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2017年5月4日木曜日

【第704回】『名画は語る(2回目)』(千住博、キノブックス、2015年)

 絵画を見るとはなく眺めていると、不思議と心が落ち着くことがある。ああでもないこうでもないと考えるのではなく、ただただ見る。ゆとりがあるから絵画を見るのではなく、ゆとりを得るために絵画を見る。何らかの気づきを得ようとするのではなく、ただ見ることで結果的に何らかの気づきを得られることもあるし、何も得られないこともある。どちらでもいい時間を過ごしたと思える。これが絵画鑑賞の醍醐味の一つなのではないだろうか。

 こうした考え方を取っていても、本書のように解説を読むこともまた興味深い。学問という鋳型に嵌めるのではなくとも、知識を持っていることで、引き出しが増える。正確には、引き出しが増えているような気がするのであるが、広い視点で絵画に向き合うことができるのである。

 再読した今回も、結果的には前回も印象深かった作品の一つであるマティスの「金魚」が面白かった。マティスのモノローグという形式で著者が「金魚」について述べている。

 私が言いたかったことは、いかなる強烈な色彩の組み合わせも、必ず画面の中で生き生きとバランスよく、ハーモニーを奏でることができるということだ。私はそれを自然から教えられた。(193頁)

 色彩の持つ意味合いと、それぞれの組み合わせによって形成される自然美について端的に述べられた箇所である。

 色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)


 色というものから、価値観へと論が展開されるのが面白い。それでいて納得的である。 異質と調和。一見すると矛盾するような概念にも思えるが、企業におけるダイバーシティ・インクルージョンを考えれば同時に並び立ち得る考え方であることがわかるだろう。


2017年2月11日土曜日

【第677回】『「なぜ?」から始める現代アート』(長谷川祐子、NHK出版、2011年)

 アートは難しいし、現代アートとなるともはや意味不明、という方も多いのではないか。私もそうである。しかし、本書を読むと、鑑賞のしかたにはいくつもあることがわかるし、何より楽しくなる。そんな入門書である。

 現代アートは、その方法と素材の多様さゆえに、面白い現象を引き起こします。普通であればつながることのないAさんとBさんの専門領域を、アートはいつの間にかつないでしまう。アートは、人と人、領域と領域の隙間を埋めていくための、有効な一つの装置です。要するに「隙間装置」「関係装置」の性質をもっていると考えてください。(24頁)

 アートとは、唯一無二の作品であると私たちは考えるし、だからこそ他との関係性というものがないように誤解しがちである。しかし、アート作品は、人と人、事象と事象とを結びつける媒介物であるという。新しい視座を私たちに提供し、それによって、私たちが日常的に見落としがちなものに焦点を当てることができるということであろう。

 線描において、西洋人が最終的に描かれた「形」を鑑賞するのに対して、私たち東洋人は、「過程ー時間」を見るのです。(44頁)

 鑑賞の対象に関して、西洋と東洋における違いが端的に指摘されている。西洋人が結果を見て、東洋人がプロセスを見るということは、結果重視とプロセス重視との違いが表れているようだ。

 世界はそこかしこでつながっていますが、みんなが一斉に同じ方向を向いているわけではありません。人間には絶えずいまの人間関係、自分の情報環境を更新していこうとする強い能力があります。それが多くの人に共有される場合、特定の人との間だけの場合などさまざまなケースがありますが、いずれにおいてもアートは、他者との関係をつくり続ける媒介となるのです。(176頁)


 だからといって、違う文明の間において文脈や価値観を共有できないということではない。多様な価値観を背景にして、多様な方向を向いていながらも、創り出されるアート作品によって、私たちは多様な人間関係を多様な方法で創り出すことができる。アートを鑑賞して得られるワクワク感は、この可能性にこそあるのではないだろうか。


2017年1月29日日曜日

【第674回】『センスは知識からはじまる』(水野学、朝日新聞出版、2014年)

 まずタイトルに安心させられる。センスとは先天的なものと思われがちであるが、知識によって後天的に身に付けられるものと著者は述べる。但し、「センスがないから仕方がない」という安易な言い訳をできなくなることを考えれば、厳しい指摘とも言える。

 「センスがよくなりたいのなら、普通を知るほうがいい」と述べました。そして、普通を知る唯一の方法は、知識を得ることです。
 センスとは知識の集積である。これが僕の考えです。(74頁)

 知識というのは紙のようなもので、センスとは絵のようなものです。
 紙が大きければ大きいほど、そこに描かれる絵は自由でおおらかなものにある可能性が高くなっていきます。(75頁)

 多様な知識を得ることによって、相対的に<普通>を位置付けることができる。それを紙と絵というメタファーで論じているところがわかりやすい。広い世界観を持っていればこそ、その中に自分が提示したいものを位置付けられる。引き出しが多ければ多いほど、表現の幅は広がり、その心地よさがセンスが良いものとして認識される。

 「美術大学などで特別な訓練を受けるわけでもないのに、”センスがいい”と呼ばれる人」とは、知識が豊富な人であり、知識が豊富な人とは仕事ができる人です。知識が豊富な人であれば、上司やクライアントとの会話の際に相手の専門性を感じ取ったり、自分の普通に照らし合わせたり、「チューニング」がうまくできることは多々あります。チューニングがうまくいけば、理解の度合いは深まるでしょう。
 知識とは不思議なもので、集めれば集めるほど、いい情報が速く集まってくるようになります。知らないことがあるとき、上司なり同僚なり部下なりの知識を吸収しようとする人は、「知ろうという姿勢」が習慣としてあるので、ますます知識が増えていきます。逆に、知らないことがあるときそのままにする人は、どこまでいってもそのままです。(142頁)

 知識を増やすことによってセンスが良くなることは、プロダクトや企画のデザインに活かされるだけではない。センスが良くなると、他者との協働が図りやすくなると著者は述べる。なぜなら、他者の興味関心に自分自身の言動を合わせることができて、相手が心地よく働くことができるようになるからだ。そうした関係性が多様に創られることを考えれば、そうした人にはさらに知識が集まり、知識と知識とのつながりも豊かになることは容易に想像できるだろう。

 知識の集積に懸命になりすぎると、人は時として自由な発想を失ってしまいます。センスを磨くには知識が必要ですが、知識を吸収し自分のものとしていくには、感受性と好奇心が必要なのです。(168頁)


 他方で、知識を増やそうとしすぎることにも著者は警鐘を鳴らしている。『論語』を彷彿とさせる警句に続けて、知識とともに感受性と好奇心という自身の想いや感性の重要性を併せ持つことを提言しているのである。


2016年4月3日日曜日

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

 芸術というものを、住みづらい世の中で、また時に訪れる逆境の中で、寛ぎの瞬間を提供してくれる存在として位置付けたのは漱石である。名画を眺め、著者の解説を読むことで、美術や芸術の世界に浸っていると、『草枕』の一節を想起することだろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(『草枕』Kindle No. 11)

 願わくば、中学や高校といった若い時分に、本書やその内容を解する教師の授業に出会いたかった。そうすれば、美術という科目に対する否定的な印象を持つことなく、学生生活を送れただろう。しかし、月並みな言い方にはなるが、物事に遅すぎることはないわけであり、こうした良質なテクストと出会えた僥倖に素直に感謝したい。

 著者は著名な日本画家である。その著者が、「抑え切れない衝動で、この画家はこの絵を描いていたのかどうか」(300頁)という基準で四十五の名画を選び、解説を加えている。時代背景やその人物の生涯を基にして客観的な記述に注力したものもあれば、その著者になりきって自作を解説するような形式で書かれたものもある。それぞれの画家の人物像に応じて書き方を変える著者の意欲的な創意工夫によって、作品の解説が読者にとってより入りやすくなっているようだ。

 多くの名画や画家に魅了される一冊の中から選ぶのは難解であるが、ここでは、ムンク、マティス、ゴーギャンの三人について、印象的であった部分を記してみる。

(1)『叫び』ムンク

 私はこの男の、とにかく生きぬいていこうとする力を感じるのです。ムンクはこの絵によって何かしらの生き続けていく手がかりを見つけ出し、それを私たちに伝えようとしていたのではないでしょうか。(41頁)

 ほとんどの人が一度は目にしたことがある作品であろう。改めてこの作品と対峙してみると、描かれている人物は、叫んで現実から逃げようとしているものではないことに気づく。また、抽象化して描かれた人物を通して、個別具体的な「叫び」ではなく、私たちが普遍的にもしくは潜在的に抱く「叫び」の源を思い起こすことができる。そうした普遍性や共感を以て、著者は以下のように芸術を定義付けた上で、ムンクの『叫び』を名画と断言する。

 芸術とは人が人に対して行う説明不可能と思えるイマジネーションのコミュニケーションのことですから、この作品は極めて本質的な、見えないものさえ見えるようにして、曰く言い難い心を伝えようとした、卓越した芸術作品であると言っていいと思います。(44頁)

(2)『金魚』マティス

 この作品の解説は、著者がマティスになりきって自作を解説するという形式で書かれている。俗に「色彩の魔術師」とも呼ばれるマティスが、なぜあのような色彩豊かな表現を用いたのか。以下の著者の解説は納得的であるとともに、現代社会におけるダイバーシティの重要性に関しても示唆的である。

 色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)

 マティスの言葉として創作されたこの文章は、時に偏狭な枠組みで物事を捉えてしまう私たちが、意識したい至言ではなかろうか。

(3)『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』ゴーギャン

 同じ時代を共にし、最終的に決別したゴッホへ宛てた手紙の中でゴーギャンが述べたというフィクションとして解説が行われる。パリから逃れ、妻子も置いて辿り着いたタヒチで描いた市井の人々。日々の生活を重ねる人々を絶えず眺めることで至った境地は、苦しくても人生を全うするということであったと著者はしている。

 この絵は僕につらくても生き続けろと言ったのだ。そしてこの奇跡の中を生きていることを有難く思うがいい、と言ったのだ。(254頁)
 この逃避という連鎖をここでやめなければ、僕は永久に、たとえ死んでからもずっと逃げ続けなくてはならない。だからやめたんだ。(254頁)

 生き続けていく上で、何かから逃げるのではなく、踏みとどまって、前を向くこと。不条理や逆境の中にあっても、無理に自分を勇気づけたり、意識を変えたりしようとするのではなく、淡々と、しかし地面をしっかりと見据えて生きること。心強い絵画である。


2015年5月16日土曜日

【第444回】『アート鑑賞、超入門!』(藤田令伊、集英社、2015年)

 アートとは、「自由に眺めれば良い」と言われても困るし、「知識に基づいて決められた見方をせよ」と言われても窮屈だ。ではどうすれば良いか。本書は、そうした疑問に対してアート鑑賞の初心者である私のような人間に対して参考になる考え方を提示している。まず、作品を「よく見る」ことの効用を述べた上で、具体的にどのように「よく見る」と良いのかについて、三つのポイントを指摘している。

 ディスクリプションとは、つまるところ、作品の様態を言葉に変換する作業です。誰にでもできるごく単純な作業にすぎません。しかし、ディスクリプションは美術の専門家にとっては不可欠の作業となっており、ディスクリプションを意識して行うことによって、見落としていた部分に視線を向け、作品全体を隈なく見渡すことができるようになります。また、言葉にすることによって、漠然としか見ていなかったものをはっきり認識できるようになったり、細かいところをしっかり観察できたりする効果もあります。(26頁)

 第一に、ディスクリプション、つまり描写することが挙げられている。作品をただ単に受け身的に見るのではなく、それを自分自身で描写するという能動的な作用を伴わせるのである。アウトプットをしようとすることによって、インプットの質と量に肯定的な作用をもたらすという考え方は納得的だ。

 時間をかけてものごとと向き合っていると、初めのうちは考えもしなかったことを思いついたり、感じなかったことが感じられたりするようになります。アート鑑賞においては、色やかたちの組み合わせの妙や構図の工夫、技術の巧みさ、じんわりと浸みてくる印象、作品がいわんとしていることなど、最初のうちは気づかなかったことに気づくようになります。これは、とりもなおさず、見方が深くなっているということです。作品についての理解や感受のレベルが深まり、より作品に肉迫していることになります。(29頁)

 第二は、時間をかけて見る、という点である。シンプルではあるが、私たちがついつい軽視してしまうポイントである。日常において効率性や経済性を重んじてしまう私たちは、ともすると美術館に行ってもなるべく早く、掲示された順路を墨守して、効率的に回ろうとしてしまう。しかし、それではアートを自分自身で観賞するというゆたかな経験とは程遠いものになってしまうのではないか。そうならないように著者が勧めるのは、ざっと全体の作品を一通り見た上で、気になった作品とじっくりと対峙することである。アートとの対話を通じて、作品が語りかけてくるものが増えてくるものなのだろう。

 数を見るうえで大事なことがあります。できるだけ実物を見ることが望ましいということです。(31~32頁)

 第三のポイントは数多くの作品を見るということである。見方に自信がないから見に行かないという発想ではなく、量を増やすことによって、量が質に転化するということであろう。その際には、インターネットや画集で見るのではなく、作品そのものと実際に相対すること。そうすることで、気づくものは大きいと著者は力説している。

 こうした基本としての三つのポイントを押さえた上で、依存しすぎることがない程度に知性を用いたアート鑑賞することの有用性が述べられている。知性で見る場合に役立つ考え方について、以下から二つだけ取りあげたい。

 一つひとつの「なぜ?」をもとにして作品を見ることができますから、「なぜ?」の数はそのまま作品を見る視点の数ということになります。したがって、「なぜ?」が多ければ多いほど多角的に作品を鑑賞できることになります。(103頁)

 まず、「なぜ」という問いかけを作品に向けることが知性的な鑑賞として有用であると著者は述べる。これはディスクリプションの発展形態と捉えることができるのではないだろうか。つまり、作品じたいを描写することに留まらず、そこに作者が見出そうとした何かや作品の背景に焦点を当てて、問題意識を持って働きかける行為であるからだ。

 社会論としての意義もあります。作者の意図とは異なる見方も許容されることは、社会のダイバーシティ(多様性)の担保につながります。そして、さまざまな見方が存在することによって、意見が異なる者同士でも共生できることになります。さらには、いろいろな見方によってチェック機能が働いたり修正作用が機能したりして社会の健全性が保たれることにもなります。作者の意図に拘束されないほうが、むしろ好ましいとさえいえるのです。(106頁)

 自分自身の知性を働かせながら、自己流で鑑賞することが、鑑賞者と作者との相互作用を生み出す。そうした相互作用の連鎖が、社会としてアートを発展させていく大きな流れへと繋がる。現代は、アートに限らず、自己発信が情報技術によって広く行いやすい社会となっている。多くの人々が発信するということは、多くの人々が受信するということを意味する。私たちは、自分自身が何かをゼロから創り上げて発信するだけではなく、他者の作品を主体的に解釈してそれを発信することで、社会に多様なあり方を涵養することができる。

2015年3月1日日曜日

【第418回】『フェルメール 静けさの謎を解く【2回目】』(藤田令伊、集英社、2011年)

 なぜフェルメールの作品は「静けさ」を描けているのか。この問いに基づいて、著者の仮説を提示しているのが本作である。主に四つの点を指摘している。

 伝統的経験的な認識と科学的な検証が矛盾なく青という色の性質を明かしていることになり、私たちが青という色に静けさや超越性を感じるのは、ただ単に個人的あるいは主観的な印象ではなく、普遍的な青の性質ということができそうなのである。すなわち、青は科学的客観的にも静謐の色なのだ。(31頁)

 第一は青という色である。フェルメール・ブルーという言葉があるように、フェルメールと言えば青が特徴的である。この青という色自体が、印象面だけではなく、色彩心理学などを例示しながら科学的にも静謐さを示す色であると著者は主張する。

 フェルメールの絵が他とは異なる「静謐」を湛えるのは、現実をひたすら尊重する伝統的な描き方に留まらず、現実を超えた独自の「絵画世界」への探求があればこそ、といういい方ができるだろう。(87頁)

 第二の点は、現実をそのまま写実するという当時の描き方ではなく、自分自身の解釈に基づいて現実とは異なる独自の世界観を絵の中に表現しているという点である。フェルメール自身の内側にある、イデアとしての静けさを作品の中に表現することによって、現実よりも静謐な世界を現出させているのである。

 フェルメールの静けさとは、成熟した大人の静けさである。無言のうちに人間味を感じさせ、賢く、謙虚なニュアンスを含んだ、奥行きのある静けさ。無機質で冷ややかな静けさではなく、人にやさしい静けさである。そんな質のある静けさがフェルメールの「静謐」なのだと思う。(112頁)

 第三の特徴として、冷たさといった無機質なものではなく、静謐というどこか人間の温かみや穏やかさがフェルメールの作品に存在する点が指摘されている。派手やかさではなく、謙虚で慎ましやかな人物描写や光の描写が、フェルメールの静謐さを生み出しているようだ。

 モチーフの削除は絵の物語性を希薄化させ、絵を「読む」手がかりを少なくしてる。その結果、フェルメール作品では絵の意味するところを探る以前に、そもそも絵が何かを物語っているのかどうかさえ判然としなくなり、いくつかの絵ではそれが寓意画なのかそうでないのか、専門家のあいだでも意見が分かれるといったことになってしまっている。(122頁)

 最後の第四の点は、物語性の希薄化である。物語としての意味合いを持った絵画では、鑑賞者が物語の文脈に影響を受け、不必要な色合いが加味されてしまう。反対に、そうした物語性を削ぎ落すことで、作品自体の静けさが際立つことになったのではないか、と著者はしているのである。当時の主流は宗教画であったことに着目すれば、フェルメールの作品の新規性を理解することができるのではないだろうか。


2013年12月29日日曜日

【第235回】『ガウディ伝 「時代の意志」を読む』(田澤耕、中央公論新社、2011年)

 伝記から何を学び取るか。そこには読み手の態度とともに、書き手の態度も大きく関係するようだ。

 関係の濃淡の差こそあれ、同じ街で同じ時代に起きたことでお互いにまったく無関係なことなどない。関係がなさそうに見えても実はどこかで繋がっている事例を書いていくことによって、一度環境のなかに埋め戻したガウディの像が自ずから浮かび上がってくることもあるのではないか。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは「私は私と私の環境である」と言った。まさに、「ガウディはガウディとガウディの環境」なのである。(ⅱ頁)

 ある人物を描くということは、ある人物が生きた時代や背景とその人物との環境を描くことである、という視点に立って本書は書かれている。ある人物の意志というものは、ある時代における意志の一部であり、反対の側から見れば、歴史的な人物たちの意志がある時代の意志をも構成する、とも捉えられる。ガウディを描くということは、ガウディが生きた時代および当時の社会の意志を描くということなのだろう。

 こうした環境要因がガウディを生み出したと捉えられる特徴的なポイントについて、以下の四点を取り上げてみよう。

 いくつかの建築事務所でアルバイトをし、ひたすら図面を引き続けた。学業に身が入らなくても無理はない。 ただ、このアルバイト生活には、プラスの面も少なからずあった。 教室で課題として行う製図から学べることと、実際に金を出す施主がいて、その要求に従って現実の建築物に結実させるためにする製図から学べることの間には、天と地ほどの差があるのはいうまでもない。(37頁)

 実務と学術の往還関係。実務だけを行っていると抽象化の思考訓練が弱くなるが、学術だけに携わっていると顧客意識や実践的インプリケーションの抽出が弱くなる。したがって、これらを同時に、もしくは交互に行い続けることが大事なのだろう。学校で学ぶことと、アルバイト実務で学ぶこととを統合させた結果、ガウディという偉大な建築家が生み出されることになったという点は興味深い。

 ガウディのパトロンたち、「インディアノ」はこのような人種であった。バルセロナの、そしてカタルーニャの反映を支えていた彼らインディアノたちの資金は、カリブ海からやって来た。そしてその大きな部分は「もっとももうかる商品」ーー人間の売買によって生み出された。(中略) 善悪の問題ではなく、ガウディの建築を見たり論じたりするときに、その作品を可能とした資金の出所がどこであったのかということは念頭に置いておいたほうがいい。(105~106頁)

 美術作品や建築物の背後にはパトロンの存在がある。そうしたパトロンたちのどのような資金が芸術作品に投じられていたのかがここでは解説されている。著者も指摘しているように、奴隷売買というビジネスの結果として得られた資金であるから悪いということではない。あくまで、時代の意志ということを考える上では、こうした背景に意識を向けることが大事なのであろう。

 いずれにせよ自己摸倣によってムダルニズマの代表的建築家となったプッチ・イ・カダファルクが、新しい流行の前に、自分のスタイルを変更せざるを得なかったのはそのためである。 しかし、ほんの一握りの真の天才たちには、この定義はあてはまらない。彼らは、常に自己破壊と再生を繰り返すので、スタイルに縛られないからである。ガウディは生きつづけていたら、自分の流儀をひたすら継続したであろう。そして、それまで同様にそれは一時的な流行やスタイルを超越したものとなっていったであろう。 この点は、ピカソが自分のスタイルを次々に打ち破っていったこととよく似ている。きわめて稀にしか出現しないそのような超弩級の天才が二人も、同じ時期に同じ都市に暮らしていたということは奇跡としか言いようがない。その意味でも当時のバルセロナは「奇跡の都市」であった。(263頁)

 天才は自分自身のスタイルに固執せず、自らの可能性を次々に拓きながら、試行錯誤を続ける。このような意味での天才として、ガウディとともにピカソが、同じ時代の同じ場所に居た、ということは知的好奇心をかき立てる。ここでは「天才」という言葉が使われているが、私たちの日常生活やビジネスにおけるプロフェッショナルと呼ばれる存在も同様であろう。それは特別なことではなく、日常の一つひとつの工夫が私たちの殻を破るための一歩の踏み出しになるのではないか。

 建築には施主が必要であり、また、建築は人が住んだり使ったりしてはじめて完結する芸術だ、と本文中で書いた。もう一つ、建築が絵画や彫刻などほかの造形芸術と違う点は、「そこから動かせない」ということである。ガウディ展を東京で開催するとしても、サグラダ・ファミリア教会を持ってくるわけにはいかない。実物が見たければそこへ行くしかない。(中略) 現在においてそうであるように、過去においてもガウディやムダルニズマの建築物は土地の生活の一部であった。建設中や建設当初に人々の耳目を集めることはあっても、やがてそこに人が住むようになると、風景に溶け込んでしまったのである。(276頁)

 ここに、環境と建築物との相互依存関係が端的に表れていると言えるだろう。どちらかがなくなってしまったら、都市も建築物も異なったものになってしまう。モバイルミュージアムといったダイナミックな鑑賞物に意義がある一方で、こうしたスタティックな建築物にもまた、私たちの生活に欠かせない意義がある。

2013年12月28日土曜日

【第234回】『モバイルミュージアム 行動する博物館』(西野嘉章、平凡社、2012年)

 博物館という言葉から想起されるのはハコモノだ。そのハコモノにモビリティを持たせるということはどういうことなのか。本書を読む前に読者の多くが抱くであろう疑問に対して、著者は、その試みの特徴とメリットについて丹念に説明を加えている。

 「モバイル・ゲル」はいまだ実現せざるプロジェクトである。しかし、こうした思考実験は、ミュージアムとはなにかという問いに対する答えを、設備や機能といった側面から考える上で意義深い。すなわち、このプロジェクトは、展示コンテンツのコンパクト化、さらに言うならミュージアムのミニマリズムを究極まで推し進めるという、実験そのものにほかならないからである。ことばを換えると、それを欠いたならもはやミュージアムとは言えない最小限の構成要素として、なにが残るかを問うことに通じる。(30頁)

 モビリティを持たせるためには、要素を極限まで削る必要がある。要素を削り落とした上で、それをどのように配置するかというリデザインの発想が求められる。物事の本質を突き詰めて考えるという思考作業は、要素をシンプルにした上で、その組み合わせを検討する、ということを意味するのではないか。

 まずは著者のいうところのモバイルミュージアムの定義から見てみよう。

 「モバイルミュージアム」とは、固有の施設、建物、スタッフ、コレクションを常備した、ハードウェアとしてのミュージアムを指すものでなく、ミュージアム事業のあり方すなわち、小規模で、効率的な事業を積み重ねることで活動総量の増大を図るための、ソフトウェアとしての戦略的な事業運営システムのことを云わんとするものである。(44頁)

 簡潔に定義づけがなされている。さらにイメージを持つために著者の喩えを見ておくと良いだろう。

 「モバイルミュージアム」は、コンパクト化された展示ユニットを、ネットワークで結ばれた場所ないし施設のあいだで循環させるシステム工学的な設計図に、それを維持し実現するための社会経済学的な運営法を複合させる試みである。従来からある巡回展とは、企図の主旨、実践の方法が異なるということ。レゴに喩えると、こうである。百ピースの各色のレゴを用意しておいて、必要に応じて彩りを考えながら十ピース、二十ピース、三十ピースと配ってゆく。これが「モバイルミュージアム」である。それに対し、従来の巡回展は、同じ百ピースのレゴからなるものであっても、すでに組み上がっていて、もはやかたちの変えられない集塊物を配る作業と言える。ここに違いがある。(41頁)

 モバイルミュージアムと通常の巡回展との相違を端的に記している。まず、組み上がったものには組み上がったものの良さというものがあるとして巡回展そのものを否定していないことに留意が必要だ。その上で、巡回展とは異なるモバイルミュージアムの利点として、時代や社会に合った組み替え、すなわちリデザインの可能性を見出している。著者が用いているレゴのアナロジーをもとに考えればその利点はイメージしやすいだろう。

 さらに利点を深掘りしてみよう。

 機動性や自在性や汎用性を活かすことで、自然史標本や文化史資料など日頃馴染みのないコンテンツを身近なものにできる。所定の場所に標本や資料を常在させることによって、ミュージアムの本来的な使命である社会教育の機会を増大し、枠組みを拡大してみせる。それが、ミュージアムに対する外部からの有形無形の支援の増大につながるなら、さらによい。感覚的美意識や学術的好奇心に働きかけることで、日常空間を文化的な香りのする場に変容させる。あるいは、そこまで言わずとも、学術の世界とはいかなるものか、文化財とはどのようなものか、そうした関心や意識の啓発に寄与する。諸々の狙いのものに実現される「モバイルミュージアム」は、既存のミュージアム・コレクションの利用価値を顕現させ、その存在に適った展示デザインを考案し、広く一般に公開してみせることから得られる公益性を、幅広い社会層の享受できるものとするための展示事業システムなのである。(43頁)

 ここでは明確に、モバイルミュージアムの有する既存の博物館への相補性というメリットが提示されている。既存の博物館が持っている可能性を、モビリティを用いることによって、様々な主体の持つ潜在的なニーズを満たすことが増大化させるのがモバイルミュージアムなのである。したがって、それは、単なる作品の陳列ではなく、展示という場のデザインなのである。モバイルミュージアムによってニーズの裾野を広げ、啓発・教育活動を行うことによって、既存の展示物の可能性がさらに高まる。こうした循環を生み出すシステムとして捉えることがモバイルミュージアムの可能性の本質を表していると言えるのではないだろうか。

 海外での「モバイルミュージアム」事業を進めるなかでわれわれが学習したことのひとつは、展覧会は一回限りで終わらせるものでなく、回帰的に反復させてもよいのではないか。否、そうあるべきなのではないかということである。それによって展示コンテンツを、よりよいものに進化洗練させることができるなら、それに越したことはない。展覧会が場所を移動するあいだに、「成長」し、「進化」する。二〇一三年春には、進化を遂げたコンテンツが東京で再公開される。海外遍歴を重ねた展覧会が、どのような成長を遂げたのか、あらためて検証する機会を設けたいと考えている。展覧会を会場を変えながら繰り返すことの意味はここにある。(123頁)

 モビリティの持つ意義の一つは、こうした異なる地域・国・文化におけるオペレーションから得られる学習効果であろう。多様な学習を通じて、個々の要素の持つ価値を再認識し、新しい組み合わせの妙が生み出される。学びの連鎖は、価値をスパイラルアップさせるというよりも、新たな引き出しを増やすという豊かな価値の再発見に繋がるのだろう。

 既存のモノのありようを多様な現代社会のニーズ、現代人の趣味嗜好に適うようデザインし直すことで、あらたな利用価値を生み出したいと考える。古い建物を改修し、新しいミュージアムに転成させること、これは「リデザイン」である。ひとたび役立てられた展示コンテンツを、別な場所に転移させ、そこで新しい展示に組み立て直して見せることもそうである。古い学術標本を霊感源として新しいファッションやモードを生み出すこと、古くなった研究用什器を修理し、必要とされる加工を施して新しい展示ケースに衣替えさせることもまた「リデザイン」である。「リデザイン」のコンセプトは、資源やエネルギーの消費の抑制・削減という緊急課題に向かい合う現代社会が、より明快なかたちで意識化すべき方法論なのである。(174頁)

 モバイルミュージアムの要諦の一つであるリデザイン。このコンセプトは、今の時代・社会においてマッチするものである。さらに私の仕事に惹き付けて飛躍させて言えば、キャリアのモビリティをも思い起こさせる話でもある。じっくりと噛み締めながら、深く考え続けたい。


2013年12月23日月曜日

【第233回】『日本のデザイン 美意識がつくる未来』(原研哉、岩波書店、2011年)

 産業デザインに携わる方の「デザイン」という言葉の捉え方は、キャリア「デザイン」を考える上で示唆に富んだ含蓄のあるものが多い。まず、著者が「デザイン」について触れている部分について三点ほど紹介してみよう。

 かつて僕は、デザインとは「欲望のエデュケーション」である、と書いた。製品や環境は、人々の欲望という「土壌」からの「収穫物」である。よい製品や環境を生み出すにはよく肥えた土壌、すなわち高い欲望の水準を実現しなくてはならない。デザインとは、そのような欲望の根底に影響をあたえるものである。そういう考えが「欲望のエデュケーション」という言葉の背景にはあった。よく考えられたデザインに触れることによって覚醒がおこり、欲望に変化が生まれ、結果として消費のかたちや資源利用のかたち、さらには暮らしのかたちが変わっていく。そして豊饒で生きのいい欲望の土壌には、良質な「実」すなわち製品や環境が結実していくのである。(ⅱ頁)

 ここで触れられているデザインとは、世界に存在しないものを生み出して価値を提示するというものではない。潜在的に存在する美しいかたちを「地」から括り出し、「図」として浮かび上がらせて提示し、人々の欲望を刺激する。こうした一連の教育活動や啓蒙活動とでも形容できるプロセスを著者はデザインとして定義する。受けを基本としながら積極的にしかける技能という風に捉えれば、キャリアのデザインにも応用可能な考え方であろう。つまり、日常的に上司から指示されたり顧客から依頼されるタスクを受け容れながら、それに一手間の工夫を施したり、工夫できるように他者や書籍からの学びを肥やしにしておく。これが日常単位におけるジョブデザインであり、中長期で考えればキャリアデザインとなる、と考えることは飛躍ではないだろう。

 デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同時に、気付くということのなかにもデザインの本質がある。(43~44頁)

 むろん、デザインとは人の生活とも関係する。デザインされたものを通じて、人々の生活自体や環境の本質を考えるためのきっかけになるという点に注目するべきだろう。すなわち、普段の生活において自然に溶け込んだものがデザインであると同時に、それを通じて深い思索や気づきへと至る機能もまたデザインは有するのである。

 デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。(151頁)

 ここではデザインの持つ社会性に焦点が当てられている。個人単位の意思や欲望といったレベルではなく、社会全体で共有される倫理にも影響を与えるとしている。ただし、デザインと倫理との関係は、どちらが説明変数でもう一方が結果変数であるということではなく、相互依存関係にあると言えるのではないだろうか。何れにしても、そうした見えないかたちを見える化するところにデザイナーの希有な価値はあるのだろう。

 デザインの意味合いについて一通り見てきたところで、本書のテーマである成熟社会・日本におけるデザインの展望について、著者は何を述べているのかを見ていこう。

 空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。茶室でのロケーションは、その力が強く作用する場を訪ねて歩く経験であり、これによって、現代の僕らの感覚の基層にも通じる美の水脈、感性の根を確かめることができた。西洋のモダニズムやシンプルを理解しつつも、何かが違うと感じていた謎がここで解けたのである。(70頁)

 現代に通じる日本におけるデザインの源流は東山文化に端を発すると著者はしている。その上で、その本質を空白という無存在に置く。茶室の佇まい、そこで求められる所作、飾られている生け花、外の庭の有り様。空間を埋めるのではなく、空間の中に空白を大胆に設けること。これが日本のデザインの基底を為すと著者はしている。

 掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。(中略) 普通の環境を丁寧にしつらえる意識は作業をしている当人たちの問題のみならず、その環境を共有する一般の人々の意識のレベルにも繋がっているような気がする。特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裡に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。(中略) 「技術」とは、云い換えれば繊細、丁寧、緻密、簡潔にものづくりを遂行することであり、それは感覚資源が適切に作用した結果、獲得できた技の洗練ではないか。つまり、今日において空港の床が清潔に磨きあげられていたり、都市の夜景をなす灯りのひとつひとつが確実に光を放つことの背景にある同じ感受性が、規格大量生産においても働いていたのではないかと考えられる。高度な生産技術やハイテクノロジーを走らせる技術の、まさに先端を作る資源が美意識であるという根拠はここにある。(3~5頁)

 日本のデザインの源流が、現在においてどのように流れているのかがここに表れている。クリンリネスについては個人ごとの差異はむろんあるだろう。しかし、社会全体において、クリンリネスや静けさに価値を置き、そうした状態を心地よく感じる心象というものを<日本人>は共有している。一人ひとりがそうした価値観を持つ中で、社会としてのクリンリネスを実現しているのであり、それはなにもデザイナーや建築家といった特別なプロフェッショナルだけの手によるものではない。

 今日、僕たちは、自らの文化が世界に貢献できる点を、感覚資源からあらためて見つめ直してみてはどうだろうか。そうすることで、これから世界が必要とするはずの、つつましさや合理性をバランスよく表現できる国としての自意識をたずさえて、未来に向かうことができる。(中略) GDPは人口の多い国に譲り渡し、日本は現代生活において、さらにそのずっと先を見つめたい。アジアの東の端というクールな位置から、異文化との濃密な接触や軋轢を経た後にのみ到達できる極まった洗練をめざさなくてはならない。(6~8頁)

 日本におけるデザインの有り様を踏まえた上で、著者はここで世界におけるその可能性について言及している。まず、美意識という豊かな感覚を資源として捉えた上で、そこにおける文化の世界への発信可能性を指摘している。とかく意見の強い者同士が対立し合う国際環境において、空白に重きを置き、クールに受容しながら価値中立的な有り様で貢献する、というスタンスは面白いかもしれない。こうした態度を成熟と呼ぶのであれば、成熟社会・日本という立ち位置に可能性があるようにも思えてくる。

 最後に、やや本筋とは離れるが、以下の興味深い点について触れておきたい。

 「ともだち」とは美しい言葉であって、これが抑圧の源であるとは誰も思わない。しかしこういう流れで考えてくると、価値共有の進んだコミュニティは目には見えない排他性を持ちうる。つまり「ともだち」化は「非ともだち」へのプレッシャーにもなりうるのだ。いじめとは攻撃されるターゲットとして対象化されることではなく「非ともだち」の結果、すなわち「ともだち」化のしわ寄せなのかもしれない。自由の行き着く先には常にそういう不安定さが潜んでいるように思う。(223~224頁)

 ここにおける「ともだち」とは、3・11後のアメリカからの援助活動である「オペレーション・トモダチ」を指している。著者はアメリカのこの活動を否定しているわけではないことを予め強調しておく。単に「ともだち」という言葉に対する違和感を著者は指摘しているにすぎないのである。たしかに、ここでの「ともだち」をFacebookにおける「ともだち」と照らし合わせれば、著者の警鐘は傾聴に値するだろう。「ともだち」になれないことへのプレッシャーとはすなわち、「ともだち」コミュニティから排除されることへのプレッシャーを意味する。幼い頃から他者を気にしすぎることは、健全な個別性を育むことに悪い影響を与える可能性もあるだろう。SNSを否定するわけではないが、コミュニティとしてどのようにあるべきかという上段を意識した上で、SNSというツールを私たちは捉え直すことが必要なのかもしれない。

2013年12月15日日曜日

【第230回】『ひとの居場所をつくる』(西村佳哲、筑摩書房、2013年)

 ふと立ち止まり、深呼吸をして、五感を解放してみる。すると、周囲の見慣れた風景の中から、普段は気付かないものが立ち上がり、いつもと異なった世界がそこに広がっていることに驚くことがある。

 著者の本は、これまでも好んで何冊も読んできた。読むたびに、忙しい日常の中で立ち止まることの大切さに気付かされる。ランドスケープ・デザイナーである田瀬理夫さんとの対談をもとにして編まれた本書もまた、ページをめくりながら、何度となく心地よい深呼吸をすることとなった。

 以下では、読みながら思わずハッとさせられたポイントについて、述べていくこととしたい。まずは、感覚を解放するという点について三点から解説を試みる。

 わたしたちが毎日くり返している、ごく他愛のないことの積み重ねが文化であり、景観をも形づくる。 その累積を可能にするのが自分の仕事だと思っているし、そのための試みを自分たちなりにつづけているんです、ときかせてくれた。(11~13頁)

 文化とは意識的に創り出せるものではない。また、要素還元的に因数分解を行い、何をもって構成されているかを論理的に記述することもできない。そうではなく、日常の、個別具体的な、行動や人の有り様の蓄積によって、文化は、嫌が応にも形づくられる。こうした環境との相互交渉を通じた自然の営為を、人がしっくりするかたちで、文化として蓄積することをデザインすること。こうした行為は、景観という観点では田瀬さんの職業であろうが、異なる観点に置き替えてみれば、仕事をする私たち一般にも当てはまるのではないだろうか。こうしたいわば美意識に近いものを持っているか否かによって、仕事を通じて生み出す価値は異なってくるように思える。

 ランドスケープ・デザインは、境界線を消すというか、解き放つというか、そんな仕事だと思う。(144頁)

 境界線を引く作業とは、理性によって分類・識別を行うことによって、自と他を分けることだ。むろん、境界線という存在自体が悪であるということではなかろうが、境界線があまりに多い状況というのは、人間的な営為とは矛盾するものだろう。田瀬さんは、あまりに多い境界線を消し、理性によって制約されすぎた世界を、感性に解き放つということを意識して活動されているのだろう。

 現代的な生活の中で耳にする音は、どれも近い。音楽も電話も耳の中まで入り込んできたし、テレビやオーディオまでの距離は数メートル。キャンプにでも行けば話は別だけれど、遠くの音に耳を澄ませる機会は、都市生活者の日常にはほぼないだろう。 こうした環境の中で、意図せず「自分」の宇宙というか領域感覚が小さくなっている者同士が集まって、これからの社会のあり方や暮らし方について話し合っても、概念的になりやすい気がするし、小さな空間の充実が散積してゆく事態に留まってしまうんじゃないか。(256~257頁)

 私たちの感覚意識が解き放たれず、あまりに狭い領域に集約している現代社会に対する著者の警鐘と捉えてよいだろう。外界をセンスする上で、近くのものしかセンスしていなければ、世界観は狭いものとなってしまう。その結果、私たちは遠くの物音を聞かないこと、遠くの景色を眺めないこと、理性で識別できない感覚をセンスしないこと、が当たり前となってしまう。これは、日々の生活の蓄積が人間にとってネガティヴに作用し、現代の悪しき文化となりかねない。

 ここまで取り上げた感覚を解放することの重要性を理解した上で、私たちの日常の生活や仕事においてどのように活かすか。著者と田瀬さんの対談から、そのためのヒントとなりそうな示唆に富んだポイントを三点紹介する。

 この場所を人間だけでなく「馬」とともに営んできたことも大きいのかも。人の思惑や事情とは無関係に生きている生き物がいて、日々待ったなしの事態を引き起こしてきたことが。同じく、年周期の中でくり返される畑や田んぼの仕事も、彼らを駆動してきた大切なエンジンなのかも。 時間をかけて土地にかかわってゆくとき、個人の事情に拘泥せずに済むリズムや軸があるのは大切なことかもしれない。(30~32頁)

 遠野で生活を送る田瀬さんならではの言葉である。動物と関わることの大切さ、という点も無論あろうが、日常的に動物と関わることは都会に住む人々にとっては難しい。そこでここでは、「日々待ったなしの事態」が引き起こされるという点に着目したい。私たちの日常の仕事の中において、突発的な業務や、理不尽な指示、際限のないルーティンワークと手戻りの繰り返し、といった「待ったなしの事態」はお馴染みの現象だ。そうした制約をネガティヴなものとして捉えるのではなく、肯定的に捉えることができるのではないか。換言すれば、○○という制約がなければという思考様式を私たちはよく取りがちであるが、果たして制約がなければすべてが解決するということはあるのだろうか。むしろ、制約が多い環境であるからこそ、私たちは意識的であろうと無意識的であろうと、私たちにとって本質的に大事なものを選べるということがある。

 生態系(自然)の力を活かしながら、糧として人が必要な収量を得てゆくには、せめぎ合うものがありますよね。でもそれは、人生のデザインそのものという気がする。(40~41頁)

 先ほどの点においては、日々の生活や仕事の中における制約というスパンであったのに対して、ここでは人生という長いスパンにおける視点で捉えられている。日々の制約の積み重ねが人の人生を形づくるものであり、かつ、それはデザインである。つまり、自分自身が主体的に環境を形成するということでは必ずしもなく、むしろ環境を受け容れ、環境とのすり合せを豊かにすることで、現在の自分自身の有り様や他者との関係性を創り上げる。人生のデザインとはこうしたことなのかもしれない。

 人生のマスタープランはないです。そういうの立てたことない。それは成り行きというか、なるようにしかならないというか。 なにも思い通りにはならないですよね。 ただ「自分はああしてみたい」「こうしたい」という、「したい」ことが、なにについて多いか?というくらいの話だと思います。思い通り、計画どおりにやっている感じではないですよ。仕事も人生も。(166~167頁)

 人生や仕事について、目標を立てて計画へと落とし込むというアプローチを取らないとしても、徒に帰納的にのみ捉える必要性もまたない。ではどのように構えると良いのか。田瀬さんは、方向性について自分自身の感覚も含めて捉まえることの意義をここで触れているように私には思える。こうした捉え方は、キャリア理論において述べられている点と近しく、大変興味深い。(『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)


2013年5月26日日曜日

【第161回】『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』(長谷川祐子、集英社、2013年)


 現代アートとは、世界の新しい捉え方を提示する存在である。同じ対象物であっても、それをどの角度から眺めるか、どのような経験を持っている主体か、等によって内的に見えてくる世界は異なる。<普通>の人が思いつかないような、しかし提示されれば自ずと分かるようなものを現代アートは問うてくる。こうした現代アートを意図的に収集して展覧会等を企画するのがキュレーターである。著者の定義によれば「視覚技術を解釈し、これに添って、芸術を再度プレゼンテーションすること」がキュレーターの仕事だ。

 キュレーターの歴史はそれほど古くはなく、十九世紀以降に生まれた職業だそうだ。それ以前は、芸術が体現する価値が、その時点での地域社会や宗教に根ざしたものであったために、誰もが同じコンテクストで理解可能であった。したがって、宗教画であれ、風景画であれ、多くの人にとって価値を理解し易いものだったのである。しかし、その後のポストモダン思想の隆盛により価値観が多元化する中で、芸術の価値そのものが問われるようになってきている。こうした現代においてこそ、キュレーションが必要とされる。

 一つの展覧会の中において、キュレーターは「知性と感性のシャッフル」を行うという著者の言葉が言い得て妙だ。シャッフルという言葉の響きには、観察者の内側に潜在的にあるものの見方を引き出すことが含意されていると言えよう。したがって、アートを通じて新たな知識や知覚を得るということではなく、自身の既存の知覚が不完全であることを知覚することが促される。自身の知覚の不完全性や不連続性を知ることではじめて、私たちはそれを補うための想像力であり創造力を見出すことになる。そうした作用を引き出すことがキュレーションということであろう。

 アートのあり方の変容は、必然的に観察者とアートとの関係性の変容を導いている。十八世紀以前のアートは、それ自体が価値を体現していたため、観察者はその完全性をいかに理解し、受容するか、という態度での鑑賞が求められた。しかし、現代アートと対峙する観察者は、自身の不完全性とともに現代アートの不完全性とに直面することになる。したがって、アートと観察者との相補関係、観察者の想像力によってはじめて現代アートの価値は顕在化する。

 こうした観察者とアートとの関係性の変容は、展覧会を開く美術館という存在をも変えることになる。一言で言えば、それまでの静的な存在から動的な存在への変容である。つまり、人々を啓蒙するあり方から、人々との絶え間ざる相互交渉によって価値が生まれる存在になるのである。「モノから情報へ、個人の知的生産活動から集合的な知性、関係性の形成による生産のありかたへ、文化をとらえる視線や価値観の一元性から、多元性への移行という文化全体の流れに対応せざるを得なくなった」とも言えるだろう。

 アートの変容、観察者の変容、美術館の変容といった一連の流れの延長線上に、フォーカスする領域を地域社会へと広めるという発想が出てくることは自然であろう。そうした動きの一つとして、既存の地域社会をキュレーションによって活性化する運動が盛んになってきている。日本でいえば、瀬戸内海のいくつかの島での取り組みなどが有名だ。直島にはもう一度訪れたくなったし、著者が関連した犬島や金沢21世紀美術館もぜひ訪れたい。


2012年1月15日日曜日

【第64回】『アフォーダンス 新しい認知の理論』(佐々木正人、岩波書店、1994年)

 アフォーダンスとは知覚心理学者であるジェームス・ギブソンが提唱した概念であり、本書では「環境が動物に提供する「価値」のこと」と定義されている。元々は認識論に関する知見として提示された理論であるが、現在ではAI(人工知能)やインダストリアル・デザインの領域でも応用されている。

 アフォーダンス理論の特異性は、それ以前の認識論であり、現代社会においても主流と言えるデカルトの近代的認識論との比較を試みると分かり易い。デカルト流の近代的認識論が主体を自己に置くのに対して、ギブソンのアフォーダンス理論は主体を環境に置く。つまり、情報とは人間の内部に生起するものではなく、人間の周囲にあると考えるのである。したがって、人間が知覚することは情報を直接的に入手する活動であり、脳の中で情報を間接的に創り出すことはない、とする。

 したがって自己と環境との関係性を考えると、近代的認識論とアフォーダンス理論とでは正反対である。近代的認識論は自己が主体で環境を客体と捉えるために、人間社会にとっての手段として環境を捉え、環境を克服可能なものと見做す。こうした認識に基づく施策として、人間社会の予定調和的で単線的な成長を実現するためにともすると環境を酷使することに繋がる。

 これに対して、アフォーダンス理論では環境が主体で自己が客体である。したがってあくまで環境の中にいる人間という関係性である。近代的認識論が環境に対して分析的な思考を用いるのに対して、アフォーダンス理論ではむしろゲシュタルト的な思考を用いる。すなわち、個々の集合体としての環境ではなく、全体として意味をなす環境という考え方である。

 こうしたアフォーダンス理論の知見を用いて産業ロボットや産業製品のデザインが行われているわけであるが、キャリアデザインにも活かせるのではないかと考えている。以下ではキャリアデザインへの応用可能性があると考える点を二点だけ述べる。

 第一に、アフォーダンス理論は変化することで対象が明らかになる、とする。たとえば、ある物体が静止画としてシルエットになっているところを想像してほしい。止まっている状態ではそれが何を表すのか分かりづらいが、それが回転して多面的にシルエットを見ることができれば形を推察できるだろう。変化するものは対象物だけに限らない。ある物体を一つの視点から見ても、それが平面なのか立体なのかすら分からないが、観察者である自分自身が見る視点を変えればその対象を把握することができるだろう。

 以上は認識論上の話であるが、キャリアデザインにも言える話ではなかろうか。すなわち、自分自身の職務を同じ方法で効率的に「こなす」ことだけでは職務を通じてキャリアをデザインすることは難解だ。先の認識論の話でいうところの、一つの視点だけから職務を眺めている状態である。したがって、自ら職務に変化を起こすことが重要である。たとえば、同じ職務の方法を少しずつ工夫して方法を変えたり、顧客とのインタラクションを増やすことで自身の職務を多面的に捉えることができよう。それはすなわち、自身の職務の価値を見出す試みに繋がる。こうした自分起点でのストレッチや、その結果として自身のスキルやマインドのセットの組み替えを行う努力を続けることがキャリアをデザインする、ということではないか。自身のキャリアデザインという視点だけではなく、そうした努力の積み重ねによって顧客への提供価値、自社への提供価値、社会への提供価値も意識することができるだろう。

 第二に、アフォーダンス理論では環境を主体に置くことになるが、環境の中における情報とは無限であり、それは変化し続ける。したがって、環境に内在する情報を入手するための私たちのセンサーも変化し続けることが必要となる。すなわち、知識や情報を蓄えることが大事なのではなく、外界の多様な知識や情報をセンスできるように身体のありようを複雑かつ洗練されたものに組み替え続けることが重要だ。

 その一つの作法として私が参考にしたいと思うのはインダストリアル・デザイナーの深澤直人さんの考え方である。詳しくは深澤さんの『デザインの輪郭』をお読みいただきたいが、彼は、ゴールからリバース・エンジニアリングして〇〇を学ぶ、という発想を取らないと述べている。筋肉を鍛えるという比喩を用いているが、「何をするためにその筋肉を鍛えるかじゃなくて、単に「鍛えている」ということ」を重視するという。鍛えている過程では失敗や苦難などアクシデントが起こるが、「ただ、スッとして、そのアクシデントを許容するということの美学」を掲げている。続けて、そのようにすれば「どんなゴールにでも行ける」としている。

 日本の大学入試や資格試験といった範囲が固定された試験においては、正解からリバース・エンジニアリングして勉強することがゴールへの近道となるであろう。しかし、そうして規格生産された学歴エリートが必ずしも良きビジネスパーソンにならないことが、深澤さんおよびアフォーダンス理論のアプローチを引き立たせる。近代的認識論が間違っているとは思わないが、それはあくまで一つの現実の捉え方にすぎず、一つの最適な解決策にすぎない。アフォーダンス理論の知見を用いて、キャリアもしくはライフキャリアのデザインを試みることの重要性は増してきているのかもしれない。

2012年1月7日土曜日

【第62回】『フェルメール 静けさの謎を解く』(藤田令伊、集英社、2011年)

 フェルメールはよく「静謐の画家」と形容されるように、静けさを描写した絵画のイメージが強い。フェルメールが静けさをどのように実現しているのか。その理由を明らかにするべく探求しているのが本書である。

 著者は結論として、色彩、素材と構図、意味性の剥奪、光の描写、という四つの要素が静けさを構成しているという。

 第一に色彩について。「フェルメールブルー」と言われるように、フェルメールと言えば青である。青が静けさを表現していることは科学的にも傍証されているそうだ。日本の研究者が、「真珠の耳飾りの少女」で描かれている少女の青いターバンの色をコンピュータで青、黄、赤、緑、黒、白の六色に変換して被験者の印象がどう変わるかを測定したらしい。その結果、青のものが静かで落ち着いた印象を持ったといい、これは色彩心理学の知見とも整合するものであるとのことだ。

 青を主題として描く絵画は他にも多くある。そうした中でフェルメールを際立たせるものが、第二の要素である素材と構図にある。まず、フェルメールの描く素材自体は極めて少ない。フェルメールの作品の中には、ある対象を描いたと思われる部分が上塗りされて素材を消した形跡がよくあるという。意図的に対象を減らすことでいわば絵画を無言化して静謐さを表現するということである。さらに、絞り込んだ対象を絵の一部にしか配置しないことで、描写される範囲をごく狭くする構図を用いることで静けさを増している。

 第三に意味性の剥奪が挙げられる。当時の絵画の一つの流行は教訓的風俗画であった。教訓的風俗画とは人としてどうあるべきかを描写する絵画であり、悪徳揶揄型と美徳奨励型という二つのスタイルがある。当時の鑑賞者は前者、すなわち悪徳揶揄型を好んだためにそちらの絵画の方が多い。よく私たちが目にするものとしては、家の外側に品のないものを内側に上品なものを想起するものを描くものや、男女とワインとを描くことで悪徳を想起させるものである。フェルメールはこうした流行を追わず、美徳奨励型を好んで描いたため、表情を読み取りづらい女性のみを描き、余分な他の存在を配置していない。したがって、意味やメッセージ性が希薄になることで、静けさが助長されているのである。

 最後に光の描写がある。フェルメールと言えばポワンティエである。ポワンティエとは、光が当たって輝いて見える部分を白い点描で表現する技法である。光の描写については、フェルメールの作品の中でも変化が見えると言われるが、強くて明瞭な光から淡くておぼろな光を経過してポワンティエの活用に至り、さらにポワンティエ自体を抑制することで静謐感を高めている。

 こうした四つの要素はそれぞれが別個に機能しているというよりは、渾然一体として相互に影響を与え合っていると言えるだろう。構造的に把握することは私の好みであり興味深く読めたのであるが、やはり実物を鑑賞するにかぎる。出版間もない本書を読んで無性にフェルメール展に行きたくなったところに、Bunkamuraの「フェルメールからのラブレター展」が用意されているのは、作者の狙いと考えるのは邪推であろうか。

2011年7月31日日曜日

【第36回】『デザイン思考が世界を変える』(T.ブラウン著、早川書房、2010年)

 よく多様な分野の専門家が一つの組織にいると強い、と言われる。しかし筆者によれば、それが機能するためには単なる複数分野の専門家であるだけでは足りないようだ。なぜなら、そうした専門家集団においては、それぞれが自身の専門分野の擁護者となり、潤滑なコミュニケーションが取れずに空中分解するか中途半端な妥協に落ち着いてしまいがちであるからだ。

 では、多様な分野の専門家が組織として機能するためには、よく言われるT字型人材であることが求められる。「T字型」であることは他者とアイディアや文脈を共有するために必要なのである。したがって、単なる複数分野の人材を集めることではなく、異分野での連携ができるT字型人材が集まることが大事なのであろう。

 こうした多様な人材が集まる組織がアイディアについて考え続ければ良いアイディアが出る、ということではない。頭で理想的なものを考えるのではなく、プロトタイプをすぐに製作し、カタチになったものに基づいてフィードバックを得ることが大事である。

 さらに言えば、頭の中で考えるものから得られるフィードバックと、実際にカタチにしてから得られるフィードバックとでは質的な違いがある。頭の中で考えるとアイディアにのめり込むことになる。アイディアに過剰にのめり込んでしまうと、問題があるものもポジティヴに解釈してしまいアイディアを守るための防衛的なフィードバックになってしまうことが多い。

 しかし、プロトタイプを創ると建設的なフィードバックを得られる。なぜなら、一度カタチにすると新たなアイディアを盛り込んで次々と改善するという方向に進むからである。プロトタイプを創って検証すること。仕事の中でも大事にしたい考え方である。

2011年1月3日月曜日

【第6回】『現代アート、超入門!』(藤田令伊著、集英社、2009年)

読書にはおおまかに二つの種類がある。得意であったり好んで学んできた分野の読書と、苦手であったり無知である分野の読書である。学生時代に図工や美術が大の苦手であった私にとって、本書は後者の読書経験に該当する。後者の読書は難しい一面もあるのであるが、既知の他の分野との意外な関連性やつながりを見出せたときのうれしさはひときわ大きいものである。

美術館にはよく行くが、現代アートは難物である。正直に白状すると、およそ理解不能と思えるものが多い。そうした私のような読者を念頭に置き、筆者は、現代アートは分かることが目的ではない、と述べてくれる。このような素人に寄り添って書いてくれる入門書というのはありがたい。

ではなにを目的として現代アートを鑑賞するのか。筆者によれば、作品を前にして「ああでもない」「こうでもない」と思いあぐねること自体が立派な鑑賞になっている、という。さらに、思いあぐねた結果としてわからなくても良いそうだ。これは私にとっては救いと言える言葉である。分からなければならないと思って鑑賞すると、意味がわからなかったときに不全感が残り、落胆してしまう。落胆すると現代アートを遠ざけてしまう。しかし、わからなくても良いという気構えで望めば気楽に鑑賞できる。

さらには、わからないことがわかることにも意義があると筆者は言う。この発想は、ソクラテスの「無知の知」を髣髴とさせる言葉のように感じられる。なにがわからないかをわからない状態は気持ちが悪い。しかし、わからない状態をわかる、つまりメタ認知を得られていれば対処のしようはある。わからないことがわかり、そのことで悩むことに意義がある、というのはキャリアを展望する際にも勇気を与える至言ではなかろうか。

また、現代アートは個別化が進んでジャンルで括ることが難解である。さらには、タイトルを「無題」とするものが多い。これらも現代アートの鑑賞を困難にする原因であろう。ジャンルはタイプによる識別を可能とするものであり、またタイトルは作者の意思を表すものであり、それらを手掛かりにして我々は作品を鑑賞する。そうしたジャンルやタイトルがないということは鑑賞する上での一つの軸を失うということを意味すると言えるだろう。

しかし筆者は、無題であるからこそ自由で主体的な鑑賞につながると主張する。ものは考えようとも言われかねない言葉のようにも捉えられるが、こうした態度が多様なインプット形式に繋がることは文学の世界でも述べられている。文芸評論家の柄谷行人さんは漱石に関する論考の中で、明治期に日本で生まれた近代小説という形式はそれまでのジャンルをディスコンストラクトする形式であると述べている。ジャンルを消滅させることで新しく多様な読書経験を可能としたことが漱石の文学上の貢献なのである。ジャンルで括ることが難しくなり、タイトルをつけることを意図的に避ける現代アートは、明治期の文学界に起きたことを想起させる。

では、アートであるということはどういうことなのか。筆者は、この問いに対して、ある作品がアートであるかどうかを決めるのは鑑賞者である、という回答を与えている。換言すれば、ある人にとっては価値のある現代アートであっても、自分にとって価値を感じないものであればそれはもはやアートではないのである。自信を持って、自分の好き嫌いで現代アートを鑑賞することを筆者は主張する。

それでは現代アートの価値は何だろうか。人によって受け止め方が異なる以上、現代アートはなんらかの固定的な価値を与えるものではない。私が本書を読んで考えたことは、現代アートとは問題提起を与えるものではないだろうか、という仮説である。問題提起は気づきを与える可能性を有する。作品を通して気づきを得られる人は、新しい価値観の拡がりに触れることができるのである。これが、主体的に、かつリラックスして現代アートに接することのメリットではないだろうか。

<参考文献>
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波書店、1964
柄谷行人『定本 柄谷行人集 第1巻 日本近代文学の起源』岩波書店、2004