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2019年8月25日日曜日

【第980回】『司馬遼太郎『街道をゆく』叡山の諸道II』(司馬遼太郎、朝日新聞出版、2016年)


 比叡山の風景の描写もさることながら、本巻では比叡山の歴史について勉強させられた。最澄が亡くなった後に起こる権力争いは、たぶんに政治的であり、教えを守ろうとする組織がなぜこうなってしまうのか、よくわからない。

 円仁は、終生、横川の山林を愛した。(18頁)

 権力争いには興味を持たなかったが、その卓抜した知識によって座主を務めることになった円仁。円仁は、横川での静謐な生活を楽しみ、結果的に、横川を、東塔・西塔と並ぶ叡山の地域へとすることになった。

 昨年、比叡山を訪れた際にある僧侶の方がおっしゃっていたのは、延暦寺三塔はそれぞれ、東塔=現在、西塔=過去、横川=未来を指すとのことであった。円仁は、彼が生きた時点におけるつまらない政治的な争いという現在にとらわれず、教えの将来における発展に目を向けていたのかもしれない。

【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)

2019年8月24日土曜日

【第979回】『司馬遼太郎『街道をゆく』叡山の諸道I』(司馬遼太郎、朝日新聞出版、2016年)


 比叡山には一度だけ訪れたことがある。使い古された霊験あらたかという形容がいかにも当てはまるような静謐とした所であった。もう一度訪ねてみたいと思い、司馬遼太郎さんの解説を読もうと、本書に手が伸びた次第である。

 もっとも、最澄に対して神秘性を付加したり、個人崇拝をしないということも叡山文化のめでたさであり、同時に坂本の風のよさでもあるにちがいない(39頁)

 比叡山の門前町である坂本に関する著者の形容である。歴史の教科書にも太字で必ず出てくる最澄という人物を、いたずらに特別視しない町の風土に心地よさを感じる。

 子規と最澄には似たところが多い。どちらも物事の創始者でありながら政治性をもたなかったこと、自分の人生の主題について電流に打たれつづけるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流のひとびとが栄えたこと、などである。書のにおいが似るというのは、偶然ではないかもしれない。(41頁)

 最澄の書を見ての所感である。様々な歴史的人物を創作の対象としてきた著者ならではの慧眼といえよう。『坂の上の雲』も読み返したくなってしまう。

【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)

2019年1月13日日曜日

【第921回】『大久保利通』(佐々木克監修、講談社、2004年)


 薩摩時代から維新にかけての盟友であり、最後は「賊軍」にもなった西郷隆盛が人気であるのに対して、後世から大久保利通はあまり肯定的に見られていないようだ。

 しかし、西郷隆盛や高杉晋作らが幕府を倒すエネルギーを発揮したのに対して、倒幕後の統治にエネルギーを注いだのが大久保である。大久保なくして近代日本が形をなしたかはわからない。本書では、大久保を知る多様な人々がその人となりを語っており、大久保利通という人物が立体的に描かれる。

 父はこういう相談には頭から反対したり、いけないと言って止めたりはせず、あまり賛成しない時は、ただもっと考えてみたらよかろうと言うのが常であった。(31頁)

 大久保の次男・牧野伸顕が語った箇所である。子どもの意志を尊重し、放任ではなくオープン質問で子どもに考えさせて責任感を持って人生に取り組めるように関与しているようだ。三男・大久保利武も「子供は大変可愛がった方でした。」(203頁)と述懐しているように、子どもを愛し、子どもから愛された人物であった様子が見受けられる。

 久光公は碁が好きだ。碁をもって近づけば、近づけぬことはあるまい。その時、公はまだお徒目付である。到底お傍へは寄れぬが、碁ならばお慰みの序に、お側へ上がることもできる、お側へ上がってしまえば、いかなるお叱りを蒙っても関わず、思うところを吐露して君公を動かそう、そうして家老なんどに藩政を任さず、新進の鋭才でもって藩政を改革し、勤王の魁をやろう、こういうつもりで万事に思慮周密の大久保公が、これからぼつぼつ碁を習いはじめたのである。(264頁)

 妹や姪が語った箇所であり、大久保の政略的な動きが否定的に後世で捉えられるようになる根拠ともなるようだ。著者は、この談話が得られた後である1921年に発見された大久保自身の日記に久光と打つ約九年前から碁を打っていた箇所から「碁を習いはじめた」という箇所の誤謬を主張する。

 著者の大久保擁護もわからなくはないが、やはり大久保は、島津久光と共有できる場を創るために意図的に碁を利用したのではないだろうか。但し、こうした戦略的な行為は、否定的に捉えられるべきものではなく、むしろ当たり前でありさらには好ましい行為のように私には思える。相手の懐に入ろうと思えば、相手の価値観に触れ、相手の土俵に上がることが重要であり、大久保の行動のどこを否定的に捉えるのか、私にはよくわからない。

 物事を成し遂げるために、自身の想いを共有するステイクホルダーを増やすことは、いつの時代においても重要だと改めて考えさせられた。

【第644回】『「明治」という国家(上)』(司馬遼太郎、日本放送出版協会、1994年)
【第446回】『代表的日本人』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)
【第846回】『ビギナーズ 日本の思想 新版 南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳・解説、KADOKAWA、2017年)

2019年1月6日日曜日

【第919回】『最後の将軍』(司馬遼太郎、文藝春秋社、1997年)


 薩摩や長州、土佐といった明治新政府側に立った作品でも、幕藩体制を守り抜こうとした会津や新選組を描く書籍を読んでも、徳川慶喜は得体の知れない人物であった。何を考え、何を為そうとして行動したのかが理解できず、言動に筋が通っていないように思えてしまうのである。

 本作では、著者の主張は一貫している。徳川慶喜という人物は、他者からの期待が先行し、本人自身も優れた力量を身につけたためにある程度適合できたが、何かを為したかったわけでは決してなかった、という指摘である。

 人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。
 徳川十五代将軍慶喜というひとほど、世の期待をうけつづけてその前半生を生きた人物は類がまれであろう。そのことが、かれの主題をなした。(3頁)
 慶喜はいわば百才を持ってうまれたが、ただひとつ、男として欠落している資質があった。それは、物事に野望を感じられぬということであった。慶喜自身、世子や将軍になりたいとおもったことは一瞬もない。(36頁)

 立場が人をつくる、という言い方がある。たしかにその側面はあるだろうし、とりわけ言動に関しては立場に即したものに変容し易いだろう。しかし、人が抱く思想信条までもが立場によって変容するかどうかは難しく、変容するとしても言動より長い時間を要するのではないか。

 慶喜の場合、徳川家を継承し、政治権力の第一人者を担う上での野望を終生持ち合わせることができなかった。しかし、それを誰が否定できるものであろうか。大政奉還を行った時の慶喜は三十路になる直前の青年にすぎない。薩長土の傑物たちも同じ年代ではあるが、政権を守る側と、それを破壊しようとする側とでは、担うものの大きさが異なる。

 ーー多能におわす。
 ということは、自然、そとにも洩れた。この点も神祖(家康)に似ておわす、という評判を、かれの支持者たちはささやいた。(79頁)

 慶喜は、家康の再来という評判によって徳川側からも薩長側からも過大な評価を得ることになったと言われる。その一つの要素が多能であった点のようだ。多能な才能が彼をして英傑な人物として将軍の座にせしめた一方で、三十路を迎えた直後の戊辰戦争以降の長い隠居生活をゆたかにしたようでもある。

 暗殺された坂本龍馬や大久保利通、周りに担がれて賊軍の名で死を迎えた西郷隆盛の生涯と比べて、慶喜の生涯は必ずしも不幸なものとも言えないのかしれない。

【第644回】『「明治」という国家(上)』(司馬遼太郎、日本放送出版協会、1994年)
【第717回】『覇王の家(上)』(司馬遼太郎、新潮社、2002年)
【第718回】『覇王の家(下)』(司馬遼太郎、新潮社、2002年)
【第810回】『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波書店、1939年)

2018年12月29日土曜日

【第916回】『花神(下)』(司馬遼太郎、新潮社、1976年)


 大村益次郎という人物は、教科書にも出てこないし、幕末を描く歴史ドラマでも端役に近い描かれ方をする。戊辰戦争で東進して江戸城無血開城を成し遂げたのは西郷隆盛であり、その後はなし崩し的に官軍が勝利したかのように私たちは理解してしまう。NHK大河ドラマ「西郷どん」でも、益次郎は無血開城後のワンシーンで数秒後に登場しただけである。

 しかし、倒幕軍の総司令官としての益次郎が存在しなかったらどうなっていたのであろうか、と本書を読むと思わざるを得ない。よく言われているように、鳥羽・伏見においても幕府軍の勢力は官軍より大きく優位であったし、無血開城がなければ江戸における勢力図も怪しかった。

 したがって、無血開城以後においても幕府軍が盛り返す可能性は潜在的に高く、徳川幕府に近かった会津や奥羽の諸藩との闘いは予断を許さなかったのである。そうした状態の中で、江戸と離れた官軍の本拠地である京都とも連携を取りながら戦略を練った益次郎の力量に拠るところは大きい。

 それほどの人物がなぜ目立つことなく人生を終えたのか。暗殺による突然の死もその原因の一つであろうが、仕事への取り組み姿勢にあったようだ。

 ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀歓など結果からみれば無きにひとしく、つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。(542頁)

 著者が「あとがき」で述べているこの箇所を読むと、仕事への取り組みとはどのようにあるべきかを考えさせられる。適切なマインドセットで、目の前の仕事に取り組み続けること。大村益次郎という人物から、現代を生きる私たちが学ぶことは多いのではないだろうか。

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

2018年12月16日日曜日

【第913回】『花神(中)』(司馬遼太郎、新潮社、1976年)


 中巻では、攘夷を至上命題とする革命勢力と化した長州藩の藩士として活動を本格化させ、反幕戦争に至るまでが描かれる。攘夷という思想が持つ排外的な側面を現代において理解することは極めて難しいが、なぜ天皇という存在を中心として社会への変革を目指したのかは興味深い。

 反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大幻想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。(15~16頁)

 権力の主体を替えることにより身分制度の一新を狙う。国民皆兵を先取りするかのように、武士階級以外の戦闘能力化を先んじて行った長州藩の発想の基底には、身分制度の打破があったという著者の捉え方は納得的である。

 蔵六のいう、
「正義をあまねく及ぼす戦いである」
 ということが、兵士たちにも徹底していた。長州藩でいう正義とは、革命と同義語である。長州藩はすでに藩内においても庶民軍をもって上士軍を圧倒し、藩内革命を遂げたが、その成果を他藩に及ぼそうという意識がつよかった。(508頁)

 他藩からすれば余計なお世話と思えるような発想ではある。しかし、こうした思想のレベルで熱狂している集団の持つエネルギーの強さとも言えるのかもしれない。

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

2018年12月15日土曜日

【第912回】『武田信玄 山の巻』(新田次郎、文藝春秋、2005年)


 最終巻では、京都への上洛への意志と、労咳による自らの生命の限界への諦念という、信玄の内なる闘いが展開される。多くの方がご存知の通り、上洛の途上で再び労咳が悪化し、信玄の悲願は叶わず生涯を終えることとなる。

 本書の最終盤を読むと、病気に勝てず信玄は天下を取れなかった、という以前の認識を改めさせられた。もちろん、小説である以上、著者の自由な発想による仮説に基づいた主張ではあるだろうが、納得感のある論旨ではある。

 信長が金を武器として使ったことによって、朝倉義景は変節し、そのために武田信玄の西上作戦は頓挫した。(498頁)

 信玄との直接対決を遅らせるために、信玄の背後をつき得る勢力を懐柔する。この時間を買う戦略が、信玄の病気とも相まって奏功し、信玄の野望は潰えた。

 たしかに信玄は天下を取れなかったが、その最後の戦で大敗を与えた徳川家康が、信玄の治世を学び、江戸幕府の長きに渡る政治に活かしたと言われる。天下に覇を唱えられたなかったが、信玄の遺したものは大きかったのであろう。

【第906回】『武田信玄 風の巻』(新田次郎、文藝春秋、2005年)
【第907回】『武田信玄 林の巻』(新田次郎、文藝春秋、2005年)

【第766回】『八甲田山死の彷徨』(新田次郎、新潮社、1978年)
【第814回】『孤高の人(上)』(新田次郎、新潮社、1973年)
【第816回】『孤高の人(下)』(新田次郎、新潮社、1973年)

2018年12月9日日曜日

【第911回】『花神(上)』(司馬遼太郎、新潮社、1976年)


 幕末の長州に生まれ稀代の軍略家と言われた大村益次郎。一介の村医者が、人との出会いを通じて場所や役割を変化し続け自身の本分を見出していく様は、天職を創り込んでいくような過程のように受け取れる。

 益次郎の医者として、とりわけ蘭医としての師匠は適塾の緒方洪庵である。勉学に励み、適塾の塾頭にまでなった益次郎にとって、緒方洪庵から受けた影響は大きいのだろう。となれば、緒方洪庵がどのような人物であったかが、益次郎の人間性の主要な一部を形成したと考えられる。

 なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。(中略)洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になって人をすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであった点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。(24~25頁)

 自身の立身出世のためではなく、他者を救うために医者を志した緒方洪庵の志は、益次郎にも影響を与えたのだろう。のちに宇和島藩から長州藩へと藩替えをする際には、現代でいうところの役職や給与の大幅なダウンであったが、信頼する桂小五郎を信じて不平も言わずに受け入れている。

 こうした他者のためという意識は、目的のためには手段を変えることを厭わない益次郎のマインドセットにも繋がっているようだ。著者自身が、「筆者は、村田蔵六をとおして日本人を考えようとしているのかもしれない」(405頁)と述べているように、そのような精神性は<日本人>という大きなものにも繋がる可能性がある。技術を手段として捉える考え方について、やや長いが以下に引用する。

「才」
 とは、日本にあってはあくまでも右の意味での道具であった。儒教を「才」とした千数百年のあいだも、べつに冠婚葬祭という生活思想や習慣までシナ式になったわけではなく、シナ人そのものになったわけではない。単に道具であったために、
「漢才はもう古い」
 ということになったとき、古いスキでもすてるような愛着のなさで捨ててしまったのである。
「これからは蘭才の時代である」
 というようになって、蔵六らは大いに時代の需要のなかでときめいたが、しかしそのときめきのなかで、
「そろそろ蘭才は古道具になってしまったのではないか、これからは英才ではないか」
 ということが、蔵六ら蘭学者自身、みずからの持ち学問の時代における鋭利さにうたがいを感ずるところから、早くもささやかれはじめた。道具の新旧感覚であった。(405~406頁)

 さらに意識を新たにしたのは攘夷という当時の思想についてである。生まれ故郷であり、最終的にその藩士として活動する益次郎も攘夷主義を抱いている。蘭医であり、外国人との交流も行なっていた益次郎のこうした主義思想には意外な思いを持っていたが、以下のような攘夷主義の捉え方であれば頭では理解可能な部分もある。

 人の主義は気質によるものだが、蔵六にとってもこの攘夷という気分は生来のものであった。その固有の気分の上に、かれは自分の理論をうちたてた。攘夷という非合理行動によって、日本人の士魂の所在を世界に示しておく必要がある、というものであった。(466頁)

 自身の生来の心情がベースとなっていながら、欧米列強の植民地として国を分割させられた清国の例から学び、このような考え方をするのは、益次郎の軍略家のなせる思考方法なのかもしれない。

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

2018年11月24日土曜日

【第906回】『武田信玄 風の巻』(新田次郎、文藝春秋、2005年)


 織田信長や徳川家康を扱う歴史物を読むと、ほぼ必ず登場するのが武田信玄である。恥ずかしながら、信玄を主人公として扱う作品は、小学生時代に漫画でしか読んだことがなく、私の中ではバイプレイヤー的な存在となってしまっていた。

 信玄といえば騎馬隊をはじめとした勇猛果敢な戦闘集団を率いた戦国大名というイメージが先行する。しかし、甲州法度を制定して政治を整備しようとしたり、信玄堤に代表される環境対策や黒川金山開発といった経済政策など国家経営という観点でも興味深い。そこで信玄その人および彼の行動を理解しようと、本シリーズを読むことにした。

 家康や信長を苦しめた天才というイメージがあったが、読み進めていくと、若くして才能に溢れた存在でありながら失敗も多くしていることがわかる。一人の人間としての成長物語としても読めそうだ。

 たとえば、有名な父・信虎を実質的に国外追放した後の描写はこのような感じである。

 晴信は父信虎の姿が見えなくなるまで、高地に立って見送っていた。戦国に生れた者の悲哀がしみじみと身にしみた。父を追わねば、自分が殺されるから、そうするしかなかったのだ。だからといって実父を追放したという罪の意識は容易に消えるものではなかった。(100~101頁)

 四書五経を書見するシーンが描かれることから、親を敬うという孔子の思想を重視していたことが想起される。父に嫌われ、父の悪政を正すための追放とはいえ、悩み、苦しみながら決断する若きリーダーの人間性が現れている。

 晴信はやがて北信で対決しなければならない仮想敵、長尾景虎との一戦を頭に描いていた。たとえば、合戦の場を、犀川と千曲川の合流点の川中島あたりとするならば、古府中川中島の距離は、長尾景虎のいる越後春日山城と川中島間の距離の二倍に当っている。その距離の差を短縮するには軍の移動速度を速くするしか勝つ道はなかったのである。(536頁)

 武田信玄が旗印に掲げていたと言われる風・林・火・山から成る四部作の第一巻は、長尾景虎の登場をもって終わる。この後の巻で展開されるであろう川中島の戦いへの期待を持たせる演出と言えそうだ。

【第766回】『八甲田山死の彷徨』(新田次郎、新潮社、1978年)
【第814回】『孤高の人(上)』(新田次郎、新潮社、1973年)
【第816回】『孤高の人(下)』(新田次郎、新潮社、1973年)

2018年11月4日日曜日

【第900回】『同日同刻』(山田風太郎、筑摩書房、2006年)


 歴史小説や歴史を扱ったノンフィクションでは、多くの場合は、一つの観点や一人の視点で描かれる。ために、登場する人物たちがどのように関わり合ったのかが主観的になってしまったり、よく描かれなかったりしてしまう。

 本書では、あの戦争の開戦当日と、終戦直前の数日間に焦点を当て、日米を中心に関係者が同じタイミングで何をどのように行なったのかが並行して記述されている。複眼的かつ立体的に、なぜあの戦争が起こり、どのように集結に至ったのかを理解することができるだろう。

 こうした描き方を著者はどのような理由で採用したのか。「まえがき」で端的に以下のように記している。

 同日、できれば同刻の出来事を対照することによって、戦争の悲劇、運命の怖ろしさ、人間の愚かしさはいっそう明らかに浮かびあがるのではなかろうか、と考えた。(3頁)

 著者の想いに溢れた筆致によって、戦争の負の側面が、切実に描かれている。とりわけ、「運命の恐ろしさ」が現れていたのは、ドイツとソ連との闘いと、真珠湾攻撃のタイミングの奇妙なる符号である。

 日本の八日午前五時は、モスクワでは七日午後十一時である。すなわちモスクワ前面の戦線では十二月七日最後の一時間に入ろうとしていた。そしてその日こそ、ソ連軍の猛反撃と零下三十度を超える極寒に耐えかねて、ドイツ軍がついにモスクワ戦線から吹雪の中で総退却を開始した運命の日なのであった。(47頁)

 日本軍によるパールハーバーの奇襲が成功した直後のタイミングで、ドイツ軍がソ連からの退却を開始する。運命の皮肉と見るか、日本の当時の首脳陣による大局観の欠乏と見るか。歴史の恐ろしさが凝縮された箇所である。

【第888回】『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利、文藝春秋社、2006年)
【第46回】『昭和史1926−1945』(半藤一利、平凡社、2009年)

2018年10月28日日曜日

【第898回】『生麦事件(下)』(吉村昭、新潮社、2002年)


 薩英戦争へと至る下巻の前半は緊張感に満ちた展開である。開戦へと至るか否かの交渉が行われる鹿児島湾は、押し寄せるイギリス艦艇によって、穏やかな海から荒れた海へと変わる。こうした情景描写が、小説家の腕の見せ所なのではないか。

 凪いでいた海は徐ろに様相を変え、岸に押し寄せる波の音も高くなった。艦隊の灯火は見えず、海上は濃い闇にとざされていた。(44頁)

 高まる波が収まることはなく、薩英戦争は勃発し、痛み分けのような形で終了する。薩摩藩が賠償金を支払う形式とはいえ、なぜ、イギリスは第二・第三の艦隊を派遣して植民地にするような政策を取らなかったのか。アヘン戦争での同様の政策を考えれば、そうした政策を取ることも考えられたはずだ。

 著者はその理由として、戦後にニューヨークタイムズに掲載された社説で、イギリス艦隊の薩摩藩での行為が残虐な行為として非難されたことを挙げられている。

 この社説は、アメリカ国内で強い支持を得たが、イギリス国内でもイギリス艦隊の鹿児島市街を焦土とした行為を批判する声がたかまった。(94頁)

 民主主義国家として、イギリスの対外政策は国内世論の影響を受けたわけである。当時の日本を取り巻く他国の情勢は、幕末の日本の勢力図に大きな影響を与えたようだ。

 鳥羽伏見以降の薩長軍と旧幕府軍との争いは、武器の差が明暗を分けたと言われる。では、なぜ武器が薩長に流れたのか。一つは、イギリスと戦った薩摩と、下関で四カ国と戦った長州とが、海外の武器の優越性を理解していたから、という需要サイドで説明できる。他方、供給サイドでは1961年から1965年まで続いた南北戦争が挙げられる。

 南北戦争はその年の四月に終結し、不要になった多量の銃が上海をへて長崎に流入していて、短期間にグラバーはそれらの銃をかき集め、井上、伊藤との間で売買契約をむすんだ。量はおびただしく、ミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺で、代価総額九万二千四百両であった。長州藩も、紙、塩、蠟を専売品とし、倹約を徹底して財源の蓄積につとめていた。(268頁)

 国際的な軍需産業と戦争との相補関係の一端を担ったと考えると嫌な思いがするが、日本史と世界史とを比べて考えてみることの重要性を改めて考えさせられた。

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

2018年10月14日日曜日

【第894回】『生麦事件(上)』(吉村昭、新潮社、2002年)


 薩摩藩の大名行列の邪魔をしたイギリス人が殺害されたことの意趣返しで薩英戦争が起こり、しかしその戦後対応でイギリスと薩摩藩が近づく契機となった事件。これが生麦事件として称される史実の後生的な評価であろう。

 この前半の表現からは、薩摩藩は当時尊王攘夷の機運一筋のような印象を受けるが、むしろ本書では、藩主の父であり実質的な実験者である島津久光の開明的な姿勢が描かれる。久光の前藩主である斉彬の頃から「藩主が藩士たちに、来航する外国船に決して敵意をいだくことなく、外国人にも穏やかに接するよう指示していた」(19頁)ようだ。

 したがって、久光の観点からすれば、大名行列を横切るという違法行為を働いた人物をルールに基づいて処罰しただけであり、その対象が外国人であったというだけに過ぎない。

 生麦村の事件については、家臣が外国人に斬りつけたのはやむを得ぬことと久光はその行為を是認していた。大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は打果してもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える。(147~148頁)

 現代市民社会の感覚からすれば、「切り捨て御免」は、武士という当時の日本社会における特権階級に対する特権にも読み取れる。ただし、当時の武士階層のトップにいる藩主が「切り捨て御免」を所与のものとして捉えることも理解はできる。<日本>という内側の論理が、その論理が通用しない他国との接点で生じた事件なのであろう。

 生麦事件を機に、薩摩藩と幕府、薩摩藩とイギリス、幕府とイギリス、という三者間のギリギリの交渉が展開され、薩英戦争へと繋がる緊張が描かれる。そうした緊迫感のある展開に、以下のような美しい風景の描写が彩りをもたらしている。

 相変らず雨の気配はなく、藩邸はまばゆい陽光に晒されていた。(7頁)
 鹿児島湾の海面は、眩く輝いていた。(312頁)

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

2018年10月8日月曜日

【第892回】『天狗争乱』(吉村昭、新潮社、1997年)


 桜田門外ノ変へと至る水戸藩内の門閥派と改革派の対立構造は著者の『桜田門外ノ変』に詳しい。同書における改革派が、事変後数年を経て尊攘派と受け継がれた。

 門閥派は、そうした尊攘派を「身分の低い尊攘派の者が急に鼻を高くして威張りちらすとして、蔑みの意味をこめて天狗派と呼ぶようになった」(33頁)という。これが天狗派もしくは天狗勢と呼ばれる水戸藩を中心とした急進的な尊攘派の一連の争乱へと繋がる。

 天狗勢の佇まいの清々しさを以前何かの書籍で読んでいて印象深かったのであるが、それは、後半における京への西上過程の行動のようだ。前半は、水戸藩内における門閥派との政治闘争に敗れての暴発的な決起、一部の隊による過剰な軍資金獲得のための町民への残虐行為など暗鬱とした展開が続く。

 武田耕雲斎をトップに据えて、京都へ西上して一橋慶喜に尊王攘夷を直訴することを最終目標に置いてから、規律が厳格に規定され、規律的な集団行動が取られるようになる。しかし、前半期における一部の悪行の印象を完全に払拭することは難しく、また尊王攘夷という思想に基づいた集団ということもポジティヴな印象には繋がらなかったようだ。

 尊王攘夷という一つの思想によってかたく団結した天狗勢は、きわめて不気味な存在に思えた。それに、下仁田、和田峠の戦いでもあきらかなように、天狗勢は、すぐれた作戦能力をもち、隊員の戦意は旺盛で、そのような類のないほどの戦闘集団の入京は脅威であった。(490頁)

 いつの時代でも、特定の宗教や人物を過剰に信奉する組織はカルト集団として警戒されるようだ。尊王攘夷は、当時は一般民衆の間でもそれなりに受け容れられていた考え方である。そうであっても警戒され、さらには天狗勢が慕っていた一橋慶喜も、彼らを京都に入れることのリスクと、幕府への忠誠を優先して天狗勢の入京を拒否する。

 徳川斉昭の息子にして改革派の精神的な拠り所であった一橋慶喜の拒絶により、天狗勢の行動はあっさりと終了する。潔いと形容するには、あまりにもの哀しい結末であった。

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

2018年10月6日土曜日

【第890回】『村上海賊の娘(四)』(和田竜、新潮社、2016年)


 一見して関連がなかったようなエピソードで描かれてきた人物たちが、一つの合戦の中で、見事に一つのストーリーとして紡ぎ出される。闘いの中でそれぞれの人生観を表出し、ある者は勝機を見出し、またある者は死ぬ。

 本書は、史実を丹念に調べて著されたものだそうだ。とはいえ、合戦を実際に観察して描いたものではないのであるから、点と点を結ぶ多くの伏線は著者の創作である。一つひとつの事実を基に、物語を描き出す見事な筆致に唸らさせられる。

「次郎を思っ切り阿呆に育てちゃってくれ」
 この一言で、道夢斎は敗戦を悟った。あの燃え盛る安宅で何が起きたかは分からぬが、無謀にも海賊王の軍勢に挑んだ我が息子が打ち取られたことだけは間違いない。
 それでも道夢斎は、哄笑していた。息子をこんな阿呆に育てたのは自分ではないか。孫もそうしろというのなら、お手の物だ。(294頁)

 主人公の敵役でありながらも、もう一人の主人公と言って良い七五三兵衛の最期のシーン。悲壮感はないが、感動的だから不思議だ。死に際してこれほど達観できるものなのであろうか。

【第886回】『村上海賊の娘(一)』(和田竜、新潮社、2016年)
【第887回】『村上海賊の娘(二)』(和田竜、新潮社、2016年)
【第889回】『村上海賊の娘(三)』(和田竜、新潮社、2016年)

2018年9月30日日曜日

【第889回】『村上海賊の娘(三)』(和田竜、新潮社、2016年)


 戦働きという偶像に憧れていた主人公が、第二巻における自家の存続を賭けて争う戦場での命のやり取りを目の当たりにして自身の甘さに気づかされ、思い悩む。それまでの冒険活劇やリーダーシップの物語から一転して落ち着いたトーンで展開される。

 姉は自分と違い、戦に出たがっていた。それがいまや、「戦船に女を乗る事堅く可禁」という軍書の条文ではなく、自らに資質がないと思い知らされることで道が閉ざされた。だとするならば、その失望は深いものにならざるを得ない。(83頁)

 弟から見た姉の様子がもの哀しさがよく表れていて、読んでいていたたまれない気持ちに吊り込まれる。

 しかし束の間の平穏な生活を送る中で、再び戦場に向かうことを決意する主人公。一向宗徒の老爺を助けられなかった過去の自身への失望から、将来において救いたい存在へと焦点を変えることで自身の想念に静かに気づく。

「瀬戸内を出たとき、あいつらは極楽往生がすでに決まっていると信じていた。それでも、弥陀の御恩に報いるために、行かぬでもいい戦に行って命を捧げたんだ。戦場では退けば地獄だと脅され、話が違うと知っても、あいつらは仏の恩義を忘れようとはしなかった。オレは見事だと思った。立派だと思った。オレはそういう立派な奴らを助けてやりたい。オレはあいつらのために戦ってやりたい」(243頁)

 主人公による、死と再生の物語となり、最終の第四巻へと物語は続く。

【第384回】『国盗り物語(一)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第385回】『国盗り物語(二)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第386回】『国盗り物語(三)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第387回】『国盗り物語(四)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

2018年9月29日土曜日

【第888回】『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利、文藝春秋社、2006年)


 1945年8月14日から15日にかけての、終戦をめぐる日本の権力中枢機構における意思決定過程に焦点を当てたノンフィクション。著者が丹念に調べた事実を基にして、迫真のドラマが紙上に展開される。とりわけ、陸軍の近衛師団の一部によるクーデター未遂の場面は、息が詰まるような思いで、読んでいるこちらにも緊張感が伝わるようだ。

 重大問題には閣僚に飽きるほど機会をあたえ思いのこりのないまでに発言させ、自分は意見をいわず聞えるのか聞えないのか耳を傾けている。そうやって最後のときと感じられるまでじっと堪えている。疾風怒濤の分秒にあって、春風駘蕩の、別の眼でみれば一本土性骨のとおった首相のあり方こそ、よく大任をはたすに最適であったのです。(136~137頁)

 本書を通じて、鈴木貫太郎の春風駘蕩型のリーダーシップとでも言えそうな首相のありようには感服させられる。あの戦争を終えるという意思決定には、生命のリスクがあり、実際に鈴木の暗殺を画策するテロ未遂の様子も描かれている。

 自らイニシアティヴをとって大きな決断をするためには独断専行型のリーダーシップが想起されやすい。政治の世界で言えば、田中角栄や小泉純一郎のようなリーダーが典型的な例であろう。しかし、本書で描かれる鈴木のリーダーシップから私たちが学ばぶものは多いのではないだろうか。

 日本中に待つだけの時間がおとずれた。児玉、厚木の両基地でも、搭乗員、整備員らがすべて集められ、正午の放送を待っていた。滑走路のコンクリートが照りつける陽光を反射して、むれかえるようである。児玉基地の野中少将は熊谷市が劫火につつまれるのを眼のあたりにして、自分たちの努力のなお足らざるに歯ぎしりし、それゆえに、今日の放送はいっそうの奮励努力を天皇がいわれるのであろうと考えていた。(332頁)

 玉音放送直前の静謐な様子が端的に表されている。読んでいるこちらも襟を正し、固唾を吞むような気持ちになってくる。

 このような瞬間が、今後、私たちの身の回りに起こらないように、努力し続ける必要があるだろう。それこそが、歴史を学ぶ意義の大きな一つではないだろうか。

【第866回】『ノモンハンの夏』(半藤一利、文藝春秋社、2001年)
【第46回】『昭和史1926−1945』(半藤一利、平凡社、2009年)
【第47回】『昭和史1945−1989』(半藤一利、平凡社、2009年)

2018年9月24日月曜日

【第887回】『村上海賊の娘(二)』(和田竜、新潮社、2016年)


 一巻ではコメディに近い作品かと思っていたが、二巻に入ると、大坂本願寺と織田軍との手に汗握る戦闘へと場面が展開される。闘いの中で描かれるのは、闘いの前日までは酒宴などで明るく快活な描写の多かった海賊の頭領たちのリーダーシップである。

 同じ泉州の者が窮地に陥れば、形振り構わず加勢に向かうのが、触頭たる者の第一の心得である。この心意気があってこそ、目下の者は頼もしく思い、守り立ててもくれるのだ。(226頁)

 泉州地域における覇権争いをしている家同士であっても、同じ織田軍の中で何れかが劣勢に立つと自ずとサポートをし合っている。飾らない自然体でリーダーシップを発揮していることが、部下たちのフォロワーシップを強化している様がきれいに描かれている。

 酒宴で泉州侍を思いのままに引き回し、木津砦では巨大な銛で我を救い、一万余の軍勢に敢然と立ち向かっては、同じ泉州侍の卑劣なやり口をも笑い飛ばす。
 そんな泉州侍の粋を集めたかのような男が自分を認めた。泉州侍の全部がそっぽを向こうとも、この大男だけは自分を知っている。(267頁)

 さらには頭領同士が、最初は反目し合っていたにも関わらず、闘いの中でお互いを認め合う様もまたいい。リーダーはリーダーを知り、お互いのリーダーシップの発揮に良い影響を与え合うものなのであろう。

【第384回】『国盗り物語(一)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第385回】『国盗り物語(二)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第386回】『国盗り物語(三)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第387回】『国盗り物語(四)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

2018年9月23日日曜日

【第886回】『村上海賊の娘(一)』(和田竜、新潮社、2016年)


 スピーディーな展開で一気に引き込まれる。歴史小説でありながら、現代小説を読むようなイキイキとした感じがする。カラフルな情景が思い浮かび、登場人物の息遣いが聞こえてきそうな作品である。

 小説でありながらも、歴史に関する洞察にハッとさせられる部分もある。たとえば、当時の百姓たちがなぜ一向宗を拠り所とするようになったのか。

 源爺は百姓である。
 戦時には兵として徴発され、平時には年貢と労役を強要された。留吉の父母である息子夫婦もその過酷な生活の中で死んだ。源爺にとって、活きるとは望みを捨てることであった。この爺が望みを後生に託すべく一向宗に傾いたのも無理からぬことである。(273頁)

 月並みな表現となるが、自力で人生を豊かにし生きていける力がないと思った時に、人は、宗教へと誘われるであろう。そうした人々を断罪するのではなく、そのような人々を多く生み出している社会の側の責務に、私たちは目を向けるべきなのかもしれない。

 海賊衆は陸の武士とは異なるしきたりの中で生きている。それは織田家が勃興する遥か以前からの習わし出会った。その前では、天下を窺う信長でさえ無力と言えた。(331頁

 海賊にはなんとなく野蛮なイメージがつきまとう。しかし、仁義を大事にし、新しい文化に柔軟で、粋な生き方を好む人々であった。現代のダイバーシティーを先んじて実践していたかのような存在にも思えてくる。続巻が楽しみな第一巻であった。

【第384回】『国盗り物語(一)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第385回】『国盗り物語(二)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第386回】『国盗り物語(三)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)
【第387回】『国盗り物語(四)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

2018年9月16日日曜日

【第883回】『あの戦争と日本人』(半藤一利、文藝春秋社、2013年)


 唯一の「正しい」事実が積み重なって「正しい」歴史が創られるという考え方は虚構に過ぎない。

 卑近な例ではあるが、私の小学生時代には、源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年に鎌倉幕府が開かれたと教科書で学んだ。「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせを覚えている方も多いだろう。しかし、現在では諸国に守護・地頭の設置を後白河法皇から認められた1185年が鎌倉幕府成立年としてほとんどの教科書で記述されていると聞く。

 さらには、1185年を鎌倉幕府の成立年としているのは現時点での最有力説にすぎず、他にも諸説ある。誤解を恐れずに言えば、歴史的事実とは複数存在するものであり、その時代における権力機構が正史として同定したものが、もっともらしい「歴史」として存在するにすぎない。

 では、歴史家の人々は何を持って歴史を語っているのか。どのようなスタンスで歴史を論じているのか。さらには、私たちはそうした歴史の著作から何をどのように学べるのか。

 わたくしが安吾さんから教わったのは、歴史はどういうふうに読めばいいのかということ。ある一つの事実があっても、その事実がすべてではないんですね。必ずそれに反対するような史実が出てくるに違いない。史料が隠されているに違いない。出てきたときには両方を並べてみて、その間はどうやったらつながるのか、よおく考えてみろ……。まずは常識的な、合理的なものの見方を中心として考え、そしてあとは推理を働かせるんだ……。要するに探偵をしろというんです。歴史探偵はここから始まりました(笑)。(20~21頁)

 歴史とは、反証可能性に開かれた仮説に基づいて述べられるべきものなのではないか。徒に凝り固まった捉え方で歴史を述べようとすることは、その基づく内容がどのようなものであれ、独善的なものになりがちだ。歯切れがよく、思想傾向の近い人々には受け入れられても、開かれた対話には繋がらず、考えを深めたり、他者の気づきを促すきっかけにはならない。

 そうではなく、謙虚に事実と向き合い、対立する事象をじっくりと観察し、耳を傾けること。そうすることで、仮説を紡ぎ出し、対話によって理解を深めたり、対立する考え方を持つ人々同士とがすり合わせる機会を見出すことができるのではないだろうか。

【第866回】『ノモンハンの夏』(半藤一利、文藝春秋社、2001年)
【第46回】『昭和史1926−1945』(半藤一利、平凡社、2009年)
【第47回】『昭和史1945−1989』(半藤一利、平凡社、2009年)
【第163回】『幕末史』(半藤一利、新潮社、2012年)

2018年9月15日土曜日

【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)


 桜田門外ノ変を現場で指揮した関鉄之介に焦点を当てて描かれた本作。変事に至るまでの緊張感の高まる描写も凄いが、暗殺を完遂したのちの行動に多くのページが割かれている。

 本書を読むまでは、桜田門外ノ変は、井伊直弼を殺害するという水戸浪士の怨恨的な目的による事変であったと認識していた。しかし本書によれば、大老を除いた後に朝廷を擁護して官軍として倒幕活動を行うことが大目的であったという。桜田門外ノ変において薩摩藩士が参加していたことからも納得的である。

 しかしながら、事前の計画通りにいかないのが世の常なのであろうか、はたまた計画が杜撰だったからであろうか。井伊直弼の暗殺とともに朝廷を守護するべく兵を上京させると約していた諸藩は動かなかった。鉄之介が事変後に訪れた諸藩での対応にはもの哀しさすら感じられる。

 さらには、脱藩したとはいえ心の拠り所である水戸藩の、事変の関与者に対する対応もまた、凄まじい。

 水戸では、斉昭が藩士に軽はずみな行動に出ることをきびしく禁じたが、会沢正志斎は、大老暗殺を決行した水戸脱藩士たちの行為に激怒していた。
 ことに、総指揮をとった高橋と金子への怒りはきびしく、斉昭に上書して、藩政改革に反対した門閥派の谷田部藤七郎兄弟よりもその害は百倍も重い、と記した。(154頁)

 桜田門外ノ変を起こした水戸藩の改革派にとって、尊崇の対象は藩主斉昭であり、思想的なバックボーンは藩校の教授頭取であった会沢正志斎であった。その両者から、この事変が否定されたのである。改革派にとっては織り込み済みなのかもしれないが、心情的にはどうだったのだろうか。

 それでも、斉昭の存在は鉄之介にとって大きかったようだ。

 かれは、自分の半生が斉昭のためにあったのだ、と常々思っていた。自分だけにとどまらず水戸藩の同志たちは、斉昭の栄誉を維持するために心身を捧げ、桜田事変も斉昭を執拗におとしめた井伊直弼に対する報復であった。そのため多くの同志が命を断ち、捕われ、自分も追われる身ににあっている。
 もしも、斉昭という存在がこの世になければ、自分は下級藩士として妻子とともに水戸城下で安穏にすごし、ささやかな出世を願って勤務にはげんでいただろう。
 斉昭は、自分が生きる意味そのものであり、その死によって心の支えが音を立ててくずれるのを感じた。(291頁)

 逃亡先で、斉昭の訃報に触れた際の鉄之介の述懐である。著者によるフィクションであるとはいえ、読んでいてもの悲しくなるシーンだ。

 ただ、怖いと感じるのは、あとがきで著者が触れているように、桜田門外ノ変は二・二六事件と近い点である。過剰な精神論、一方的な天皇への忠誠、それらを阻害していると認識する権力者の殺害計画、事後の計画の杜撰さ。物語を読み進めると鉄之介や改革派に同情してしまいがちだが、一歩引いて捉えることもまた、重要なのかもしれない。

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第871回】『漂流』(吉村昭、新潮社、1980年)