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2016年3月5日土曜日

【第552回】『角川インターネット講座12 開かれる国家』(東浩紀、角川学芸出版、2014年)

 著者による政治思想と情報技術との関係性に関する歴史的な系譜のまとめをまずはお読みいただきたい。

 まずは、伝統的な政治思想(シュミット/アーレント)では、政治とは境界を作ることに等しかった。つぎに、1990年代、短いあいだではあったが、情報技術と人文思想の双方で境界なき政治の可能性が夢見られた時代があった。最後に、21世紀に入ると、世界はふたたび保守化し、むしろ境界なき政治(テロリズム)の危険性が意識されるようになった。(Kindle No. 45070)

 上質なまとめに思わず唸らされる。では、そもそも近代国家とは何であり、何であったのであろうか。

 近代国家は、土地や国民、法律などのさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた。なめらかな社会では、それらがバラバラに組み合わさった中間的な状態が許容されるようになる。中間的な状態が豊かに広がる社会では、お互いに完全に一致するアイデンティティを探すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような世界をつくりだす。今までの例外状態が例外ではなくなり、フラットやステップのような両極端な状態のほうが例外になる。
 会社という存在もまた考え直す必要がある。もし、ひとりの人が同時に2つ以上の職業につくことができれば、それは会社への依存関係をなくし、他の生き方や職業への想像力を活性化させるに違いない。(Kindle No. 45505)

 近代国家と対比することで、現代におけるなめらかな社会の特徴が描き出されている。そうした文脈の中で、近代的な会社という組織に対する考え方も変化していることがわかる。それに伴い、働くということの変化も含めて、考えさせられる。

 ”dividual”は、ジル・ドゥルーズ(哲学)が「管理社会について」という短い論考の中で使った概念である。彼は、現代社会は規律社会から管理社会へ移行しているというミッシェル・フーコー(哲学)の分析に着目した。権力のあり方が、学校、監獄、病院、工場といった閉鎖された空間における規律訓練から、生涯教育、在宅電子監視、デイケアといった時空間に開かれた管理へと変容していくという。(Kindle No. 45568)

 平野啓一郎氏を彷彿とさせる分人に対する考え方。ドゥルーズやフーコーといった知の巨人たちによる言論世界の系譜は示唆的である。

 一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを、民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。これは単なる民主主義の変革に留まらず、新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から、動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ、私たちの身体が今こそ試されている。(Kindle No. 45663)

 分人という考え方によって見出される社会システム。そこでは、外的な多様性も大事であるが、内的な多様性に私たちは目を向けたいものだ。

 なお、誰も耳を貸さないような外れ値とされる極端な意見は、リアルな空間では集合する機会はそうそうあり得ない。しかし、それら極端が束となって「非集合の集合」としてのエンクレーブ型熟議の場が生成可能になるのが、ネット空間の特性なのである。したがって、SNS上ではある意見はより凝り固まる傾向を示し、リアルな空間のように極端が淘汰される機会ははるかに少ない。(Kindle No. 47056)


2016年2月28日日曜日

【第551回】『角川インターネット講座9 ヒューマン・コマース』(三木谷浩史、角川学芸出版、2014年)

 その企業経営の姿勢に関する好き嫌いはあれども、日本におけるeコマースの草分け的存在とも言える著者の言葉には、傾聴すべき部分も多いのではなかろうか。

 楽天の主力事業である楽天市場のeコマースについてもう少し考えてみよう。人にとって「買い物」とは何だろうか。私は、本質的に買い物には2つの機能があると考えている。ひとつは「買う」という経済取引の機能、もうひとつは「楽しみ」というエンターテインメントとしての機能だ。従来重要だとされてきた部分、価格が安いとか、配送が早いというような特徴は、経済取引の面では必要な基本要素だが、それ以上に私自身はeコマースでは「ストーリー」が重要だと考えている。(Kindle No. 32399)

 eコマースの特徴として2000年前後に喧伝されていたのは、著者の言う前者の部分、すなわち経済取引に関する利点であった。無論、そうした側面があることは間違いないのであろうが、経済的利点のみを謳ったサービスでは差別化できない。ではどのようの差別化を行うかを検討する上で、著者はストーリーが大事であるとしている。

 ストーリーを考える上では、製品やサービスの供給側によるストーリーも重要であろう。食品領域でのeコマースで成功しているオイシックスがこの典型であろう。それに加えて、需要側によるストーリーもまた重要であり、Amazonや楽天といった顧客の声をダイレクトに反映するシステム構築をいち早く始めた企業を想起すれば良いだろう。静的な製品やサービスに、動的なストーリーをデザインすること。そうしたデザイン化されたストーリーをもとにビジネスを展開できるeコマースの主体者が、顧客への提供価値を向上できる。

 このように考えると、eコマースのポイントとして、物流の重要性(Kindle No. 35547)と、資本よりもクリエイティビティーが重要である点(Kindle No. 35565)が提示されているのも納得的だろう。

2016年2月27日土曜日

【第550回】『角川インターネット講座3 デジタル時代の知識創造』(長尾真、角川学芸出版、2014年)

 インターネットというインフラができあがったことによって、知がどのように流通して創造されるのか。知の集積体として書籍が、本書では取り挙げられている。

 電子化された本は、拡張を目指した輝かしい挑戦の一方で、拡張を求めたがための限界をまざまざと見る結果に終わった。すべてはテクノロジーに依存することからくるものであり、新しさを追い求めることの結果だった。新しいことに何の価値もなかったのだ。より深く、より遠く心を通じあう手段を求めただけだったのに、それを実現する方法は開発途上のコンピューターや周辺の機器に頼るほかなかった。これらを繋ぎあわせ、都合のいい結果を追い求めたその果てに、一切を失う「無」が待っていた。あのシンプルな紙の本がもつ堅固な安定性、物静かな永続性の足下にも及ばなかった。本とは…ほんとうにただものではなかった。
 電子化された本への挑戦よりも、本の電子化が急激に進んでいった。(Kindle No. 10620)

 インフラが整えば必要な情報が流通するというわけではなく、情報の受け手としてのデバイスが必要であることがよくわかる。デバイスが整うことで、情報の受発信のあり方、情報の内容や形式といったものが形成されるのであろう。

 紙であれ電子であれ、パッケージされた入れ物にとどまる世界から、入れ物から出て、外形や実体をなくして存在する情報は、ウェブという網の中に生きていくことになる。入れ物を出て流浪する文字の行方に視点を移していかねばならない。デジタルは情報がリンクしあい、そこに新たな文脈を形成する。この基盤を堅持し育むことが否応無しにやってくる。(Kindle No. 10733)

 インフラとデバイスという制約要因はあれども、デジタル化の動きにより、私たちが利用できる知の形態は進化する。知の形態の進化とともに、私たち自身もアジャストすることが求められることも忘れてはならない。

2016年2月21日日曜日

【第549回】『角川インターネット講座2 ネットを支えるオープンソース』(まつもとゆきひろ、角川学芸出版、2014年)

 村井純氏の講座に続く第2弾ではオープンソースがテーマとなっている。ソースコードが公開されて技術者がオープンにやり取りするためには、どのようなコードを書くかが重要となる。

 コミュニケーションで重要なのは、わかりやすく説明すること。プログラミングでも同様だ。よいプログラマーは、わかりやすく読みやすいソースコードを書くことに腐心する。そのためには、特定のプログラミング言語コミュニティで共有されている作法や問題解決のフレームワーク、ベストプラクティスといったものに精通する必要がある。(Kindle No. 4552)

 恥ずかしながら、プログラミングの授業でコードを書くたびに、一回で動くことが稀有なため、加筆・修正を加えることで、コードがいつも複雑になってしまった。しかし、その後に先生が示す模範例を見ると、「こんなに簡潔にできたのか」と驚くばかりにシンプルなものであった。オープンソースの可能性を担保するものは、上述したようなシンプリシティにあるのであろうし、それはソースコードだけに留まらず、ビジネス全般に言えるのかもしれない。

2016年2月20日土曜日

【第548回】『角川インターネット講座1 インターネットの基礎』(村井純、角川学芸出版、2014年)

 学部時代に著者の授業を受けてインターネットの可能性を学んだ身として、十数年を経て読み解いた本書でも、改めてインターネットの現時点における可能性を学ばさせられた。可能性と今後の変化について学べる意欲作にして入門書である。

 いま明らかになっていることは、もう人間がみなインターネットに参加する前提で社会はできているということだ。これからつくる社会は、それを基点にして考えなくてはいけない。(Kindle No. 79)

 現代におけるインターネットの新しさとは、それ自体の新しさではなく、それが前提となって形成される社会の新しさにあると著者は喝破する。いわば生活インフラとしてのインターネットを所与としていかに生活をデザインするか。

 地球規模のグローバル社会と国際社会とは、決して相反するものではない。最初は別々の世界だったサイバー空間とリアル空間が、GPSの位置情報とタイムスタンプによって融合していったように、グローバル社会と国際社会も密接な関係をもって発展していくだろう。国際社会は、インターネットというグローバル社会をどのように維持し、発展させていくのか。いま議論が白熱しているグローバルガバナンスの論点は、そこにある。(Kindle No. 3092)
 いままでグローバルな空間をもっていなかった人類は、インターネットという基盤によって、ようやくそれを手に入れた。インターネットの使命は、多様なセグメント、多様な人類の力を連結させることだ。(Kindle No. 3119)

 国家と国家の関係からなる国際社会においては、多様な人々による関係性が鍵となる。それに対して、グローバル社会というものが存在するとしたら、そこでは統合性が鍵となる。均一化するグローバル社会と、多様化する国際社会とを統合するインフラとして、インターネットの可能性が見出される。


2014年8月24日日曜日

【第328回】『情報の文明学』(梅棹忠夫、中央公論社、1988年)

 著者の書籍は含蓄に富んだものが多い。情報産業に焦点を当てて、いくつかの論考をまとめたものが本書である。では、情報産業とは何か。そこには第一次産業・第二次産業に続く第三次産業の特徴として見出される。

 この虚業意識が、なんらかの意味で実業に対する劣等感を内包しているとすれば、それはつまらないことである。まさに、実質的なもの、あるいは商品はあつかわれないというところに、情報産業の特徴があったのだ。その特徴あるがゆえに、情報産業は、すべての工業的物質生産および商品的商業をむこうにまわして、独自の存在であることを主張しえたのである。(40頁)

 商品として扱われないものを商品とするのが情報産業であると著者はしている。こうした情報産業は、第一次産業や第二次産業とどのような関係を有しているのであろうか。

 人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史のながれのうえにたつとき、わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜あけ現象として評価することができるのである。(43頁)

 産業の進展を、生命の進化の過程と結びつけて著者は捉えている。ここで情報産業を形容している外胚葉という言葉が専門的にすぎるという批判に対して、著者は後の論考で解説を加えている。

 もっとも単純化していえば、内肺葉からは消化器官系がつくられ、中胚葉からは筋肉がつくられ、外胚葉からは脳神経系、感覚諸器官がつくられる。「情報産業論」では、この三肺葉の分化を、人類史における産業の発展の三段階に対応させているのである。すなわち、最初は消化器官系の機能充足をはかる食料生産が主となる。つぎに、筋肉系の機能の充足をはかる物質・エネルギーの生産が主力となる。最後に、脳神経系、感覚諸器官の機能充足をはかる情報の生産が主力となる、という議論なのである。(62~63頁)

 こうしたアナロジーをもとにすることで情報産業の本質が分かり、従来の産業との差異が明確になる。第一次産業や第二次産業が古くて必要性が減衰しているということではないことは、このアナロジーを見れば明らかだ。情報産業という新しい産業が生まれることによって、従来の産業の意味付けが変化し、新しい意味合いを持つようになるということが変化の本質であろう。

 では、「ものではない」ものにどのように価格を付けるのか。情報産業における価格の論理に関して、著者の舌鋒はさらに鋭くなり、お布施をもとにその特徴を述べている。

 お布施の額を決定する要因は、ふたつあるとおもう。ひとつは、坊さんの格である。えらい坊さんに対しては、たくさんだすのがふつうである。もうひとつは、檀家の格である。格式のたかい家、あるいは金もちは、けちな額のお布施をだしたのでは、かっこうがつかない。お布施の額は、そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働には無関係である。まして、お経の経済的効果などできまるのではけっしてない。(49~50頁)

 極端な例で言えば、前者については、情報の出し手が社会的に評価が高い人であれば、その情報は高く売買され、その逆も然りということになるのであろう。後者では、情報を活用する側は、他者の目を気にしながら価格を決定しようとするということを指摘していると言えるだろう。いずれのケースにおいても、同じ情報であっても価格が異なるということである。

『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中央公論社、1974年)

2014年4月12日土曜日

【第272回】『レイヤー化する世界』(佐々木俊尚、NHK出版、2013年)

 本書は、帝国時代から近代へ、近代から現代へと時間軸を推移させながら、現代という時代の特徴を浮かび上がらせるものである。時代の特徴とともに、それぞれの時代を支配するパラダイムを明らかにすることで、私たちの生活や生き方について考察をしようとする意欲作と言えるだろう。

 まず、複数の帝国から成る世界から眺めていこう。その特徴として、著者は二つの点に要約している。

 第一には、帝国は多民族国家だったということ。 第二には、帝国と帝国を結ぶゆるやかな世界の交易ネットワークがあったということ。(63頁)

 多民族から成る国家であったということは、近代における共同幻想としての一つの<国民>から成る国民国家と比較することでイメージを持ちやすいだろう。つまり、現代における私たちが思い描く国家像と、当時の国家とは全く異なるものであり、帝国間の境界が曖昧としたゆるやかなものであったということである。境界がゆるやかであるということから、第二の点が導き出される。すなわち、帝国同士が緊張関係を維持するというよりも、お互いが安定的に共存できるような交易が行なわれていたのである。

 こうした安定的で相互依存的な帝国の時代を終わらせたのが、帝国時代においては辺境にすぎなかったヨーロッパである。国民による国家というシステムを生み出した西欧近代の登場により、帝国は終焉したのである。では西欧近代を構成する近代の世界システムとはどのような要素から成り立っていたのであろうか。著者は四つのポイントに絞って説明を試みている。

 国民国家であること。 国民国家のウチの結束を固め、強い軍隊を持つこと。 国民国家のソトを利用し、経済を成長させること。 そして国のウチでは、民主主義で皆で国を支えていくこと。(142頁)

 共同幻想としての一つの国民という物語を中心に置くことで、ウチとソトという概念を生み出したのが近代である。近代では、帝国時代における傭兵による戦争から、国民の国民による国民のための戦争を可能とするためにウチの結束を固め、ソトとの緊張関係に備えることが常態であった。ソトとの緊張関係とは、戦争という暴力だけではなく、ウチの経済成長を実現するためにソトにある資源を活用するという戦略も該当する。

 さらには、国民国家のウチにもまた、ウチとソトの原理が成り立っていた。つまり、民主主義を構成する経済活動を活性化するために、業界間における絶え間ざるポジショニング争いが展開されたのである。売り手側と買い手側、上流と下流、といった対称関係において、有意なポジションを得ようとするダイナミックな競争が展開されたのである。こうした原理は際限なく細かい単位に分解されて展開される。つまり、業界における競合他社間の競争、企業の中における社員間の出世競争、といった具合である。いずれにしろ、ウチとソトとを切り分けることが、西欧近代が生み出した国民国家のパラダイムの要諦と言えるだろう。

 こうした一つの国民国家を前提としたウチとソトの関係性を崩壊させつつあるのが現代の情報技術であり、その変化こそがグローバリゼーションの本質であると著者はする。国民国家を支える企業から、グローバルに展開する企業、たとえばApple、Google、Facebook、Amazonを考えれば分かり易いだろう。その特徴について著者は以下のように述べる。

 さまざまなレイヤーのうち、その時どきでもっとも強いレイヤーが権力者になり、その<場>を支配するようになる。<場>とレイヤーは、そういう作用で動いているのです。 ここでは化粧箱のように人びとを束ね、上から見下ろして命令する権力はありません。そうではなく、下から人びとを支え、人びとを管理する。 それが新しい権力の形、新しい権力と人との関係なのです。(209頁)

 ウチとソトという静態的な切り分けから、レイヤーという動態的な切り分けによる分類が現代社会の新たなパラダイムとなりつつあるという指摘であろう。レイヤーは可変的であるために、一つの主体が指示・命令によって押さえつけるということではなく、下からじわじわと影響力を発揮するということが特徴であろう。スマートフォンのOSというレイヤーで考えればAppleとGoogleは競合するであろうが、Googleの検索システムはiPhoneを支え、MacBookが利用されるほどGoogleの検索システムの利用数は増大する。こうして、指示・命令関係が複雑に入り組み、レイヤーに応じてポジショニングが異なる関係性が構成されることとなる。

 こうした関係性はなにも企業や組織という単位だけではなく、個人にも影響を与え、個人においてもレイヤーによる分類がなされる。

 レイヤーにスライスされて自分という個人は切り分けられてしまっているけれども、切り分けられているからこそ、それぞれのレイヤーで他の人たちとはつながりやすくなるということなのです。(213頁)

 レイヤーによって切り分けられている状態とは、近代におけるような一つの<国民>という外的な統合体が存在し得ない状態である。したがって、近代の精神構造で考えてしまうと、あたかも自分自身が細かなレイヤーに分類されて統合されていない感覚を持ちやすい。そうした切り刻まれた感覚を無理に統合しようとソトに求めてしまうのが、ナショナリズムであるネオ・コンサヴァティズムという懐古的な思潮系統なのかもしれない。そうではなく、現代においては、ソトに統合体を求めるのではなく、ウチにある多様なレイヤーをもとに、それぞれのレイヤーの中で主体的に関係性を結びつける。しなやかで地道な営みが、現代に生きる私たちには求められていると言えるだろう。こうした現代において私たちに求められるマインドセットを著者はメッセージとして述べている。それを最後に引用して本稿を終わりにしたい。

 レイヤーでつながろう。 <場>と共犯し、<場>を利用し、<場>に利用されよう。 そして、<場>の上を流れていこう。 大地の上を、動き続けよう。(268~269頁)

2014年1月11日土曜日

【第239回】『集合知とは何か』(西垣通、中央公論新社、2013年)

 機械が扱う知と人間が扱う知には違いがある。機械が知を生み出すのではなく、機械というツールを用いて人間が知を創り出す。したがって、人と人との集まりを機械によっていかに支援し、社会的・集合的な知を涵養することが重要である。これが本書における著者のメッセージの要約であろう。要約することによって捨象されたもののうち、とりわけ含蓄に富んだ部分について以下から述べていく。

 まず、集合知を創り出す環境において求められる一人ひとりの学びについて。

 彼らにとって授業とは、既存の権威ある知識体系を単にわかりやすく伝授してくれるものなのだろう。彼らはそういう教育ばかりうけてきたのである。ほんとうの学問とは、既存の知識体系を丸呑みにすることではなく、批判的に解釈することから始まるのだが、そういう作業は非効率な時間つぶしのように思っているのではないか。 受験勉強の弊害だといえばそれまでである。だがそれだけではない。知識社会というお題目のもとに、所与の知識命題の効率のよい処理だけが知的活動であるという幻想を植えつけた大人たちにも責任はあるのだ。(50頁)

 受験においては、公正性と効率性が過分に求められる。受験後に客観的に採点できるようにして受験者からの不平不満を未然に防ぐためにテストは公正なものとなり、ために解答が一つに絞られるものとなる。そうした逆算で正解が求められるテストに合格するために、問題と解答とが静的な関係であるために、結果から逆算して勉強を組み立てる方法を受験生に確立させる。さらには、そうした逆算すらを予備校や塾といった外部機関にアウトソースして、受験生はひたすら与えられた課題をこなすだけになる。こうして培われた学習観では、学びにたのしさを見出すことは難しいだろうし、そうした人材は知識社会での主体として貢献はできない。とりわけ受験の「勝者」と呼ばれる方々の方が難しいのかもしれないが、旧来の受験勉強における学習観を忘却学習するという、いわば学習のメタ・アンラーニングが必要だ。

 観察というと、遠くから対象をじっと眺めているような気がするかもしれない。だが、生き物の認知観察行為の原型は、むしろ自分が動きまわって対象と主体的にかかわることになる。(中略) 世間の常識では、知識とは、天下りに与えられ、勉強して丸暗記すべき所与の客観的存在とみなされている。だが、知識の出発点とは、本来、主観的な世界イメージの部分的な様相の表現だったはずである。(90頁)

 旧来の学習観が客観的に存在する正解を丸暗記するという受身的なものであったのに対して、現代の知識社会において求められる学習観とは主体的なものだという。「主体的な観察」という言葉遣いの中から、観察対象は自身で決めること、観察のしかたも自身で試行錯誤すること、観察結果の関係性を自身で結びつけること、ということが読み取れる。

 細胞は、外部から与えられる設計図なしに、自分と似た細胞を次々につくりだす。(中略)個々の細胞だけではない。脳神経系も免疫系も、自分で自分をつくりだすのである。(中略)自分で自分を創りだすとは、作動の仕方も自分で決めるということだ。だから生命体は「自律的(autonomous)」なシステムでもある。 これに対して、機械は他の存在(人間)によって制作され、また他の存在(いわゆる出力)をつくりだすので、「アロポイエティック・システム」である。(中略)また、設計されたとおりに作動するから「他律的(heteronomous)」なシステムでもある。(100~101頁)

 機械との対比を行いながら、人間にとっての知の創出プロセスについて、細胞レベルで論じられている。ここでの鍵概念は自律的という概念だ。与えられたものを粛々とこなすということではなく、自分自身で試行錯誤しながらWHATとHOWの双方を見つけ、状況に合わせて更新し続ける主体的なプロセスである。

 ここまでは、知識社会において求められる個人の主体的な知識創出プロセスについて見てきた。次に、そうした主体を前提とした上で、社会として集合知をいかに紡ぎ出していくのかについて見ていきたい。

 興味深いのは、こういった社会的組織においては、コミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作動がおこなわれていることだ。社会的組織には特有の言語概念をもつ伝統や文化があって、一種の知識として記憶されている。その記憶をもとにコミュニケーションが発生し、またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミックスは、再帰的に思考をうみだす心のダイナミックスと基本的に変わらない。(105頁)

 一対一のコミュニケーションが、他者を巻き込んだ広いコミュニケーションを生み出すという自律的な循環プロセスを著者はここで述べている。ダイナミックスというとポジティヴなイメージがあるが、循環ということは負の連鎖もまた組織においては容易に連鎖し得るということに留意するべきだろう。私たちは、コンプライアンス違反をした企業が、社会の論理よりも会社の論理を重視してきた事実を他山の石として肝に銘じるべきである。

 コミュニケーションとは瞬間的に成立するミクロな出来事である。知識形成というプロセスにおいては、コミュニケーションに加えて、いっそう長大な時空間でおこなわれる「意味伝播」というマクロな出来事が不可欠である。これは「プロパゲーション」とよばれる。 プロパゲーションとは、端的には、HACSの記憶(意味構造)の長期的な変化である。AとBが対話をつづけコミュニケーションが継続発生していくと、時間とともにやがて、AとBの各自の記憶に変化が生じてくるはずだ。(中略)AとBそれぞれのHACSにおける記憶(意味構造)の漸次的な変化が、プロパゲーションなのである。 いっそう大切なのは、Cによる記述自体の変化発展である。Cのブログは、(Cの心というHACSの意味構造ではなく)AとBの上位にある社会的HACSの意味構造そのものなのだが、これも時間とともに深められ拡大されていく。(中略) コミュニケーションとプロパゲーションをつうじて、クオリアのような主観的な一人称の世界認識から、(疑似)客観的な三人称の知識が創出されていく。形づくられるのは、一種の社会的な「知識」であり、「意味」である。(109~110頁)

 集合知は自律的なプロセスの循環として生み出される。ために、知識は静的なものとして存在するのではなく、動的なものとして絶えず変化を繰り返す。Aが発話した際に込められた意味合いは、Bに少し異なって受け取られ、AとBとの対話を記録するCにはさらに異なった観点から記述されるだろう。こうした自律的な社会的な知識創出プロセスに対しては、自分の発話の意図に徒に固執するのではなく、他者の異なる観点を受容し、柔軟な態度でたのしむというメンタリティーが求められるのではないか。

 第二の点として、集合知を生み出すプロセスについて眺めてきた。最後に、このような集合知が生まれる場およびツールについて見ていこう。

 フラットで透明な社会、つまり、情報が迅速に伝わりすぎる社会で、質疑応答による議論をしていると、かえって社会は安定しなくなり、適切な秩序ができにくくなる。過度に均質化され中央集権化されてしまうか、逆にアナーキーな無秩序状態になりやすいのだ。 人間集団のなかに、ある種の不透明性や閉鎖性があるからこそ、われわれは生きていけるのである。情報の意味内容がそっくり他者に伝わらないというのは、本質的なことなのだ。(207~208頁)

 コミュニケーションは、迅速で躊躇なくできるものが良いとされがちだ。たしかにそういった側面があることに異論はないが、あまりにスムーズに流れすぎるコミュニケーションにもネガティヴな側面があることに留意するべきだろう。だからこそ、うまくいかないコミュニケーションや、理不尽な場面に対してもおおらかに対応することが、私たちには重要なのだろう。

 ネット集合知にしても、その第一の使命は、ローカルな社会集団のなかで問題解決能力を高めることにある。とすれば、性急な多数決などではなく、多様な価値観を組み合わせ、必要におうじて妥協をもとめつつ合意点を見出すような方向が望ましいのではないか。(210頁)

 民主的=多数決と捉えられるのは、学校教育の為す害悪の一つであろうか。むろん、国政選挙といった特殊な状況において多数決による議員の選出プロセスが行われることに異論はないが、普遍的な原理として多数決を採択するのは誤りだ。多様な価値観の表出を許容し、そうした価値観の異なりを特定のイシューにおいていかに統合するか、というプロセスに私たちは重きを置くべきだろう。そうした一つひとつのプロセスが、一人ひとりでは生み出し得ないゆたかな集合知を生み創り出すことに貢献するのだから。


2013年8月10日土曜日

【第186回】『キュレーションの時代』(佐々木俊尚、筑摩書房、2011年)

 マスメディアが情報を一元的・一方向的に発信し、私たちはそれを受信するという従来のマスコミュニケーションのあり方は現代では通用しなくなっている。著者の言葉を使えば、情報のビオトープ化が起きているのである。ビオトープとは「情報を求める人が存在している場所」(42頁)であり、情報の有り様が多様化し、偏在化しているのが現代の情報社会の特徴である。

 このようなビオトープ化した社会に適応している好事例としてfoursquareに焦点が当てられ、その特徴として三つの点が挙げられている。
 
 第一の点は「みずからはモジュールに徹し、巨大プラットフォームに依拠したこと」(140頁)である。これが機能するのは、優良なコンテンツがインターネットの世界に存在し、かつ接近可能性が高いというアンビエント化に拠るところが大きい。アンビエントとは「私たちが触れる動画や音楽、書籍などのコンテンツがすべてオープンに流動化し、いつでもどこでも手に入るようなかたちであたり一面に漂っている状態」(84頁)である。YouTubeやブログから有益なコンテンツが存在すること、アクセス網が整っているという技術面でのパスが用意されていること、という二点からアンビエントが実現しているのである。

 アンビエントな状態だけでは、一部の人は自身に合ったコンテンツにアクセスできるが、マジョリティはメリットをあまり享受できないということが起こる。インターネット勃興期の状態である。foursquareは、第二の工夫として「「場所」と「情報」の交差点をうまく設計したこと」(140頁)が挙げられている。ある場所において、情報が付加される行為が複数間で蓄積されることで、共感や共鳴が存在する持続的な関係性が築かれる。これはカネとモノの交換という旧来的な物質的で刹那的な関係性からの変容を表す。

 こうした情報の継続的な付加を主体的に行うこと、すなわち「その交差点にユーザーが接続するために、「チェックイン」という新たな手法を持ち込んだこと」(140頁)が第三のポイントである。主体的に場所に関わり、主体と客体が流動的に変化すること。これは茶道における一座建立という主客一体の理想と同じであるという著者の指摘は含蓄に富んでいる。さらには、自身の位置情報というともすればプライバシーとして秘したくなる情報を自ら開示するしくみによってプライバシーの問題を匠に回避している。その上で、自身の立ち位置や情報の獲得方法をユーザー側が選択するという観点では、Facebookの「いいね!」と同じような気軽さがある。

 こうしたfoursquareの三つの特徴を踏まえれば、現代における情報社会の一つのヒントとして「他者の視座へのチェックイン」(198頁)という発想が浮かんでくる。特定の新しい情報や概念といった無機物を見ても、自分の視座からではその斬新さを感受できないことが多い。しかし、他者の視座から世界を眺めると、その対象が日常的なものであっても想いもよらぬ気づきを得ることができることはイメージし易いだろう。師匠の言動を見るのではなく、師匠が見ている対象を見る、という伝統的な徒弟制度で言われることが現代の情報社会に活きているようで興味深い。

 このように考えれば、信頼するべきものは情報の信憑性ではなく、情報の発信者自体である。したがって、従来のメディアにおける情報への信頼から、ソーシャルメディアでは人への信頼へとパラダイムが転換していることに留意する必要があるだろう。こうした「視座を提供する人」(210頁)がキュレーターである。キュレーターは、情報が氾濫して、好もうと好まざるとアンビエントに取り囲まれる現代社会において重要性が増してきている存在である。「キュレーターの付与するコンテキストによって視座は常に組み変わる」(251頁)ものであり、「「同心円」的な関係性から、「多心円」的な関係性へ」(256頁)と関係性の変容が生じる。

 他者との関係性に加えて、自身の内側との関係性の多様性にも着目して考えてみたい。すなわち、膨大な数の分野を内包する存在としての個人、それぞれの分野において他者との関係性である。このような視点に立てば、自身のキャリアをキュレーションするという発想が現代では重要なのかもしれない。つまり、多様な関係性、多様な有り様、多様な経験をもとに自分自身のキャリアをどのように括るかということを内省すること。それとともに、内省して括ったものを、いかにソーシャルメディア上に提示し、それを随時更新し続けるかが鍵となるのだろう。


2012年5月20日日曜日

【第84回】『報道の脳死』(烏賀陽弘道、新潮社、2012年)


 新聞の質の低下が叫ばれるようになったのはいつのことだろうか。その理由はどこにあるのか。本書は、朝日新聞の元記者であった著者が、そこで経験したことや現在の記者との交流によって得られた知見をもとにその答えの仮説を述べているものである。

 まず新聞社を取り巻く環境について著者は述べている。私たち読者からするとにわかに想像し難いことではあるが、新聞各社は他紙やテレビ局の記事や番組はいっさい見ていないという前提で記事を書いている。その結果として、他のメディアで既に報道されたものであっても、自社がそれまで取り扱っていないものは後からでも報道する。こうして一社ごとに閉じた世界が形成されている。

 さらに、企業がSNSをはじめとしたインターネットにおける広告宣伝費を増大させたことで相対的に既存メディアに対する広告宣伝費が減少している。その結果、コスト削減圧力が新聞社に掛かり、カレンダー記事と呼ばれる「あれから○年」という安易な記事がはびこることとなる。カレンダー記事であれば事前に記事の執筆ができるため、効率的に安価で記事を作成できるのである。

 次に、組織内部の問題もあり、著者は3.11の一連の報道をもとに考察している。第一に、取材対象を分けていることが問題の一つである。新聞社では、首相官邸の記者会見を担当する記者、南相馬で記事を探す記者、福島県庁に貼り付いている記者、といった具合に分担を行っているという。その結果、ある事象についてそれが各所でどのような関係性を持っており、なにが真実であるのか、というストーリーが欠落してしまう。そのため、各所での記者会見での質問は各所において見えるレベルでののもとなり、全体のストーリーに基づいた鋭い質問は出づらい構造にあんっていたという著者の指摘は納得的である。

 第二にセクショナリズムもまた問題であると指摘されている。内勤デスクは現場に出せない、大阪本社に所属している貴社を東京の管轄内に派遣できない、といった事象が生じていたと言う。にわかに信じ難いことではらうが、3.11のような未曾有の事態においてもこうした組織内部の問題が生じたことが事実であったたとしたら残念でならない。

 では記者とはどうあるべきなのか。

 著者は二つのことを述べている。第一に、記者とは私たち国民や市民が持つ知る権利の代理人、すなわちエージェントであると著者は指摘している。その通りであろう。エージェントとしての気概を持つことで、何を報道するべきであり、どのような手段で伝達すべきであるか、という変化を導くことができるだろう。

 第二に、新しいメディアとの関係性についてである。既存メディアと新しいメディアとを対比的に論じる論調に著者は与しない。どちらが正しいかという論点の設定ではなく、ジャーナリズムを誰が実践すべきか、という論点をもとにして、既存が新規かという場所の話はその手段に過ぎないのである。