前作から時代が進み、いよいよ美濃の「国盗り」の総仕上げへと着手する斎藤道三。その人間性の成熟と、類い稀な意志の描写とが興味深い一冊。
美濃をわが力で征服し、あたらしい秩序をつくることこそかれの正義である。
庄九郎の道徳ではそのためには、いかなることをしてもよいのである。旧来の法をまもり、道徳をまもり、神仏に従順な者が、旧秩序をひっくりかえして統一の大業を遂げられるはずがない。(100頁)
旧来の秩序ではなく、自分自身が正義と信じるものに突き進む。見えないものを見て、その実現に向けて周囲に影響を発揮していく。リーダーシップの有り様を見るようである。
「人間、大をなすにはなにが肝要であるかを知っているか」
(中略)
「義だ。孟子にある。孟子が百年をへだてて私淑していた孔子は、仁だといった。ところが末法乱世の世に、仁など持ちあわせている人間はなく、あったところで生まれつきのお人好しだけだろう。そこで孟子は、義といういわばたれでも真似のできる戦国むきの道徳を提唱した。孟子の時代といまの日本とは、鏡で映したほどに似ている」(202頁)
何を以て自分自身の拠り所とするか。道三は、それを義であるとしている。むろん、自分自身が抱く大望もあるだろう。しかし、その大望を律する思想を自分で持つようにしているところが、道三の凄みを増しているのではないだろうか。
人間、善人とか悪人とかいわれるような奴におれはなりたくない。善悪を超絶したもう一段上の自然法爾のなかにおれの精神は住んでおるつもりだ(300頁)
善や悪という判断を下すには主観が入り込む。主観が入り込むということは、そこに無理が加わる。道三の場合は、無理を加えるのではなく、自然を重んじる。リーダーであるということは、自然体であるという側面もあるのだろう。
こうした道三の帝王学を学んだ者が二人いた、と著者はしている。織田信長と明智光秀である。本作のこの後の展開を予告するような以下の箇所が印象的である。
道三が、娘をもつ。その娘の婿になるのが織田信長である。信長と道三の交情というのは濃やかなもので、道三がもっている新時代へのあこがれ、独創性、権謀述数、経済政策、戦争の仕方など世を覆してあたらしい世をつくってゆくすべてのものを、信長なりに吸収した。
さらに、道三には、妻に甥がいる。これが道三に私淑し、相弟子の信長とおなじようなものを吸収した。しかし吸収の仕方がちがっていた。信長は道三のもっている先例を無視した独創性を学んだが、このいま一人の弟子は、道三のもつ古典的教養にあこがれ、その色あいのなかで「道三学」を身につけた。この弟子が、明智光秀である。(181頁)
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