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2019年10月22日火曜日

【第997回】『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一、守屋淳訳、新潮社、2010年)


 本書が流行する意味がよく分かり、また流行していることに安心感をおぼえる一冊であった。正直、渋沢栄一の『論語と算盤』を以前読んだ時にあまり頭に入ってこなかったのでそれほど期待していなかった。ただ訳者の大胆な現代語訳は、今を生きる私たちにとって、渋沢だったらどのようなニュアンスで伝えたかという意図で書かれたものであり、すんなりと入ってきたようだ。

 渋沢はなぜ『論語と算盤』を著したのか。訳者の解説によれば「「実業」や「資本主義」には、暴走に歯止めをかける枠組みが必要だ」(9頁)として、渋沢の座右の書であった論語を解説したそうだ。日本の資本主義の父とも言われる著者が、論語をその基盤に置いているのだから、現代の資本主義社会を生きる私たちの血肉となる内容となっていることに驚きはないだろう。

 特に興味深いと感じたのは、仕事の中における趣味に関する考察の部分である。

 仕事をするさい、単に自分の役割分担を決まり切った形でこなすだけなら、それは俗にいう「お決まり通り」。ただ命令に従って処理するだけにすぎない。しかし、ここで「趣味」を持って取り組んでいったとしよう。そうすれば、自分からやる気を持って、
「この仕事は、こうしたい。ああしたい」
「こうやって見たい」
「こうなったら、これをこうすれば、こうなるだろう」
 というように、理想や思いを付け加えて実行していくに違いない。それが、初めて「趣味」を持ったということなのだ。わたしは「趣味」の意味はその辺にあるのではないかと理解している。(106頁)

 趣味一般としてはやや古風な考え方かもしれない。しかし、仕事において工夫をしてみる、意義を自分なりに考えてプラスアルファしてみる、という意味ではこれほど腑に落ちる考えはないのではないだろうか。

 同一労働同一賃金の流れの中で、日本企業も職務主義へと舵を切ろうとしている。総論としては反対はしないが、そこで失われるものは一つひとつの仕事に意味を見出そうとしたら、能力を蓄積しようという働く個人の営為になりかねない。しかし、渋沢の上記のような考え方を、私たちは持ち続けることが、日本資本主義の叡智として重要なのかもしれない。

 自分を磨くことは理屈ではなく、実際に行うべきこと。だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。(134頁)

 個人の営為として持ち続けることは、勉強するために勉強するのではなく、実践と結びつけようとしてインプットすることである。現代の日本社会には、美辞麗句を施して見てくれをよくするだけの「学びごっこ」のいかに多いことかと、渋沢なら慨嘆するかもしれない。

【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
【第662回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

2019年9月15日日曜日

【第986回】『自由のこれから』(平野啓一郎、K Kベストセラーズ、2017年)


 最近は著者の論考にはまっている。小説はもともと好きであったが、小論も考えさせられて面白い。イノベーション、法律、遺伝子工学、といった分野の碩学との対談はスリリングであり、そのまとめとしての自由に対する論説もぜひ読んでみてほしい。

 『決壊』に始まり『空白を満たしなさい』へと至る第三期と呼ばれる作品群で著者がテーマにした分人主義を基に、著者は自由へのアプローチを以下のように述べる。

 分人主義的に複数の組織やコミュニティに帰属することが可能となれば、私たちは、個々の関係性において、より多くの自由を手に入れることだろう。
 なぜなら、全人格的にある関係性に巻き込まれることが避けられ、一つの分人の経験を他の分人を通じて相対化できるからである。(162頁)

 分人主義とは、端的に言えば、唯一の「この私」としての個人ではなく、多様な他者との多様な関係性によって個人が分割された「文人」の相対としての私、という考え方である。社会学の領域でいえば、ジンメルを想起されれば良いだろう。

 私たちは、自分が巻き込まれている一つの状況、その関係性の中での分人を相対化する分人を常に複数、所有すべきである。ある分人においては、他に選択肢がないように思えていることも、他の分人を通じ、またその関係者を通じて相対化することで、必ずしも必然性がないことが見えてくる。(170頁)

 分人の総体としての私という考えを用いれば、仮に一つの分人が他者から否定されて自己効力感を失ったとしても、他の分人に依拠すればよいとなる。つまり、特定の自己効力感を失う事態にあったとしても、ほかの分人によってその分人を相対化し、全体としての自己肯定感を育む、という考え方と言えるのではないか。

【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)
【第240回】『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)

2019年9月8日日曜日

【第984回】『NHK「100分de名著」ブックス 荘子』(玄侑宗久、NHK出版、2016年)


 荘子の良さを存分に伝えてくれる本書。さすがは「100分de名著」のシリーズと言えよう。端的にポイントを説明してくれており、かつ荘子を愛する碩学が魅力を語ってくれているために引き込まれる。ようやく、荘子の最適な入門書にたどり着いたようだ。

 さまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではないーーと、徹底的に笑いながら話しているのがこの『荘子』です。(7頁)

 儒教をはじめとしたさまざまな生き方や思想を否定しているかのように見える荘子。その本質は、絶対的なものは存在しないとして全てを相対化しようとするという考え方が根幹にあるという。

 では、人間の意志による主体性を否定する荘子は何を重視するのか。

 自らの意志で動いたり変化したりするのではなく、周りが変化したので私も変化した、というのがよいと言うのです。まさに受け身です。現代の日本語でも使われる「やむをえず」という言葉の出典はまさにここなのですが、今ではネガティブな意味で使われるこの言葉が、完全に肯定的な意味で使われています。(51頁)
 「しあわせだなあ」というのは、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかった、ということ。自分の意志で事前に立てる計画とは無縁の世界、完全に受け身の結果なのです。(52~53頁)

 まず受け身の考え方が重視されていることがわかるだろう。その上で、完全に自分自身を周囲に合わせて状況の変化に委ねるということではないということに注意が必要なのではないか。というのも、周囲で起こったことを受容しながらも、それを自分の関与によって「仕合わせる」ことが重要だとしているのである。

 ここには西洋における主体性とは異なる考え方が見出されるのではないか。

 西洋の「自由」が「みずから」勝ち取るものである一方で、「みずから」ではなく「おのずから」に任せる境地というものがたしかにある。それが、荘子の語る「自在」です。(78頁)

 自然とは「自ずから然り」であるといわれる。ここにおける「おのずから」には、主体性に基づくのではなく、「一切の人為を離れて「私」を無くし、命の全体性に戻る」(78頁)ことで自分と自然とが一体になるという世界観が現出している。

 荘子が目指すのは「おのずから」の変化に従うことですが、人間はどうしても「みずから」考え、行動しようとする生き物ですから、放っておくと「みずから」はどんどん「おのずから」から離れて行ってしまう、ということです。(120頁)

 しかし、わたしたち人間のいわば本性として「みずから」の発想が占めがちになると著者はしている。では「みずから」に囚われないようにするにはどうしたらよいのか。ここではフローに近い考え方が荘子でも展開されている。

 大切なのは、理性が捉えた自己のイメージがここでは次々に打ち破られていく、ということです。何が「自分らしさ」なのかも、すぐに分からなくなります。(122頁)

 手や身体を動かし没頭することで、自分自身を頭で理解しようとするという静的な自分像を壊れていく。そのための概念装置が、荘子の教えなのではないだろうか。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月7日土曜日

【第983回】『流されるな、流れろ!』(川崎昌平、洋泉社、2017年)


 荘子をたのしみたいが、なかなか内容が入ってこない。何冊か読んでもその状況が改善されず苦労している。カジュアルな解説本であり、エッセーに近い本書は、荘子に対して新しいアプローチを試せるいい機会だった。

 感情をぶつける相手がいなければ、「私」という人格すらなくなってしまう。「私」がいなければ、そもそも感情すら湧きようがない。喜怒哀楽も不安や悲しみも、それらが変化することも、すべて「自然」の流れなのだから、気にする必要はない。ムリに感情を押し殺そうとするほうが、よほど不自然な生き方だ(37頁)

 内篇・斉物論第二の「非彼無我、非我無所取。」を取り上げた一節。感情を抑制しないと、感情が自身の言動に影響を与えてしまう。だからコントロールするべきである、と考えてしまいがちだ。

 もちろん、感情が言動に影響を与えてしまうのは良くない。しかし、感情を持つこと自体は悪いことではなく、それを押し殺そうとすることには無理が生じてしまう。言動に影響を与えない状況、つまり感情を感情そのものとして受け止めること。これを心しておきたいと思った。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年8月18日日曜日

【第978回】『石川啄木』(ドナルド・キーン、各地幸雄訳、新潮社、2016年)


 私にとって詩を理解するのは難しく、石川啄木の詩も『一握の砂』のごく一部を高校の教科書で習った遠い記憶がある程度だ。正直、全く覚えていない。いくつかの書籍を読んでいると好きな詩を持つことの有効性や、俳句を好むことの効用をよく目にするようになった。本書も、そうした一環で何かで推奨されていて読むことになった。結論としては、石川啄木の伝記であり、彼の人となりを物語として読めて興味深く、改めて詩集を読みたいと思った。

 啄木は徐々にではあるが、美よりも真実が大事であると考えるようになった。(11頁)

 石川啄木以前の詩では、美的な世界を詩という形式で表現することに重きが置かれていたようだ。それに対して、啄木は真実をいかに伝えるかという手段として詩を位置付けたという。

 啄木は、すでに「詩」のロマンティシズムに興味を失っていた。「空想」文学は、啄木をうんざりさせるに到っていた。啄木が経験してきた「現実」の数々の困難は、新しい運動の精神に共感を抱かせた。啄木が運動の仲間たちから知ったのは、詩歌は必ずしも美や愛を語るものではないということだった。貧困の悲惨さや、ごく日常的な出来事もまた詩歌の題材にふさわしい、と。(277頁)

 ここでは、以前の詩が持つロマンティシズムに対する批判までが込められている。日常を切り取り、現実を表現することが詩歌の持つ意義と提示したのが啄木であり、それ以降の詩歌なのである。

 啄木の絶大な人気が復活する機会があるとしたら、それは人間が変化を求めるときである。(中略)啄木の詩歌は時に難解だが、啄木の歌、啄木の批評、そして啄木の日記を読むことは、単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは一人の非凡な人物で、時に破廉恥ではあっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって忘れ難い人物となる。(330頁)

 啄木の詩が醸し出す現実と自由の感性は、太平洋戦争の終戦後に大きな注目を集め流行したそうだ。そこから判断すると、私たちが変化を求め自由を求める時に啄木の詩歌が影響を与えることになるのかもしれない。

【第516回】『百代の過客』(ドナルド・キーン、金関寿夫訳、講談社、2011年)

2019年8月11日日曜日

【第976回】『すらすら読める正法眼蔵』(ひろさちや、講談社、2007年)


 正法眼蔵は難解だ。その難解な書籍を噛み砕いて説明してくれる著者には脱帽する。では、正法眼蔵のポイントはどこにあるのか。その著者である道元の思想の本質を以下のように端的に述べる。

 道元禅の本質は、この「心身脱落」にあります。わたしたちはこの「心身脱落」を理解することによって、道元の思想が理解でき、そして道元の主著である『正法眼蔵』を読み取ることができるでしょう。(12頁)

 ではどのようにすれば心身脱落ができるのか。そのためのヒントは只管打坐にあるという。

 ”只管””祗管”とは宋代の口語で、「ひたすらに」といった意味。全身全心でもってひたすら坐り抜きます。そのひたすら坐り抜いている姿こそが仏であり、悟りです。道元はそのように考えました。仏になるための修行ではなしに、仏が修行しているのです。(18頁)

 難解な正法眼蔵もこのように捉えると楽しく学べる、気がする。

【第734回】『日本仏教史』(ひろさちや、河出書房新社、2016年)

2019年8月10日土曜日

【第975回】『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克己、亜紀書房、2018年)

 カジュアルな文体で骨太な考察を展開する本に出会うとうれしくなります。本書はまさにそのような書籍です。著者は、ボルネオ島の狩猟採集民族であるプナンと共同生活を送りながら、フィールドリサーチした内容をまとめています。

 現場でともに生活することで、現代市民社会との差異が明確になります。その差異は、当初はプナンでの社会に対する疑問という形を取りながら、次第に私たちが暮らす日本社会への疑問へと変容します。たとえば、冒頭での以下の対比に如実に表れているでしょう。

 私たち現代人は、食べ物だけでなく、あらゆる必要なものを外臓する世界に生きている。そのため、それらの財を交換によって入手するために必要な貨幣を手に入れる手立てをまずは確立せねばならない。その手立てには、人間が生きがいや生きる意味を見出すプロセスが伴ってくる。そこでは、ニーチェが言うように、仕事の悦びなしに働くよりは、むしろ死んだほうがましだと考える人間も出てくる。
 現代に生きる私たちは、生きるために食べるのではない。生きるために食べるために、それとは別個のもうひとつの手続きを踏むことによって生きている。それに対して、狩猟採集民は生きるために日々、森の中に、原野に、食べ物を探しに出かけるというわけだ。(19頁)

 何かを蓄えようとせず、その日にその場所にあるものを分け合って食べることを<普通>とするプナンの社会に対して、現代市民社会では目的を持って日々の生活を送ります。その目的とは、将来における満足を最大化することであったり、働きがいや生きがいといった人生における意味を得ることです。

 著者はどちらが優れているということを主張したいわけではないと説明していますし、その通りなのでしょう。両者を比較することで、少なくとも現代市民社会に生きる私たちにとっては、何を自明のものとして生きているかが明確になるようです。

 著者の優れた考察は、人類学あるいは社会学のもはや古典的名著ともなっている真木悠介『気流の鳴る音』を思い起こさせます。

 本書で興味深い箇所の一つは、プナンの人々が反省をしないということに気づいた著者の以下の考察です。

 反省しないことは、​プナンの時間の観念のありように深く関わっているのではないかと言う点である(中略)。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。(51頁)

 過去から未来に向けた一直線の矢印で近代以降の市民社会の時間軸を表現することはよくあります。しかしながら、その契機として反省という作用を置いているところが本書の特筆すべき視座なのではないでしょうか。

 ビジネスの現場においても、内省あるいはリフレクションというものは良い意味で注目され、称揚される行為です。私自身もそのように思います。しかし、その内省に焦点を当てて、なぜ内省を私たちが行うのか、反対に言えばプナンの人々はなぜ内省しないのかというリサーチ・クエスチョンによって、著者は鋭く考察を加えます。

 ここでの今を生きるという発想こそが、最初に引用した箇所と繋がります。すなわち、目的意識によって将来を現在よりも価値が高いものとして見出そうとするのではなく、今自体に重きを置くという発想です。

 したがって、プナンの人々は過去に起きた事象を将来への時間軸の中で価値づけるということはせず、今という時点において良いことを行うことに焦点を当てるのです。翻って言えば、私たちは、将来における価値の最大化に重きを起きすぎて、現時点においてゆたかに生きるということを過小評価しすぎているのかもしれませんね。

 こうした発想を所有という概念に展開しているのが以下の箇所です。

 個人的に所有したいという慾への初期対応の違い。
 一方は、所有慾を認め、個人的な所有のアイデアを社会のすみずみにまで行き渡らせ、幸福の追求という理想の実現を、個人の内側に掻き立てるような私たちの社会。他方は、個人の独占慾を殺ぐことによって、ものだけでなく<非・もの>までシェアし、みなで一緒に生き残るというアイデアとやり方を発達させてきたプナンの社会。
 プナン社会では、個人的な所有が前提ではなかった。それゆえに、そこでは、概念としての「貸し借り」は、長い間存在しなかったのである。(127頁)

 著者は、当初、自身が持ってきた決して多くはない貨幣を、プナンの人々が感謝もせずにもらう行為に違和感を覚えたそうである。そこには、貨幣は誰かが所有するという発想が当たり前のものとしてあり、それを侵す行為に対する否定的な感情があります。私たちにとっては当たり前とも言えるものかもしれません。

 しかし、プナンでは、貨幣をはじめとしたものだけではなくものでない存在、例えば知識や能力といったものも個人が所有するという発想ではなく、集団のレベルで共同で共有するという考え方のようです。したがって、狩猟や漁を誰かが特異な力量で優位に行うということではなく、いかにして集団の中で共有するかという生き方に繋がります。そこには、所有によって人々の間に格差が生じるということはありえません。

 こうした自然な協働は、子育てにも影響しているようです。

 プナンのアロペアレンティングは、彼らの生業に関わっているようには思えない。そうではなく、実子であれ養子であれ、そのあいだに垣根を設けず、みなで一緒に育てるというやり方は、プナンの社会に深く広く浸透している共同所有の原理に根ざしているという見方もできるように思われる(中略)。それは、自然に対峙するプナンが、人間同士のコミュニケーションを行う際の根本原理である。(159〜160頁)

 アロペアレンティングとは代理養育のことを指します。プナンでは、養子縁組が盛んであり、実の親ではない人物による養育が当たり前の社会です。子供すらも親が所有するという発想ではなく、社会の中での共有財産として捉えているのかもしれません。

 組織の中における共同での教育という文脈で捉えると、企業社会も同じなのではないでしょうか。所有というパラダイムで考えると、ある社員を育成する存在は、上司であり、メンターや育成担当といったアポイントされた存在だけを考えがちです。

 しかし、そうした存在だけに育成を任せることは、育成の主体にとっても客体にとっても難しくなっているのではないでしょうか。時間の制約もありますし、変化の激しい環境において数少ない主体が育成を担っても効果は限定的と言えます。

 この辺りは中原淳先生の書かれた『職場学習論』を想起させられます。

 同書では、上司、上位者、同僚・同期といった三つの主体が、精神支援、内省支援、業務支援という三つの支援をどのように分有するかを考察されており、プナンの社会における育成主体の分有ということと近いと考えるのは論理の飛躍でしょうか。

 飛躍かどうかはさておき、発想があっちこっちに飛ぶ余地のある書籍は、私にとってはありがたい存在です。時期を見て改めて読み直してみたい、そんな一冊でした。

【第403回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)

2019年8月4日日曜日

【第974回】『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波書店、1989年)


 ラ・ロシュフコーとは、一七世紀のフランスの貴族であり、幾多の戦争を経験した人物である。その人物が、自分自身の人生を省みながら書き連ね、加筆と修正を加えたものがこの箴言集である。本書には、箴言集から除かれたものも記載されていて、なぜ削除したのか、反対になぜこれが残ったのか、とあれこれ自由に考えながら読み進めるのも一興であろう。

 物事をよく知るためには細部を知らねばならない。そして細部はほとんど無限だから、われわれの知識は常に皮相で不完全なのである。(106)

 知識の重要性と、探究しながらも常に不足している状態に対する謙虚な態度が述べられているように思える。無知の知といったところであろうか。

 狂気なしに生きる者は、自分で思うほど賢者ではない。(209)

 狂という概念には否定的な意味合いしか以前は持っていなかったが、論語における狂や吉田松陰・高杉晋作にみる狂に触れてみるとあながちネガティヴなものだけではないようにも感じていた。ラ・ロシュフコーも狂を否定的には捉えていないようだ。もう少し考えてみたい。

【第216回】『孔子伝』(白川静、中央公論新社、1991年)
【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

2019年8月3日土曜日

【第973回】『私の読書遍歴』(木田元、岩波書店、2010年)


 著者の書籍は難しい。西洋哲学、とりわけハイデガー研究の碩学として著名であるため何度となく挑んでみたものの、恥ずかしながら入門と銘打った書籍でもこれまで苦戦し続けてきた。そこでアプローチを変えてみた。著者が何をインプットし何に影響を受けてきたかを知ることで、外に現れない著者の感覚や指向性を理解できるのではないかと思ったのである。

 そこで辿り着いたのが本書である。興味を持続しながら読み進めることができた。著者が影響を受け、どのような時期に何を読んできたのも理解した。果たしてこれを踏まえて著者の書籍を理解できるかは未実証であるが、まずは本書について述べる。

 詩なんか読んで、いったいなにになるんだとおっしゃる方が多いと思う。たしかに、なんにもなりはしない。しかし、こういうことは言えるのではなかろうか。私たちは、日ごろひどく振幅のせまい感情生活を送っているものである。喜びであれ悲しみであれ、よくよく浅いところでしか感じていないのだ。ところが、われわれは詩歌を読み、味わい、感動することによって、喜びや悲しみをもっと深く感じることができるようになる。ものごとを深く感じるためには、それなりの訓練が必要なのである。小説を読むとか音楽を聴くとか、人それぞれにその訓練の仕方は違うであろうが、私にとっては詩歌を読むということが、そのための最良の訓練になったような気がする。若い人たちにも、好きな詩人歌人をさがして、その作品をそらんじるくらい詠みこむことを薦めたい。(108~109頁)

 なぜ詩を読むのか、はたまた小説や音楽を味わうのか。著者の答えはシンプルであり、私たちが抱きえる感情の幅や深さを増すためであるとしている。小説を読む効用としてなんとなく意識してきたものであり納得的であるとともに、詩歌にもチャレンジしてみようと思わせる内容である。

 本には旬があって、ドストエフスキーや太宰治などは、二〇歳前後が旬だと思う。漱石などは、若いときにはむしろその味が分からず、四〇代にでもなってはじめて分かってくるということがありそうだ。鴎外の史伝物などにいたっては、六〇代にでもなってはじめて味読できるといったものではないかと思う。(120頁)

 ではいつなにを読むのか。それぞれの作品には旬があると著者はしている。思い違いしないようにしたほうが良いのは、本そのものに旬があるというよりは、本と自分自身の経験や志向性との相性によって旬が決まるということであろう。したがって、自分で読んでみながら旬を探ってみるというアプローチが良さそうである。

 最後に、単行本の「おわりに」での若者へのメッセージを引いてみたい。

 若い人たちにも、いい会社に入るとか高い給料をもらうといったことを考えるよりも、好きなこと、したいことをして生きることをお薦めしたい。もっとも、自分がなにをしたいのか、なにが好きなのかを見きわめるのがなかなか大変なことではあるわけだが。そして、できればいい本を読んで、深く感じ、深く考えることを学んでもらいたい。繰りかえして言うが、本を読むのは情報を集めたり断片的な知識を蓄えるためだけのものではないのだ。私たちは間もなく消えていなくなるわけだが、こんなに私たちを楽しませてくれた活字文化があっさり消えてなくなったりしないように祈って筆を擱きたい。(223頁)

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)
【第579回】『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

2019年7月28日日曜日

【第972回】『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 菜根譚』(湯浅邦弘、KADOKAWA、2014年)


 著者が「100分de名著」で菜根譚を扱っていた回を見ていて同書に興味を持った。久しぶりに菜根譚に関連する本を読んでみたが面白かった。解説をしてくださる方に信頼感があると、安心して読み進められる。

 洪自誠の基本は、やはり儒家としての道徳心でした。確かに、『菜根譚』には、道家や仏教の思想が色濃く見られ、「無」や「空」の思想まであと一歩のところまできている条もあります。しかし、洪自誠は、ぎりぎりのところで踏みとどまり、道家や仏教とは一線を画しています。現に、仏教や道教を批判する条さえあります。(15頁)

 まず菜根譚は、論語、道教、仏教といった様々な先行する思想を含みながら発展させている書物である。その中でどこに軸を置いているかという論語であるとここで著者はしている。

 耳にはいつも聞きづらい忠言や諫言を聞き、心にはいつも受け入れがたいことがあって、それではじめて、道徳に進み、行動を正しくするための砥石となるのである。もし、言葉がすべて耳に心地よく、ことがらがすべて心に快適であれば、それは、この人生を自ら猛毒の中に埋没させてしまうようなものである。(前週五)(25頁)

 このようなまさに良薬口に苦しのような警句がいいなと思う。

 治世にあっては四角張って生き、乱世にあっては丸く生き、末の世にあっては、四角と丸の生き方を併用しなければならない。善人を待遇するには寛大に、悪人を待遇するには厳格に、普通の人を待遇するには寛大・厳格を併用するのがよい。(前集五〇)(69頁)

 こうした現実を見据えた一言も心地いい。だから菜根譚は現代でも活きる人生訓に満ちた良書と呼ばれ続けるのであろう。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第390回】『菜根譚』(今井字三郎訳注、岩波書店、1975年)

2019年7月27日土曜日

【第971回】『入門 老荘思想』(湯浅邦弘、筑摩書房、2014年)


 孔孟に対して老荘と対比的かつ同一的に捉えられることの多い老子と荘子。本書では、中国思想の碩学である著者が、「入門」と銘打って、老子と荘子の相違に加え、論語との関連性にも触れながら易しく解説してくれている。

 冒頭では、2009年1月に北京大学に寄贈されたほぼ完本の『老子』竹簡群をもとに、従来の『老子』とは異なる解釈がなされてきた背景が説明される。

 従来、『老子』の思想は、儒家に遅れて成立したものであり、「アンチ儒家」の思想だととらえられてきた。しかしそれは、後世のテキストに手が加えられて、そのように解釈されたためではなかったかという可能性すら出てきたのである。(71頁)

 老子は、論語を否定する存在と考えてしまうが、それは、後世の人々がそのような意図で編集したり新たに書を著したために、現代の私たちが理解しているだけなのかもしれない。もちろん、論語と老子との間の考え方の違いは大きいと思うが、違いにだけ焦点を当てる読み方は避けるべきなのだろう。

 『老子』は、無や無為とは言いながら、何もするなと言っているわけではない。無為であるからこそ、為さないことはない、という。少し言葉を補えば、無為にしているように見せかけることによって、実はすべてのことを成し遂げているという意味にもとれる。逆説的な、見方によっては、実に老獪な思想である。(94頁)

 無為自然は老子の一つの有名な考え方である。学問を否定し、知識を無意味だという。しかし、このような老獪な考え方というのも面白い。何も為さなくてもいいというのではなく、何も為していないかのようにみせる、という考え方は興味深い。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第915回】『老子の教え』(安冨歩、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)

2019年7月20日土曜日

【第969回】『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(M・ピュエットら、熊谷淳子訳、早川書房、2018年)


 タイトルがキャッチーな書籍は、今ひとつな品質である時は目を当てられないほどであるが、本書は面白かった。原題は「The Path」であり、孔孟も老荘も重視している「道」をテーマとしていることがわかるだろう。著者が行ったハーバードでの講義を書籍化したものであり、読みやすいのもまたありがたい。

 自己を定義することにこだわりすぎると、ごくせまい意味に限定した自己ー自分で強み、弱み、得手、不得手だと思っていることーを基盤に未来を築いてしまうおそれがある。中国の思想家なら、これでは自分の可能性のほんの一部しか見ていないことになると言うだろう。わたしたちは、特定の時と場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、それが死ぬまで変わらないものと考えてしまう。人間性を画一的なものと見なしたとたん、自分の可能性をみずから限定することになる。(30~31頁)

 あるべき自己は不偏的なものではない。だから、真の自分を探しても構わないが、それはその時点におけるものにすぎず、私たちは自分自身が持つ多様な可能性に意識を当て、柔軟に自身を開発することが必要だ。

 しかし、変化し続けることには不安を伴う。一歩踏み出すことには勇気がいり、常に一歩踏み出せと言われても自信がない人は多いだろう。そうした時に変化の時代における生き方を様々なアプローチで問うて来た中国古典の著者たちの至言に耳を傾けてみたい。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第930回】『論語 増補版』(加地伸行、講談社、2009年)

2019年7月14日日曜日

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)


 老荘思想をここまで意訳的に解説してくれるとうれしい。「簡単な」本の功罪はあれども、やはり何かを入門的に学ぶためにはアクセスしやすい書籍というものはありがたいものである。本書では、老子と荘子の思想が余すことなく描かれている。

老人「老子は無為を説いておるが、『バカでいい』なんてことは言っておらん。殊更な作為をしないと言ったが、これはたとえできたとしても、あえて何もしないことを選ぶとも言える。それに、この後には『天下を取るは常に事無きを以てす』と続き、事を起こさないことを天下を取る条件にあげておる」(44~45頁)

 著者は、老子は老獪だとしてこの言葉を例にとって説明をしている。何もしないとはすなわち努力をしないということではなく、やりすぎを戒めているということなのかもしれない。世の中から離れるのではなく、むしろ世の中とかかわりながら、どのように自分自身を処するのかを説いていると考えると、老子の主張も現実的で面白い。

老人「そう、それだけ。心の持ちようをちょっと変えるだけじゃよ。ただ、もし自分からアクションを起こして状況を打開したければ、『論語』や『孫子』を読めばいい。ワシも読んでおるが、どちらも含蓄に溢れているし、非常に素晴らしい書物じゃ。だが、誰もがその通りにできるとは限らん。そんなときに『こんな考え方もあるんだ』と老荘の教えを知ることができれば、いい意味で肩の力が抜けると思うんじゃ」(169~170頁)

 老荘の世界観には憧れる。しかし、老荘が否定している(ように見える)孔子の世界観にも惹かれる身として、どのように対処すればいいか、迷ってきた。しかし、この箇所を読んで救われる思いがした。勝手に解釈すれば、自分で勝手に選べばいいのである。自分の引き出しとして、老荘も論語も持てば良いのであり、それが自由ということなのではないだろうか。

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)
【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)
【第749回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

2019年7月13日土曜日

【第967回】『老子・荘子』(守屋洋、東洋経済新報社、2007年)


 論語を好む者として、ともすると論語やその解説本にばかり目が向きがちになってしまう。老子は好きだが論語ほどではないし、荘子は正直に言ってまだよくわかっていない。否、老荘を「分かろう」とすること自体が間違ったアプローチなのかもしれない。

 いずれにしろ、老荘をもっと腑に落としたいと感じ、近々荘子を扱う読書会を設けることとしたため、いいテクストを探し求めている。碩学が簡潔にまとめている本書は、入門書としてさすがの感がある。

 人皆、有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり。(67頁(荘子 人間世篇))

 「有用の用」は、現時点において求められるものであるために誰もがわかりやすいものである。だからこそ、多くの人がそこで求められる能力を身につけようとするが、過当競争になるか、身につけた時には時を逸していているかになりがちだ。

 反対に荘子では「無用の用」を発見することの重要性が説かれる。一見して無用に思える内容は、単に暗黙的であるがために客観的に捉えられないだけなのかもしれない。視野を広げて、また時間軸を拡げて、無用の用を意識してみたい。

 人に順いて己を失わず。(197頁(荘子 外物篇))

 この節のタイトルである「柔らかさのなかに主体性がほしい」という著者の要約が素晴らしい。柔軟すぎて日和見主義的になるのではなく、柔軟でありながらも芯を持った対応ということを心がけたいものだ。

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)
【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)
【第749回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

2019年6月29日土曜日

【第964回】『人間は何度でも立ち上がる』(山田忍良、スローウォーター、2019年)


 東寺で著者が約十年にわたって続けてこられている法話会の内容が書籍化された。著者が語りかけてくれるような感覚をおぼえられる贅沢な一冊である。密教というものへの理解が改まるようだ。

 宗教と呼ばれる存在には、大別して二つのものがあると著者は述べる。

 一つは「神さまに救ってもらう方法」。もう一つは「自分で自分を救う方法」です。世界中のほとんどの宗教は前者です。仏教は後者です。すなわち「自分の中に救う種を見出して、修行によって、それを磨いていく」のです。それを「自覚」と言います。(Kindle ver. No. 144)

 特定の宗教を持たない身としては、宗教というものは上記でいうところの前者のイメージで認識していた。しかし仏教では自覚が大事にされるという。その仏教の中でも、密教では自覚道であった仏教を前者にも拡大させた存在である。

 どんな人もその人に合った目標を決めて実践しよう。例えそれが成功しなくても、どんなに失敗しても、途中で挫折しても、何度でもやり直せるんだという道が、貴族であろうが民衆であろうが平等に公開されているんだということを、私たちに気づいてほしいと叫ばれていたのではないでしょうか。(Kindle ver. No. 231)

 何度失敗しても構わない、失敗から学べば良いのであり、だからこそ何にも挑戦しないことが良くないことだとされる。自らが自らを救おうと努力し、その際に他者にも委ねようとするという密教の教えが凝縮された考え方のように思える。

【第737回】『仏教、本当の教え』(植木雅俊、中央公論新社、2011年)

2019年6月22日土曜日

【第962回】『遠野物語』(柳田国男、青空文庫、1976年)


 民俗学者である著者が、岩手県遠野地方でのフィールドスタディで聞き取った話を著述した作品。ユング心理学を直近で読んだからか、人々に膾炙する物語というものに興味がわく。特に同じような意味内容の物語が異口同音に出てくるところが集団的無意識を裏打ちするようで面白い。

 以下は、郭公と時鳥の所以と捉えるか、食糧が十分ではなかった地方における悲劇と見るか、いずれにしろ考えさせられる。

五三
 郭公と時鳥とは昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅きところを自ら食い、中の軟かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分は一層旨かるべしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりと云う。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くと言う。(Kindle ver. No. 526)

【第331回】『民俗学の旅』(宮本常一、講談社、1993年)

2019年4月14日日曜日

【第947回】『陋巷に在り 13 魯の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)

 大作がついに大団円を迎える。尼丘での一件が終わり、魯における孔子の政争へと舞台は移る。やや静かな展開の中であればこそ、孔子や顔回の意志が色濃く現れているように思える。クライマックスに近づき、孔子は魯を出る決意を固める。その孔子に従って魯を出ることを、顔回は即決する。

「潰えたものをただ見守るだけでは将来はありません。わたくし回は先生に学ぶ者です。どうして陋巷に残り、一人楽しむことが出来ましょう」(588頁)


 孔子にとって最愛の弟子と言われる顔回は、ひたすらに孔子を尊敬する存在であった。師弟関係の理想として、微笑ましいとともに羨ましくも感じる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月13日土曜日

【第946回】『陋巷に在り 12 聖の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 子蓉の兄・悪悦。悪意の塊として描かれる彼もまた、子蓉と同様に過酷な幼少期を過ごしていることが明かされる。子蓉とは異なり、悪意しか感じられない彼が、その大きな力をもって子蓉とは異なるアプローチで尼丘へと至る。

 思えばそもそも力自体に倫理道徳的なものはないのである。力を善く使って福をなすことも出来るし、力を悪しく使って禍をなすことも出来る。使う者は仕合わせにもなれるし、その為に非業にして亡びることもある。しかし使われる力は同じものであり、ただ使う者の意図や目的により他者より道徳的評価が下されるにすぎない。実に単純なことなのである。神の力もそうなのかも知れない。(60頁)

 力には悪も善もない。その保有する者の意思によって良き使い方と悪い使い方とが現れるだけである。先の大戦で多大な犠牲によって人類が学んだことがここでも描かれているようだ。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月7日日曜日

【第945回】『陋巷に在り 11 顔の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 戦いの舞台は顔儒の総本山である尼丘へと移行する。そこには顔儒に壊滅的なダメージを与える展開が予感される。尼丘へと向かう子蓉の描写は、禍々しいものを描いているかのようでもあるが、神聖なものを描いているようにも受け取れる。向かってくる顔儒を惨殺するシーンにもどこかもの悲しさが現れる。

 子蓉はきちんと復讐してから、故郷を出たはずであった。しかし記憶は残っていた。子蓉をいつでも縛り付けようとするものの正体は自分の中にいる。記憶を殺さねば、まだ何も清算されないのである。子蓉に潜む底無しの残虐性、瞬時に現れる凶暴さはその記憶に由来するものであった。(206頁)

 顔回とともにこのシリーズの主人公に近い存在にもなりつつある子蓉の内にある残虐性が説明される。なぜ人は残虐な行動が取れるのか。それにもかかわらず、通常の状態では「普通の人」のような人物であり得るのか。幼少期からの人格形成について考えさせられる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月6日土曜日

【第944回】『陋巷に在り 10 命の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔氏の太長老が、自身の娘であり孔子の母親である顔徴在について、妤に対して語り聞かせる。孔子の謎に包まれた誕生における大胆か仮説の提示に魅了されながら一気に読み進められる。以下の引用は、その間に挟まれた顔回と医とのやりとりから。

 秘鍵は問われるものではなく、自ら摑むべきものである。他者の秘匿を考え無しに問うのは非礼である。(324頁)

 一見すると礼に基づいて顔回が医に医術を尋ねただけなのであるが、医はそれに対して怒りを表す。徒に他者に対して尋ねるのではなく、自分で考えて自分で行動してみて会得する。そうした過程を経た上で尋ねるということが礼なのであろうか。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)