一族が団欒したさざめきはなく、三人の使うナイフとフォークの音だけが、天井に音高く響いた。(539頁)


 物語の冒頭でも食事のシーンを描き、最後においても食事のシーンで締めている。両者における登場人物の相違、会話の相違によって、最後の哀しい結末がくっきりと表現されている。


2018年1月20日土曜日

【第800回】『華麗なる一族(中)』(山崎豊子、新潮社、1980年)

 だいぶ前に放映されていたドラマの最終回、かつその決してポジティヴではない結末を知っている本作品の、中巻というのはなかなかしんどい。様々なエピソードが、悲運の終末へと至る伏線に思えてしまい、読んでいて辛くなってくる。しかし、気になるので最後まで読み進めるのではあるが。

 外目には「華麗なる一族」として由緒ある家でありながら、その中で生きる人々は必ずしも幸せそうではない。むしろ、苦しみを抱えながら、複雑な人間関係の中で悩みを自分たちで作り出しているようである。守るものがあるということは、地位やカネを持たない身からすると羨ましくも思えるが、生きづらさをも生じさせているようである。

「僕のような人間、万俵家の血をひいて背骨がいびつに歪んだような人間を、これ以上、つくりたくないからだーー」(320頁)


 万俵家の次男である銀平が、自身の妻に言うセリフには、自分自身に言い聞かせるような、もの哀しさが滲み出ている。このような発想を持たざるを得ない環境は、小説でもなければなかなか想像できない。


2018年1月14日日曜日

【第799回】『華麗なる一族(上)』(山崎豊子、新潮社、1980年)

 山崎豊子は好きな作家の一人である。不思議なもので、他の小説家のようにハッとさせられる稀有に美しい一文はほとんどないし、人物の特徴も様々な作品で共通しているように思える。しかし、とにかく物語に惹き付けられて、人物の良さにも魅了され、次が気になって読み進めてしまう。

 登場人物に人間味を出すのがうまいのか、はたまた人物を取り巻く背景の描写が卓越しているのか。いずれにしろ、読者を物語に入り込ませるその技量に唸らさせられる。

「兄さん、お父さんと争うなんて無駄なことですよ、企業家としての識見、財力、社会的地位、すべての点で何一つ、僕たちはお父さんにかなうものがない、だから勝ちっこありませんよ」
 とだけ応え、階段を上って行った。
「勝ちっこないか、あるか、僕はとにかくやってみる、これ以上、お父さんには頼みません」
 鉄平は、父に挑むように云った。(448~449頁)

 兄と弟がそれぞれ父に対して述べている。エネルギッシュに父親に対抗しようとする兄に対して、一見すると弟は諦念の感じが強い。しかし、こうしたニヒルな想いの方が、父親からするとしんどいのではないかとも思えるがどうであろうか。対抗するエネルギーがあればまだ対応のしようがあるが、表に出ない内在化されたエネルギーの方が、対処のしようがなく難しいものである。



2018年1月13日土曜日

【第798回】『新リア王(下)』(高村薫、新潮社、2005年)

 父親と息子の対話が続き、政治・仏教・家族という全く異なるテーマが同じ爼上で展開されるという壮大なストーリーが展開される。つぶさに理解することは難しいが、考えさせられる投げかけや語りに唸らさせられ、スピーディーな展開に圧倒される。

 考えてもみたまえ、時代や社会の動きは早く、政治はそのつど繰り越された課題の見直しや変更を迫られる一方、政策の継続性という現実もある。産業も経済も生活も単純なスクラップ・アンド・ビルドとは行かない以上、昨日と今日の間には常にさまざまなずれが生じて止まず、有権者はそれを公約違反と言い、政治不信と言い、政治力の無さと言ったりする。かと思えば、その同じ舌がなおも当面の期待を語り、選挙期間限定の信頼を語り、自身の運命と政治家のそれを重ね合わせてみせるのだ。毎度同じことの繰り返しながら、そのつど玉座の王はどれだけの顔を使い分けることになると思う!(49~50頁)

 一般市民の感覚からすると、政治家が以前の政策に固執して変化を拒む主体のように思えることは多い。だからこそ、変革や改革を叫ぶ政治組織が時にブームを起こして圧勝するという現象が生じるのであろう。


 しかし、政策の継続性という重要なキーワードに私たちは意識を向けるべきであろう。企業においても同様である。性急な変革は、成功物語にもなり得るがそれは一部に過ぎないのではないか。多くの失敗は、変革という美辞麗句の下に生じているのかもしれない。


2018年1月8日月曜日

【第797回】『新リア王(上)』(高村薫、新潮社、2005年)

 一人の政治家と、その妾腹の息子との長い長い対話。タイトルからも推察されるように、ひたすら対話が続く物語である。政治活動についての述懐が多いために登場人物が多く、読み始めはなかなか理解が追いつかない。しかし、読み進めていくと、人物名の多さは次第に気にならなくなり、二人の対話もしくはモノローグに惹きこまれていく。

 もしも仏があるなら、それは人が坐りきることの不可能性のなかにあり、私たちはみな不可能に向かって坐るのだろう。脳中枢を飛び交う種々の意識の電気信号の海と、そこに浮かんで生きるでなく死ぬでもない仮死の呼吸をしている身体の小舟のどちらでもない、あわよくばごくごく希薄な無名の生命感覚と化して、人は坐るに過ぎない。(232頁)

 仏教に帰依しておらず、かつ座り続けることが苦手な身としては、なぜ座禅というものがあるのか、恥ずかしながらよく分からない。正座を続けていれば次第に慣れてくるということは頭では理解できる一方で、身体感覚としては実感がわかない。しかし、ここで述べられている、座禅をして身体感覚と思考活動とがなくなる無の感覚を目指しながら、そこには至れないというのは深みを感じる。


 仕事でも難解なチャレンジというものは存在する。不可能性を自覚しながらそれを目指すということは、結果ではなく過程をたのしむコツなのではないか。


2018年1月7日日曜日

【第796回】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹、文藝春秋、2013年)

 すっかり著者の著作にはまってしまっている。日本語を読みやすいのは以前からであるが、ストーリーにも魅了されて一気に読んでしまう。

 自身の過去の傷に向き合うことを決め、過去の親友たちに会いに行き、話をする。親友たちと話すことを通じて、過去の自分を理解し、過去の連続によって築かれた今の自分を理解する。自分を理解することで、パートナーと真剣に向き合おうとする。

 「限定された目的は人生を簡潔にする」と沙羅は言った。(23頁)

 パートナーから言われる台詞は、どれもシンプルでグサグサと来る。この台詞も考えさせられる。目的を限定することが良いの悪いのかを彼女は言っているわけではない。人生を簡潔にすることが自身にとってどのような意味を持つのかを、読者に考えさせるのである。

 人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。(307頁)


 この部分には考えさせられた。長所や美点によって人と人とは繋がっているものであるとずっと思っていた。そうしたことももちろんあるのであろうが、むしろ中長期的に関係性を持続・発展させるためには、弱い部分を共有することで結びつきが強まるのではないか。ビジネスにおいても長所に過剰な焦点が当てられることは多い。しかし、弱い部分や脆い部分を、問題としてではなく、大事なものとして捉え直しても良いのかもしれない。


2018年1月6日土曜日

【第795回】『「できません」と云うなーオムロン創業者 立石一真』(湯谷昇羊、ダイヤモンド社、2008年)

 オムロンの創業者である故立石一真氏の人生を綴った本書。京都は、起業家およびベンチャーが生まれる地として有名であり、日本電産の永守氏も立石氏の薫陶を受けた存在だという。また、ドラッカーが巻頭の案内文を書くなど、立石氏のビジネスパーソンとしての凄さや人格の素晴らしさを感じさせる。

「しがないナイフ・グラインダーの商売に比べれば、本職の技術で生み出した商売はまったくありがたい。お得意先も、まるで別世界である。昔住んでいた故郷の国、そこは友情もあれば、知性もあり、趣味もあれば、情操も満ち満ちている。木々は豊かに実り、鳥は楽しく歌っている。『青い鳥』を求めて遍歴の幾星霜、その青い鳥は、私の最も身近なところにいたのであった」(22頁)

 生活をするために事業を立ち上げようと様々な領域にチャレンジする中で、最終的には自身の拠り所である技術に至る。しかし、寄り道とも思える様々な試行錯誤を経たからこそ、自分自身が何を大事にし、何によってビジネスを継続できるかに気づいた、というようにも考えられるのではないか。

「もっと商いの大切さを知らんとなぁ、商いいうもんは相手さんがあってこそできるもんや。その相手さんが何を望んではるかわかってんのに、物理的にどうやからとか、いまの技術ではどうやとか、努力も工夫もせずに『今回はこれで勘弁してください』などと断るなんぞは、もったいなくて罰が当たるで」(144~145頁)


 顧客志向と要約してしまうと溢れ出てしまうものが、ここにはあるように思える。顧客のことを考え、ひいては社会のことを考える。「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」という社憲を制定した立石氏の想いに満ちた箇所である。月並みだが、真剣に働かないとと自ずと思う。


2018年1月3日水曜日

【第794回】『硝子戸の中』(夏目漱石、青空文庫、1915年)

 漱石にまつわる書籍を何冊か読んでいて興味を抱いた随筆。本書が書かれたのは、『こころ』の後であり、自伝的小説と言われる『道草』の直前の時期である。日々の何気ないことを筆の赴くままに書いているように見えて、自身の生い立ちに触れたりするなど、『道草』へと至る道のりをそこに見出そうとするのは深読みのしすぎであろうか。

 私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑を冒して書くのである。(Kindle No. 23)

 本書の執筆動機を記した箇所である。新聞に掲載される本作品を、忙しい中で新聞を慌ただしく読む読者に対して申し訳ないと書きながら、皮肉ではないかとも思える。多忙だと言いながら、それをむしろ肯定的に解釈しようとする現代の私たちにとってもハッとさせられる言葉ではないだろうか。

 私はその時透明な好い心持がした。(Kindle No. 328)

 久しぶりに再会した旧友の言葉への漱石の印象である。漱石の描写の美しさが凝縮された表現である。

 毎日硝子戸の中に坐っていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春はいつしか私の心を蕩揺し始めたのである。(Kindle No. 1481)


 最終盤に書かれた、本作品を終える箇所も印象的である。文豪・漱石の凄まじさを改めてまざまざと見せつけられたような気がする。


2018年1月2日火曜日

【第793回】『1Q84 BOOK3』(村上春樹、新潮社、2010年)

 BOOK2の終わりが嫌な予感を残すものだったので不安を抱きながら読み進めることとなったが、概ねハッピーエンドで安心した。著者の小説の中では、最もエキサイティングに読み進め、かつ期待を持ちながら読めたように思う。

 父親は死ぬことに決めたのだ。あるいはこれ以上生きようという意思を放棄した。安達クミの表現を借りるなら「一枚の木の葉」として、意識の明かりを消し、すべての感覚の扉を閉ざして、季節の刻み目の到来を待ったのだ。(428頁)

 ある人物の死を描写したシーンである。自死ではなく、死を選べるというのは、それはそれで望ましいものなのではとも思えてしまう。もちろん、現実における死とは、そのようなものではないのであろうが。

 あなたのお父さんは、何か秘密を抱えてあっち側に行っちゃったのかもしれない。そのことであなたは少し混乱しているみたいに見える。その気持ちはわからないでもない。でもね、天吾くんは暗い入口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい(487頁)

 死によって遺された者は、程度の差はあれ、自責の念に苛まれるのではないだろうか。しかし、死者はそうしたものを必ずしも望んでいない。だからこそ、後を振り返るのはほどほどにして、死者がもはや存在しない将来に目を向けることが必要なのであろう。

 適度な野心は人を成長させる(518頁)


 話の筋とは全く関係ない箇所だが、印象に残った部分である。「適度な」という部分が考えさせられる。


2018年1月1日月曜日

【第792回】『1Q84 BOOK2』(村上春樹、新潮社、2009年)

 三部作の真ん中の巻というのはとらえどころが難しい。不安が募る展開になったとしても、最終巻があるのだからそのまま結末へと至ることにはならない。反対に、ポジティヴになってもその後の揺れ戻しが想定される。

 説明されないとわからないのであれば、説明されてもわからないのだ。(213頁)

 至言である。説明が必要な事象というのは、複雑すぎるのである。シンプルであるということは、それだけで価値があるものであり、いかにシンプルにするかが重要なのである。

 これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。(500~501頁)


 読ませる展開でありながらも、重たい中巻の中で、最後の最後に明るさを感じさせる。