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2018年8月14日火曜日

【第865回】『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊、KADOKAWA、2015年)


 人工知能は流行の概念であり、ともするとビッグワードにすらなりかねない、それだけの可能性を有している。ビッグデータ、機械学習、ディープラーニング、ロボティクス、といった近接概念との包含関係や相違を理解し、人工知能のそもそも論を平易に解いてくれるありがたい入門書である。

 囲碁は、将棋よりもさらに盤面の組み合わせが膨大になるので、人工知能が人間に追いつくにはまだしばらく時間がかかりそうだ。人間の思考方法をコンピュータで実現し、人間のプロに勝つには、第5章で出てくるような特徴表現学習の新しい技術が何らかの形で必要だろう。(80頁)

 この箇所は二つの意味で興味深い。

 第一に、著者の予測よりも早く、本書の発刊から二年後の2017年にAlphaGoがトッププロを破った事実は、人工知能の進展の速さを物語るものであろう。

 第二に、「特徴表現学習の新しい技術が何らかの形で必要」という著者の指摘は、ディープラーニングに基づく人工知能同士の膨大な対局で能力を向上させたAlphaGoの出現を正確に予測していたという点である。

 では、人工知能の技術向上を飛躍的に実現するディープラーニングとは何か。人工知能関連の書籍を数冊読んでも理解しきれていなかったが、以下の箇所は概念的に理解がしやすい。

 ディープラーニングは、データをもとに、コンピュータが自ら特徴量をつくり出す。人間が特徴量を設計するのではなく、コンピュータが自ら高次の特徴量を獲得し、それをもとに画像を分類できるようになる。ディープラーニングによって、これまで人間が介在しなければならなかった領域に、ついに人工知能が一歩踏み込んだのだ。(147頁)

 特徴量とは、意訳を恐れずに記せば、ある事象の善悪を判断する根拠の捉え方、のようなものである。囲碁に置き換えれば、ある局面の優劣をどのように捉えるか、膨大な可能性のある次の一手の価値判断をどのように置くか、ということである。

 こうした価値判断は、将棋のソフトでもそうであったように人間が介在する余地がこれまではどうしてもあった。だから、著者は囲碁のソフトがトッププロに勝つにはまだ時間がかかると考えていたのであろう。

 しかし、ディープラーニングという技術は、人間業の要素が強かった特徴量の設計を自ら行えるようにしたのである。そして、AlphaGoは、ディープラーニングの技術どうしの相互フィードバックによる特徴量設計能力の向上を実現した。

 では、どのようにコンピュータは、特徴量の設計能力を身につけたのか。

 特徴量や概念を取り出すということは、非常に長時間の「精錬」の過程を必要とする。何度も熱してはたたき上げ、強くするようなプロセスが必要である。それが、得られる特徴量や概念の頑健性(ロバスト性とも呼ぶ)につながる。そのためにどういうことをやるかというと、一見すると逆説的だが、入力信号に「ノイズ」を加えるのだ。ノイズを加えても出てくる「概念」は、ちょっとやそっとのことではぐらつかない。(168頁)

 ある概念を捉えるために、その概念自体を学ぶだけではなく、ノイズを加えるという点が興味深い。たしかに、私たち人間もある概念を理解するためには近いが異なる概念との対比による経験が寄与するものである。

 たとえば、虫好きな少年であっても、蜘蛛は昆虫ではないと親から指摘されると、昆虫とは何かという理解が飛躍的に進む。ビジュアルやサイズだけで感覚的に捉えるのではなく、定義を明確に理解し、それに基づいた判断ができるようになる。

 こうして人間が固有のものとして持っていたはずの能力を人工知能が身につけていく現代および未来において、私たちはどのように対応すればいいのか。著者の具体的なアドバイスを最後に引用する。

 短期から中期的には、データ分析や人工知能の知識・スキルを身につけることは大変重要である。ところが、長期的に考えると、どうせそういった部分は人工知能がやるようになるから、人間しかできない大局的な判断をできるようになるか、あるいは、むしろ人間対人間の仕事に特化していったほうがよい、ということになる。
 さらに忘れてはならないのが、人間と機会の協調である。(中略)人間とコンピュータの協調により、人間の創造性や能力がさらに引き出されることになるかもしれない。(232~233頁)

【第739回】『人工知能の核心』(羽生善治・NHKスペシャル取材班、NHK出版、2017年)
【第738回】『人工知能はいかにして強くなるのか?』(小野田博一、講談社、2017年)
【第735回】『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(山本一成、ダイヤモンド社、2015年)

2017年12月10日日曜日

【第785回】『サピエンス全史(下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)

 上巻では人類自体に焦点が当てられがちだったのに対して、下巻では、近代西洋諸国がなぜ覇権を握るに至ったのかに焦点が当てられている。近代に至るまでの地域における覇権国家と異なった特徴とは何だったのか。

 ヨーロッパ人が特別なのは、探検して征服したいという、無類の飽くなき野心があったからだ。やろうと思えばできたのかもしれないが、ローマ人はけっしてインドやスカンディナヴィアを征服しようとはしなかったし、ペルシア人はマダガスカルやスペインを、中国人はインドネシアやアフリカをけっして征服しようとはしなかった。たいていの中国の支配者は近くの日本さえも自由にさせた。それは特別なことではなかった。特異なのは近代前期のヨーロッパ人が熱に浮かされ、異質な文化があふれている遠方のまったく未知の土地へ公開し、その海岸へ一歩足を踏み下ろすが早いか、「これらの土地はすべて我々の王のものだ」と宣言したいという意欲に駆られたことだったのだ。(157~158頁)

 飽くなき野心が挙げられている。こうした野心の背景には、上巻であげられた第三の革命である科学革命による技術の裏付けが挙げられるのであろう。科学技術を進展させた西欧近代の人々は、見たかったからではなく、見えてしまったが故に、野心を持ったという側面もあるのではないだろうか。

 一方のスペイン人は、世界は見知らぬ人々の国だらけであることがわかっていたし、よその土地に侵入してまったく未知の状況に対処することにかけては誰よりも経験豊かだった。近代ヨーロッパの征服者にとっては、同時代のヨーロッパの科学者にとってと同様、未知の世界に飛び込むのは胸躍ることだったのだ。(112頁)


 科学革命によって新しい世界を見ることができ、それによって新たな世界へのチャレンジ精神が培われた。チャレンジを続ければ、未知の世界への対応という点で経験値が他の人々よりも格段と上がったのである。


2017年12月9日土曜日

【第784回】『サピエンス全史(上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)

 タイトルが示す通り、気宇壮大な書籍である。人類の歴史における三つの革命として、認知革命、農業革命、科学革命を挙げ、それぞれが生じた背景とそのインパクトについて丹念に述べられている。詳細を細かく理解するというよりも、歴史の大きな流れを追うことで、ダイナミックに私たちの来し方を把握することができる。

 この精神的限界のせいで、人類の集団の規模と複雑さは深刻な制約を受けた。特定の社会の人口と資産の量がある決定的な限界を超えると、大量の数理的データを保存し処理することが必要となった。人間の脳にはそれができないので、体制が崩壊した。農業革命以降、人類の社会的ネットワークは何千年間も、比較的小さく単純なままだった。
 この問題を最初に克服したのは、古代シュメール人だった。(中略)紀元前三五〇〇年と紀元前三〇〇〇年の間に、名も知れぬシュメール人の天才が、脳の外で情報を保存して処理するシステムを発明した。(中略)シュメール人が発明したこのデータ処理システムは、「書記」と呼ばれる。(157~158頁)

 認知革命に関して、文字の発明が与えたインパクトの大きさは、淡々と書かれながらも説得力がある。私たちが当たり前のように活用している言葉や文字というものの抽象性と、それに伴う汎用性がよく理解できる。言語を用いた抽象度の高いコミュニケーションが、ホモ・サピエンスを他の動物たちとを分けたのである。

 認知革命を境に、ホモ・サピエンスはこの点でしだいに例外的な存在になっていった。人々は、見ず知らずの人と日頃から協力し始めた。彼らを「兄弟」や「友人」と想像してのことだ。だが、この「兄弟関係」は普遍的なものではなかった。どこか隣の谷には、あるいは山脈の向こうには、相変わらず「彼ら」の存在を感じられた。最古のファラオであるメネスが紀元前三〇〇〇年ごろにエジプトを統一したとき、エジプトには国境があって、その向こうには「野蛮人」が潜んでいることは、エジプト人たちには明らかだった。野蛮人はよそ者で、脅威であり、エジプト人が望んでいる土地あるいは天然資源をどれだけ持っているかに応じてのみ、関心を惹いた。人々が生み出した想像上の秩序はすべて、人類のかなりの部分を無視する傾向にあった。(212~213頁)


 認知革命は他者とのコミュニケーションを変えただけではなく、連帯のあり方をも変えた。これがコミュニティの範囲を大きく変え、自らが住む地域以外への想像を可能とし、見たこともない人々との間接的な協働を可能とした。


2017年10月23日月曜日

【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)

 異なる分野の碩学同士の真剣な対話はスリリングである。真剣であるからこそ、分からない点を端的かつ鋭く質問し合うために読み手にとって理解がし易くなる。福岡氏の動的平衡論も、池田氏が解説しようとする西田哲学も、どちらも興味がありながら理解が追いついていなかった。本書で徹底的に質疑応答をしてくれているため、理解が進んだように思え、今後も繰り返し読み解くことで理解を深めたいと思える一冊である。

福岡 先ほど、西田哲学はそれ自身で、すでに「科学」としても扱えると発言したのですが、今回、西田哲学に正面から向き合ってみて、私は、生物学、物理学、化学、数学、言語学、歴史学……といったさまざまな学問が西田哲学において融合しているといった印象を強くいたしました。(271頁)

福岡 科学でなんでもできると思っていたら、それは時としてとんでもない災いや誤りを招く。西田哲学はそれを戒めてくれている学でもある、と私は思います。先ほど池田先生は「自然に謙虚に」と言われたのですが、科学者のみならず、およそ研究者というものは、常に自分や自分の研究していることに対して懐疑的な視点を持つことも大切です。西田哲学は、そうしたことをあらためて私たちに思い起こさせてくれる学でもあると思います。(282頁)

 徹底的な対話を経て西田哲学と自身の動的平衡との統合的理解を得た福岡氏が最後の対談で述べた一言に、学際研究の必要性が端的に示されているように思える。近代西洋科学が批判的に捉えられる存在というわけではない。しかし、西洋科学中心で物事を捉えすぎることによる危険性を著者たちは指摘し、様々な学問領域を統合し、自然を中心に据えて謙虚に物事を捉えることの重要性を説く。

 冒頭で著者たちが導き出したのは、自然に還ることの必要性である。

福岡 ヘラクレイトスが「万物は流転する」とか、「相反するところに最も美しい調和がある」と言ったように、自然本来のあり方をとらえようとする立場がある(ピュシスの立場)。一方、それを忘れて、いわゆる「存在者」というものだけでものを語ろうとする立場がある(ロゴスの立場)。プラトン以降の哲学はロゴスの立場に基づくもので、それが続いてきたことに対する一種のアンチテーゼとして、西田は「ピュシスの世界に還れ」という旗印を言わば行間に掲げて、独自の考えを深めていった。(47頁)

 近代西洋科学をロゴスの立場とし、そこからだけ眺めるのではなく、自然に立ち返ることが重要であると両者は述べる。その上で、福岡氏が着目している生物と無生物や内側と外側の「あいだ」の概念が、西田哲学における絶対矛盾と近しい関係にあることが述べられている。

 続いて、ピュシスを基にして、時間と空間をどのように捉えるかというテーマへと両者の対談は進む。

池田 そもそも時間と空間というものを考えることができなくなってしまうんですよ。時間と空間というものはまったく矛盾していますから。片一方は流れていくものだし、もう一方は流れない。しかし、現実においては時間と空間というのは一つになっている。
 そのことを「(絶対)矛盾的自己同一」と西田は言っているわけです。矛盾したものが一つになっている、と。(89頁)

池田 そういう矛盾しているものが自己同一(している)と説かれるわけですけれども、このことを言葉を変えて、「逆に限定されている」とか「逆限定」とも言うんです。
 ですから、「逆限定」と「絶対矛盾的自己同一」というのは、ほとんど同じことを言っている概念なのです。(89頁)

 時間と空間という捉え方は、日常生活を送っていると当たり前の概念として何気なく認識してしまう。ある場面を表現する際に、緯度と経度で空間を同定し、年月日で時間を同定することでその場面を把捉できているように思える。しかし、本来的に流れの概念である時間を年月日で捉えた場合にはそれは「時刻」であると著者たちは指摘する。

 したがって、私が上述したような認識は時間と空間とを一つのものとして捉えられていないものであり、必要とされるのが逆限定という概念である。この概念の難しさは福岡氏ですら本書の対談内で苦闘しているので私自身も分かったとは容易には言えない。しかし、苦闘の末に至った福岡氏の以下のまとめは私たちの理解を促すうえで役に立つだろう。

福岡 逆限定においては、「環境が年輪を包む」ということは同時に「環境が年輪に包まれる」ということも含んでいて、それは「包む・包まれる」という言い方で、ーーこれは「作る・作られる」という言い方に置き換えてもいいのかもしれませんがーー、つまり、ピュシスにおいては、環境が年輪を作ると同時に環境は年輪によって作られている、と。(134頁)

池田 環境が樹木を「包みつつ」樹木に「包まれ」、樹木は、場に「包まれつつ」場を「包む」という逆限定的な関係がここには(見えないながらも)現れているのですが、「逆限定」あるいは「絶対矛盾的自己同一」とはつまり、環境と樹木の「あいだ」のことであって、そこにおいて環境と樹木とは相互に否定し合っています。こうした相互否定関係のうえに成り立つピュシスの働きというものが「歴史的自然の形成作用」ということになるのです。(144頁)

 樹木の中にある年輪と、樹木を取り巻く環境との相互作用についてここでは述べられている。ある一時点をスナップショットで収めると、樹木とその周囲の環境というものはたしかに存在する。そうした空間における両者の存在に、時間という流れを加えると、お互いに影響を与え合う関係性が見えてくる。ある一時点において観測したものを基に私たちは思考を進める傾向があるが、流れという時間を想定して時間をも捉えることが必要なのである。こうした時間論について、対談のテーマは移っていく。

福岡 個体は絶えず交換されるジグソーパズルのごとき細胞によっておぼろげな全体としても存在している、ということが西田においても言われていると思います。
 ですから、「多の自己否定的一」という表現について、「多」というのは多細胞の「多」であり、細胞の構成要素であるというふうに考えると、その構成要素が自己否定している、と言われているわけです。絶えず生まれ変わる。壊されながら作られる。分裂しながら死んでいくのですけれども、また新たなものが生み出される。そういった自己否定性の中に「多」というものはある、と読むことができます。
 けれども、それが同時に「一」であるところの全体というものを構成していて、さらに「一の自己否定的多」としてその逆の働きにも言及されています。そして、「多の自己否定的一」が時間的であり、「一の自己否定的多」が空間的である、と続く。つまり、ここで時間と空間が対比されているわけですけれども、このとき西田先生が言われている時間というのは、合成と分解の繰り返しという動的平衡によって生ずる流れとしての時間ですよね。(156~157頁)

池田 時間を考える場合に、多くの人は過去から未来へという方向に着目し、未来から過去へという反対の方向にはほとんどの人が目を向けることがないわけですけれども、引用文中に「作られたものから作るものへ、作るものから作られたものへ」という表現がありますね。「作られたもの」というのは、要するに過去のことです。「作るもの」というのは未来のことなんですけれども、世界においては両者が絶えず、逆限定的に作用しているんです。
 で、こうした矛盾的自己同一というあり方がすべてにわたって徹底していくところに西田の論理性が現れているのですが、従来、西洋哲学にはこうした論理は存在しなかったわけです。(160~161頁)

 絶対的矛盾的自己同一における時間と空間との関係性は、西田哲学における円環的な時間論へと繋がっていく。

池田 西田では、それは絶対矛盾の自己同一ということになり、ここにおいて、福岡さんの「先回り」(動的平衡)と「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なることになるのです。
 そして、時間というのはただ直線に進むむだけじゃなくて、円環する性格もあるはずだ、ということを西田は明言しています。
 「先回り」という概念が西田においてもしもあったとすれば、直線じゃなくて、円環……、戻って来るという、そういう時間について語られるものでなければならない。そう西田は暗に語っているわけですね。(218~219頁)

 ここまでざっと著者たちの対談で印象に残ったところを関連付けながら引用してきた。しかし、正直に言えば、改めて読み直してみるとあまり理解できていないようである。もう少しじっくりと読みたいと思う。


 その際には、本書で述べられてきた生命というものを、企業組織やそこで働く社員へのアナロジーとして捉えられないかと考えている。というのも、しばしば、企業組織は生命体として捉えられる。そうであれば、ピュシス、時間と空間の「あいだ」、絶対矛盾的自己同一/逆限定、円環する時間論、といったものは、企業組織でも援用できるのではないかと考えるからである。機会を作って、もう少しじっくりと取り組んでみたい。


2017年8月15日火曜日

【第739回】『人工知能の核心』(羽生善治・NHKスペシャル取材班、NHK出版、2017年)

 NHKスペシャルで著者が人工知能を取材していた番組は興味深かったのであるが、必ずしも内容を理解しきれなかった。当時はまだ人工知能というものを書籍でも読んだことがなかったので咀嚼できなかったのだと思う。図書館で本書を偶然に見つけて、復習も兼ねて、著者が人工知能という存在をどのように捉えて、どのように共存しようとしているかを学ぼうと考えた。

 私は、これまで将棋の本で折に触れて、無駄な情報を扱うことを減らす「引き算」の思考にこそ人間の頭脳の使い方の特徴があると書いてきました。ディープラーニングに、こういう「引き算」の要素が入っていることは、とても面白く思います。(25頁)

 情報を膨大に蓄積することで能力を高めていくコンピュターに対して、将棋の棋士として大事なことの一つとして無駄な情報を減らすという引き算が重要であると著者は述べる。こうした人間の持つ強みの部分を、ディープラーニングは機能として持っているというから驚く。著者特有の軽妙な言い回しで表現されるために、これが恐怖としてよりも、ディープラーニングを行うコンピュータに共感を覚えながら読めてしまうから面白い。

 認識エラーが発生したという結果から遡って、つまり信号が逆方向に流れて、問題のありそうなところの「重みづけ」を自動的に変更する、というようなことを繰り返せば、認識の精度は向上するはず。これが「誤差逆伝播法」と言われる手法で、ディープラーニングは、この手法に工夫を加えて出来ているアルゴリズムだ。(57頁)

 「引き算」をディープラーニングがどのように行うのかを、取材班が解説した箇所である。最初に引用した箇所とセットで読むことで、著者が述べたかったことをより理解できる。

 そのときに大事なのは、実は「こうすればうまくいく」ではなくて、「これをやったらうまくいかない」を、いかにたくさん知っているかです。取捨選択の「捨てる方」を見極める目こそが、経験で磨かれていくのです。(210頁)

 引き算をできるようになるためには、経験によって磨き、経験を活かすことである。成功体験が後で自身に復讐するという考え方がある中で、この部分は納得しやすいのではないか。失敗から謙虚に学ぶことは、失敗を繰り返さないようにすることとともに、長期的な成功へと活かすことができるのかもしれない。

 人工知能は、データなしに学習できない存在だということです。とすれば、データが存在しない、未知の領域に挑戦していくことは、人間にとっても人工知能にとっても、大きな意味を持つと考えています。(215~216頁)

 いい捨て方を学ぶことによって、未知の領域に挑戦し、すぐに失敗してもすぐに修正して立て直す対応力が磨かれる。変化に激しい時代と言われて久しい現代社会において、こうしたマインドセットが求められているのである。

 

2017年8月14日月曜日

【第738回】『人工知能はいかにして強くなるのか?』(小野田博一、講談社、2017年)

 人工知能という存在を初歩の初歩から学ぶ上で、概念の定義を丁寧に行い、様々なボードゲームにおける適用の例をふんだんに示して解説を試みている。今さら聞くに聞けないことを学べる、初心者にとってありがたい一冊である。

 機械学習とは、素データ(集めたままの状態で、何も加工していないデータ)の背後にある何らかの規則をコンピューターが拾い上げることです。(27頁)

 著者が何度も本書で述べていることは、「学習」という言葉が使われていても、人間が行う「学習」と人工知能が行う「学習」とは異なる、という点である。ここでは機械学習について述べられており、コンピュータが規則を拾い上げるという特徴が挙げられている。

 換言すれば、データ化されていないものをコンピュータは学べないのであり、どのようにデータ化するかが今後私たちが行うべきものとなるのであろう。例えば、人事の領域で言えば採用はAIが担える可能性が高いと言われている。適用するとしても、採用活動の全てを置き換えるのではなく、どのようにデータを用意し、それをどのように活用するかが鍵となる。少なくとも黎明期においては、私たちがそれを判断しサポートする必要があるのではないか。

 深層学習(deep learning、deep machine learning)は、英語の後者の呼び名でわかるように、機械学習の一部で、ニューラル・ネットワーク(neural network)を使った分析計算とほぼ同義と言っていいでしょう。ニューラル・ネットワークとは、多層パーセプトロン(multilayer perceptron)のことです。パーセプトロンとは、ミンスキー(Mrvin Minsky)の説明によれば、「一群の機械」で「多数の部分的な観測結果を加え合わせることによって判別ーー入力事象が、あるパターンに合致するかどうかの判断ーーをするもの」です。(61頁)

 アルファ碁で広く人口に膾炙した深層学習の定義である。同時並行的にある現象を観測してその結果を統合的に判断することが深層学習であり、ある事象を人間が深掘りするという行為とは異なることが理解できるだろう。言葉の持つイメージ、また翻訳された言葉によって感じる印象があることは致し方ないが、原義における定義を押さえることが、新しい現象を理解する上で必要な態度である。

 人間同士の対局では、とんでもないポカがあって、そこで形勢が逆転することが多々あるので、人間同士の対局だけでデータを解析すると、「一方が優勢な局面(α)でポカをして結局負けた対局」では、αを負けの局面として解析用資料としてしまうことになりますーーそのような解析をしないように工夫されていないならば、ですが。それで、結果予測の解析に正しくないデータが多々加わっていることになるので、人間同士の対局だけの解析では、結果予測がいくぶん正確さに欠けるものとなります。それで、AlphaGo同士の対局を行なって、ポカなし対局データを多量に加えることで結果予測をより正確にしたのです。(215頁)


 最初に引用した機械学習の概念からすると、機械は、良くも悪くも全てから学んでそこから規則を生み出す。したがって、失敗や誤解をそのまま受け取ってしまう。だからこそ、補正が必要であり、その補正の手段として、機械同士のミスのない対局によって学び合うというのだから、空恐ろしい感じもする。


2017年8月11日金曜日

【第735回】『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(山本一成、ダイヤモンド社、2015年)

 今年行われた第2期電王戦で現役の将棋のタイトルホルダーである佐藤天彦名人が将棋ソフト「ポナンザ」に敗れたことはまだ記憶に新しい。そのポナンザの生みの親が、本書の著者である。AIを語る上で最適な人物の一人であることは間違いなく、期待を裏切らない興味深い一冊であった。

 人間は物事を見続けているなかで、適切な一般化や隠れているノウハウを発見するのが得意です。(中略)
 しかし残念ながらコンピュータには、一般化する能力がほとんどありません。ですから人間にとっては途方もないように感じる5万の棋譜ですら、教師としては足りないということになります。コンピュータにはより多くの棋譜が必要なのです。(60頁)

 コンピュータと比較して人間が得意としていることは、一般化や抽象化であるという。私たちが他者と話していて、頭がいいと思う人は、記憶力が優れた人物よりもこうした特徴を有する人物ではないだろうか。

 頭がいいということは知性があると換言できるだろう。知性とは「目的を設計できる能力」(171頁)であるの対して、AIが保有する知能は「目的に向かう道を探す能力」(171頁)だ。他者から与えられたものではなく、自分自身で目的を設定し、その目的に合致した一般化を行うことが知性的な人物が長けた行動特性、ということであろう。

 しかし、人間が持つこうした知性が、必ずしも知能に対して常に優れているというわけではない。

 人間は、あらゆることに意味を感じ、物語を読み取ろうとします。この能力=知性によって人工知能にもならぶパフォーマンスを出すこともありますが、それは意味や物語から離れることができないという制約にもなっています。
 一方、人工知能は、意味や物語から自由なために人間を超えることができますが、目的を設計するという知性を持つことはできていません。(181~182頁)

 一般化は人間の得意技であるが、それに縛られることでデメリットが生じることがあると著者は指摘する。将棋に置き換えれば、定跡や格言といった高度な抽象化はほぼ全ての局面において通用するが、百パーセント正しいわけではない。私たち人間は、一般化されたセオリーに過度にこだわってしまい、そうしたものからかけ離れた発想を持つことが阻害されてしまう。

 こうした意味性や物語性を度外視し、目的に向かう最短距離を目指すことができるのが人工知能である。未知の領域に出会った時のデメリットはあれども、膨大な計算によって既知の領域を増やすことで適用可能な領域を拡げられるのが人工知能のメリットであろう。

 こうして人間と人工知能との得意領域が峻別されていれば良いが、そうした楽観論は残念ながら通用しないようだ。囲碁の世界的棋士を圧倒したアルファ碁で使われていることで有名なディープラーニングは、知性を学習可能な人工知能であるという。人工知能が人間に近づいているというように捉えることも可能であろう。このように捉えれば、本書で指摘されているのは、人工知能と人間の対比というよりも、知性・知能とは何か、というより一般的な問題であるように思えてくる。

 人間の結果を模倣して学習するプログラムは、人間の間違いも学習するのです。もちろんこういった間違いは強化学習をするなかで少しずつ解消されていきますが、少なくともポナンザに関しては、いまだに人間から学習したときの名残があると思います。同じように、人間の知性を上回るようなコンピュータが将来生まれたとしても、必ずそのコンピュータは人間から学習した名残をとどめているはずです。(198頁)


 というのも人工知能はもはや知性や知能といった領域において人間を包含する存在になり得るからである。では私たちが世界に対して貢献でき得るものは一体なんなのか。おそらくは、データにすることができず、私たちが意味を見出して価値を創り出す領域が、人間が今後も行う領域になるのではないか。これが、本書を読んだ段階での私の仮説である。


2017年7月29日土曜日

【第731回】『数学する身体』(森田真生、新潮社、2015年)

 正直に言えば、本格的に数式がふんだんに盛り込まれている書籍を読むのには躊躇してしまう。しかし、それでも時に読みたくなるのが数学に関する書籍であり、そうした意味では、数学の研究者の手になる本書のようなエッセーに巡り会えることは僥倖である。

 起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。数えることも測ることも、計算することも論証することも、すべては生身の身体にはない正確で、確実な知を求める欲求の産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。
 一方で、数学はただ単に身体と対立するのでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。古代においてはもちろん、現代に至ってもなお、数学はいつでも「数学する身体」とともにある。(2頁)

 数学というものに対して、物事を抽象化し、身体という具体的な存在を拡張することで世界を解釈する存在というイメージを持っていた。前者はまさにこうした私のイメージを言い表しているが、後者はその反対である。両者を兼ね備えていることが数学の可能性であり、ともすると忘れてしまう後者に焦点を当てて、丁寧に綴られているところに本書の存在価値がある。

 数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
 ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。(39~40頁)
 抽象化と具体化の統合は、思考と行動の垣根の融解に繋がる。私たちは思考と行動とを二項対立の関係にあるかのように考えてしまう。しかし、その違いをいざ指摘しようとすると、どこまでが思考で、どこからが行動かを言い当てることは難解である。ことほど左様に、思考と行動とは離れた概念ではなく、相補的な存在なのである。

「工場から出てきたばかりの機械に、大学を卒業した人と同じ条件で肩を並べるのを期待するのは不公平というものである」とチューリングはいう。なぜなら人間は、二十年以上他者と接する中で大いに外部からの影響を受け、それによって行動のルールを繰り返し書き換えさせられているからである。知的な機械をつくろうとするならば、機械もまた、そうした干渉に対して開かれていなければならない。つくるべきは大人の脳ではなく、幼児の脳のような、学びに開かれた機械である。(100~101頁)

 著者が「人工知能の最初のマニフェスト」と称揚する数学者チューリングの至言である。たしかに現代を予言するかのような、人工知能の本質を簡潔に指摘した言葉である。閉じるのではなく、開くこと。可変性こそが、知を生み出し、発展させる必要不可欠な要素なのであろう。

 自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。(170頁)


 チューリングとともに著者が本書で取り上げている数学者が岡潔である。「わかる」という経験は論理的に導出する、つまりは客観的に把握することではない。主観によって対象に没入し、その後でそれを客観視することによって初めてその対象を「わかる」ことができる。


2016年7月10日日曜日

【第595回】『高校生の勉強法』(池谷裕二、ナガセ、2002年)

 脳科学者による勉強法に関する書籍。効率的に学ぶという側面もゼロではないが、たのしみながらいかに学びを深めるかということが書かれた良書である。中学生や高校生を持つ親に読んでほしい一冊だ。

 記憶するという行為には、いくつかの種類があり、それぞれに適した年齢や方法が存在する。したがって、あるタイミングまで通用した学習法が、年齢が上がるとともに通用しなくなるということがある。つまり、人間の記憶のメカニズムを理解することによって、ある状況において適した学習の方法に調整し、学習をたのしいものにすることが可能となるのである。

 学習とは「ものごとの関連に気づくこと」だと言えますね。今まで独立していた事象が、頭の中でつながることが学習の正体なのです。(94頁)

 今学んでいるものが既存の知識と何らかの形で関連を持つことに気づくことは知的な喜びである。そして、それが学習することの意味の大きな一つを占めるという著者の指摘は納得的である。加えて、このように解釈すれば、学習というものの持つ苦しいものというイメージを覆すことが可能なのではないだろうか。


2016年5月15日日曜日

【第578回】『脳と仮想』(茂木健一郎、新潮社、2004年)

 著者の初期の作品は、脳科学の知見を文学作品として描かれているようで、趣深く、かつ噛み締めながら読むことができる。久しぶりに読んで、改めて、考えさせられることが多かった。

 漱石が赤シャツであるということに気がつくことで、『坊っちゃん』は私の心をより深いところで傷つけ、それだけ印象深い芸術作品になったのである。
 身体の傷と同じように、すぐれた芸術作品による心の傷も、その傷が深ければ深いほど、その治癒のプロセスに時間がかかる。私はこれから長い間、『坊っちゃん』において漱石が赤シャツであることの痛みを感じ続けることになるだろう。(74頁)

 痛みとは、自分自身が経験するものに限らない。文学や芸術作品から痛みを受け、そこから治癒するプロセスにも意味があるという。作品に対して、受動的だけではなく、能動的に働きかけることで、そこで何らかの引っ掛かりを受けること。そうした引っ掛かりによって得た傷を治す過程が、個人に対して変容を与える。

 再編成の結果新しいものが生み出されるプロセスを、人は創造と呼ぶ。素晴らしい経験をすると、自らもそのような何かを生み出したくなる。適当な形で心が(脳が)傷つけられることで、その治癒の過程としての創造のプロセスが始まる。
 脳は、傷つけられることがなければ、創造することもできないのである。(76頁)

 傷つけられたという主観的な経験を基にして、脳は、再編成を試みる。そうした再編成のプロセスを続けることが、私たちに当初は思い浮かばなかった新たな気づきを与える。そうした気づきは、自分自身にとって新しいものであるばかりではなく、ともすれば、他者にとっても新しい価値を創造することにつながる。

 仮想によって支えられる、魂の自由があって、はじめて私たちは過酷な現実に向かい合うことができるのである。それが、意識を持ってしまった人間の本性というものなのである。(82頁)

 傷つけられて、再編成を行うことで、創造的に仮想を描き出すことができる。そうした仮想によって、私たちは、時に厳しい現実に対処するヒントを得られることができるのであろう。

 この世界は、お互いに絶対的にのぞき込むことのできない心を持った人と人とが行き交う「断絶」の世界である。世界全体を見渡す「神の視点」などない。あるのは、それぞれの人にとっての「個人的世界」だけである。これらの「個人的世界」は、原理的に、絶対的に断絶している。その断絶の壁を超えて、私たちはかろうじてか細い人を結ぶ。その時、他者の心は、断絶の向こうにかろうじて見える仮想として立ち上がる。(159頁)

 仮想とは、自分自身がこの世で生きるためのみに必要なものではない。そうではなく、事実として分かり得ない他者と共有する何かを紡ぎ出すためにも重要なものである。共通の事実を積み上げるだけではなく、共有できる仮想をお互いに創り出そうとする努力が、自身と他者の相互に安心をもたらすものなのかもしれない。

 一つ一つの言葉にまとわりついている「思い出すことのできない記憶」に思いをはせるとき、そこには、夏目漱石が好んだという、「父母未生以前本来の面目」という禅の公案と同じ世界が開かれる。私たちが言葉を使うということ自体が、過去の膨大な人類の体験の総体に思いをはせる行為でもある。
 だから、未来志向であることと、過去の歴史を尊重するということは、矛盾することではなく、一つの生きる態度になり得るのだ。(182~183頁)

 自己と他者という空間軸の広がりに加え、時間軸においても仮想は重要だ。とりわけ、未来を思い描くということも大事ではあるが、そのためにも、過去の歴史を尊重するという謙虚な態度が大事であるという視座を持ちたいものだ。過去を謙虚に振り返ることが、翻って、私たちの未来を描き出すことに繋がるのではないだろうか。


2015年11月1日日曜日

【第508回】『動的平衡』(福岡伸一、木楽舎、2009年)

 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。
 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。
 サスティナブルであることを考えるとき、これは多くのことを示唆してくれる。サスティナブルなものは常に動いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境との間に一定の平衡状態を保っている。(中略)
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。(232~233頁)

 動き続けることによって、自分という存在の身体や人格における安定を保つ。私たちの細胞が常に更新し続けて、少し前の身体的な自分と現在の自分とが全く異なるのであるから、動的に平衡を保つということは私たちの使命となる。見かけの上では、変っている様子が分からないためにイメージしづらいことを、著者は分かりやすく解説してくれている。

 人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。
 つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。(中略)
 細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。それはこれまで見てきたとおりだ。ならば記憶はどこにあるのか。
 それはおそらく細胞の外側にある。正確にいえば、細胞と細胞とのあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連繋を作って互いに結合している。結合して神経回路を作っている。
 神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。(36~37頁)

 記憶に関しても「動的平衡」はもちろん適用される。私のような、自然科学に疎い人間としては、記憶が頭の中のどこかに引き出しのように存在していて、それを探し出す作業を行っているように思ってしまうが、そうではない。細胞が入れ替わることを考えれば、新しい細胞同士を結合する作用こそが、記憶というメカニズムを解き明かす鍵となる。このような構造となっているからこそ、何かを記憶しようとするときに、私たちはそれを既存の知識と結びつけてエピソードとして関連づけることを行なうのである。

 自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目。そして私たちが住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。
 私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは、人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不可思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。
 渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。
 そのように考えるとき、私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。(251頁)

 私たちは、仕事においてもプライベートにおいても、過去からの連続で物事を考えたり、目標から落とし込んで計画を立てるなど、線形的な思考の慣れ過ぎているのではないか。しかし、自然界や伝統的な文化といった過去からの遺産に目を向けると、そこには非線形性の叡智が溢れている。


2015年4月29日水曜日

【第436回】『先を読む頭脳』(羽生善治・伊藤毅志・松原仁、新潮社、2006年)

 記録によれば、本書を読むのは三度目のようだ。将棋界で長くトップ棋士として君臨する羽生善治さんの思考に関して、人工知能や認知科学を専門とする研究者の方々が解説する本書は読み応えがある。

 羽生さんの言葉を見ると、非常に冷静に自分の行動を眺め、そして的確な言葉で説明する能力を持っていることがお分かりいただけると思います。自分の行動や思考を自分の言葉で説明することを「自己説明」と呼び、この説明能力を磨くことで、効果的な学習ができるようになるという研究が、近年認知科学の分野で行われています。(36頁)

 羽生善治さんの様々なインタビュー記事や著書に触れたことがある方は、首肯されるのではないだろうか。また、将棋界以外においても、あるジャンルにおいて一線で長く活躍される方の発言や書籍を紐解くと同じ観想を抱くことが多い。「自己説明」とは、プロフェッショナルを創り出す一つの要素なのではないか。

 本章の最後で羽生さんは、「言語化の重要性」について言及していますが、思考の言語化が学習に非常に有効であることは、近年の認知科学でも注目されていることです。自分の考えを言語化するという作業は、自分を客観的にモニターして、考えをまとめ、理解したことに対して言語というラベルを貼るということを意味します。その結果、ラベル付けしたその事柄に改めて気づかされ、さらに理解が進むのです。この作業を繰り返すことで、知識が精緻化し、定着していくのです。(167頁)

 自己説明の効果的な鍛錬の一つが日常的に言語化を心がけるということであろう。これはなにも難しいことではない。SNSが発達した現代においては、ブログを用いて自身の考えを開陳して外に開かれたコミュニケーションを取ることは可能だし、より手軽にはFacebook等も用いられるだろう。意識して、自分自身の考えや意見を客観的な視点から文字にすること。そうすることで、私たちは、自分の分野におけるプロフェッショナルとして鍛錬することが可能なのではないか。

 初級者の人や、棋力の低い人の思想では、ある局面を見ると、駒野は位置を確かめてどんな局面にあるのかを理解して、どうなったら嬉しいのか、どうなりたいのか、ということを考えます。例えば、序中盤なら、「駒を得するにはどうすればよいか」とか「飛車や角を成り込むにはどうしたらよいか」といった目標を設定して、そうなるためにはどう指したら良いか、という風に考えます。いわゆる目標状態からの「逆算」です。
 ところが、羽生さんや上級者のプレーヤーの思考は全く違います。ある局面を見ると、見た瞬間にその局面が一局の大局の中のどんな状況かがすぐわかって、どうしたら良いのかといった結論が先に浮ぶのです。これが熟達者の行う「順算」です。(117~118頁)

 羽生さんのような達人たちが、我々素人が想像も出来ないほどの早さで正確な手を指せるのは、この「順算」の能力が大きく関わっていると考えられるのです。そして、この「順算」を支えているのが、「時間的チャンク」であり、これが「大局観」の正体ではないかと考えています。(119頁)

 ここでの指摘は私たちの一般的な通念と逆のことが書かれているのではないか、と私には思える。つまり、プロフェッショナルは先々のことを予見して、そこから逆算して行動を取っているように思うのであるが、著者は違うとしている。逆算ではなく順算こそが、熟達者が行っているプラクティスであるとし、それが大局観と呼ばれるものの正体ではないか、としているのである。たしかに、卑近な例で恐縮であるが、逆算で論理的に検討した内容が、経営者や経営層からの指摘で実務家的でかつ視野の狭いソリューションである、ということはよくある。気づきの多い箇所である。

 問題は自分ではぴったり合っていると思っていても、実は刻々と変化する状況の中で、徐々にズレていってしまう場合があるということです。そのズレた部分で、調子がおかしくなっていることがあるのです。
 時間の経過と共に生じるズレを自覚して、いかに調整して自分に合わせていくか。それを考えることが、おそらく自分自身の努力で調子の波を克服することのできる唯一の方法ではないかと思っています。(143頁)

 スランプと表現しても良いだろうし、単なる調子の浮き沈みと表現しても良いだろう。いずれにしろ、私たちの調子は一定ではないのであるのだから、悪いコンディションの時にどのように対応するか、が求められる。ここでも羽生善治さんは、自分自身の現状を認識することが第一であるとした上で、変化した状況から鑑みてズレた部分をモニターすることの重要性を挙げている。自分の取った言動を変えていなくとも、むしろ環境が変化していれば意味を為さないばかりか環境不適応になることすら起こり得る。心したい対応方法である。

2015年4月12日日曜日

【第431回】『免疫の意味論』(多田富雄、青土社、1993年)

 自然科学の書籍を読むことは、必ずしも自然科学を学ぶためではない。少なくとも私にとってはそうである。自然科学を概念的に理解しようとすることは、仕事や日常といった他の要素を考える上での思考訓練になるし、興味深いアナロジーを可能とする。

 身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。(18頁)

 本書で私にとって印象的であったのは、自己とは何か、自己を決めるものは何か、という点である。ここで著者は、脳ではなく免疫系が自己を規定するとしている。

 「非自己」の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は「自己」の認識をもとにして成立していたのである。免疫は、「非自己」に対する反応系として捉えるよりは、「自己」の全一性を保証するために存在するという考えが出てくる。
 ここにきて、「外部世界」を視る反応系としてではなく、「自己」の「内部世界」を監視する調節系としての「免疫」が浮かび上がってくる。(47頁)

 では免疫系はどのように自己を規定するのか。ここでは、非自己を認識し、排除するための機能を有する免疫系が、そうした認識と排除によって自己を規定するというアプローチが指摘されている。つまり、外部世界を把握するためのものではなく、自己という内部世界を調節するためのものとしての免疫系が指摘されているのである。

 たとえば、ジグソーパズルの箱の中には、お互いに相補的なすべての断片が入っている。つまり、一揃いなのである。しかしそれらの断片のエッジは、ひとつひとつ違っており、他のジグソーパズルの断片が紛れ込んだとしても部分的にはそれとつながることができるはずである。それは明らかに異物であるが、他のセットの中に入り込んでもつながることはできる。ただし、これによって図形は変ってしまうが。こうして、自己完結的ジグソーパズルは、外部の異物に対しても開かれていることになる(中略)。「閉鎖性」によって成立する「開放性」である。(64頁)

 簡潔にして明瞭な例示である。内部の構成物の多様性と、そうした一つひとつの多様性から一つの統一された像が成り立つ。加えて、一つひとつのパーツは交換可能であり、そうした交換可能性が開放性に繋がる。

 免疫系というのはこのようにして、単一の細胞が分化する際、場に応じて多様化し、まずひとつの流動的なシステムを構成することから始まる。それから更に起こる多様化と機能獲得の際の決定因子は、まさしく「自己」という場への適応である。「自己」に適応し、「自己」に言及しながら、新たな「自己」というシステムを作り出す。この「自己」は、成立の過程で次々に変容する。(中略)こうした「自己」の変容に言及しながら、このシステムは終生自己組織化を続ける。それが免疫系成立の原則である。(104頁)

 著者が超システム(105頁)と名づける自己言及し続けることで免疫系が成り立つというのは、分かるようで分からない。しかし、そこに自己の可塑性とともに統合性とを見出すこともできるように思える。


2015年3月9日月曜日

【第421回】Newton2015年4月号「スマホ大解剖!」(ニュートンプレス、2015年)

 前職で人事部門にいた際に、内定時代からの教育を担当させていただいていた新卒の某君がFacebookで挙げていた本誌。Newtonという雑誌は、特集のテーマ設定がうまいと思う。その分かりやすさと相俟って、ついつい買ってしまう。

 スマホに関する技術的な内容理解をおさらいするために、通話とバッテリーの二つについて見ていく。

 まずは、FaceTimeやSkypeといったアプリを使った音声通話と、通常の携帯電話での通話との技術上の違いについて。

 LINEなどのアプリが行う音声通話は、メールの送受信やウェブサイトの閲覧と同じく、データ通信(パケット通信)のしくみを使って行われている。(52頁)

 アプリでの音声通話は、パケット通信を用いて行われている。したがって、ネットワーク上の通信環境が悪化すると、音声は途切れがちになったり、接続できなくなってしまうという現象が起きる。

 通常の携帯電話の通話は、一定の通話品質を保つため、通話専用の方式で通信を行っている。具体的には、音声通話を行う間、一部の周波数の範囲をつねに使用するように割り当てている。(52頁)

 一方、通常の携帯電話の通話は、インターネットに接続せず、通話専用の回線を用いているため、通話が途切れるリスクが軽減されている。数年前までは、通信キャリア同士が通話の繋がりやすさを競っていたが、あれは基地局の数とカバー率が不十分であったために起きた現象である。したがって、基地局が必要にして十分な状況であれば、アプリを用いた音声通話と比較して、携帯電話における通話では支障が起きづらい。

 次に、スマホのバッテリー消費について。

 一般的な使い方の場合、バッテリー消費の内訳はおおよそ、画面の表示に2割、利用者が行う通話やインターネットなどの通信に2割、アプリの動作などの電子部品の処理(演算)に4割、そしてスマートフォンが自動で基地局と行う通信に2割といった比率だという(NTTドコモ調べ)。(53頁)

 これは私たちの実感と近いものではないだろうか。たとえば、ある場所への道のりを調べる際にバッテリーの消費の速度が上がることは自明と言えるだろう。また、ダウンロードした音楽を再生する場合に、バッテリーがそれほど減らないことも、このデータに現れていると言えよう。

2014年11月29日土曜日

【第381回】『知ろうとすること。』(早野龍五・糸井重里、新潮社、2014年)

 3・11の時に私は初めてTwitterの影響力を感じた。情報はまさに玉石混淆であったが、多面的に物事を捉えられるという意味では、Twitterは最適なメディアであったと今でも思う。情報の意味内容はもとより、それを発信する主体についても、いろいろと考えさせられる出来事であった。不安を徒に煽ろうとする人もいれば、不安など何もないと強弁して自分自身の不安に不自然に向き合おうとしない人もいた。混乱した状況の中では、率直にかつ淡々と情報に基づいた考察を述べる早野さんのような方や、そうした発信者の存在を広めようとする糸井さんのような存在がいかに貴重であったか。彼らの対談を読んでいると、不安な中でおぼえた安心感を思い出すような気持ちがする。

糸井 「わからないから怖い」って不安に思っている人ほど、新しい情報に対してオープンじゃなかったりしますよね。(16

 節を曲げないと言うと聞こえはいいが、それはすなわち、現状にオープンにならず、頑に可能性に目を向けないことに繋がりかねない。子供は、怖い状態に堪えられずに、目を覆って現実を見ないようにすることで、心に平安を求めようとすることがある。しかし、そうすることで、本来は事態を好転させることができたかもしれない機会を減衰させていることには、気づかないものだ。大人であっても、同じことだろう。

早野 専門は違っても、科学に対する基本的な態度というのは共通して持っているべきだと思います。プロの科学者として発言をするときや、あるいは科学者として人を敬ったりするとき、自分が乗っている基盤には、分野が違っていても最低限わかり合える、基本的な科学の作法や態度、そういったものがあるんだと思います。(150頁)

 自然科学、社会科学、人文科学。科学という言葉の前に何が付こうと、基本的には同じ態度を持って学問に臨むことが求められるのではないか。というよりも、同じ態度と素養を持っていれば、異なる分野におけるプロフェッショナルとの対話ができる可能性が高まる。それは、自分にとってメリットがあるというよりも、人生を豊かにする経験へと誘われることになるのではないだろうか。

早野 科学的なリテラシーというのは、教わって得られるものじゃなくて、自分で鍛えて身につけていくものだと思ってます。今の福島には、科学的なデータや事象など、たくさんの教材があります。さらに高校生たちは、それらを自分のこと、あるいは自分の家族のこととして、真剣に考えることができる環境にあります。その環境を十分に活かして考える力を発揮してもらえるといいな、ということを思っています。(168頁)

 では、科学におけるリテラシーとは何か。早野氏によれば、それはマニュアルのように十把一絡げにしてインプットできるものではなく、自分自身で意識的に涵養していくものであるとしている。良い研究テーマがなければ研究できないという態度ではなく、日常において身の周りにある事象に興味を持って着目し続けること。そうする態度が、科学的なリテラシーを身につけることに繋がるのであろう。

 よく思うのです。事実はひとつしかありません。事実はひとつしかないけれど、その事実をどう見るのか、どう読むのかについては幾通りもの視点があります。
 その視点は、それぞれに大事にされるべきだと思います。のちに正しかったとか、まちがっていたとか明らかになるにしても、「その見方があった」というのは、これまた事実であるからです。善意とか悪意とか、誠実であったか上段として語られていたかについても、問われる必要はありません。とにかく、その視点があったということは消せない事実であります。(174頁)

 科学的なリテラシーを以て世の中に関与することは、物事の多様性を追求し、その豊潤な関係性を受容することなのではないか。ここで引用した糸井氏の「あとがき」を読んでいると、そのようなことまで考えてみたくなる。


2014年11月3日月曜日

【第368回】『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄、中央公論社、1992年)

 生物学の書籍を読むと、組織論や文化論といった社会科学に読み替えて類推を働かせてしまう。飛躍もあるのかもしれないが、自分にとって身になる読書であれば、それは良いものだろうと割り切って考えている。

 本書の場合も同様だ。まず冒頭で著者は、「哺乳類で体重と時間とを測って」みたところ、「時間は体重の1/4乗に比例する」(4頁)としている。体重が重くなればなるほど、その動物が感じる時間は長くなるということである。これは企業も同じなのではないか、とここで邪推が働く。つまり、ベンチャーのように小回りの利く企業体であれば時間の感覚が短く、ヒト・モノ・カネ・情報の動きは速くなる。他方で、大企業になればなるほど、もう少しゆとりをもったリソースの活用ができるようになる。それぞれに特徴があるのであるから、それぞれに適したリソース活用があるのだろう。したがって、ベンチマークをする際には差異を意識する必要がある。

 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。これが古生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。(17~18頁)

 「島の規則」とは非常にアナロジーが利きやすい概念である。興味深く読んでいると、著者自身もこれを日本という社会に置き換えて以下のように記している。

 島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケースは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。(22頁)

 まさに日本という国の特質を表しているようだ。ガラパゴス化と呼ばれる理由には、生物学的な見地からの示唆もあるのだろう。

 時間が違うということは、世界観がまったく異なるということである。「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。(220頁)

 身体のサイズによって感じる時間の早さが異なるという冒頭の気づきがあった時に著者が感じた感想である。これもまた、組織の大きさという観点で考えると面白い。つまり、日本人が感じる歴史に対する感覚と、中国人の抱く歴史に対する感覚は異なることは当たり前だ。より小さい国家である日本は、より近い過去にしか興味関心を抱かず、より大きい国家である中国は、より遠い過去まで興味関心を抱く。したがって、あの戦争における感覚の残量が、中国人よりも日本人は少ないのだろう。端的に言えば、日本人は「遠い過去の戦争の話をいつまでも言われても」と思うのに対して、中国人は「ほんの少し前の戦争のことをなかったかのようにすることを許せない」と思うのかもしれない。ここに、彼我における意識の差異の源泉の一つがあり、その結果として歴史認識による問題が起こるのではないだろうか。



2014年9月22日月曜日

【第341回】『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二、講談社、2013年)

 脳が支配する体側は左右交差しますね。だから人の顔を見るとき、左側の視野で見たものは、交差して右脳に届きます。これでおわかりですね。私たちが見たものを判断するのは「左側」の視野が中心。
 たとえば、(中略)本やポスターは左側のイラストや写真を載せた方が印象に残ります。もっと身近な例では、魚料理もそう。頭を左に向けて置きますよね。(50頁)

 著者の書籍を読むのは数年ぶりである。久々に読んでみて、改めた読んでいて心地よいと感じた。最初に引用した箇所に現れているように、科学的な知見を説明した後で、相手がイメージし易いように、記憶に残るような例示を重ねているからであろう。本書が、著者の出身高校の学生への講義録であるということもあろうが、読者や聴き手を意識した言葉の選択が、著者の書籍における魅力の一つであろう。

 まず著者は、冒頭の部分において、科学とりわけ脳科学の基本的な考え方について、説明を行なっている。

 私たちの心には、「意識できるところ」と「意識できないところ」があるってことです。意識と無意識ですね。そして、どっちの世界が広大かといえば無意識。つまり、私たちの行動や思考のほとんどは無意識的な振る舞いです。
 でも残念なことに私たちは、意識できるところしか意識できないですよね。まあ、それが意識の定義だから、当たり前ですけど。だから、その意識できている自分こそ、自分のすべてであると思い込んでしまいがちなんですよ。
 でも本当はそんなことはない。無意識のレベルで私たちはたくさんのことを考えたり、判断したり、決断したり、欲情を生んだりと、いろんなことをしているんです。
 だから、自分が想像しているほど、自分のことは自分ではわからないんです。「自分のことは自分が一番知っている」なんて思い込みは、ちょっと傲慢で、危険ですらある。他人の方が、案外、自分のことを理解してくれていたりするでしょう。(20~21頁)

 意識できる領域と無意識の領域とでは、後者の方が広大であると説明した上で、私たちが意識できている世界の小ささを指摘している。したがって、自分たちが自分たちの認識している世界をコントロールしているかのような夜郎自大になることに警告を投げかけている。無意識の領域に意識を向けることで、謙虚な気持ちを持つこと、そうした制約の中における私たちの心理や行動を科学することが大事なのであろう。

 私がとくに強調したいことは、サイエンス、とくに実験科学が証明できることは、「相関関係」だけだということです。因果関係は絶対に証明できません。(中略)
 では、科学的に因果関係を導き出せないとすると、この世のどこに「因果関係」が存在するのでしょうか。答えは「私たちの心の中に」ということになります。つまり、脳がそう解釈しているだけ。因果とは脳の錯覚なわけです。(28~29頁)

 どのような学問領域であれ、科学的な研究に携わった人間にとって、因果関係を証明することはできず、相関関係の有無を証明することしかできないことは自明である。著者はこの点を脳科学という観点からさらに深掘りし、因果関係を創り出しているのは私たちの心の中であると指摘する。

 哲学では「存在とは何ぞや」と、大まじめに考えていますが、大脳生理学的に答えるのであれば、存在とは「存在を感知する脳回路が相応の活動をすること」と、手短に落とし込んでしまってよいと思います。つまり私は「事実(fact)」と「真実(truth)」は違うんだということが言いたいのです。
 脳の活動こそが事実、つまり、感覚世界のすべてであって、実際の世界である「真実」については、能は知りえない、いや、脳にとっては知る必要さえなくて、「真実なんてどうでもいい」となるわけです。(37頁)

 ここに、脳科学における射程範囲が明確に書かれている。つまり、脳が認識できる事実を明らかにすることが脳科学が詳らかにする範囲であり、その範囲を認識しておくことで他の学問領域との協働の可能性が見えてくるのであろう。

 こうした基礎的な考え方を踏まえた上で、以下からは、各論について印象的であった部分を列挙して所感を記していく。

 錯誤帰属なんて、はじめて聞く言葉ですね。これは、自分の行動の「意味」や「目的」を、脳は早とちりして、勘違いな理由づけをしてしまうということです。(62頁)

 脳は先んじて何かを意図するというよりも、自分自身が行なった行動の意味付けを後から行なう。自分自身の生きている意味や、行なった行動を正当化するために、自身の言動に意味を見出そうとするのである。

 直感もひらめきも、何かフとしたときに考えを思いつくという意味では似ているのですが、その後、つまり、思いついた後の様子がまるで違うのです。「ひらめき」は思いついた後に理由が言えるんですよ。(中略)
 一方、「直感」は自分でも理由がわからない。「ただなんとなくこう思うんだよね」という漠然とした感覚、それが直感です。そんな曖昧な感覚なのですが、直感は結構正しいんですよね。(中略)
 脳の部位でいうと、理由がわかる「ひらめき」は、理屈や論理に基づく判断ですから、おそらく大脳皮質がメインで担当しているのでしょう。一方の「直感」は基底核です。(79頁)

 私のような素人には似たような概念として捉えてしまいがちな直感とひらめきについて、その違いを内容面と扱う部位の面から分かり易く述べている。ひらめきについては、先に引用したように、後から脳が理由を創り出すというポイントと近いことに留意するべきであろう。

 情報はきちんと保管され、正確に呼び出されるというよりも、記憶は積極的に再構築されるものだってこと。とりわけ、思い出すときに再構築される。思い出すという行為は、単に蓄えられた情報をそのまま引き出すだけでなく、想起を通じて記憶の内容を組み換えて新しいものにする。それが再び保管されて、次に思い出すときにも、同様に再構築されていく。(146頁)

 記憶とは過去の事実をそのまま再現できることではない。過去を振り返ることによって、事実とは異なる新しいものへと変更が為される。つまり、過去の複数の事象を振り返ることによって、私たちは新しい組み合わせを生み出すことができ、そうしたものから創造的な発見が生み出されるのであろう。

 きっとね、行動や決断に「根拠がない」という状態だと、不安で不安でしょうがないという心境になるのだろうね。理由がないと居心地が悪い。だから、いつも脳の内側から一生懸命に自分の「やっていること」、もっと厳密に言えば「やってしまっていること」の意味を必死に探そうとしてしまう。(169頁)

 私たちは過去を探究するために振り返るだけではない。ここでは、理由を創り出すために私たちは過去に目を向けることがあるが示唆されている。そうすることによって、私たちの行動に意味があることを見出して自分自身を納得させることができるのである。

 そういえば、若者たちには、ときどきおもしろい行動を取る人がいるね。「自分探し」とかいって奇妙な旅に出かけちゃう人。自己存在の理由を求めたいんだろうね。
 でもさ、そうやって発見した「自分」が本当の自分だという確証はあるんだろうか。だって脳は作話だらけだから。ウソで塗り固められた虚構を「真の自分だ」と妄信するのは、うーん……まあ、本人の勝手か(笑)。(175頁)

 不安であるが故に理由を探す、という脳の特徴は、「本当の自分」という虚構としての自己の理由を探す自分探しという現代的な現象をも生み出したのであろう。

 「共感」もまた痛みの転用の結果だと言えるね。「疎外感」だけでなく、相手を思いやる温かい気持ちも「痛覚」から生まれるなんて、なんだかホントおもしろいね。そうやって、僕らの「心」の働きは、動物たちが長い進化の過程でつくり上げてきた脳回路を巧妙に使い回して、その合わせ技の上に成立している。(186頁)

 脳の特徴として、同じ領域において異なる複数の感覚を担当しているという点が挙げられている。違う言い方をすれば、限られた領域の中において、可塑性のある豊かで多様な感覚を生み出す工夫を私たちの脳は行なっているのである。

 普通の感覚だと、自由意志は、「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が思い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。結果が伴わない限り自由はない。
 つまり、自由の発生順が逆なんだ。自由というと君らは「未来」に向かって開かれているような気がするでしょ?でも実際には、自由は「過去」に向かって感じるものだ。
 ここで僕が論じたかったのは、「自由意志が存在するかどうか」という問いは、その質問自体が微妙なところがあって、今の議論のように、むしろ、自由を「感じる能力」が私たちの脳に備わっているかどうかという疑問にも変換しうる。つまり、自由意志は、存在するかどうかではなくて、知覚されるものではないか、とね。(282~283頁)

 自由という感覚は、未来ではなくて過去に向けて、存在するのではなく知覚するものである、と著者はする。過去に向かって知覚するということは、自分自身の豊かな認識に対して開かれているというようにも読み替えられるだろう。このように考えれば、私たちは、どのような境遇であっても自由を感じる能力を、脳によって与えられているのかもしれない。

 最後に、脳科学の学際性について。脳科学の有する可能性について触れて、本稿を終わりにしたい。

 脳科学というのは、今までまったく無縁だった学問、たとえば、哲学とか心理学とか社会とか、そういったものを結びつける接着剤の役割を担える分野なんだ。最近では、経済や政治、倫理学、芸術や奇術などにも、脳科学は接近しているんだよ。(432頁)

『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』(森山徹、PHP研究所、2011年)

2014年9月14日日曜日

【第337回】『春宵十話』(岡潔、光文社、2006年)

 著者は日本を代表する数学者である。以前読んだ小林秀雄との対談が面白く、著者の本を他にも読んでみようと思った。本書もまた、含蓄があり、読み応えのある興味深い一冊であった。

 数学者である著者が、数学という学問をどのように捉えているのか。私にとっては、甚だ意外な表現をもって説明をされている。

 数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。(3頁)

 情緒や芸術といった、およそ数学が持つ堅いイメージとはかけ離れた言葉で表現されている。さらに、数学と芸術について、著者はその共通点を別の箇所で記している。

 数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。(164頁)

 数学と芸術の共通点は調和を具現化するものであるとしている。調和を重んじる学問であるのだから、本来は人を重視するものであると著者は述べた上で、現状の学問に対して警鐘を鳴らす。

 学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。(11頁)

 学問は人を大事にするべきものであり、機械のように自動的に為されるものではない。さらには、動物との違いという観点でも考えるべきであると著者は続ける。

 人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。(12頁)

 人を重んじ、調和を為そうとする数学という学問。そうした学問を涵養しようとするためには、促成栽培のように子どもを教育するのではなく、じっくりと成熟するように教育することが大事であると著者は述べる。成熟するということは、人の心を理解するということである。

 人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。(15頁)

 人の心を理解するということは、緻密さが必要であると著者は述べる。物事に対して粗雑に対応するということは、徒に観念的に対応するということに他ならない。緻密に対応するには非常な時間が掛かるわけであり、それが成熟するということなのである。

 全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。種子を土にまけば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。(36~37頁)

 むろん、成熟には時間が掛かる。したがって、辛抱強く、ひたすら、考え続け、行ない続けることである。何度も失敗を繰り返してあきらめそうになっても、もう少しだけ踏ん張って考え、工夫して取り組んでみること。そうした果てしない努力の結果として、時に、取り組んでいる対象のかたちが見えてきて、対象が姿を現す。問題が対象として現出すれば、その解決の方向性も自ずと見えてくる。では、こうした取り組み姿勢をどのように涵養することができるのであろうか。

 動物性の侵入を食いとめようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切で、それには他のこころをよくくむように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつかしさその他の情操を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある。(82頁)

 人を大事にするためには、情緒を育むことが肝要であり、情操、正義、羞恥のセンスを育むことが必要である。こうした他人のこころを理解するためには、他者の悲しみを理解することが重要であるようだ。

 道義の根本は人の悲しみがわかるということにある。自他の別は数え年で五歳くらいからわかり始めるが、人の感情、特に悲しみの感情は一番わかりにくい。(90頁)

 他者の悲しみを分かるようになるということが、情緒を育むことの重要な点である。人のうれしさやたのしさといったポジティヴな側面ではなく、悲しみという一見してネガティヴな側面への理解に焦点を当てるというのは趣き深い。こうした他者への慮りこそが、理性の本質である。

 何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。ところがその不安、心配、疑惑を取り去ってしかも理性らしい頭の働かせ方をすると観念の遊戯といったものになる。近ごろ、本を出すといったことはかなり流行しているが、それらはかなり前から観念の遊戯になっているのではないかと思えるふしがある。(102頁)

 観念の遊戯へと堕すことないように、理性には慎み深さが求められるのであろう。自戒を込めながら、噛み締めたい珠玉の言葉である。


2014年7月12日土曜日

【第305回】『発展コラム式 中学理科の教科書 第1分野(物理・化学)』(滝川洋二編、講談社、2008年)

 本書は、中学の検定教科書における物理と化学分野の内容を要約し、そこから発展させた内容を簡潔にまとめた、さすがはブルーバックスと言いたくなる意欲作である。中学の理科は理解していたように記憶していたが、忘れている部分もあった。また、中学時代に暗記に頼り過ぎた結果、本質を理解していない部分もあった。そうした部分を気軽に学び直す上で、非常に役に立つ書籍である。以下から述べる所感は、自分への学びの備忘録であることをご理解いただきたい。

 音波の山と山の間隔が狭まれば振動数は多くなり、音は高くなります。音階でいうと、救急車の速さが時速50~60kmの場合、だいたい半音高くなります。逆に進行方向の後ろ側では、振動数が少なくなって、音は半音低くなります。
 このように、運動している物体から出る音の振動数が、進行方向の前方と後方とで変化する現象が音のドップラー効果と呼ばれるものです。
 音源のほうが運動するのではなく、音を聞く側が運動している場合も、ドップラー効果は起こります。電車に乗って踏切を通過するとき、踏切の警報音の高さが変化して聞こえるのがその例です。(72頁)

 ドップラー効果については、なんとなく学んだ気もするが、音波との関連できちんと理解していなかった。こうして読み直すと、説明できるレベルにまで理解できる。

 そこで新たに提起されたのが、有機物に共通して含まれている「炭素」に注目し、炭素を含んでいる(骨格とする)物質を有機物とするという定義です。(120頁)
 有機物の種類は多様ですが、どれも炭素原子でできた骨格に他の原子が結びついてできていることから、共通の性質が見られます。検定教科書のエッセンスでふれた「熱すること、こげて炭(炭素)になったり、二酸化炭素が発生したりする」という性質は、有機物が炭素の骨格からできているためにもつ性質です。(122頁)

 大変恥ずかしながら、医薬品業界にいながら、有機物(有機化合物)の定義として炭素が含まれている物質ということを失念していた。研究開発に従事する同僚の会話に有機という単語自体がよく出てくることはあるが、その内実を理解していなかったのである。

 O原子を「酸素」と表現しますが、これは質量保存の法則の提唱者であるラボアジエが、硫酸などに酸素が含まれていることから酸の素と勘違いして命名したことによります。酸性を示すのは、正しくはH+イオン(水素イオン)だったのです。(372頁)

 酸性を示す物質が共通して保有するのは水素イオンであり、アルカリ性の物質が共通して持つのは水酸化物イオンである。そう書かれている部分を読むとそうだったように思えるが、今さら他の人に聴きづらい基礎的なことである。

Newton別冊「わかる時空」(ニュートンプレス、2010年)

2014年6月22日日曜日

【第298回】『生物の世界』(今西錦司、中央公論新社、2002年)

 生物という具体的な主体を通じて世界を眺めると何が見えてくるのであろうか。生物学者であったと同時に登山家でもあった著者の世界観は、生物学のみならず社会学・哲学的な思潮をも彷彿とさせる。

 この世界を構成しているいろいろなものが、お互いになんらかの関係で結ばれているのでなければならないという根拠が、単にこの世界が構造を有し機能を有するというばかりではなくて、かかる構造も機能も要するにもとは一つのものから分化し、生成したものである。その意味で無生物といい生物というも、あるいは動物といい植物というも、そのもとを糺せばみな同じ一つのものに由来するというところに、それらのものの間の根本関係を認めようというのである。(9頁)

 異なる種の間の関係性を見出す上で、こうしたもともとの種は同じであるという考え方は重要であろう。なんらかの共通項があると信じて関係性を眺めれば、そこに共感を得られる縁を見出すことは比較的容易であるからである。

 生物はその統合性によって自己および自己をとりまく環境ないしは世界を統制し支配している。環境といい世界というものも要するに自己の延長であるとすれば、生物の統合性とはすなわち自己の統制であり支配である。(72頁)

 世界の中における自己、自己を取り巻く世界。どちらで表現したところで、自己と世界とは間主観的に相互に影響を与え合う関係である。ともすると私たちは、世界や環境を意識し過ぎることで、自分自身が何もできない存在であるように卑下してしまう。他方、自分自身の意識が強すぎるときには、夜郎自大の精神で生意気な言動をとってしまう。自然に振る舞うことを重視する老子の思想(『老子』(金谷治、講談社、1997年))はこうしたところにも表れる。

 変異ということそれ自身もまた主体の環境化であり、環境の主体化でなければならぬ。生きるということの一表現でなければならぬ。否、よりよく生きるということの表現でなければならぬ。現状維持が死を意味するとき、生物はつねになんらかの意味でよりよく生きようとしているものであるということができる。生物の生活がこのように方向づけられているからこそ、環境化された主体はいよいよその環境を主体化せんとして、いよいよ環境化されて行く。適応の原理はここにあるであろう。(165~166頁)

 適応とはなにかを考えさせられる。それは自己の環境化であるとともに、環境が自己になるということでもある。変化というと、自己を環境に合わせるということに意識が傾注しがちであるが、変化じたいを自分の一部にするという考え方も大事である。

 自己完結性こそは主体性の根原でもあり、全体性の根原でもあり、それはまた歴史の根底にあって歴史を超越し、創造の根底にあって創造を超越したなにものかである。一々の生物も、生物のつくる社会も、この自己完結性を通してつねにこの世界の理念ーーこの世界の自己完結性ーーといったものに触れていなければならない。(186頁)

 他者や環境ばかりをみるのではなく、自分自身を完結させること。むろん、自分自身の中には多種多様なアイデンティティーが存在するのであり、それらを統合させることであり、その統合体としての自分自身を更新し続けること。