2017年4月30日日曜日

【第702回】Number926「2017年の松坂世代。」(文藝春秋、2017年)

 なんらかのデモグラフィックなデータに基づいて一括りにされるのは好きではない。平均化された人物像が、自分という人間を形容できるとは思えないし、環境に恵まれエリート街道を進んできた人間とまで一緒にされて堪るかというルサンチマンのような反発も覚えてしまう。

 しかし、松坂世代という括りだけは別格な肯定的な響きがある。人並みに野球少年であった私にとって、「松坂大輔」という巨大なアイコンには今でも魅了されるし、彼の一挙手一投足は気になる。このタイミングでなぜこの特集なのかはわからないが、目を通さずにはいられなかった。

 自分で思いついた課題をクリアすることのほうが、バッターを抑えることよりも難しいと思って、ずっとやってきました。満足したら先はないし、その場その場で満足しないというのは、自分への戒めでもあります。自分にはまだまだ成長できる伸びしろがあると思いたいし、今でもうまくなりたいと思って練習してますからね(18~20頁)


 高校、プロ野球、メジャーリーグを通じて既に一時代を築き、度重なる故障で満足に投げられなくなったここ数年。この状況で、まだ現役にこだわるのはなぜなのかと思っていた。彼は、他者との比較や、他者からの評価ではなく、自分自身で目標や課題を課し、それを達成することに喜びを感じてきたのである。だからこそ、そこに課題がある限り、苦しみかつ楽しみながら野球に真摯に取り組むのであろう。こうした姿勢が垣間見えるからこそ、今でも私たちファンを引きつける魅力があるのではないだろうか。


2017年4月29日土曜日

【第701回】『人事評価の総合科学【2回目】』(高橋潔、白桃書房、2010年)

 通して読むのは三度目であるが、いい意味で読むたびに新鮮な学びがある。単に記憶力が低下しているだけなのかもしれないが、その都度で仕事に活かせそうと思うポイントが違うのであろう。読み応えがある書籍というものは、読み手が勝手に思考を進められるものなのではないだろうか。

 評価要素の具体性と観察可能性、評価結果の本人へのフィードバックという観点からすれば、アメリカ流の多次元が勝っているように思えてならない。
 一方、だれをポストに昇進させるかという人事目的であれば、少次元の評価のほうが意思決定に活かしやすい。そもそも評価すべき要素に業績や成果といった職務関連の部分だけでなく、個々人の能力や態度といった属人的要素を含み入れているわが国の人事評価では、個人業績の概念を、より幅広くとらえていこうとする意識が働いているようだ。(50頁)

 評価基準に見る日米の相違について簡潔にまとめられている。職務等級に基づく評価と、職能資格に基づく評価との差異と捉えれば分かりやすいだろう。その上で、昇進・昇格という観点で評価項目を活用するとしたら、少ない項目に基づいていた方が比較が楽であるという点は納得的だ。多数の評価項目があれば、個人への今後の成長課題に対するフィードバックをしやすくする一方で、他者との比較によってどちらが上位職に適しているかを納得させづらいだろう。だからこそ、何をもって昇格の要件とするかを決めることが、大事であるとともにセンシティヴなものとなるのである。

 従来から実施されてきた上司の査定による伝統的な人事考課が、パフォーマンス・マネジメントに取って代わられるだろうというのが、近年の経営学、とくに人事評価研究での1つの認識である。評価を評価で終わらせず、それをパフォーマンスに連動させていくことが、成熟した産業社会における評価のあり方だ。(317頁)

 昨今、企業組織において評価のウェイトが低くなってきている。GoogleやGEの事例をもとに、評価プロセスの簡素化を促そうとする日本企業も多いようだ。Googleの事例は素晴らしいものだし、今後、目指すべき方向の一つとして有力なものだとは思う。しかし、現在の日本企業が、Googleの猿真似をして、評価プロセスを削除したり簡略化することには重大な欠陥があるのではないか。つまり、パフォーマンス・マネジメントの機能としての評価という価値を減衰してしまうことを危惧しているのである。


 Googleの事例は様々な本で紹介されており、同社ではフィードバックが機能しているために、評価を活用することで育成や動機付けを行う必要性は相対的に少ない。翻って、そのような企業が日本にはどれほどあるのだろうか。もし、フィードバック文化がなく、パフォーマンス・マネジメントの土壌がない日本企業において、評価プロセスを簡素化しすぎると、職務を通じて人が育つ環境が破壊されてしまいかねない。この点をよく考えて、Googleをはじめとしたアメリカ企業の事例を読み解いて学んだ方が良いだろう。人事実務に携わる身として、自戒を込めて、強くそう思う。


2017年4月23日日曜日

【第700回】『聖の青春』(大崎善生、講談社、2002年)

 村山聖。将棋をかじったことがある方なら、夭折した悲運の名棋士として記憶しているであろう人物である。そのノンフィクションは、壮絶な彼の人生を物語るものでありながらも、清々しい読後感を与えてくれる。

 将棋を知りそれにのめりこんでいくことによって聖の内面に大きな変化が現れていた。
 聖が将棋という途方もなく深く広がりのある世界を自分なりに覗きこみ、理解しようと努力したことがすべてのはじまりだった。自由に体を動かせないことからくる苛立ちや、身近にある友達の死という絶望感すらも自分自身の内に抑えこむことができるようになっていた。風を切って走り回る緑の草原よりも、春先の山よりも澄みきった川よりも、将棋は聖にとって限りない広がりを感じさせるものだった。(48頁)

 幼くしてネフローゼを罹患し、病院で過ごすことの多かった少年は、その言い知れぬ不安と死への恐怖をうまくコントロールできなかったという。大人でも病というものはストレスを伴うものであるのだから、幼い頃に病を受け容れられないことは想像に難くない。しかし、それを救ったのが将棋であり、将棋を通じて自分が見聞きする世界を拡げていった村山のその後の人生を示しているようだ。

 だが勝ちたいという勝負に負け、何度も挫折した。
 その度に立ち上がり、上を目指した。
 来期最下位、挑戦は難しく降級争いになった時に順位は響いてくるだろう。
 だがたとえB1に落ちようとも何度でも昇るだろう。A級へ。(283頁)

 読んでいて胸が熱くなり、心が震える文章というものにはなかなか出会えるものではない。私の場合、漫画を読んでいた時には、いわゆるスポ根もので出会うことがあったし、個人的にはそうした邂逅は好きであった。この箇所を読んで、「あしたのジョー」や「MAJOR」といった作品で得た感動を思い出した。実際、村山は、病の中でA級からB1へ落ちたその年にA級復帰を果たしている。但し、その復帰を決めた直後に癌の再発が告知され、結局A級で再度戦うことはできなかったのであるが、その執念に感じ入りってしまう。

 同世代の若手棋士や生涯の目標とする谷川には激しい闘志を燃やし、その闘志を隠そうともしない村山だったが、なぜか羽生だけは違った。
 常に自分の上をいき、奇跡のような偉業を次々と成し遂げていく羽生を村山は心から尊敬していた。どんなに疲れていても弱音を吐かず、悔しくても飄々とし、そしていっさい偉そうなことを言わず、そんなそぶりも見せない羽生が村山は好きでしかたなかった。誰とでも同じ目線で話し合い、会話を楽しめる羽生は村山にとっての理想像であった。(359頁)

 羽生の人物像が垣間見えるような一節であり、羽生ファンにとっては堪らない部分である。「常に自分の上をいき」と書かれてはいるが、実際に対戦して全く歯が立たなかったわけではない。村山がもっと長く生きていたら、二人のどのような対戦がその後にあったのかと思ってしまう。そのような「たられば」を期待するのではなく、実際に時代を共にした羽生が、村山の追悼集会で語った言葉がいいなと思う。

「村山さんと同時代でともに戦えたことを私は心から光栄に思います」(385頁)



2017年4月22日土曜日

【第699回】『代表的日本人【2回目】』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)

 味わいながら、時に立ち止まり、じっくりと考えたり、思いに浸ったりしながら、ゆっくりと読み進める読書というものも趣深い。本来的に早く読み進めようと思う性質であるが、自ずとゆっくりと読めるというのはいいものだ。

 部下の評価にあたっては、自分自身に用いたのと同じように、動機の誠実さで判断しました。尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。(88~89頁)

 前回読んだ時もこの部分が印象に残ったようである。人を評価することの是非、もっと言えば、それに時間をかけることの是非が、昨今の企業人事における大きなトピックスになっている。私の立ち位置としては、ざっくりと言えば、評価は必要悪であるのだから、それをもとにして人材の成長を促すようにできればいいのではないか、という考えである。では何に基づいて評価するかとなると、著者が尊徳を評して述べているように、その行動の背景にある動機の誠実さであるという。これは、私たち人事が心したい至言ではなかろうか。モティベーションについては、高低ばかりが論点に上がるが、その内容、特に誠実かどうかに意識を傾けたいものだ。

 わが先生は、近づきやすい人ではありませんでした。はじめて会う人はその身分にかかわりなく、例の東洋流の弁明「仕事が忙しくて」と言われ、きまって門前払いにあいました。それに根負けしない人だけが、話を聞いてもらうことができました。来訪者の忍耐がきれると、いつも「私が助ける時期には、まだいたっていないようだ」とわが先生は語りました。(98頁)


 この部分、私の師匠をご存知の方は同意してくださると思うのであるが、実感をもってよくわかるのである。何度、煮え湯を飲まされたことか、、、という表現を用いる時点で、先生に助けて頂く時期には「まだいたっていない」状況であったということなのであろう。


2017年4月16日日曜日

【第698回】『Excel 最強の教科書[完全版]』(藤井直弥・大山啓介、SBクリエイティブ、2017年)

 正直に言えば、ハウツー本というものをこれまで軽視してきた。表面的なスキルやテクニックを身につけたところで、それは一過性のものに過ぎず、環境変化によって陳腐化してしまう。それよりも、もっと歯ごたえのあるものを読み進めようと格闘したり、美しい日本語や物語を読むことで心を涵養したい。こうした気持ちは今でも基本的には変わらない。

 しかし、である。ハウツー本の効用というものもあるのではないか。そうした類の書籍を敬遠しようとする気持ちに、自分自身の小さなプライドが見え隠れしているのであれば、読むべきなのではないか、と今回のケースでは思い至ったのである。

 これまで見よう見まねでExcelには接してきた。最初に焦ったのは大学院に入る少し前の時分だ。白状すれば、2007年当時でvlookupを使いこなせなかったのであるが、私の研究領域の場合、質問紙調査の基礎的な分析としてvlookupが当たり前のスキルとして求められた。その苦い経験からExcelには苦手意識を持ってきたが、困った時は「Google先生」に聴くという一択でなんとかやりくりしてきた、と思っていた。

 それは思っていたというよりも思い込ませてきたということだったのであろう。冷静に考えれば、何かに困った時に「Google先生」に聴くという発想では、何かを提示したいために分析を行うという正当なプロセスには至らない。プロセスにおける引き出しをいくつか持っていなければ、思考は窮屈になり、自分自身で制約をかけてしまう。だからこそ、自分自身を邪魔していた変なプライドを取り去ろうと思ったのである。


 前置きが長くなったが、本書はExcelの入門書である。私のように、見よう見まねで何とか対応してきた人間にとって、ちょうど良い復習であるとともに、新しい学びを得られる素晴らしいテクストである。もちろん、全てを覚えたということは毛頭ない。今後、オフィスに置いて辞書代わりに参照していこうと思える書だ。

2017年4月15日土曜日

【第697回】『新版 人事の定量分析』(林明文編著、中央経済社、2016年)

 気になってはいたが、ついつい読みそびれてしまっていた本。書店でパラパラと読んで買おうかどうか迷い、他の本を優先してしまって買っていなかった本。そんな書籍が版を重ねて、さらには新版になったと聞いて、ようやく踏ん切りがついた。

 人事という職務の領域にもAIの影響が出てくることは容易に想像できる。楽観的に傍観しているわけではないが、人工知能に任せるべきものは任せるべきであろうし、機械が得な領域でまともに戦うことは意味がないだろう。


 人間が出せる価値は一体何になるのかを現時点で把握することは困難である。しかし、AIと共存する近い将来に向けて、いかにデータを揃え、分析するか、といったAIが活躍しそうな領域を理解することが大事なのではないか。このように考えると、人事のデータ分析の範囲を理解し、何を分析することでどのような価値があるのかが事例とともに簡潔に記されている本書の意義は大きい。


2017年4月9日日曜日

【第696回】Number924「WBC2017」(文藝春秋、2017年)

 日本代表という言葉が興味を唆るのか。それとも、甲子園のようなトーナメント方式が興奮を喚起するのか。いずれにしても、今年のWBCが始まるのを心待ちにし、息詰まりながらも魅了されて見ていた。残念ながら敗退した準決勝は時間の関係で観戦できなかったが、それでも不思議とそれまでのグループリーグの闘いで野球の醍醐味を堪能した。

 大会が始まってからの船出は、素人目にはスムーズだったように思えなかった。好調な打線とは反対に、浮き沈みの激しい投手陣に不安を覚えた人は私だけではないだろう。その中で、初登板から活躍し、最終的に日本で唯一のベストナインに選ばれたのが千賀選手である。彼が出ると、安心して観戦することができた。村田バッテリーコーチによるエピソードが面白い。

 「千賀に『次、行けよ』って言うと、決まって『いえ、僕はいいです』って言うんです(笑)。もちろん、いざとなったらエンジンがかかるのも早かったですけどね」
 おそらくは、芽生え始めた自信と未知の領域への不安を心の中で戦わせているのだろう。準決勝を終えた千賀はこう言った。
「自分はこんなに集中できるんだ、これが集中力なのかと思いました。そこに自信を持てば、もっと成長できると思います」
 武器はお化けフォークだけではない。上を見る力もまた、千賀を高みに押し上げたもう一つの強みだったのである。(26頁)

 あれだけ自信を持ってマウンドで打者に挑んでいたように見えた千賀選手の発言とは一見思えない。しかし、決まった以上は切り替えてブルペンで準備をしてマウンドに向かっていたのであろう。フォークという決め球に私たちの関心は向かっていたが、育成選手から這い上がり、自分自身を高みに向かって進めていく目的意識が彼の強みなのであろう。

 感覚に頼った、百戦錬磨の権藤コーチ。
 その起用法に大人の対応をした投手陣。
 陰で両者の橋渡しに努めた村田コーチ。(34頁)

 代表チームの選手起用は難しい。特に繊細な感覚と、プライドを兼ね備えた投手の起用方法やより難しかっただろう。そうした状態において、ブルペンをどう切り盛りするかが肝要となる。特に、感性タイプで重鎮でもある権藤コーチに対して、ブルペンの投手側の意見や感情を踏まえながらも、抑制の効いた意見を具申することができたのが、投手陣をまとめ上げて成果をあげる結果につながったのであろう。

「周りでごちゃごちゃいう人はいる。でも監督は選手のことを考えてやってくれる方で、その中で責任感も強い方だと思うし、俺は凄い人だと思っている。小久保さんだからやろうと思ったし、他にもそう感じている選手は絶対にいると思う。もし監督があの人でなかったら、ひょっとしたら俺は、出場を辞退していたかもしれない」(35頁)

 今度は打撃陣について。上記は中田翔の言葉だそうだ。満身創痍で腰痛のためにホテルで寝返りを打つのも苦労していた状態の彼に、こうした言葉を吐かせる小久保監督のリーダーシップは素晴らしい。



2017年4月8日土曜日

【第695回】『易の話』(金谷治、講談社、2003年)

 「当たるも八卦当たらぬも八卦」という占いのイメージが強い易経。単なる占いの書ではなく、思想の書であるということは理解しているが、これまで易に関する書籍を読んでもピンとこず、興味を持てずにいた。著者が記したものがあることを知り、これを最後の機会として読むことにした。辛抱強く我慢して、本書を読むことを決めて、正解であった。

 人間が一つの判断に迷って、人間以上の力にたよってそれを解決しようとするのがうらないであるから、そこには人間をこえた一つの力に対する信仰が要請されるであろう。しかし、義理則ち思想の書物としてみられた『易』は、そこに書かれたことの解釈と吟味をとおして、現実の世界の意味を考えるという、人間的な理性のはたらきの対象である。人間をこえた神秘にかかわる性格と、人間的な理性にかかわる性格と、『易』はこの二つの顔をそなえている。(16頁)

 易は、占筮と義理という二つの役割を持つ書である。意訳すれば、占筮とは占いであり、義理とは思想である。後者の持つ意味合いの強さに興味を感じてしまうが、著者は、義理としてのみ易を読もうとすることを以下のように諌める。

 仏教の方で、「自力」と「他力」ということがあるのは、ひろく知られている。(中略)占筮によらないで自ら思索する態度は、まさにこの「自力」であろう。しかし、人はついに、はかない存在である。あまりにも未知のことが多く、あまりにも無力であることが自覚される時、人は「他力」へと向かうことになる。『易』にとって、占筮はやはり否定し得ないものである。(21頁)

 何かに対応するために自ら思索して解決しようとするのは自力の働きである。自分自身をコントロールし、状況に対処するこうした自力だけでは、大きな変化をストレスとして感じ、対処しきれない自分自身に無力感をおぼえてしまう。自力とともに他力という考え方も私たちには大事であり、占筮としての易の価値はたしかに存在するのである。

 易はうらないの書ではあるが、うらないは非常の場合に行なうのであって、平常は易の卦象と「爻辞」によって思索するというのである。(170頁)

 占筮は非常時に行うものであり、日常においては思索をすすめるための一つの考え方であり、つまりは義理の書として用いるのが適切な用い方であると棲みわけされる。では、こうした柔軟な現実の捉え方を促す考え方を、易はどのようにして身につけたのか。

 疑いもなく、ここでは儒教の再生がはかられているのである。そのためにこそ老荘や陰陽家の立場も導入された。そして、孔子や孟子では語らなかったはずの鬼神の説までもみえることは、墨子の影響をも思わせる。そのように諸派の思想を積極的に取り込んで自家の強化と再生をはかるのは、まず戦国時代も最末期から後のことであろう。(145頁)

 歴史に基づいて、現存する易の形式がどのように形作られたのかが述べられている。まず、儒教の再生を図る書としての位置付けがあり、そのために老子や荘子といった本来的には相対立する思想も取り込まれたというのだから面白い。易という存在の、懐の深さを感じさせられる箇所である。

 根本の無の立場に「たちかえる」というのは、『老子』の影響による王弼独自の解釈であった。
 この「たちかえる」ということは、『老子』の注でいわれているように「私心を滅し、身体を無に」することである。日常の生活に追われて、相対的な現象の世界にとらわれている眼を転じて、おれがおれがという主観的な我見を去り、客観的な公的世界と一体になろうとする努力である。そこに無の世界がひらけるとされる。(181頁)

 異なる様々な思想を含んだ書であるがために、自分自身の置かれている状況やあり方を相対的に捉えることができる。複数の視座から捉えることによって、主観的・独善的なものの見方を括弧に括って、あるがままの状態を見据えることができるのかもしれない。

 易の思想はこのように変化生成を尊ぶ。いいかえれば、この世界を変化してやまない日新生々の世界とみるのである。『易』はまことに「変易の書」であった。ただ、その変化は、まっすぐに無限に進展していく変化ではない。それは循環であった。(240頁)

 柔軟な捉え方をする背景には、変化する環境という前提がある。そうした環境の中で、自分自身の位置づけを把捉し、物事を捉えるために、易という変化を推進する書物の価値がある。

 現実の存在を確かなものとしてそこから離れない中国的思考では、やはり対待観から離れることがない。だから純粋な一元論は生まれにくい。キリスト教的な一神、この世界を創造した唯一の神といった存在は、中国にはない。それと関係して、純粋な形而上学的一元といったものは、考えられたことがない。ただ、対待観もまた、すでに述べたように、西洋的な二元論的対立ではなかった。それは二元的でありながら、実は一つのものの両面としての意味を持っていた。二にして一、一にして二である。対待は対立しながら総合され、変易は動きながら不易であった。
 この複雑な現実対応の中国的姿勢は、そのたくましい楽天的人生観とともに、今後の中国のあり方にも生きていくであろうと思う。(250~251頁)


 本書の締めくくりとして、易という存在から中国における思想のあり方、人々の思考のありようにまで示唆がなされている。中国の人々の逞しさ、現実的な生き方の背景には、易をはじめとした昔からの思想というバックボーンがある。もちろん、全員が全員というわけではないだろうが、中国のビジネスエリートが持つ深い教養に触れたことがある身としては、納得的である。


2017年4月2日日曜日

【第694回】Sheryl Sandberg, “LEAN IN”【2回目】

 本書を読み直そうと思ったのは、ザッカーバーグに焦点を当てた『フェイスブック 若き天才の野望』で著者の名前を目にしたからである。ザッカーバーグのような稀代のビジネスリーダーであっても、一人でFacebookの戦略を立ててその遂行をリードできるわけではない。特に、COOとして組織を創り上げて運営する著者の存在が大きいことは言うまでもないだろう。

 読み直しての感想は、日本企業においても待ったなしのイシューとなった女性活躍やダイバーシティといったジャンルにおける稀有なケーススタディであるということである。それとともに、あらためて自分自身に惹きつけて印象的であったのは、キャリアに関する彼女の示唆である。

 現代企業において働く個人として、心から感銘を受けたのは、キャリアという概念に対する以下の表現である。

“Careers are a jungle gym, not a ladder.”
As Lori describes it, ladders are limiting - people can move up or down, on or off. Jungle gyms offer more creative exploration. (Kindle No.785)

 キャリア・ラダーという言い方をこれまで企業ではされてきた。梯子を上っていくようにキャリアを捉え、現実への適応として複線型のキャリア・ラダーを近年では用意する企業も増えてきている。それに対して、彼女は、梯子ではなくジャングル・ジムという形容がキャリアには適していると主張している。ジャングル・ジムの遊び方は人それぞれであり、ゴールをどこに置くかは自由であるし、そのプロセスにチャレンジを感じ楽しみながら行うという含意がある。これは、キャリアにアップやダウンはないという捉え方や、プロセスの中で工夫をしたり自分自身の価値観の変容を意識的に行うという動態的なキャリア理論と符合する。アナロジーとしてとても興味深い。

while I don’t believe in mapping out each step of a career, I do believe it helps to have a long-term dream or goal.
A long-term dream does not have to be realistic or even specific. It may reflect the desire to work in a particular field or to travel throughout the world. Maybe the dream is to have professional autonomy or a certain amount of free time. (Kindle No. 813)

 ジャングル・ジム型のキャリアであれば、予定調和性の高い具体的で他者から見てもわかりやすいキャリア・ゴールを持つことは困難である。それとともに、環境変化や自分自身の内的変容を所与とすれば、一つのゴールに固執することは、自分自身を縛ってしまう結果になりかねない。したがって、プロフェッショナルとしての自律性を担保したり、柔軟に活用できる時間を自身で工夫しながら設けることが必要であろう。

I also believe everyone should have an eighteen-month plan. (An omission) First and most important, I set targets for what my team can accomplish. (An omission)
Second, I try to set more personal goals for learning new skills in the next eighteen months. (Kindle No. 868)

 長期的かつ固定的なキャリア・ゴールを持つべきでないという主張は、キャリア・ゴールを設定することに意味がないということを含意しない。そればかりか、何もゴールを設定しないことは、自分自身の拠り所や基軸を失って迷走しかねない。著者が指摘する18ヶ月という期間が最適かどうかは難しい。『アライアンス』で述べられているコミットメント期間と同じように、一つのミッションが完了する期間で成長目標を設定することと捉えれば現実的なのではないだろうか。

In my personal life, I am not someone who embraces uncertainty. (An omission) But in my professional life, I have learned to accept uncertainty and even embrace it. (Kindle No. 895)


 変化が激しく、自分自身の変容も節目ごとに行いながらキャリアをすすめる上では、偶然をいかに受け入れるかが求められる。偶然をアクシデントとして否定するのではなく、オポチュニティとして活かしていくこと。そのためには、泰然自若として構えて、自分自身の価値観とのつながりや価値観の拡がりにどのように活用するか、というマインドセットが求められているのであろう。


2017年4月1日土曜日

【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【4回目】

 読むたびに、気づきを得る内容が面白いほどに異なる。これまで意識していなかった箇所が、何かを訴えかけてくるかのようだ。特定の宗教を持たない身としては、「バイブル」とも呼べる書籍があるというのはうれしいものである。何かを考えたい時、自分自身をリセットしたい時、折に触れて読むことで自分の心と頭を整えられる。

 子の曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ。(巻第一・學而第一・六)

 学ぶという行為は人から否定されることが少ない、好ましい行為であると思われがちだ。だから、学んでさえいれば他者から認められるし、努力家であるといった印象をもらうことは容易である。しかし、学ぶことは、孝行、悌順、誠実、愛といった仁としてのあるべき行為を行った後に余力があれば行うものであると孔子は述べている。学習の大事さが減衰するわけでは全くもってないが、それ以前のマインドセットとして仁としての態様を意識したいものである。自戒を込めて。

 子の曰わく、速かならんと欲すること毋かれ。小利を見ること毋かれ。速かならんと欲すれば則ち達せず。小利をみれば則ち大事成らず。(巻第七・子路第十三・一七)

 この言葉もいまあらためて読むととても痛みを感じる。どうも焦ることが多い時期であるが、長い期間を捉え、視野を広く持って、目先に捉われず行動したいものである。

 子の曰わく、工、其の事を善くせんと欲すれば、必らず先ず其の器を利くす。是の邦に居りては、其の大夫の賢者に事え、其の士の仁者を友とす。(巻第八・衛霊公第十五・一一)


 人を選ぶことの重要性に触れている箇所であり、人事として肝に銘じたい部分である。まず適切な人材を選ぶ、そのためには基準を明確にして公正性を担保する必要があるだろう。その上で、そうした優秀な人材から自分自身が信頼される人物として見做されるように、自信を磨くことが必要だ。読んでいて、襟を正される。