2019年9月29日日曜日

【第991回】『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧幻の三連覇』(中村計、集英社、2016年)


 2005年に東北以北の学校による初優勝を果たし、2006年には二年生エース田中将大の活躍で二連覇。そして2007年には早実との決勝再試合での死闘。ベンチから戦況を眺める香田監督の姿は印象深かった。

 「2.9連覇」とも言われる偉業を成し遂げた駒大苫小牧高校は、香田監督が辞めてから甲子園で上位に進出することはなくなり、また香田監督がその後どのようなキャリアを選択したのかも知らなかった。本書は、あの2.9連覇からほぼ十年が経った後に、著者が香田監督への丹念な取材によって描き出したドキュメンタリーである。

 傑出した実績を出したカリスマ的な有名監督を描く作品では、全ての打ち手がハマったかのような描かれ方をされることも多い。しかし、本書では、香田監督の悩みや葛藤もつまびらかにされ、出る杭が打たれる日本の社会や組織にありがちな現象も描かれるためにリアリティがある。時間が経ったからこそ描きだすことができた素晴らしいノンフィクション作品と言える。

 2007年の、あの田中将大が主将を務めた世代とのぶつかり合いと、卒業に至るまで緊張した関係が崩れなかったという事実には驚かされる。また、卒業しても関係が改善しなかったという場面ではハラハラとさせられた。卒業から約一年後に大団円を迎える場面では感動すら覚えた。

 カリスマといえども人間にすぎない。だからこそ、ドラマが生まれるのかもしれない。


2019年9月23日月曜日

【第990回】『葬送 第二部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 第一部の上巻でショパンの葬儀のシーンが描かれるため、私たちはショパンの死を予感させられながら読み進める。彼が死に対して抗いながら、その中で人々と静かに交流する最終盤では、潮騒、奔馬、豊饒などといった三島の名作のタイトルがさりげなく文章に散りばめられる演出も見事だ。

 病床に伏せるショパンがドラクロワに対して語りかけるシーンでは、才能に対する興味深い考えが提示される。

「君はきっとそれに打勝つことが出来ると思う。……」と言った。そして、その一瞬だけ海が凪いだように呼吸が静かになって、「……君は、自分の才能を、人には得難い或る特権的な穏やかさの中で楽しむことが出来る。それは、熱烈に名声を追い求めるのに劣らない価値のあることだよ。……」と言った。(55頁)

 才能には、輝かしいものや異彩を放つものといった華やかなイメージがある。しかし、ショパンが語るような静謐な特質も才能には含まれるのかもしれない。このように考えれば、天才と呼ばれるような一部の人たちが持つ特別なものではなく、ごく普通の私たちが才能というを考えることもあり得るのではないだろうか。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月22日日曜日

【第989回】『葬送 第二部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 静かに、淡々と、しかし確実に物語はもの悲しい展開へと向かうようだ。第一部の上巻の冒頭でショパンの死後の情景が描かれるために一つの予感を持って読者は物語を読み進める。そのために徒に暗い展開を予期し過ぎてしまうのかもしれない。

 或る意味で、天才とは一つの病です。僕には僕の天才の過剰は苦痛です。それは泉の規模を知らず際限もなく溢れ出る湧き水のようなものです。……吐き出しても、吐き出しても、……すぐに飽和してしまう。……僕はその窒息感に常に苛まれています。苦しくて、どうにも仕方がなくて、……いっそ枯渇するまで吐き出してしまうことが出来たならば、どれほどの心の安寧が得られることでしょう。(237~238頁)

 ドラクロワが自身について長く語るシーンである。私たち<普通>の人間は、良質なアウトプットを継続できる人物を天才として尊敬し、羨望の眼差しで眺める。あのようになってみたいと思う。

 しかし、月並みな言い方となってしまうが天才には天才の悩みがある。スランプや停滞といったものではなく、自身の内から創意やアイディアが湧き出すぎると、常に満足感が得られないのかもしれない。私たちは何かをアウトプットするとそれに心地よさを感じるものだが、天才には、その後にもまた新たなアウトプットの欲求が訪れて、余韻に浸れないのかもしれない。それはそれで苦痛だろう。

 時は本の頁を飛ばし飛ばし乱暴に捲ってゆくようにして慌しく過ぎ、二箇月が経って四月二十三日に憲法制定議会の最初の普通選挙が行われると、個々の人間がこの革命によって何を得、何を失ったかが一先ず明らかとなった。(187頁)

 この時間の経過の描写がすごい。物語の展開とは直接的に関係がないとしても、こうした表現に出会うとうれしくなる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月21日土曜日

【第988回】『葬送 第一部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 上巻に続き、ドラクロワとショパンとの交流を軸にしながら物語は進む。ショパンとその愛人サンド夫人との関係が破綻へと至る一連のプロセスがもの悲しいためにトーンとしては暗い。しかし、時に烈しく時に静かに流れる展開は読み応えがある。

 私たちはなぜ小説を読むのか。小説とは、様々な人物の様々な感情が発露し、その関係性もまたダイナミックなものとなる。日常生活において私たちの多くが経験できないような場面が多いが、どこかに共感できる足がかりがある。ために登場人物のある特定の感情や行動に寄り添いながら私たちは物語を我が事のように思い浮かべながら読む。こうした共感と投影の作用が私たちに浄化をもたらすから、小説を読みたいと思うのかもしれない。

 失望が、丁度握り締めた真綿が開いた掌で膨らんでゆくようにして静かに胸に広がっていった。今日は何もしなかった。これから出来る仕事といえば、素描くらいのものだ。そう思うと、今し方の愉快な気分が嘘のように霧散してすっかり沈み込んでしまった。(7頁)

 全般的にシリアスな展開の中でも、冒頭にはこのような日常的に仕事に対して私たちが共感できるような日常が描かれる。ドラクロワが、他者と会うことに長く時間を要しすぎて慨嘆する気持ちは、私たちの多くが共感できるものではないだろうか。

 ショパンは、徐に懐から手紙を取り出すと封筒を覗きながら便箋を引き出して手中に広げた。紙の擦れ合う音が耳に硬く響いた。僅か数秒のことであったが、彼はその間の緊張を耐え難く感じた。窓から風が吹いて膝の上の封筒が飛ばされそうになった時、咄嗟に自分でも驚くほど大袈裟な身振りでそれを押さえつけた。そして、急激に速まった心拍に自分の狼狽ぶりを思い知らされた。(294頁)

 サンド夫人との別離が色濃く予感される最終盤の一コマ。心象風景がほとんど描かれないにも関わらず、ショパンの行動と背景の描写によって、彼の気持ちが十二分に伝わってくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月16日月曜日

【第987回】『葬送 第一部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 美しい文体に触れると心象風景に現れるビジョンに焦点が合い、現実世界が遠景となる。ために、物理的に疲れていたり精神的に疲弊している時にはホッと一息をつける。そうした美しい文章を読みたい折には、夏目漱石、三島由紀夫、村上春樹、そして著者のいずれかの本を読むようにしている。

 本作では、十九世紀パリを舞台にドラクロワとショパンとの親交を基本軸に、様々な人物がその補助線として二人と交流を重ねる様が描かれる。抑制の利いた穏やかな筆致の中にも著者の美しい文体が物語を構成していく。静かな情景の中にも、登場人物の心の襞が描かれているようだ。

 日常のあらゆる記憶から逃れたところで、気がつけば数時間もの時を過ごした。時間の経つのがまるで感ぜられなかった。あっと言う間だった。それでも、知らぬ間にからだを抜けていった時間の澱が、少しずつ足腰に溜まって痛みを発し始めていたので、彼は自分が、何時までもここに留まっている訳にはいかないことを否応もなく感じさせられた。名残惜しいが長居しすぎたようにも思った。最後に見た麒麟の不自然に伸びた頸の格好が、興を醒ませて、彼に帰る決心をさせた。(116頁)

 美しい文章を読むことは、美しい絵画の前で時間を過ごすことと近い。美術館を訪れ、時間を全く気にせずに没頭する。その行為は、日常から時間的にも空間的にも距離を置くことにほかならない。そうすることで、日常に改めて入っていこうという気力が自ずと湧いてくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月15日日曜日

【第986回】『自由のこれから』(平野啓一郎、K Kベストセラーズ、2017年)


 最近は著者の論考にはまっている。小説はもともと好きであったが、小論も考えさせられて面白い。イノベーション、法律、遺伝子工学、といった分野の碩学との対談はスリリングであり、そのまとめとしての自由に対する論説もぜひ読んでみてほしい。

 『決壊』に始まり『空白を満たしなさい』へと至る第三期と呼ばれる作品群で著者がテーマにした分人主義を基に、著者は自由へのアプローチを以下のように述べる。

 分人主義的に複数の組織やコミュニティに帰属することが可能となれば、私たちは、個々の関係性において、より多くの自由を手に入れることだろう。
 なぜなら、全人格的にある関係性に巻き込まれることが避けられ、一つの分人の経験を他の分人を通じて相対化できるからである。(162頁)

 分人主義とは、端的に言えば、唯一の「この私」としての個人ではなく、多様な他者との多様な関係性によって個人が分割された「文人」の相対としての私、という考え方である。社会学の領域でいえば、ジンメルを想起されれば良いだろう。

 私たちは、自分が巻き込まれている一つの状況、その関係性の中での分人を相対化する分人を常に複数、所有すべきである。ある分人においては、他に選択肢がないように思えていることも、他の分人を通じ、またその関係者を通じて相対化することで、必ずしも必然性がないことが見えてくる。(170頁)

 分人の総体としての私という考えを用いれば、仮に一つの分人が他者から否定されて自己効力感を失ったとしても、他の分人に依拠すればよいとなる。つまり、特定の自己効力感を失う事態にあったとしても、ほかの分人によってその分人を相対化し、全体としての自己肯定感を育む、という考え方と言えるのではないか。

【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)
【第240回】『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)

2019年9月14日土曜日

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)


 著者の小説を好きな方にはぜひ勧めたい一冊である。三島を好み、また漱石よりも鴎外が好きであるなどといった個人的な見解も随所に見られる。著者が何を好み、何に影響を受けてきたか、ということを知ることは、著者の作品の見方にも影響し、より深く理解することにもつながるのではないか。

 興味深い点は多々ある。ここでは、著者自身が自らの著作である『空白を満たしなさい』をイメージして書いている箇所を引いてみる。

 私自身が近年拘っている話だが、自殺者は、彼の生がいかに複雑な起伏に富んでいたとしても、自殺という最後の決定的な行為によって、「自殺をした人」となり、更には「自殺をするような人」だったと回顧されてしまう。非常にしばしば、彼の生きた軌跡は、その一点からのみ遡って整理されることになる。無論、英雄的行為に及んで広く社会の賞賛を得たならば、彼はつまりはそういう人間だと認知されよう。その後、そうではなかったという暴露話が続くのもお決まりである。しかし、私はそうした単純な人間の見方に、さすがに飽き足らない。(78~79頁)

 近代市民社会におけるアイデンティフィケーションは、それ以前の出自によってアプリオリに決まるのではなく行為の積み重ねによってアポステリオリに構成されると喝破する。こうした行為によってその人間の人間性が決まるということは、他者から見て際立つ行為が、その人物の人間性を規定するということになる。その結果が上記の引用箇所だ。

 行動が個人を規定すると考えると、一つの目立つ行動を以ってその人物を良くも悪くも評価してしまう。この陥穽に陥らないように謙虚な姿勢を保つことが近代を生きる私たちには求められるのではないだろうか。

【第277回】『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎、講談社、2012年)
【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)

2019年9月8日日曜日

【第984回】『NHK「100分de名著」ブックス 荘子』(玄侑宗久、NHK出版、2016年)


 荘子の良さを存分に伝えてくれる本書。さすがは「100分de名著」のシリーズと言えよう。端的にポイントを説明してくれており、かつ荘子を愛する碩学が魅力を語ってくれているために引き込まれる。ようやく、荘子の最適な入門書にたどり着いたようだ。

 さまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではないーーと、徹底的に笑いながら話しているのがこの『荘子』です。(7頁)

 儒教をはじめとしたさまざまな生き方や思想を否定しているかのように見える荘子。その本質は、絶対的なものは存在しないとして全てを相対化しようとするという考え方が根幹にあるという。

 では、人間の意志による主体性を否定する荘子は何を重視するのか。

 自らの意志で動いたり変化したりするのではなく、周りが変化したので私も変化した、というのがよいと言うのです。まさに受け身です。現代の日本語でも使われる「やむをえず」という言葉の出典はまさにここなのですが、今ではネガティブな意味で使われるこの言葉が、完全に肯定的な意味で使われています。(51頁)
 「しあわせだなあ」というのは、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかった、ということ。自分の意志で事前に立てる計画とは無縁の世界、完全に受け身の結果なのです。(52~53頁)

 まず受け身の考え方が重視されていることがわかるだろう。その上で、完全に自分自身を周囲に合わせて状況の変化に委ねるということではないということに注意が必要なのではないか。というのも、周囲で起こったことを受容しながらも、それを自分の関与によって「仕合わせる」ことが重要だとしているのである。

 ここには西洋における主体性とは異なる考え方が見出されるのではないか。

 西洋の「自由」が「みずから」勝ち取るものである一方で、「みずから」ではなく「おのずから」に任せる境地というものがたしかにある。それが、荘子の語る「自在」です。(78頁)

 自然とは「自ずから然り」であるといわれる。ここにおける「おのずから」には、主体性に基づくのではなく、「一切の人為を離れて「私」を無くし、命の全体性に戻る」(78頁)ことで自分と自然とが一体になるという世界観が現出している。

 荘子が目指すのは「おのずから」の変化に従うことですが、人間はどうしても「みずから」考え、行動しようとする生き物ですから、放っておくと「みずから」はどんどん「おのずから」から離れて行ってしまう、ということです。(120頁)

 しかし、わたしたち人間のいわば本性として「みずから」の発想が占めがちになると著者はしている。では「みずから」に囚われないようにするにはどうしたらよいのか。ここではフローに近い考え方が荘子でも展開されている。

 大切なのは、理性が捉えた自己のイメージがここでは次々に打ち破られていく、ということです。何が「自分らしさ」なのかも、すぐに分からなくなります。(122頁)

 手や身体を動かし没頭することで、自分自身を頭で理解しようとするという静的な自分像を壊れていく。そのための概念装置が、荘子の教えなのではないだろうか。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月7日土曜日

【第983回】『流されるな、流れろ!』(川崎昌平、洋泉社、2017年)


 荘子をたのしみたいが、なかなか内容が入ってこない。何冊か読んでもその状況が改善されず苦労している。カジュアルな解説本であり、エッセーに近い本書は、荘子に対して新しいアプローチを試せるいい機会だった。

 感情をぶつける相手がいなければ、「私」という人格すらなくなってしまう。「私」がいなければ、そもそも感情すら湧きようがない。喜怒哀楽も不安や悲しみも、それらが変化することも、すべて「自然」の流れなのだから、気にする必要はない。ムリに感情を押し殺そうとするほうが、よほど不自然な生き方だ(37頁)

 内篇・斉物論第二の「非彼無我、非我無所取。」を取り上げた一節。感情を抑制しないと、感情が自身の言動に影響を与えてしまう。だからコントロールするべきである、と考えてしまいがちだ。

 もちろん、感情が言動に影響を与えてしまうのは良くない。しかし、感情を持つこと自体は悪いことではなく、それを押し殺そうとすることには無理が生じてしまう。言動に影響を与えない状況、つまり感情を感情そのものとして受け止めること。これを心しておきたいと思った。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月1日日曜日

【第982回】『日本沈没(下)』(小松左京、小学館、2006年)


 地殻変動によって日本列島が沈没する可能性が極めて高いことが徐々に明確になる。物語の展開の早さと相待って、緊張感の高まりも次第に増していく。未曾有の災害を扱ったSF作品であるため、読者が過去に経験した災害を良くも悪くも想起させられ、その実感には悍ましくも生々しく、読者を内省させるようだ。

 この物語の主人公と呼べる人々は、早くから日本列島の地殻を襲う変動を調査している。その調査をバックアップしているのが、政界のドンと言われる百歳を超えた老人だ。その老人の、日本および日本人に対する考察が考えさせられる。

 「日本人であり続けようとしても……日本人であることをやめようとしても……これから先は、どちらにしても、日本の中だけでは、どうにもならない。外から規定される問題になるわけじゃからな……。”日本”というものを、いっそ無くしてしまえたら……日本人から日本を無くして、ただの人間にすることができたら、かえって問題は簡単じゃが、そうはいかんからな……。文化や言語は歴史的な”業”じゃからな……。日本の国土といっしょに、日本という国も、民族も、文化も、歴史も、一切合財ほろんでしまえば、これはこれですっきりはしておるが……だが、日本人は、まだ若々しい民族で……たけりをたっぷり持ち、生きる”業”も終わっておらんからな……」(112頁)

 日本の企業組織がダメになれば、外国で外国資本の企業で働けばいいものだと個人としては思っている。いまでもその考えに変わりはないが、果たして、その時に抱くアイデンティティは何か。また外国で「一時的に過ごす」ことと、祖国がなくなって外国で「一生涯を暮らす」ということには絶対的な違いがあるのではないか。