2011年1月30日日曜日

【第10回】『「働きたくない」というあなたへ』(山田ズーニー、河出書房新社、2010年)

 論旨が明快で頭にすんなり入ってくる読書は心地よい。しかし、心が文章に共鳴して、思わず自身を省みながら空想に耽り、遅々として頁が進まずに行きつ戻りつするのも読書の醍醐味ではないだろうか。本書は、少なくとも私にとっては後者の経験を味読するものであった。

 著者は慶應義塾大学のSFCや丸の内シティキャンパスで教鞭を取り、また全国の学校や教育組織で文章教育のインストラクターとして活躍する人物である。私自身、社会人になりたての頃に諸先輩方から異口同音に著者の「ほぼ日」の連載を勧められて読み始めて以来のファンである。

 本書は、大学の授業で少なくない学生が「働きたくない」と言うことに著者が衝撃を受け、そうした想いの背景、つまり「働く」ことについて丹念に探っているエッセー集である。

 まず著者は「組織で働く」ということは、組織を媒介として人と社会がつながることに意義があるとしている。このように考えれば、就職活動とは、学生が社会とつながるためにどういった会社でどういったことを行ないたいのかという「設計書」を創る意味合いを見出せるだろう。

 ここで私が考えたのは、就職活動とは学生にとって最適な仕事を選ぶという作業ではないのではないか、ということである。最適な仕事を選ぶという発想では、間違いたくない、失敗したくない、という「正解探し」になりかねない。しかし、長期的に安定した「最適な仕事」などキャリアにおいて存在しない。業界の定義が変わるスピードが速く、それに伴い仕事じたいの定義も変わるスピードが速く、必要とされる知識やスキルの陳腐化が速い中、「最適な仕事」は常に変わるものである。

 さらに付言すれば、「最適な仕事」は全員にとって共通のものではなく、一人ひとりにとってのものでしかない。したがって就職活動とは、あくまでその時点で描く自身の理想像をもとにして社会とのつながりを見出すために自身と会社とのつながりを見出す作業なのではないか。

 しかし、つながりを組織の中で見出す際には、自身の思い通りにいかないことがほとんどであるのに、個人が誤解を起こすことが多いことを著者は指摘する。つまり、自分の個人的な想いをストレートに仕事に活かせるという幻想である。個人の想いは設計書なのであるから、組み立てるためには周囲との調整を図る必要性があるのに、それを忘れてしまい独善的な行動を取ってしまうのである。

 そこで著者が勧めるのが「仕事とは束縛されることと認めること」である。こうすることではじめて自分を活かし、他者との関係性を活かし、結果的に相手をも活かす、という正の循環が生まれるとしている。こうした積極的な自己拘束によって自分で決めることに対して、自分で決めたくないがために代わりに決めてくれる保護者を探そうとする姿勢がある。前者を自責と呼び、後者を他責と呼ぶ。

 ではどうすれば自責に至れるのか。著者は、自覚的に一瞬で自らの大事なものを喪失する経験(挫折と呼ばれるものに近い)がそれに寄与すると指摘する。そうした経験を通じて人は自分について徹底的に考え、その結果として自分に向き合い、すべてのものを自分の責任として受け容れる、ということだろう。

 しかし、全ての人にそうした挫折的な経験があるわけではない。そうした場合には具体的な他者に対する貢献を意識することが自責へ至るヒントとなると著者は指摘している。私自身が最初のキャリアを営業職としてスタートしたからかもしれないが、この指摘はしっくりとくる。お客さまのためにベストを尽くしたとしても必ずしもうまくいくとは限らない。力量が足りないから、という理由もあるだろうが、そうとは言い切れない外的な要因に因ることも多い。しかし、そうした状況も受け容れ、最終的には個人がたのしむのがよいのではないか。著者の言葉を借りれば、「楽しく生きる」ではなく「生きることを楽しむ」という姿勢である。これが自責というありようにつながるのである。

 では、組織の中で働くことが大事であり、たとえば家で働くことは「働く」に該当しないのか、というとそういうわけではない。著者の母親は専業主婦であるが(ついでに記せば私の母も専業主婦である)、自責的に働いている。こうした専業主婦の方々をプロフェッショナルと感じるのは、休んでいるときと働いているときのモードの違いを感じるときではないか。たとえば、こたつで休んでいる状態は休みのモードであるが、料理や片づけをするために台所でてきぱきと家事を行なう母の姿勢には得も言われぬプロの威厳を感じる。

 つまり、モードを複数持ち、それを相手や状況に応じて調節するということが、他者への貢献につながり、自責へと繋がるのではないか。ヴェーバーやデュルケームとともに社会学の誕生に貢献したジンメルによれば、多様な他者との多様な関係性を踏まえた上で、<いま・ここ>の役割の意味を自分で深く了解することが大事であるそうだ。会社であれ、非営利組織であれ、公的機関であれ、家であれ、目の前の他者への貢献を意識することが自責の萌芽となるのだろう。

 最後に、本書を読むことを強く勧めたいのは以下の方々である。第一に就職活動生および内定者や新入社員である。とりわけ、会社に入る前に不安をおぼえる方や、本書のタイトルにあるとおり「働きたくない」と思う方には読んでほしい。第二は彼ら彼女らの両親である。本書を読むことで、自分たちと子供の世代の価値観がどのように異なるのか、どこは変わらないのかの差分を見て取ることができるだろう。第三は彼ら彼女らが過ごす職場の同僚である。いたずらに迎合することはお互いにとって良くないが、受容することは大事である。本書は受容のためのヒントとなるのではないか。

<参考文献>
菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』日本放送出版協会、2003年



2011年1月23日日曜日

【第9回】『人事評価の総合科学』(高橋潔著、白桃書房、2010年)

 人事評価とはセンシティヴであり、誤解を招きやすい話題である。そこでまずやや長い前置きを記したい。

 前職ではお客さまに管理職研修や評価者研修を提供し、また職能資格要件やコンピテンシーの作成を行ない、目標管理制度の定着支援に携わらせていただいた。また、学部時代には調査協力会社で人事制度のガイドブックの作成、修士時代には研究の一環として複数の会社の人事部門の方々にご協力を賜った。さらに、現職では事業会社の人事部門に勤務している。本文は、現在またはこれまでに私が関わらせていただいた全ての企業における評価制度とは全く関係がない立場で本書の感想を記す旨を予め申し上げておく。

 本書は、著者が「まえがき」でも記している通り、実務家を読者として想定した人事評価・考課制度に関する学術書である。一流の学術書である一方、実務者としても理解しやすく、納得感がある良書であり、評価・考課を扱った学術書・ビジネス書の中で出色のものである。人事の実務者の一人として、常に携帯したい一冊である。

 示唆に満ちた良書であるために多くのページを折り曲げて読んだのであるが、その中でもとりわけ思考がすすんだ箇所についていくつか記すこととする。

 日米の評価制度の特徴的な相違点は、アメリカの評価制度が多次元的である(ジョブ・ディスクリプションをもとにした職務等級制度を思い浮かべてほしい)のに対して、日本のそれは少次元的(情意・行動・実績をもとにした職能資格要件を思い浮かべてほしい)であると指摘されているが、これは簡潔にして明瞭な要約であると言えるだろう。両者のどちらが優れていてどちらが劣っている、ということはない。しかし、それぞれで有効な活用方法が異なっていると著者は主張する。

 具体的には、アメリカ流の多次元的な評価は、本人へのフィードバック効果という点で優れている。すなわち、評価を育成につなげるという視点である。これは、評価要素が具体的であり、他者からみて観察可能な状態であるため、自身の強みや弱みを把握した上で育成の指針を明確に立てられるのである。

 それに対して、日本流の少次元的な評価は、誰を上位のポストに上げるのかという昇進を目的とした際に有効である。少ない項目数であれば対象者の全般的な評価を行ないやすく、多くの人々の間で評価が同じようになりやすい。そのため、大掴みに人物を評価することに適していると言えるのだろう。

 こうした対比を踏まえれば、日本とアメリカにおいて、人事における同一のテーマが異なって使われることも自明である。たとえば、コンピテンシーがどのように活用されているかの相違は以下のようにまとめられるだろう。

 アメリカにおけるコンピテンシーは育成目的で用いられることが多い。ある職務のレベルにおいて求められる要件としてコンピテンシーを作成し、それを自身で把握して自主的な育成に結びつける。豊富な情報を提供することで、本人に気づきを促し、自主的な育成へとつなげるのである。

 他方、日本におけるコンピテンシーは評価の一つのツールとして用いられることが多い。とりわけ、ハイポテンシャル人材の要件やトップパフォーマンスを為す人材の要件を明確化するためにコンピテンシーは作成されることが多い。そうした人物を早期に抜擢するために使われるというイメージである。

 このように、同じコンピテンシーという概念であっても、その考え方や活用のされ方は日米で異なり、より掘り下げれば、人事戦略の相違によって異なるのである。

 しかし、日本とアメリカの制度とは別個のものというわけではない。それぞれの時代背景から、日本の制度が「人」を軸として発展し、アメリカの制度が「職務」を軸として発展してきた。その結果として差異が生じているのであるが、グローバル化が進展する中で、現在ではそのハイブリッド型が進行するという平野先生の指摘もある(平野,2006)。

 こうした将来の人事評価制度のあり方を見通して、著者は評価を処遇のためだけに用いられなくなると指摘している。評価結果を上司や本人にフィードバックすることで部下の業績向上を目指すパフォーマンス・マネジメントが主流となるというのである。その際には上司によるフィードバックの巧拙が部下のモティベーションに影響を与え、部門全体のパフォーマンスをも向上させる、とされる。制度というハード面だけではなく、それを運用する現場のソフト面をもきめ細かく配慮することが、人事戦略には求められると言えるだろう。

 人事制度の今後の展望を検討する上でも、本書のようなエッセンシャルな領域における研究書は役に立つのである。

<参考文献>
平野光俊『日本型人事管理』中央経済社、2006年



2011年1月16日日曜日

【第8回】『学習意欲をデザインする』(J.M.ケラー、北大路書房、2010年)

 結論から端的に記す。本書は、企業だけではなくあらゆる組織の教育に携わる人々にとっての必読書であろう。ただし、じっくりと何度も読む類いのものではない。むろん、最初に一通り目を通すことは必要であろうが、その後は必要な箇所を必要なときに、いわば辞書のように活用するのが良いのではなかろうか。

 今回はとりわけ優れていると思った三点について私見を述べた後に、既存の学習理論との関係性について整理を試みることとしたい。

 一点目は、持論(もしくは素人理論)を整理・補強してくれる点である。教育に携わる人間であれば、何を準備するか、どういうときはどうするか、どういう相手にはどのように接するか、といった暗黙的な知識や技能がある。こうした暗黙知を形式知化することが本書を通じてできるのである。さらに、筆者が以前から主張しているARCSモデルという包括的な枠組みに基づいて述べられているため、教育を行なう際に何をすればよいのかを網羅的に理解できる。したがって、準備や実行の際のヌケモレを防ぐことができるというメリットがある。

 さて、上記のようなポイントであればID(Instructional Design)理論で事足りるのではないか、と思われるかもしれない。IDもたしかに教育コンテンツを作成したり、それを実行する際に役に立つ。しかし、受講者を動機づけするという視点がIDには欠落している。それに対して本書のベースとなるARCSモデルは、受講者をどのように動機づけるかという視点が強調されており、いわばID理論とは補完関係にあると言えるだろう。実際、本書の69頁ではID理論とARCSモデルの関係性が述べられているので、興味・関心がある方はご参照いただきたい。

 二点目はTo Doのレベルにまで落とし込まれている点である。教育をデザインするステップを10に絞り込んだ上で、それぞれのステップでなにをするべきかに関するチェックリストが記されている。したがって、自身が扱う教育をデザインする際に、最初から順を追ってプロセスを回すことができるし、また自身がこれまで行なってきたプロセスと比較して特徴を整理することができる。

 三点目は狭義の教育に限定されるだけでなく、部下指導や後輩指導にも活用できる点である。相手を動機づけながら教育を行なうことが求められることは、日常的な職場で起こることである。したがって、上司や先輩にとっても、本書は役に立つのである。たとえば、ジョブエイド(作業補助)やマニュアルを作成する際にも有効であるとの指摘が本書でもなされているのである。

 最後に、学習理論における位置づけについて述べる。学習理論の射程は時間軸によって分かれると考える。ここでは短期、中期、長期という三つの軸で考えたい。

 まず短期的なものとしては、本書が扱うARCSモデルやIDの典型的なモデルであるADDIEモデルなどが挙げられるだろう。相手に学んでもらいたいものを効果的に効率的にいかに学んでもらうか、ということを扱うものである。

 もう少し長いスパンで見ていくと、中期的な成長を視野に入れた学習理論がある。たとえば中原先生は他者との関係性を通じてどのような学習経験を経て、成長するのかについてその最新の著書で述べられている。

 さらに長いスパンでの学習を通じてキャリアへと結びつけたのがクランボルツ教授である。開かれた学習行動の結果として、偶然の機会を活かし、自身のキャリアをすすめるという視点で書かれている。

 本書は、上述したとおり短期的なスパンに関する学習行動に関する書であり、とりわけ学習におけるモティベーションに関して述べられている。私自身としては、もう少しスパンを伸ばし、先行研究を参考としながら中長期的な学習におけるモティベーションについて検討したい。

<参考文献>
中原淳ら『企業内人材育成入門』ダイヤモンド社、2006年
中原淳『職場学習論』東京大学出版会、2010年
J.D.クランボルツ『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社、2005年

2011年1月10日月曜日

【第7回】野内良三『偶然を生きる思想』日本放送出版協会、2008年

本書では日本と西洋の文化の相違から、その結果として偶然をどのように生きるか、について述べられている。日本と西洋の思想のどちらが優れているかという比較ではなく、両者を活用して偶然に対してどのように処すべきかについて述べられている。

認識論の背景には歴史観があり、結果的に偶然に対する日本と西洋での捉え方の相違が生じる。

日本人は歴史を川の流れのように循環するものと捉える。これは、四季という循環する自然環境を所与のものとして受け容れてきたことが背景として挙げられるだろう。また、環境を循環するものであると捉えるため、時に起こる予期できないことを無常として肯定的に意味を解釈するのである。

その結果、日本人は他者依存性による双方向的相互依存関係という縁起観を持つと指摘されている。つまり、現実に起きている事実を主観的に認識し、それを無常と捉えるのである。

それに対して、西洋では、歴史を構築物的な持続性のあるものと捉える。建築開始から既に百数十年を経た今でも建築中であるサグラダ・ファミリアが良い例である。始点から終着点まで線形的に論理的に流れる時系列を考えるため、予期できないことは避けるべきものであり、否定的に捉える。そうした出来事を引き起こす自然現象は、理性によって説明すべき対象であり、従属させるべきものと捉える。

その結果、世界は究極的実在にたどり着く因果律から成ると考える。したがって、現実に起きている背景にあるイデアの世界を客観的に認識し、その中で起こるイレギュラーなことは避けようとするのである。

こうした二つの視点から筆者はどのような結論を導き出しているのか。

筆者は、両者の視点を統合し、フレキシブルな目標をにらみながら積極的に偶然的なものと取り込むことを主張する。前者の目標志向は西洋的な観点であり、後者の偶然を受容することは日本的な観点である。そのためには謙虚なスタンスで世の中に自身を拓き、想像力を持って現実を後でストーリー付けることが大事であると筆者は主張する。

以下、誤読を恐れずに二点ほど飛躍的な解釈を試みる。

一つめの飛躍。筆者が主張するこうした偶然観は、クランボルツ教授が提唱するPlanned Happenstance Theoryに繋がるのではなかろうか。偶然性をベースとした理論がアメリカ(西洋)で生まれたことは興味深い。西洋で生まれたということは、偶然をどう避けるべきか、ということを着想としていると考えられる。しかし、その一方で謙虚さやオープンマインドネスを重視するクランボルツ教授の理論には洋の東西の思考方法を融合する萌芽を見出すことができるかもしれない。

だからといって、西洋人と日本人がPlanned Happenstance Theoryに見る風景は少し異なるだろう。西洋人は偶然が起こる前に発想の重きを置くのに対して、日本人は偶然が起こった後に発想の重きを置くのではないだろうか。つまり、西洋人は偶然を避けるために、また良い偶然を意識的に起こすために事前のアクションを行なう。それに対して、日本人は起こってしまった偶然はしかたがないものと受容して、それをもとにストーリーを創り上げる、ということである。これらは着眼点の相違であり、大事なのは、こうした二つの視点を同時に持つことであると、筆者の主張をもとに飛躍的解釈を展開してみた。

さらに飛躍する。こうした二つの視点を同時に持っている人物として私が思いつくのが、稀代の麻雀打ちである赤木しげるだ。といっても彼は実在する人物ではない。福本伸行さん(『カイジ』でも有名)が描く『アカギ』という麻雀漫画の主人公である。浦部との対戦で彼が見せた偶機待ちが、文字通り偶然性に関するイマジネーションを膨らませるのである。

赤木が偶機待ちに至る過程は一見して論理的に見える。しかし、本書を読んだ結果、赤木は事前の論理性とともに偶然を事後に活かす思想とを併せ持っていたのではないか、と考え直した。つまり、聴牌しているのにノーテン罰符を払ってまで手を見せなかったこと、四暗刻単騎のオープンリーチ、などは単に論理的な打ち手というわけではない。偶然の結果という意味合いもあるのである。偶機待ちを上がり切ったのは、偶然を受容し、その中でストーリーを事後的に見出したことの結実であり、これが赤木の力の真髄ではなかろうか。

<参考文献>
J.D.クランボルツ『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社、2005
福本伸行『アカギ(第6巻)』竹書房、1996





2011年1月3日月曜日

【第6回】『現代アート、超入門!』(藤田令伊著、集英社、2009年)

読書にはおおまかに二つの種類がある。得意であったり好んで学んできた分野の読書と、苦手であったり無知である分野の読書である。学生時代に図工や美術が大の苦手であった私にとって、本書は後者の読書経験に該当する。後者の読書は難しい一面もあるのであるが、既知の他の分野との意外な関連性やつながりを見出せたときのうれしさはひときわ大きいものである。

美術館にはよく行くが、現代アートは難物である。正直に白状すると、およそ理解不能と思えるものが多い。そうした私のような読者を念頭に置き、筆者は、現代アートは分かることが目的ではない、と述べてくれる。このような素人に寄り添って書いてくれる入門書というのはありがたい。

ではなにを目的として現代アートを鑑賞するのか。筆者によれば、作品を前にして「ああでもない」「こうでもない」と思いあぐねること自体が立派な鑑賞になっている、という。さらに、思いあぐねた結果としてわからなくても良いそうだ。これは私にとっては救いと言える言葉である。分からなければならないと思って鑑賞すると、意味がわからなかったときに不全感が残り、落胆してしまう。落胆すると現代アートを遠ざけてしまう。しかし、わからなくても良いという気構えで望めば気楽に鑑賞できる。

さらには、わからないことがわかることにも意義があると筆者は言う。この発想は、ソクラテスの「無知の知」を髣髴とさせる言葉のように感じられる。なにがわからないかをわからない状態は気持ちが悪い。しかし、わからない状態をわかる、つまりメタ認知を得られていれば対処のしようはある。わからないことがわかり、そのことで悩むことに意義がある、というのはキャリアを展望する際にも勇気を与える至言ではなかろうか。

また、現代アートは個別化が進んでジャンルで括ることが難解である。さらには、タイトルを「無題」とするものが多い。これらも現代アートの鑑賞を困難にする原因であろう。ジャンルはタイプによる識別を可能とするものであり、またタイトルは作者の意思を表すものであり、それらを手掛かりにして我々は作品を鑑賞する。そうしたジャンルやタイトルがないということは鑑賞する上での一つの軸を失うということを意味すると言えるだろう。

しかし筆者は、無題であるからこそ自由で主体的な鑑賞につながると主張する。ものは考えようとも言われかねない言葉のようにも捉えられるが、こうした態度が多様なインプット形式に繋がることは文学の世界でも述べられている。文芸評論家の柄谷行人さんは漱石に関する論考の中で、明治期に日本で生まれた近代小説という形式はそれまでのジャンルをディスコンストラクトする形式であると述べている。ジャンルを消滅させることで新しく多様な読書経験を可能としたことが漱石の文学上の貢献なのである。ジャンルで括ることが難しくなり、タイトルをつけることを意図的に避ける現代アートは、明治期の文学界に起きたことを想起させる。

では、アートであるということはどういうことなのか。筆者は、この問いに対して、ある作品がアートであるかどうかを決めるのは鑑賞者である、という回答を与えている。換言すれば、ある人にとっては価値のある現代アートであっても、自分にとって価値を感じないものであればそれはもはやアートではないのである。自信を持って、自分の好き嫌いで現代アートを鑑賞することを筆者は主張する。

それでは現代アートの価値は何だろうか。人によって受け止め方が異なる以上、現代アートはなんらかの固定的な価値を与えるものではない。私が本書を読んで考えたことは、現代アートとは問題提起を与えるものではないだろうか、という仮説である。問題提起は気づきを与える可能性を有する。作品を通して気づきを得られる人は、新しい価値観の拡がりに触れることができるのである。これが、主体的に、かつリラックスして現代アートに接することのメリットではないだろうか。

<参考文献>
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波書店、1964
柄谷行人『定本 柄谷行人集 第1巻 日本近代文学の起源』岩波書店、2004