2012年12月29日土曜日

【第130回】『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中央公論社、1974年)


 本書を通読するのは二度目である。はじめて読んだのは大学二年の時に授業の課題としてであったから、実に十二年ぶりである。再読することはよくあるが、これだけ長い期間を置いて読み直すのは珍しい。あまりに内容を忘れていて驚いたのではあるが、読み直して良かったと思える一冊である。

 文明論において、進化史観に対して生態史観という考え方を新たに提示したことが本書の画期的な点であろう。従来の進化史観では、歴史とは一つの目的地へと向けた一直線のように考えていた。本書の元となる論考を著者が発表していた時代背景を鑑みれば、その典型として著者がイメージしていたものはマルクス主義であろう。

 運命論的な意味合いを有する進化史観に対して、生態史観では多様な目的地があることが当たり前のものとして許容される。ある地点への必然的な一本道としての進化という進化史観の発想とは異なり、主体と環境との相互作用が変化の基本となる。相互作用の蓄積の結果として従前の生活様式では収まらなくなった時点で次の様式に遷移する、という主体と環境系の自己運動モデルが生態史観のアイディアの源泉である。

 こうした考え方をもとにして、著者はユーラシア大陸を二つの地域に大別してそれぞれの特徴を述べている。第一地域が属するのは、大陸の最西端と最東端、すなわち西ヨーロッパと日本である。第二地域はそれ以外の地域であり、東は中国から西はトルコ辺りまである。

 それぞれの地域を分けるいくつかの特徴について、著者の著述をもとにまとめてみよう。

 一つめの点として、近代へと至る政治的革命の以前の政治体制として封建制を持っていたかどうかという点である。第一地域では封建制を持っていたが故に、ブルジョワジーによる革命が可能となり、その結果として革命後の政権をブルジョワジーが担うことになった。それに対して第二地域ではいずれも安定的な封建制を持っていたことがないという共通項がある。その結果として、専制君主による支配、とりわけ植民地支配という形式が取られた点が特徴的である。

 二つめに、聖と俗の権力の分離についての差異が挙げられている。第一地域では聖の権力と俗の権力の分離が早い段階で起こった。近代国民国家の前提とも言われる政教分離である。他方で第ニ地域では精神界の支配者と俗界の支配者とが後世まで続いており、現在でも続いている国が少なくない。

 三番目の点として、政治的実践に携わる知識人の有無の差がある。第一地域には、政治的実践に携わらない、すなわち政権や行政に関与しない「在野」の知識人が豊富にいる。そうした知識人の一部がマスメディアのメンバーを構成することで批評的な知識人が表れることとなる。一方、第二地域では政治的意識と政治的実践とが統一的に両立している。その極端なケースとしては行政にとって不都合な事実や主張を述べようとする人物を弾圧しようとする。知識をコントロールしようとするメカニズムが生じるのである。

 第一地域と第二地域の間には東ヨーロッパと東南アジアが存在する。第一次大戦は東ヨーロッパを、第二次大戦は東南アジアを、それぞれ植民地支配から解放したという側面があるという著者の考え方には留意する必要がある。こうした考え方は、解放することを正義とみなして戦争へと駆り立てる危険な考え方にも繋がり得るので利用される文脈に注意する必要はあるが、一考の余地はあるだろう。

2012年12月22日土曜日

【第129回】“HPI essentials”, George M. Piskurich, ASTD Press


HPI (Human Performance Improvement) is result-based approach. Say, it doesn’t always seek to satisfy customers’ wants and needs. This is what HPI is different from other approaches about learning and development. The point is that HPI focuses on business accomplishments in any work places. So all the L&D sections can have the role of accomplishing business result directly through changing their approach into HPI.

To do so, we have to analyze our business through having discussion with our customers. After we identify important goals for the business unit, we can determine the appropriate measurement. According to this book, there are three stages of the business analysis. 

Stage 1 is Entry. Though some customers want to jump immediately to solutions, we should make conversation back to the strategic priorities of the client, and hear all the things related to customers’ business. After Stage 1 is done, there are many concerns in front of us. At Stage 2, we have to collect the right data to focus on appropriate business goals. But you shouldn’t fix it by yourself. As Stage 3 is named Agreement, you’ll have to evaluate the results of your previous work, and you and the customer should share a common sense of priorities and direction.

Through launching action items, we collaborate many sections and customers, because it is not a training but a business itself. So we have to care motivational factors of all the customers in order for them to be more motivated and to have commitment. Understanding various types of motivation helps us to select, design, and implement the best type of motivation to achieve different goals.

Our last and biggest concern is about evaluation of our action. Of course evaluation data is needed to validate our HPI work. But, adding this point, it is also important to gain support and cooperation for implementing HPI. Because there are too many factors related to business result and the process of it is very complicated, so we can’t say HPI approach is the most important thing to accomplish great success.

2012年12月15日土曜日

【第128回】『インテグラル・シンキング』(鈴木規夫、コスモス・ライブラリー、2011年)


 インテグラル理論とはケン=ウィルバーが提唱する理論であり、複雑であり射程範囲が包括的であるために一筋縄では理解することが難しい。本書はその解説を試みる書籍であり、この理論を端的に「相互に関連性のないものとしてバラバラに存在している多種多様な情報を有機的につなぎ合わせるための枠組み」と定義している。

 包括的に世の中を理解する枠組みであるということは、「あまりにもあたりまえのことを意識的にかつ効果的にできるようにするための道具」ということである。すなわち、自然のこととして認識しているものを浮かび上がらせ、思考の枠組みの多様性を理解した上で枠組みを主体的に選択することができるようになることが最大のメリットであろう。

 インテグラル理論によれば、世の中の把握のしかたとして二つの軸の組み合わせにより四つの領域があるという。横軸は内面と外面による区別であり、縦軸は個と集合に基づく分類である。

 左上の領域である個の内面とは、問題や課題に取り組んでいる関係者一人一人の主観領域である。この領域を直接的に経験しているのは自分一人だけであり、他者からは観察することができない。したがって、自分自身の思考・感情・感覚・直感を重要な情報として明らかにしていくことが個人にとって有用となろう。

 ただし、個の内面の領域が過剰になると、第一に精神主義に陥るリスクがあり、その結果として崇高な価値観に基づくものであれば結果に対して無責任になる懸念がある。第二に、理想を高く持ちすぎてしまうことで現実のありのままの自分を許容できない潔癖主義に陥り、自分で自分を苦しめる懸念があることには留意したい。

 次に、左下領域として挙げられている集団の内面は、関係者が共有している空気や風土や文化の領域を指す。異なる価値観を持つ一人ひとりに共通した方向性をもたらすものであり、いわば関係者を共同体として結びつけるものである。

 しかし、それは呪縛するものでもあることに注意を向ける必要があるだろう。 山本七平さんの分析を俟つまでもなく、太平洋戦争期の日本における「空気の支配」は最悪なかたちでのその顕在化である。また、ポストモダン思想を誤読してしまい真実など何も世界には存在しないという虚無主義に至りかねない価値相対主義の危険性にも目を向けるべきであろう。

 右上領域である個の外面とは、関係者一人ひとりの客観的な領域のことを指す。自身の具体的な行動を分析するといった客観的な視点を通して、自己を観察することができる領域である。

 この領域が過剰になる場合のリスクとしてもやはり二つ挙げられている。一つめの能力主義・成果主義については、著者の見解は「結果主義」批判にほかならずプロセスを評価する本来的な成果主義に対する理解が浅いきらいがある。したがって、多くの日本企業における人事制度への反論というように射程を絞って理解する必要があることには注意をされたい。また、効率的な鍛錬ばかりにいそしみ、人間の思考や感情を成功・幸福を実現するための道具や資源としてのみ捉えてしまうという過剰な上昇志向という懸念も大きい。

 最後に、集合の外面という右下の領域は、共同体を客観的に観察できるものである。企業で言えばヒト・モノ・カネといったリソースの分析が該当し、私たちが五感で把握できる領域である。

 この領域に傾注しすぎるリスクとしては、集団の移行に過剰に合わせようとしてしまい自身の創意工夫が為されない適応主義が挙げられる。また、新しいインフラや制度がそれを使う人間自体の感情や価値観や思考を縛るという人間疎外を伴う制度改革の絶対化も懸念される。

 では、こうした四つの領域をどのように統合的にバランスさせることができるのか。著者によれば、次の四つの段階があるという。

 第一段階としては一つの視座を強化することである。ここでは、型を地道に実践し続けることで微妙な変化を蓄積させ、その結果として長期的な変化を生み出すことが課題となる。第一段階で一つの視座を強化した後の第二段階としては、複数の視座を使えるようになることが目標となる。ここでは、一人だけではなく複数の師を持ち、ときに相反する助言をどのように自身の中で昇華させて一歩を踏み出すかが鍵となるだろう。

 第二段階を通じて得られた複数の視座を自分自身のものと体内化するために、第三段階では実践が求められる。実践を行い仮説検証を回し続けることで、それぞれの視座を利用できる文脈を多様にすることがここでは求められる。最後の第四段階では、自身のものとして使えるようになった「引き出し」を自由自在に活用できるようにするために高次の文脈を創造することが目標となる。その際に、統合的なバランスを取れている理想型としては、四つの領域の真ん中に位置するという状態ではないことに注意したい。そうではなく、極端な状態を必要に応じて選択的に行き来してそれぞれの真実を十全に体験することができる状態を目指すべきであろう。

2012年12月8日土曜日

【第127回】『MBB:「思い」のマネジメント』(一條和生+徳岡晃一郎+野中郁次郎、東洋経済新報社、2010年)


 「人に優しい会社」というような美辞麗句が企業経営では時折謳われる。こうしたスローガンに反対する人はいないであろうが、ではどのようにするのか、という具体的な質問に答えられる人もまた、極めて少ないだろう。本書は、経営学者がその問いに一つの回答を与えている良書である。

 人事的な観点から、とりわけ興味をおぼえた三つのポイントについて記していく。

 第一に、仕事の意味やキャリアに対する見解である。日常の業務は忙しい。その忙しさをITが軽減してくれると十数年前には信じられていたが、実際にはそれとは正反対の結果が待っていたようだ。忙しさが増す中で、私たちは目の前の仕事に日々汲々としがちであるが、それは健全ではないと著者たちは強く主張している。自分の仕事の意味や希望を見出していくということが必要なのである。

 それでは、こうした仕事への思いを持つためにはどのようにするか。本書はここまで議論をすすめている点が素晴らしい。具体的には、自分にとってどのような意味合いがあるのか、というキャリア上の目的意識を持つことであるとされている。さらに、キャリアゴールを静的に決め込んで逆算して粛々とアクション・アイテムをつぶしていくのではなく、フレキシブルな部分を残していつでも修正ができるようにしておく。そのような状況の中で、自身が突き詰めたい問題意識を持ち、知的な面での人脈の結節点を多く持ち、機会に対してオープンに対応する。窮屈な日常業務が多いからこそ、しなやかなオープンマインドがキャリアをすすめる機会を生み出すことに私たちは留意したいものだ。

 第二は、従来的なワークライフバランスへの疑問の提示である。ワークとライフを「バランス」させるというのは、時間的・物理的な面でのすみわけの発想である。本書では、ワークとライフについて自身の意識の時間配分の問題として捉える必要があると説く。ワークとライフとが渾然一体となって、自分が大事にしている思いに集中するというのが著者たちが提唱するMBB型のワークスタイルである。これはいわばワークライフインテグレーションと表現しても良いものであろう。

 こうした考え方は、なにも経営学者だけが主張しているものではない。古くは松下電器の創業者である松下幸之助の教えの中にも同じような趣旨の発現が見受けられる。彼は『指導者の条件』の中で「心を遊ばせない」と説いた。身体を休めることは大事であるが、心まで休めることは良くない、というのである。ワークとライフを自分の思いによってインテグレートさせる、まさに現代のプロフェッショナルに通底する至言であろう。

 こうした考え方を受けて、人事の役割がどのように変わるべきであるか、というのが第三のポイントである。社外のプロフェッショナルやIC(Independent Contractor)の市民権が確立された現代においては、社内の社員どうしだけではなく、社外の知的リソースとのヒューマン・ネットワークの構築とメンテナンスが重要である。社外に開かれた組織であればこそ、内と外との区別に捉われずに社会の共通善が生まれる、という知識創造の第一人者である野中先生の言葉は重たい。これを旗振り役で人事自らが体現することが最初の一歩であろう。

 さらには、上記のような取り組みも含めて、MBBの施策を全部門で一斉導入することにこだわらないことも重要だという。そうではなくて、必要な施策がなじむ部門から先陣を切って導入することで、社内のベストプラクティスを創っていく。その結果として、次第にそうしたプラクティスをヨコ展開させていくための絶え間ざる手入れを加えていくことが人事に求められる行動であろう。

2012年12月1日土曜日

【第126回】“The Inventurers (third edition)”, Janet Hagberg / Richard Leider


This is NOT a book which we only to read, but a workbook which we have discussion through. It is useful for us to make a team or partnership whose purpose is to read this book and complete all discussion themes.

Actually I made team with my old friend and held some workshops by ourselves. Before we have a meeting, we read and answered all the questions in some chapters.

We held our own workshop at some caffe and restaurants having hot discussion. Though we tend to be afraid of talking about our topic about own career and life, we didn’t care about it in these workshops. When we don’t want to talk it loud, we used English! Because this book was written in English and we answered in English too, it was natural for us to have conversation in English.

There are many exciting and interesting questions in this book. Why don’t you asking and answering yourself at first, and have discussion with your friends or life partners. For me, the most impressive question was below;

“What was the most important question you were asking yourself ten years ago and what is the most important question you are asking yourself now?”

This question made me reflect my experiences deeply, and also contemplate and imagine the future.

Except for questions, there are three topics which I was really interested in. 

First topic is about “inside out”. According to authors, “The irony of the situation is that until you look within and develop your own personal lifestyle, you won’t be the kind of person who would attract the kind of person you want anyway. It’s all got to start from the inside out.”  So, first of all, if we want to be an inventurer, the people who seek to develop ourselves with fulfillment, we have to develop our internal factors, not focusing on the external ones. After doing it, our external factors will be changed dramatically.

Second topic is about learning style. Authors say that “Flexibility, or the ability to use many styles of learning, depending on the situation, is a goal to strive for.” The more flexible learning style we have, the more career and life options we can choose. So, “knowing your most preferred style could make the process more enjoyable and productive.”

Third one is drawing exercise, yes, in this book, we have to draw a picture! It is an important assignment to do with using our right brain. For a future reader, I don’t want to reveal the secret of this assignment, but it made me exciting after drawing a picture, even though I had hesitated to draw a picture!

2012年11月24日土曜日

【第125回】『インテグラル理論入門Ⅰ』(青木聡ら、春秋社、2011年)


 これまで何人かの方からケン・ウィルバーを勧められてきた。そのたびに彼の著作に挑んでは理解できずに落胆する、という繰り返しであった。先日、組織開発の専門家の方と話していて再びウィルバーの話題になった。私がこれまで理解できずにいたことを告げると、ウィルバーを理解しようとするのではなく、インテグラル理論を理解しようというスタンスで読んでみてはと勧められた。ありがたいアドバイスに従い、今回は入門書を読んで彼の理論を理解するよう試みたところ、今の私にとっては適切な方論であったようだ。

 ではインテグラル理論とは何か。著者が端的に記している四つの特徴が分かり易い。一つめは多様性の尊重であり、共感的な理解に基づいて多様な存在や世界観の価値と限界を認識する、ということである。第二に、歴史的・人類史的な視野が挙げられている。これは人間存在を普遍的に規定する諸条件(実存的条件)を認識する、という意味合いだ。三番めの現代的・惑星的な視野という独特な言い回しのものは、同時代を集合的に規定する生存条件を認識する、ということである。最後の構造的な視野は、衝突し合う存在と存在の間に構造的・深層的な相互関係を認識する、という内容である。

 こうした包括的・統合的な理論は、何もそれ自体を理解することにのみ意味があるということではない。むしろ、そうした視座を大枠として把握することで、いまこの瞬間に自身が所有している能力や視野に気づくことが大事であろう。自身の思考や認知の枠組みを全体像の中で位置づけた上で、どのような状況のときにどういった枠組みを利用するべきかを自覚して行えるようになることに意義がある。いわばメタレベルにおける認知の枠組みとしてインテグラル理論は有効なのではなかろうか。

 自身の枠組みを理解し、それを常に更新するという作業は発達心理学との親和性が高い。本書でもアイデンティティの否定と成長の重要性として指摘されている。血液型診断や適職診断といった一つの正解を探す傾向が強い文化圏においては、アイデンティティは唯一固定の先天的なものであるという誤った捉われ方をされがちだ。しかし、発達心理学においては、これまで自覚していた自身のアイデンティティを否定していくことで初めて次のレベルへと発達するという考え方をとる。すなわち、複数のアイデンティティを持ち、自身の人生のプロセスに従ってその中身の入れ替え作業をすることで、翻って中長期的に安定したアイデンティティを維持できる。

 こうした動的な発達のプロセスの中における自身の現状を把握するという文脈の中で、タイポロジーが活きてくる。つまり、静的な意味での自身を知るためではなく、変わり続ける自身の定点観測としてタイポロジーが有効となるという点に注目したい。実際、ユング心理学者として有名な故河合隼雄氏は、タイプを分類することについて、「ある個人の人格に接近するための方向付けを与える座標軸の設定」であって、それは「個人を分類するための分類軸を設定するものではない」と強調している。

 発達し続けるということは、自身が拡散していくということでもある。しかし、際限なく拡散し続けることは統合失調症をはじめとしたパーソナリティの分裂に至りかねない。そこでどのように統合するか、という視点が同時に求められる。

 インテグラル理論の字義的な概念自体にも関わる統合について、著者は、価値観が相対的であるという前提のもとに、異なる価値観に対してオープンになることが重要であるという。これは、なにも外の世界における価値観の多様性だけではなく自身の内なる多様な価値観に対する開いた態度ということであろう。その結果として、自己の深層的・実存的な多様な基盤を確立し、そうした多様な視点をもとに動的な共感能力を他者や社会に対して発揮する、ということが統合のあり様とされている。

 このような統合を志向することは、世の中に敷衍する玉石混淆の理論や主張を仕分けする能力を身に付けることに繋がるという著者の主張は重たい。情報が多いことは良いことであろうが、その中で溺れないためには自分自身が情報を仕分ることができるメタな認知能力を持つことが求められる。良くも悪くも、私たちはそうした社会に生きているということを自覚しておきたい。

2012年11月18日日曜日

【第124回】『街場のメディア論』(内田樹、光文社、2010年)


 本書は、著者の大学での講義をもとに編まれたものだという。著者の専門領域や書名から、第一講の「キャリアは他人のためのもの」を目にした時はいささか驚いた。しかしその内容はすばらしく、社会人になる前に講義を聴いた学生は幸運だ。入社前の学生はもちろんのこと、入社して数年までの社会人にとって、キャリアについて考えたい方は、この第一講をまず読んでみてほしい。書かれているエッセンスは、現在のキャリア理論と符号するものであり、換言すれば、現在および数年後までを射程とした職務や職場環境に適した考え方である。いたずらにスキルアップや思考法を売り込むだけの自己啓発本にはない地に足のついた論調が、本書にはある。

 特筆したいポイントを三つ挙げながら、それについて考察していく。

 第一に、自分にとっての天職や目指すべきキャリアから演繹的に今の仕事を選び取るのではなく、まずは手と足を使って仕事をしてみることが大事である、という点だ。その結果として、自分がどのようなことに意義を感じて、自分の強みを活かせるのかが腹落ちする。そうして工夫をし続けることで、ふと振り返ってみると自分のキャリアのパターンが見えてくる。そうした帰納的なアプローチが重要なのである。

 こうしたキャリアの考え方を結婚をアナロジーとして用いているところも分かり易い。すなわち、結婚というものをベスト・マッチングで捉えてもいたしかたがない。結婚相手に求める条件をスペックで書き出してみたところで、結婚生活を送ったことがない状態で、結婚後の状況を鑑みてよい結婚相手を選ぶことなどできない。むしろ、結婚を直感的に決断し、結婚生活を送る中で自分自身を知り、相手を知り、その関係性をどのように良くしていくかを常に考えて実践していく。こうした、自身の価値観をも柔軟にストレッチさせることにフォーカスする方が生産的であるだろう。

 第二の点は、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するという考え方である。人生やキャリアというものは、ロールプレイングゲームのように真っ白なゼロの状態から自分のあるべき姿を創り上げられるものではない。良くも悪くもこれまでの自分の蓄積の延長線上に描き出すのが現実である。したがって、所与の条件をありきで、いかに自分自身の中にある多様な可能性を開発していくか、というところの勝負になる。

 この時に、自分の適性から職業をマッチングするのではなく、いかにいま自分が置かれた環境に適応させるか、という視点が求められる。むしろ、そうした自分をストレッチさせる機会をいかに創り込むかということが鍵になるだろう。受身で待っていてもそうした機会は多く訪れるわけではないのだから、そうした機会が訪れた時にそれをセンスしキャッチできるように常にアンテナを高く張っておくことが肝要だろう。

 第三に、まずは遠大な目標に向けて取り組むのではなく、目の前の他者からの期待に答えるというシンプルな目標に集中するということである。他者から見て、こういう仕事をきちんとしてくれたらありがたいという期待に一つひとつ答えていく。こうしたことが翻って結果的に第二の点である良質な機会を生み出すことに繋がる。

 著者によれば、こうした他者の期待に答えることによって自身の潜在的な能力が開発されるもので、反対に自己利益を追求しようとすると、自身の分かりきった顕在的な能力にばかり注力してしまう。その結果、当座のマーケット・バリューの上下に一喜一憂することになり、継続的な自己開発には繋がらないのである。本来は多様な可能性のある自己を発掘し続けることが、自身の豊かなありようを開発することになるのではないか。


2012年11月17日土曜日

【第123回】『老人と海』(ヘミングウェイ、福田恆存訳、新潮社、1966年)


 大学生の時に「For whom the bell tolls」を読み終えるのを挫折して以来、恥ずかしながらヘミングウェイを読んだことはなかった。人物の心象風景の描写が巧みで、引き込まれる。老いによる衰えを自覚しながらも大海原へ漁に一人で向かう老人を中心に話は進む。彼を取り巻く存在として、対峙する巨大な獲物、獲物を横取りしようとする鮫、そして老人を慕う若者、が登場し、そのやり取りのほとんどは老人の内省である。この内省が読み手の文脈に即して考えさせられる。

 「あらゆるものが、それぞれに、自分以外のあらゆるものを殺して生きているじゃないか。魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。」

 大魚との三日三晩にわたる闘い。その果てに得た獲物を自宅まで運ぶ際の鮫との闘い。老人が力任せということではなく、自然に身を任せつつ、同時に自然の猛威に敢然とあらがいながら苦闘するシーンは読み応えがある。その果てに、大魚を狙う鮫を殺すことに対して疑問を抱いて自身を省みているのがこの場面である。

 自分の獲物を他者が狙うことに憤りをおぼえて、それに対抗することを正当化しながら、獲物を殺した時点で、他者と同じなのではないか、という疑いの目を自分に向ける。つまり、生命の連鎖というシステムの中に存在している以上、誰が食べ物を殺したのかということではなく、全てが全てに責任を持つということなのではないか。生命システムと一見して断絶した世の中に住むわたしたちにとって、そうしたシステムの一部を担う私たち人類という視点を思い返させられハッとさせられる。

 さらに、海における長い日中夜の闘いの中で、老人は自らを鼓舞するためになかば自覚的に独り言を言う。しかし、闘いに疲れて帰宅して憔悴しきって熟睡した後に目を覚ました時に、かつての弟子である少年がそばにいて話すことのたのしさにふと気づく。それが次の描写である。

 「だれか話し相手がいるというのはどんなに楽しいことかが、はじめてわかった。自分自身や海に向っておしゃべりするよりはずっといい。」

 一見して当たり前のことが書かれている。むろん、他者と話すことは楽しいことである。一人で話すよりも楽しいに決まっている。しかし、ここには上記のような深い内省における独り言をも超越するなにかがあるという対比軸があることに注目したい。その超越するなにかとはなにか。

 それは他者目線を持つことによる、一段深いレベルへの内省へと至ることではないか。他者や自然に対して拓くことによって自分自身の可能性が高まるということなのではないだろうか。

2012年11月11日日曜日

【第122回】Number816「日本最強のベストナイン」(講談社、2012年)


 最近はあまり野球を見なくなったが、日本シリーズだけは毎年見ている。クライマックスシリーズあたりからそわそわして日本シリーズを見るという流れがここ数年で定着しつつあるようだ。そして日本シリーズが終わるとNumberが特集号を必ず出すものだから、どうしても買ってしまう。日本シリーズの各試合の分析がいつも面白く、今回も期待を裏切らない出来であった。

 今年の日本シリーズ特集号の中で興味深く読んだのが杉内俊哉投手へのインタビュー記事である。

 彼をはじめて認識したのは、鹿児島実業のエースとして松坂大輔投手を擁する横浜高校と対峙した夏の甲子園の時である。横浜高校を応援していた身としては、その前の試合でノーヒットノーランを達成した杉内投手は脅威であったが、興奮しながら試合をテレビ観戦したように記憶している。

 その彼が今号のインタビューで述べていることがメンタル面での自己管理についてである。若い頃には「マウンドで自分と戦っていた」と振り返りながら、ピッチングで一番大切なこととして「逃げ道を作る」という独特な表現を用いている。

 ここでの逃げ道とは、他者からの逃げ道ということではないことに注目したい。したがって、打たれたときの言い訳として逃げ道を用意するということではないのである。そうではなく、マウンド上でいたずらにもう一人の自分という幻想と戦わないための工夫であり、気持ちの整理をつける場所を作っておくということなのである。

 その効用として「開き直れれば、気持ちを切り替えることができる」ために「一年を通じて、コンスタントに勝つ」ことに繋がるのである。ただ単に意識を前向きに持つのではなく、一見して後ろ向きに見える意識変容を通じて前向きな行動に着実に結びつけること。こうした高いプロフェッショナル意識に基づいた自己管理術は、ぜひ取り入れたいポイントだ。

2012年11月10日土曜日

【第121回】“Inside Apple”, Adam Lashinsky, BUSINESS PLUS, 2012


Just before new product is launched by Apple, there are many rumors about it, whether they are right or not. In other words, there are few facts from inside Apple. This book revealed what we didn’t know precisely, so it will be excited for most Apple fans to read.

In this book, there are a lot of unique ideas and actions by Apple and former CEO Steve Jobs. I’m going to write about three topics which I was totally interested in as below.

(1) how to work

According to this book, Apple employees come to work only to work. They like to do hard work every minutes for achieving their tough target. They can’t separate their works into their lives. So, even when they have vacation and go to resort with their family, emergency call from the company sometimes make them go back to their office.

And it is very interesting for me that Jobs let people’s talent define their jobs, not the jobs define the people. It is totally different from other US companies, and is similar to the old style Japanese companies. Considering about what Jobs once loved old Sony, he might learn from it about designing work at Apple.

(2) relation to customer

Jobs considered user interface (UI) as the most important factor to be successful of Apple business. So he wanted to control every interfaces to Apple users through the perfect vertical integration. He integrated laptop computer, music player, browsing service, online stores, and real store into one Apple business.

So why they made Apple Store is very interesting. The main purpose of Apple Store is not to sell their products, but to hear the customers’ voice. Hearing their voices, Apple can find out customers’ hidden needs and develop innovative and cool new products.

(3) management and leadership

Jobs did micromanage to high degree and to a low level in the organization. This Jobs’ attitude and action is far beyond the knowledge of today’s management and leadership. For most CEOs, drawing big picture and making big decisions are their jobs, and judging too many micro works are not. But Jobs did. This point made him far different with other CEOs, and gave him broader business knowledge and idea based on real works.

The most amazing thing is that Apple has succession plan. Tim Cook was chosen far before Jobs retired his CEO position. Based on Apple’s succession plan, Cook succeeded Jobs’ postion naturally. And also Jobs prepared many training courses to grow leadership in Apple. Considering about these strategies, Apple is not Jobs’ company.

2012年11月3日土曜日

【第120回】『ハイ・フライヤー 次世代リーダーの育成法』(M・マッコール、金井壽宏監訳、プレジデント社、2002年)


 後継者育成、次世代リーダー育成、ハイポテンシャル人材開発。様々な表現の違いはありながらも、企業の中長期的な成長を担うリーダーシップを開発することが必要であることに異議を挟む人は少ないだろう。ジャック=ウェルチの次を担うGEのCEO選抜プログラムが注目された2000年前後から、日本企業においても、リーダーシップ開発に対する機運が高まったように思える。企業の中で次世代リーダー育成の企画や運営を担う部門で働く方にとって、本書は理論的なバックボーンを提供する必読書である。

 優れた経営書とは、抽象度の高い理論化がなされながらも、現場への示唆に富んだもののことを指す。しかしそれは他方で、簡潔にまとめることが難しいということにも繋がりがちだ。ポイントを絞り込むことで大事な点が漏れてしまうことを恐れてしまうのである。本書の場合も、本文を読み終えた段階ではこうした不安が頭をよぎった。しかしありがたいことに、監訳者である金井先生が五つの意味合いというかたちであとがきにポイントをまとめてくださっている。私にとっては納得的であると思えるので、この五つのポイントを引用しながら述べていくこととしたい。

(1)人は経営幹部に至るまで、いくつになっても発達するという基本的発想

 次世代リーダー育成やハイポテンシャル人材育成というイシューにおいては、人材の選抜にフォーカスされることが多い。選抜が重要であることに異論を挟むつもりは毛頭ない。しかし、何を基準として選抜するかについての議論がなされなければ、選抜に工夫を凝らしても意味はない。

 選抜基準においては、どうしても過去の実績や職務経歴といった面が重視されてしまう。とりわけ、短期的な成長が求められている昨今においては、直近の実績が必要以上に評価されてしまうというハロー効果がともすれば生じがちだ。しかし、過去のスタティックな経験が将来の中長期的な成長を組織として実現できるかどうかということに合理的な理由はない。環境変化の激しい現代において、その傾向はより顕著になっている。したがって、将来において求められる能力をもとに選抜の基準を作成することが求められるが、将来のビジネスを現時点で透徹することはほぼ不可能だ。そこで、著者が述べている、リーダーシップに関する才能の必要条件は「経験から学ぶべきことを学ぶ能力」という点が鍵となる。経験から学ぶ能力をもとにリーダーシップ人材要件を定義することが、まず最初の一歩となる。

(2)リーダーシップという観点から人を育てるのは、経験だという視点

 リーダーシップ論は特性論、すなわち優れたリーダーが保有する生来の才能の研究から始まった。その結果、生まれついて保有している他者との違いがリーダーシップを形成しているという言説は今でも日本の企業現場では優勢な考えとなっているように思える。たしかに生まれついて持っている才能が有効な影響を与えることはある。しかし、そうした才能を持っているだけで果たしてリーダーシップを発揮できるのであろうか。類い稀な才能を持った方は、それを努力によって磨き続け、時に失敗を繰り返しながらも他者に働きかけ続けることでリーダーシップへと結晶化しているのが現実である。

 たとえば、第一回・第二回のWBCにおけるイチロー選手を思い起こしてほしい。彼のバッティングセンスはおそらくは生来の類い稀な才能に因るところもあろう。しかし、それをパフォーマンスへと結実させたのは、彼が小学生時代に書いたと言われる作文を読めば分かるように、常人から計り知れないほどの努力の量によって裏打ちされている。また、日本代表の他の選手への働きかけも、下手をすればピエロと見られかねないほどのパフォーマンスを、外からは躊躇していないように見えるほど大胆に行っている。そうしたリーダーシップ行動が奏功して戦う集団を創り上げ、見事に二連覇を成し遂げるという結果を出しているのである。労せずして優れたリーダーが生来保有する才能によって生み出されるということは非現実的であろう。

(3)だからといってラインに放置するのではなく、経験を系統立てる方策を追求

 これほどまでに経験が大事であれば、職場における日々の具体的な経験を積ませれば、リーダーシップが開発されるのかというと、そうしたことは起こらない。にも関わらず、経験の重要性を逆手に取って、何も指導せずに放置することを正当化する免罪符としてOJTという言葉がよく使われている。むろん、かつて放置型のOJTが一見して機能したこともたしかであろう。しかし、そうした時代においては、経済が右肩上がりで企業の成長スピードも早かったために、黙っていても手応えがあって挑戦しがいのある仕事が現場には溢れていた。同様にチャレンジングな仕事に燃える他の同僚と切磋琢磨する中であれば、成長しない方が難しかったであろう。

 しかし、時代は変わった。今後そうした状況が生じることを楽観的に想像することは、少なくとも日本社会では現実的ではないだろう。そこで、OJTを系統立てるという発想が必要となる。すなわち、職務設計の自由度を上げる、職務に対するリフレクションの時間を設ける、率直なフィードバックとコーチングをマネジャーが行えるようにする、といった工夫が求められるのである。

(4)ラインのマネジャー、人事部、経営者の役割を、人材開発という面から照射

 選抜された人材の経験をデザインすることの重要性は高い。しかし、それをいかに持続するかというのがこの四つめのポイントである。ここでの鍵は、責任主体はラインのマネジャー、人事部、経営者という三つが共同で担うという点である。

 経営者だけが次期CEOの選抜・育成にコミットしても、結局は掛け声倒れに終わってしまう。経営者が発破をかけて人事部が主導してプログラムを作成しても、現場がブラックボックスになってしまったら、選抜者がハシゴを外されてしまうのが関の山だ。三者が同じ方向性を持って取り組まない限り、貴重なリーダーシップ人材が脱線することを黙って座視することになりかねない。リーダーシップ人材の脱線とはすなわち、近い将来における企業の脱線を意味する。

(5)経験が大事というのを前提に研修の意味を再探索

 職場での経験を重視するこうした考え方を曲解すると、人材育成の場としての研修は無意味であると認識してしまいかねない。しかし、著者によればそれは大いなる誤解であり、著者自身が積極的にリーダーシップ開発の研修をCCL等で提供していた事実がそれを証明している。

 一つには360度フィードバックをはじめとした経験を内省してもらうツールと、それに基づくセッションの提供ということが挙げられるだろう。本書でも挙げられているように、フィードバックという言葉は本来は「出力の一部を入力に返す」という電磁気学の用語である。したがって、いかに他者の介在を少なくし、また余分な情報を削ぎ落して率直なフィードバックを行うか、ということは鍵であり、そうしたものを用いた研修やファシリテーションの有用性は極めて高い。「経験が大事だから」という言い訳をもとに研修を行わないことは、放置型のOJTと同じ穴の狢であることに人材育成を担う身としては肝に銘じたい。

 最後に余談を一つ。仕事において成長を促す経験を構成する主要な要素を著者が調査したところ、障害物という要素が抽出されたそうだ。困難があるほど成長が促進されるということはイメージし易い。この中で「頑固な上司」という点があることは意外であると同時に、理解できる方も多いだろう。上司が自分のやり方に固執して働きづらい、一方的な指示ばかりで分かりづらい、昔の自慢話ばかりする、といった上司にまつわる愚痴は尽きない。しかし著者によれば、こうした特徴を持つ上司は「頑固な上司」に該当することになり、そうした上司の下で働く部下にとっては成長の糧となるようだ。このように考えれば、「頑固な上司」の下で働くということにポジティヴに取り組めるようになる、という側面もあるのかもしれない。

2012年10月27日土曜日

【第119回】Leveraging the Impact of 360-Degree Feedback‏


This book is a perfect guideline to develop and implement 360-degree feedback in an organization, so I highly recommend this book to HR and L&D managers and staffs. Especially, there are three important points as below.

Point 1:
360-degree feedback should not be implemented as a stand-alone event. In addition to the assessment, there must be a development planning and follow-up component.

As CCL, purpose of using 360-degree feedback should be human performance development tool. So, it is good for 360-degree feedback to be imbedded in continual training programs for example leadership training and succession planning. And also, if 360-degree feedback is implemented as a stand-alone event, it will not make attendants start first step to his or her own development plan (though it will be good for him or her to be aware of own performance).

Point 2:
Boss support is critical for the 360 process, as well as for getting participants to set specific development goals.

What is said above comes from the viewpoint of the job characteristics as a boss. Comparing to any other rater of 360-degree feedback, his or her boss may be the best rater who can see and watch his or her performance in a daily business life. Considering about this point, asking boss to be supportive attitude to 360-degree feedback is important.

Point 3:
The 360-degree feedback process works best if it begins with the top executives of the organization then cascades through the organization.

Of course, implementing 360-degree feedback is good not only as development indicator for target attendants, but also as CSF indicator for company itself, because 360-degree feedback materials must be based on company’s business strategy and corporate mission.

2012年10月20日土曜日

【第118回】『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(山岡淳一郎、草思社、2007年)


 後藤新平と言えば関東大震災後における東京復興である。3.11後の復興の時期に、なにかと比較の対象となったことが記憶に新しい。もちろん名前は知っていたが、 恥ずかしながらこれまで彼の人物像に深く触れる機会がなかった。

 まず考えさせられたのは「公」に対する後藤の意識である。権力者はともすると民衆に対して滅私奉公としての「公」を強いる傾向にあるが、後藤はそうではなかった。為政者としての後藤自身が「私」を捨てて、大衆とともに生きようとするというあり様が震災からの復興をはじめとしたチャレンジングな政策の実現を可能にしたのであろう。

 こうした「公」の意識を後藤が持てた理由はなにか。

 そこにはいろいろな要素が影響しているのであろうが、とりわけ彼を取り巻く多様な対人関係に着目したい。彼の周囲には、いわゆる「右」から「左」まで様々な価値観を持った人材が揃っていたそうだ。目標を共有してプロジェクトを実現するためには、目標の実現と関係のない価値観までが同一である必要性はない。むしろ、困難なプロジェクトを実現させるには、異なる価値観を持ったメンバーが集まっていた方が強いのかもしれない。現代のダイバーシティを先取りするような彼の有する人間関係こそが、「公」的なプロジェクトを成功させる要因となったのではないだろうか。

 では、プロジェクトの実現へと至るために多様性を受容し、他者を客観的に理解することができたのはなぜか。

 注目したいのは、後藤とその若き日における師匠にあたる安場保知とのやり取りである。後藤より十二歳年長で同じく安場の下に仕えていた阿川光裕から後藤は「師匠の安場をも絶対視するのではなく客観的に見つめよ」と言われたという。至言であろう。一方的に何かを信じるということは、それを自分の中に入れこむだけに過ぎない。そうではなく、対話を通して他者の貴重な知恵や意見を自分の中で咀嚼する。そうすることが実践に結びつく抽象度の高い知恵を紡ぎ出す。対話を通じて自由と自律を重視する姿勢こそが、多様性の受容と客観的な他者の把握に繋がったのではなかろうか。

 自由と自律を重視する後藤の思想が凝縮されていると考えられるものが「自治三訣」と呼ばれる彼の考え方である。それを引用して終わりとしたい。

 人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう

2012年10月14日日曜日

【第117回】『重力とは何か』(大栗博司、幻冬舎、2012年)


 科学を学ぶということは、世の中を見る目を養うということであり、多様な視点で物事や事象を観察することを可能にすることではないだろうか。

 高校生に至るまで、私たちは文科省の規定に合致した範囲の学習内容を、受身的に学ばざるを得なかった。そうした学び方の結果として、特定の科目に対して苦手意識を持ったり、嫌悪の感情を抱くということも残念ながら生じてしまう。

 それに対して、それ以降の圧倒的多数の大人にとって、何を学ぶべきかという制約はない。したがって、自分たちのペースで自分たちが分かる内容を自分たちのやりたい方法で学べば良い。学習指導要領にあるような固くてせせこましい学び方に捉われず、柔軟におおらかな学び方をたのしみながら試していけば良いのではないか。

 このような大人の学びにとって、本書のように、基礎的な領域から改めて科学を学び直すことができる書物というのはありがたい。科学というと左脳的なイメージを持たれがちであるが、科学を学ぶということは世界を視る視点が広がることであり、感性や悟性を磨くということにも繋がるものであろう。すなわち、働く上でまた生きていく上でのアナロジーに満ちたものである。

 たとえばビッグバンについて。ビッグバンは宇宙の始原に関わるイシューであるために、ビッグバン理論が哲学の領域に与えた影響は大きいと言われている。本書の解説によれば、ビッグバンでは空間自身が膨張するということが指摘されている。空間が膨張するということは、二点間の距離が伸びるということであり、したがって、必ずしも空間の外側の存在を必要とするものではない。つまり、伸びるという言葉を見ると内側が伸びた先にある何もない空白の外側を前提として考えてしまうが、ビッグバン理論ではそうした発想は必ずしも前提とされていない。

 ビッグバン理論をアナロジーとして捉えることで、内と外の二分法という発想に捉われずに済む発想を持つことが可能になる、と言い換えても過言ではないのではないだろうか。

 さらに興味深いのは理論が破綻することに対する科学者である著者の感覚である。自分自身の研究でも基盤となっている先行する理論が破綻することは、自身の研究のやり直しにも繋がり、前途を塞がれる感覚を持つことがよくあるだろう。しかし、著者の考え方は違う。理論が破綻する状況とは大きなチャンスであり、これまで知らなかった世界がこの世に存在することの証左である、というのである。

 旧来の理論が破綻して、新しい理論が構築されることになれば、従来よりもより普遍的な理論を手にすることができ、新たな知見をもとに世の中をよりよくする可能性が高まる、ということであろう。これは企業や社会的組織におけるイノベーションを志向する私たちにとって勇気づけられる考え方ではなかろうか。

2012年10月13日土曜日

【第116回】『経営は「実行」』(L・ボシディ+R・チャラン+C・バーク、日本経済新聞社、2003年)


 五年前に本書を読んだとき、私は人材育成のコンサルタントであり、かつ修士課程の学生であった。タイトルにある「実行」という当たり前のことを企業の中で継続し続けることの難しさを分からなかったからか、それほどインパクトのある書物ではなかったことを記憶している。今回、本書を読み直してみて、実行をいかに企業の中で実現させるかについて気づきを得られる点が多々あった。

 実行とは、計画を立てたあとに粛々と遂行するという生産管理におけるPDCAのDに当たるものではない。そうではなく、体系的なプロセスであり、絶えずフォローすべきものである。したがって、戦略計画を立てる段階において、結果に責任を負うべき全ての関係者を巻き込み、どのようにして実行するのかを確認し合うことが重要である。

 では体系的なプロセスとは具体的にはなにを指すのか。本書では人材プロセス、戦略プロセス、業務プロセスという三つの要素から成り立つとされている。

 まず人材プロセスについて、多くの企業は現在のポストにおける仕事の評価を重視しすぎていると著者は警鐘を鳴らす。実行する文化を創り込むためには、明日の仕事ができるかどうかという観点から人材プロセスを見直すことが重要なのである。著者の一人であるボシディは、アライド・シグナルに復帰して人材プロセスを構築し直した際に、真っ先に人事部門の人材を強化したという。その結果として、会社全体を実行へ向けて動かせるようになったそうだ。人事部門を事業に結びつけることを通じて、人材プロセスをアップグレードすることが企業には求められているのであろう。

 戦略プロセスにおいては、戦略をトップが用意するという従来のスタンスは望ましくない。そうではなく、戦略の中身と細部については、実行に最も近い社員の考えを前提にして決めるべきである、とされている。むろん、トップは現場から上がってくる情報を受身的に待てば良いということではなく、現場とトップとの戦略レビューを効果的に活用するべきである。現場の担当者に対してしつこく質問を繰り返すことで、実行可能なレベルに落とし込み、その責任の所在を明らかにする。こうした一連のプロセスを回すことで、戦略レビューの場をトップが人材について学び人材を育成する格好のコーチングの舞台に設えることができるのである。

 ここまで述べた人材プロセスと戦略プロセスとを連動させるものが業務プロセスである。業務計画をレビューする際に特に重要な点として挙げられているのが、参加者個々人が持つ想定についての議論である。部門や役職が異なればある事象について抱いている想定が異なることは当たり前であるが、往々にしてそうした差異は明らかにされないことが多い。そうではなく、前提条件になる想定を議論することで、現実的な目標を設定することが業務プロセスにおいて肝要である。

 実行とは計画に基づいて行うという静的な行為ではない。むしろ、人材プロセス、戦略プロセス、業務プロセスを統合させることで常に動的に創り込む作用であることを意識し、愚直に「実行」し続けることが現代の企業には求められているのである。

2012年10月8日月曜日

【第115回】『竹田教授の哲学講義21講』(竹田青嗣、みやび出版、2011年)


 オルフェーヴルが凱旋門賞で負けた。フォワ賞あたりから期待が高まり、また直線半ばで先頭に立った状況から、「スミヨンの仕掛けが早すぎた」という批判がネット上では為されている。しかし、オルフェーヴルに跨がるスミヨンと、感想を述べる私たちとの間にある二つの軸の差異にあまりに無自覚ではなかろうか。

 一つめは空間軸である。テレビ画面を通じて全体を見渡せる私たちに対して、最後方付近で待機しているスミヨンからは動きながらラフスケッチとして把握できるに過ぎない。加えて、二つ目の軸である時間軸の相違が大きい。私たちは結果的にソレミアに差し返されたという時点からレースの状況を振り返るために、レース後からレース中を省みることになる。それに対して、スミヨンはレース前のオルフェーヴルや馬場の状況および調教師とのミーティングからレースに臨むために時間軸の矢印が私たちと真逆である。したがって、私たちはソレミアを重点的に考えられるが、オルフェーヴル陣営からすれば人気薄のソレミアはほぼノーマークで、キャメロットをはじめとしたアイルランドやフランスの馬を仮想敵と置いていただろう。過去からレースを捉えた場合、スミヨンの仕掛けが早かったということは果たしてできるものだろうか。

 私たちは自分の視座に立って物事を見る。それは致し方がない。しかし、自分の視座に立っていることに無自覚で、他者を批判することは無益である。そうではなく、他者の視点に立とうとする努力をし、他者のパフォーマンスを他者の目線で振り返ろうとする営為が、翻って私たちの視座を豊かにすることに繋がるのではないだろうか。

 これはなにもスポーツを鑑賞する場合にのみ当てはまるものではない。本書のテーマである歴史的な哲学者に向ける現代を生きる私たちの眼差しもまた、スミヨンの騎乗への批判者に該当しがちであるから注意が必要だ。

 著者は自分たちの世界像の視点からのみ哲学者の理論を捉える姿勢を一貫して批判する。そうした姿勢では、古今東西の哲学者が「生きるとはなにか」を考え詰めて紡ぎ出した結晶の価値を削ぎ落す結果となってしまうからである。時代背景や環境を踏まえた上で、哲学者たちの思想を読み解くことが、私たちの視野を拡げるきっかけになる。

 たとえば本書で最初に取り挙げられているプラトンの理論を見てみよう。プラトンと言えばイデア、イデアといえばキリスト教的唯一神、キリスト教的世界解釈と言えば本質実在論、と結びつけられ、現代ではプラトンの理論は否定的に捉えられがちである。しかし、これはプラトンが生きたギリシャの世界像を括弧に括り、現在の世界像から批判しているにすぎないのかもしれない。むしろ、現代の世界像を括弧に括り、プラトンの理論を捉えようとする努力こそが私たちには求められるのである。

 では現代の世界像を括弧に括ってプラトンを読み解こうとするとどうなるか。

 プラトンがイデア論へと至った背景には、自然哲学派が提示していた万物の原理を水や火といった物質に置く理論や、ピタゴラスの提示した原理を数に置く理論といった客観的な対象を基盤とする認識からの脱却という姿勢を見逃すわけにはいかない。つまりプラトンは、従来の客観的な対象物をもとに事物を解釈するパラダイムを脱却し、人間の有する内在的な価値によって物事を把握するというパラダイムを提示したのである。

 ここで真善美のイデアという概念に繋がる。イデアを説明する思考装置としてプラトンが用意したのがかの有名な洞窟の比喩である。私たちの前方に見える影だけを見ていては投影される元となる事物を把握することはできない。前方ばかり見るのをやめて後方を振り返ること。すなわち、自分が見ているものが太陽の光源によって照らされている仮象に過ぎないという事実を自覚すること。この自覚によって、自分自身の主観的な信念に気づき、真のイデアを目指すメタレベルでの認識、すなわち善なるイデアによる把握が可能となる、とするのである。

 その際に私たちが忘れてはならない点は、プラトンは、イデアという最終ゴールに焦点を置くのではなく、イデアに至るプロセスに対して焦点を当てていることである。善なるイデアは人間の主観に影響を受けざるを得ない。人間の感受性は美的感覚の網の目のようなものであるため、完全なもの(真のイデア)を想起することはできない。しかし他方で、その網の目を少しずつ編み変えていき、より深い美意識を持つという発展可能性は常にあるとも言える。こうした人間の審美性を深めていく原理をプラトンは善なるイデアと名付けたのではないか、というのが著者の主張であり、このように捉えれば私たちが現代で生きる糧ともなるように思える。

 時間軸と空間軸の差異を無視して今・ここの視点から他者を批判することは容易い。しかし、そこからなにが生まれるのであろうか。今・ここの視点を括弧に括り、過去の・その場所での考え方に寄り添おうとする営為こそが、歴史上の人物の知恵から学ぶということなのかもしれない。

2012年10月6日土曜日

【第114回】『自己啓発の時代』(牧野智和、勁草書房、2012年)


 著者は現代の日本を後期近代と位置づけて論調を進めている。では、そもそも「後期」の前にあり、その基底を為す近代における社会のあり方とはなにか。その特徴として著者は、国民国家の介入や科学的知識が国民に浸透し、それがヒト・モノ・情報の流動性の上昇と相俟って、共同体の内部に保持されてきた慣習や伝統が相対化される社会としている。端的に言えば、旧来の土着の慣習や伝統の価値が相対化される、ということである。

 それに対して後期近代とは、あらゆる行為や関係性や制度のあり方が「本当にこれでよいのか?」と省みられるようになる。その結果として「さまざまな行為の前提が揺らぎ、そして自らの行為の結果が次なる行為の条件を形成するまでに社会的流動性が上昇した社会」が後期近代である現代日本社会である。つまり、近代では価値が相対化され諸文化が並立していたのであるが、後期近代においてはその個々の価値に基づく行動を起こした自己に対する絶え間ない内省がなされるようになった。

 このような何でも自己の内面に惹き付けて考えてしまう現象について、フーコーの四つの概念を用いて著者は捉える。第一は倫理的素材であり、これは「自分自身のどの部分と向き合い、自己実践の素材とするのか」という観点である。第二の服従化の様式とは、「どのような様式や権威にもとづいて、「自己の自己との関係」を定めていくか」という観点。第三の観点として倫理的作業が挙げられており、これは「どのような手続きを通して自分に働きかけていくのか」という観点である。最後の第四の観点は目的論と呼ばれ、「自己実践を通して、どのような存在様式を最終的に目指すのか」という観点を示すものである。

 このようにフーコーを理論付けとして用いながら、あらゆる現象を自己の内面に惹き付けて考える人々の現象を、具体的に三つのメディアを用いて著者は分析している。

 まず自己啓発書と呼ばれるジャンルのベストセラーを分析の対象とし、「自己啓発」に関する言説構造の歴史的な変遷を取り上げている。ここで私たちが気に留めるべきは、現代における自己啓発書の書き手が、常に自分自身が読者に対して優位に立てるしくみを設けている、という指摘である。ここ十年の自己啓発の著者は、自身が解く法則と、読者がそれを受けて行う実践とを区分して記し、読者の成果が出ないことに対して実践の不備を指摘し、著者の法則の正当性を防御する構造を設けているのである。つまり、読者が成果がでないのは読者の実践不足のせいであり、自己啓発書の著者の提唱する法則に瑕疵があるのではない、ということである。こうした自己啓発書の著者が必ず読者に対して優位に立てる黄金律を著者は「万能ロジック」と形容している。昨今の自己啓発書に目を通した方には首肯できるのではなかろうか。

 次に著者が俎上に乗せているものは就職用の自己分析マニュアルである。著者の分析によれば、就職活動において学生が取り組む自己分析じたいは数十年前から行われていたそうだ。しかし、現代におけるその大きな特徴は、分析内容が自分自身の価値観や性格といった内面に傾注しすぎる点である。こうした傾向は、社会的な背景と自己分析用書籍とが相互に影響を与え合うことで循環構造を持っている。すなわち、採用市場が悪化し学生が好むポジションの採用枠が減少することで、学生側は是が非でも受かるために自己分析に力を入れるようになる。他方、そうした学生側のニーズを受けてメディア側が自己分析をマニュアル化し、作業課題を定型化することで「本当の自分」や「やりたいこと」を導出し、エントリーシートに落とし込む作業の自動化を促進する。こうした両者の相互影響により、学生を過剰に自身の内面に向き合わせる構造ができあがる。この構造が先述した万能ロジックと相俟って、自身の希望通りに就職できない学生を、自身の自己分析に努力が足りないと思わせ、病的に自身を内省させる悪循環へと導いている、と考えるのは思い過ごしであろうか。

 三つめとして、女性のライフスタイルの言説の変遷が取り上げられており、具体的には『an・an』が分析されている。私自身が『an・an』をはじめとした女性向けの雑誌に目を通したことがないためここでは著者の著述のみを用いる。著者によれば、二〇〇〇年代の『an・an』がたどりついた構造として、「日常生活のあらゆる事項を内的な自己変革・強化等の呼び水」とすることで、「「自己の自己との関係」を自ら調整・コントロール可能とする、またそれを望ましいとするような「自己の体制」」を構築したという。この分析結果からすれば、女性向けの「ファッション」誌が、外的なファッションについてではなく性格・相性・キャリア・価値観診断といった内面に焦点を置いている点は興味深い。

 こうした三つの自己啓発メディアの分析から、どのような読者層が対象であろうとも内的世界への働きかけを促していることが分かる。これは、フーコーの言葉でいうところの「自己の自己との関係」の調整自体を自己目的化させる構造を有していると言えるだろう。

 自己啓発メディアに警告を発しているように読めてしまうが、著者はそうではないと何度も述べている。自己啓発メディアの発する「自己の自己との関係」のしくみに基づく一種のゲームにうまく乗れる人はそれでか構わないと指摘している。その上で、ゲームにうまく乗れない、おそらくはマジョリティに対して、ゲームから抜け出す道を本書では狙っているそうだ。こうした誠実で筋の通った意図がありつつも、抑制的なものいいに終始する著者の姿勢は、学術書のスタンスとして、また世に意見を問うスタンスとして、読んでいて清々しい一冊である。

2012年9月30日日曜日

【第113回】『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)


 企業における人材育成とはなにか。本書ではダグラス・ホールの定義を援用し「企業が戦略目的達成のために必要なスキル、能力、コンピテンシーを同定し、これらの獲得のために従業員が学習するプロセスを促進・支援することで、人材を経営に計画的に供給するための活動と仕組み」としている。

 経営の文脈における人材育成の取り組みとして、組織社会化、経験学習、職場学習、組織再社会化、越境学習という五つの観点から示唆が述べられている。それぞれ、著者が単独もしくは共同で研究した知見に基づいて記述が為されている学術書である。

 組織社会化については、日本では新卒入社社員の組織社会化が主な研究となるのが特徴的である。OJT指導員がどのように関与すると新卒入社社員の能力向上が促されるのか。著者の共同研究によれば、指導員が自身だけではなく周囲の協力を得ながらOJTを進めることが重要性だそうだ。これは興味深い事実である。その理由として、新卒入社社員が疑問に思ったり不安に思ったりしたらすぐに質問をできること、指導員以外の多様な先輩社員の多様な働き方から学ぶ機会が増えること、が挙げられている。指導員は、自身が教育担当ということでプレッシャーを過度に感じて後輩指導に自信をなくしてしまうことがある。このリスクを軽減するためにも、指導員が周囲を巻き込みながら新卒入社社員の教育を担うことができるようにすることが必要であろう。

 次に、経験学習のプロセスとして、具体的経験、内省的観察、抽象的概念化、能動的実験の四つがサイクルとして挙げられている。著者の共同研究によれば、年次によって、それぞれのプロセスと能力向上との関係性に差異が見られたという。すなわち、社会人経験が浅い時点においては、具体的経験を積むことが能力向上に有意な影響をもたらすのに対して、経験がある程度の段階に進むと四つのプロセスをバランスよく担うことが能力向上に影響を及ぼすそうだ。職務の経験から学ぶと一言で言っても、経験の程度によって何が大事かという観点が異なることは留意しておくべきである。

 続けて職場学習について。現場のマネジャーは部下育成に取り組むというよりも、職場における互酬性規範をいかに高め、育成されることが特に必要な層を多様な先輩によって育成するという風土を築くことの重要性が指摘されている。これは組織社会化において上述したことと関連することであり、納得的である。さらには、業績達成に対するプレッシャーが大きい現代の職場環境であるからこそ、パフォーマンスレベルの低い人材に対してもチャレンジさせて育成を行うことが指摘されていることも見逃せない。部下育成と部門の目標達成とはどちらも両立させるべきものなのである。

 組織再社会化においては、中途入社者に対する体系的かつ戦略的な支援の必要性が述べられている。中途入社者は特定の職務のパフォーマンスが認められたために入社することになることがほとんどであろうが、企業独特の職務の遂行方法や、仕事を前に進めるために協働する他者との人脈がない中では、自身のパフォーマンスを存分に発揮することは難しい。当たり前のこととはいえ、新卒入社がメインで中途入社がサブとして機能してきた日本企業の採用活動においては、中途入社社員への教育という観点が抜けがちではなかろうか。企業にとっても中途入社社員にとっても、改めて、すぐに戦力化するための教育施策を検討することが重要である。

 最後に越境学習という新しいテーマにおいても重要な示唆が述べられている。これまでの日本企業におけるマジョリティーから、社外の勉強会や情報交換会に赴く人材は冷たい目で見られがちであった。しかし、本書では、越境学習を行う動機を因子分析した上で、そこで見出された四つの因子をクラスター分析し、四つのクラスターを抽出した上でそれぞれの比較を行っている。その結果として、キャリアや成長志向を持つクラスターが能力向上に有意な影響を持っているそうだ。さらには、このクラスターにおける組織コミットメントが最も高いという点も注目である。特に目的意識もなく他者に言われて「お勉強」するクラスターの能力向上がなされないことは自明であるが、勉強会に行かずにひたすら仕事に取り組むクラスターよりも、上記のクラスターの能力向上や組織コミットメントが高い事実はよく頭に入れておくべきであろう。

2012年9月29日土曜日

【第112回】『「しがらみ」を科学する』(山岸俊男、筑摩書房、2011年)


 「頭でっかち」という言葉はあまり良くない意味合いとして使われる。なんに対しても理論や論理性のみで事象を理解しようとして、現実にそぐわない結論を導き出すというようなことであろう。

 そうであるからといって、「頭」と対比的に用いられる「心」を重視することは望ましいのだろうか。

 著者は「頭でっかち」に対して「心でっかち」という言葉を用いて、その危険性を指摘している。つまり、どのような事象に対しても心的な背景があると解釈しすぎてしまうことによるリスクである。

 心という狭い概念でものごとを理解しようとしすぎると、結果的に視野が狭くなってしまい全体が見えなくなる。また、全てにおいてポジティヴ・シンキングを強調しすぎると、心の持ち方さえ変えればあらゆる問題が解決するという精神主義が助長される。この結果として、竹槍で戦車に立ち向かうなどとする発想が生まれ得ると著者はその危険性を指摘している。

 「心でっかち」が恐ろしいのは、「心」を水戸黄門の印籠のように出されると、反論しづらくなるということである。すなわち、思考が停止される状態である。たとえば、若者による凶悪犯罪をマスメディアが取り上げ、その中で凶悪な犯罪が増えていることを若者の精神状態の荒廃と結びつけられることがよくある。しかし、社会学では使い古されている事例であるが、戦前からの統計で表すと犯罪数はかつてより激減している。

 「心でっかち」になって何に対しても心的な現象を要因として持ち出すことで私たちは問題の本質を考えることを放棄していないか。この問いを己に問いかけることが、「心でっかち」から抜け打すヒントの一つになると考える。自戒を込めて。

2012年9月23日日曜日

【第111回】『大学・中庸』(金谷治訳注、岩波書店、1998年)


 儒教の根幹を為すと言われる「四書」に数えられる『大学』と『中庸』である。

『大学』

「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り。」(第一章・一)
【メモ】現代の日本における大学教育の眼目は徳育に置くべきであり、カリキュラムがそうならない以上は、個人で学ぶしかないだろう。

「切るが如く磋くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。」(第二章・二)
【メモ】切磋琢磨。学ぶこと、修養すること、内省すること、礼儀正しくあること。

「謂わゆる身を脩むるはその心を正すに在りとは、身に忿懥するところ有るときは、則ちその正を得ず、恐懼するところ有るときは、即ちその正を得ず、好楽するところ有るときは、則ちその正を得ず、憂患するところ有るときは、則ちその正を得ず。」(第三章)
【メモ】自分の心を正すこと。自分の心を正さないと正しいことができない。

「是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、その已に知るの理に因りて益々これを窮め、以てその極に至ることを求めざること莫からしむ。」(大学章句 本文 伝 第五章補伝)
【メモ】理を以て探求することが大学教育のはじまり。

『中庸』

「道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。」(第一章・一)
【メモ】常に正しい道を考えること。片時もそれないこと。

「道の行なわれざるや、我れこれを知れり。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。」(第二章・一)
【メモ】理性に頼りすぎると出過てしまい、理性を軽視しすぎると実行できない。

「故に君子は和して流れず、強なるかな矯たり。中立して倚らず、強なるかな矯たり。」(第二章・四)
【メモ】柔軟に対応しつつも流されないこと。

2012年9月22日土曜日

【第110回】『パフォーマンス・コンサルティングⅡ』(デイナ・ゲイン・ロビンソン&ジェームス・C・ロビンソン、ヒューマンバリュー、2010年)


 本書は、『パフォーマンス・コンサルティング』の原著が改訂されたのに伴い、その改訂版を翻訳したものである。しかし、「Ⅱ」と銘打たれているように、中身の分かり易さや扱われている事例がふんだんである点を考えれば、似て非なるものと言えよう。したがって、これから買われる方はぜひこちらの改訂版を購入することをお勧めしたい。

 パフォーマンス・コンサルティングの最終ゴールとは何か。

 著者は端的に、パフォーマンスに影響する要因間の整合性を取ることとしている。すなわち、事業の目指す姿と現状との差分に現れる事業ニーズ、目指すべき姿を具現化するための行動と現状とのギャップに現れるパフォーマンスニーズ、それらを阻害したり促進したりする要因に現れる職場環境ニーズ、個人が持つスキル・知識・特性といったものに現れる能力ニーズ、の四つのニーズの整合性を取ることである。

 人材育成担当者が解決すべき問題は四つのニーズによって現れるが、そのままではクライエントを動かすことは難しい。クライエントがそれを取り組むべき問題として認識し、解決しようとやる気になってもらうためには、ストーリーとして束ねることが求められる。それはいわば、散らばった点と点を繋げ、星座を描くような作業であるとも形容できるであろう。

 そうした具体的なストーリーを描くためには、まずはクライエントから話を聴き出す必要がある。

 その際の留意点としては、特定のパフォーマンス成果や特定の事業成果について話してもらうように促すことが重要である。抽象的な概念では相手の話しの焦点がぼやけてしまうリスクがある。そうしたリスクが生じることを避けるためにも、個別具体的な特定のものについて聴き出すのである。特定の問題を把握すれば、おのずと特定の解決策が見えてくるものである。

 しかし、相手が最初から本音を語ってくれるということは稀であろう。その前に、相手の信頼を勝ち取ることがパフォーマンス・コンサルティングの実現のためには不可欠である。そのためにどうするか。

 著者は、人材育成担当者は、人事や人材育成に専門的な知識・スキルを持っていることは大前提とした上で、自社のビジネスモデルを理解することの重要性を掲げる。つまり、クライエントが日常的に悩んでいるビジネス上の課題を正しく把握するためには、自社に固有のビジネスモデルを理解しておく必要があるだろう。

 しかし、最初から人材育成担当者が現場のビジネスを精緻に理解しておく必要はない、と著者は救いの手をさしのべている。まずは、クライエントに尋ねれば良いのである。現場における事業運営そのものに対して真摯に理解しようとする態度を持ち続ければ、必要な情報を把握できるだけの信頼性を勝ち取ることができるのである。もちろん、そのためには知識がゼロの状態でインタビューに赴くのではなく、事前に調べられたり確認できたりする情報を把握しておくことは最低限のエチケットであろう。

 人材育成担当者にとって、知恵と勇気を授けてくれる心強い一冊と言えるだろう。

2012年9月17日月曜日

【第109回】『U理論』(C・オットー・シャーマー、英治出版、2010年)


 U理論とはイノベーションを促すプロセスを理論化したものである。細かなプロセスを知りたい方には本書の膨大な著述(本書は約600頁の大部である)をお読みいただくとして、Uプロセスの大きな動きである観察、内省、行動、に絞って述べる。

 観察については、アップルにおけるジョブズと、彼が復帰する前の混迷の時期におけるCEOとを対比する、というイメージし易い例示がなされている。イノベーションを促すU理論における観察とは、ジョブズ以前のCEOが行ったような表面的な現象を認知してコスト削減や品質改善を行うことではない。ジョブズが行ったように、現象を徹底的に観察した上でそこから距離を置いて新たな着想を得ることでiPod、iPhone、iPadを創造したのである。

 このように考えれば、観察のプロセスにおいて過度に外部の機関に委ねることのリスクが見えてくる。企業の内部および取り巻く外部環境が複雑であればあるほど、状況の文脈に直接触れ続けるためには外部に委託せず、インハウスでイノベーションを促進することが求められる。プロであるコンサルティングファームであれども、社内の状況の文脈までを把握することには限界があるために、外部の知恵を活用する場合においてはいかに協働するかが鍵となる。

 そのためには、社内におけるリーダーのありようもこれまでと異なることになる。従来のリーダーの役割として、ビジョンや方向性を示すことが挙げられてきた。その重要性はこれからも変わらないであろうが、著者によれば、それと同等かそれ以上に個人の組織の「観る」能力を高めることがこれからのリーダーには求められる。つまり、企業における個々の社員が、自分自身が直面している現状を深く観察し、自らがその文脈においてどのよな役割を演じているのかを理解できるようにすることがリーダーシップには求められるのである。

 深い観察の結果としてなにが起こるのか。U理論ではプレゼンシングという、presenceとsensingとを合わせた著者の造語で形容される。著者が述べるように、川には単一の起点があるわけではないが、多様な源がやがて川として出現する。この様からプレゼンシングをイメージできるであろうし、イノベーションもまた同じであるとされる。多様な源を把握し、それぞれがどのように作用して一つのアイディアになるかを感じ取り、それをぼんやりとした形へと結実させることがプレゼンシングの能力なのである。

 深い内省の結果としてプレゼンシングしたものをどのように行動に繋げるか。本書では個人レベルのものとグループレベルのものとが挙げられている。

 まず個人としては、新たに出現したものを受け容れるためには、古いものを捨てる必要性が主張されている。従来の製品やサービスには、それに合わせて従来の波長の合わせ方がある。従来の波長の合わせ方を持ち続けていると、出現しつつある新しいイノベーションをセンスし続けることができずに、最終的な製品やサービスへと結実できない。したがって、古いものの見方や行動をいったん捨てて、新たなイノベーションに対してアジャストすることが必要なのである。

 グループのレベルでは、個人の着想をグループに提示する際に、あえて不完全な絵姿を示すことが有用である。つまり、空白部分を多く設けたものをグループに示すことで、他のメンバーがその空白を埋めるように新たなアイディアを出すことになる。その過程で、一人のアイディアから全体としてのアイディアになり、一人のリーダーが引っ張る状態から自身の役割を主体的に意識する複数のリーダーが協働する状態へと変容する。

 U理論は、それを経験しなければ実感することは難しいが、未経験であってもUのプロセスを経る際のありように関する著者の示唆が参考になる。Uの字の左側を降りるときには、オープンになり、これまでの自身の思考と感情と意志の抵抗に取り組むことが大事である。他方で、右側のUの字を昇る際には、頭と心と手からなる知性を、実践的な状況の中で意識的に再統合することが重要である。

2012年9月15日土曜日

【第108回】『指導者の条件』(松下幸之助、PHP研究所、1975年)


 松下幸之助を語るときに小学校中退という部分がフォーカスされることがある。その含意の一つとして学歴には意味がないというものがあり、それはその通りだと思う。しかし、もう一つの含意として、学ぶことに意味がないということもあるとしたら、それは大いなる誤解だ。本書を読めば分かる通り、彼は非常に勉強家であり、むしろ学校を出た後の生涯に渡る継続的な学習の必要性を彼は身をもって示していると言えるだろう。

 日本や中国や西洋の偉人の言葉を交えながら彼が述べる指導者の条件について、とりわけ感銘を受けた点を記していきたい。

<いうべきをいう>
他者に厳しいことを言うと関係性が崩れてしまうと思うことがある。しかし、いたずらに迎合して言うべきことを言わないことは、当座をしのぐことにはなれども、中長期的には望ましくない。本当にやるべきことを実現したく、相手に対して本気であるのであれば、言うべきことは言うべきである。

<きびしさ>
他者や仕事に対して厳しく当たるということは、私情のなせるものではない。相手に対してかわいそうと思ったり嫌われるのではないかと思うのは私情である。指導者が事を為すのは、指事ではなく公事なのであるから、時に厳しく接することを厭ってはならない。

<決意をつよめる>
ある時点において決意をすることは、実はそれほど難しいことではない。SNSが盛んな現代においては、決意を明らかにすることによって周囲から賞賛を得たり評価されたりすることが多いために、安易に決意をする傾向があるのではないか。決意をするということではなく、むしろ大事なのは決意を持続させるということである。

<心を遊ばせない>
睡眠を取らなければ良い仕事ができないのと同じように、ときに身体を休息させることはビジネスにおいても必要である。しかし、休息しているときに心まで休ませてはならないと著者は言う。つまり、自分にとって大事なことは常に心に留めておき、すぐにセンスできるように準備しておくことが重要である。

<小事を大切に>
大きな失敗をしたら、そのインパクトの大きさにより人は反省する。しかし、小さな失敗をしてもあまり反省しないものだろう。したがって、メンバーの小さな失敗ほど指導者はきちんと拾い、フィードバックをすることが重要である。

<世論をこえる>
通常の状態であれば、大多数が何を欲し何を重視しているのかという世論を尊重することが大事である。しかし、変事ではそうはいかない。劇的な変化の中においては、ときに世論や身近な人の意見に流されず、自分自身が必要だと思うことに殉じることも必要である。

<大事と小事>
業務において、指導者がマイクロ・マネジメントをしすぎるとメンバーは業務を行うことが窮屈になり、せっかくの創意工夫も発揮できなくなる。大事なポイントを絞り込み、其れ以外の点については大胆に権限委譲してメンバーの自主性にかけることも中長期的には重要であろう。

2012年9月9日日曜日

【第107回】『リーダーシップ・チャレンジ』(J・M・クーゼス B・Z・ポズナー、海と月社、2010年)


 リーダーシップは一部の特殊な人に関係する現象であると思われることが多いが、リーダーシップと無縁でいられる人はいない、と著者は述べる。なぜなら、リーダーシップは複数の人物の間における影響を表すものであり、社会的な存在としてのヒト(つまりは人「間」)である限り、私たちは身の周りの人々に対して影響を与える。したがって、私たちは自分が意識せずに発揮しているリーダーシップの質や結果に対してもっと自覚を持つ必要があるとも言えるだろう。

 本書ではこうした著者の考え方により、リーダーシップを発揮している人物として「普通の人」が多く取り挙げられている。部門の組織風土を変えようとしている人、新しいプロジェクトを立ち上げようとしている人、顧客への提供価値を改革しようとしている人、などである。むろん、企業組織を経営する立場にあるCEOも登場しているが、各々の立ち位置は異なれども、模範的なリーダーの行動パターンは五つに収斂するそうだ。

 第一の行動パターンは「模範となる」である。肩書きではなく実態によって影響を与えるのがリーダーの要件であるからには、行動や態度を伴わなければメンバーの敬意は得られない。メンバーに進んで望ましい行動を取ってもらうためには、行動の指針となる価値観を明確にしなければならないだろう。ここで留意すべきは、リーダー個人の価値観を語ることではない、という点だ。リーダーは自分の意見をそのまま述べるのではなく、組織のために語り、組織のために行動する、ということが重要なのである。そのためには、リーダー自身が日常的に自覚的にも無自覚的にも発しているシグナルについて鋭敏でなければならないだろう。そうしたシグナルが模範的な行動と合っていなければ、メンバーからは言行不一致とみなされ模範的な行動が望ましいものであると思われなくなってしまう。

 第二のポイントは「共通のビジョンで鼓舞する」である。ビジョンとは将来という時間軸の絵姿である。しかし著者は、過去を省みることで自分の人生にあらわれるテーマを明らかにし、ビジョンを描くというパターンが本質的であるとしている。実際、南カリフォルニア大学のオマル・A・エル・サウイ教授の実験によれば、未来の自分に起きることのリストを挙げるというテーマにおいて、いきなりそれをリストアップしたグループよりも、過去に実際に起きたことのリストを挙げた後にリストアップしたグループの方が、約二倍の遠い未来の出来事を挙げたという。リーダー自身のビジョンを描くことは大前提であるが、それをもとにチームとしてのビジョンを描くためには、メンバー個々のビジョンを熟知した上で共に創り上げそれぞれに合った言葉遣いで鼓舞することが重要だ。

 第三は「現状を改革する」である。私たちが思い描くリーダーシップ行動とは、大きな変化を起こしたファクターのみに注視しがちである。しかし、改革とはこれまでの延長線上にない小さな変化を積み上げていく中で実現するものである。小さな変化を積み上げることで、チームとして大きな改革を実現させる自信を高めていくのである。そのためには、リーダーは各メンバーが起こそうとする小さな変化の価値をいち早く認め、その行動に伴うリスクや失敗を許容することが求められるだろう。

 第四は「行動できる環境をつくる」である。現在のビジネス環境においては、リーダー自身の行動だけで大きな変化を起こすことはできない。したがって、すべてのメンバーが自分の行動に自信を持って熱意を持って仕事に取り組めるような環境を整える必要がある。そのためには、リーダーとメンバーとが同じ目線と温度感で取り組めるようなマインドセットが求められる。事実、著者がインタビューしたリーダーは、「私」という言葉よりも「われわれ」という言葉を約三倍も多く使っていた、というのは興味深い。たしかに、チームとして成し遂げた成果をあたかも自分一人のものとして上司に報告するリーダーにメンバーはついていこうとしないだろう。

 第五に「心から励ます」というポイントが挙げられている。「心から励ます」のであるから、それは真剣な行為である。うわべだけの、抽象的な賞賛では、メンバーにとってむしろ逆効果となるだろう。まずメンバーの具体的な仕事に対して真剣に感謝を述べること。次にそのメンバーの仕事が組織の価値観とどう結びついているかを納得的に説明すること。最後にそうした素晴らしい行動をチームとして祝う文化を根付かせること。こうしたことを通じて「心から励ます」チームを創り上げることがリーダーには求められていると言えよう。

2012年9月8日土曜日

【第106回】『CEOを育てる』(ラム・チャラン、ダイヤモンド社、2009年)


 かつて読んだ時と印象が全く異なり、今回、必要性のある中で改めて読んだところ示唆に富んだ良書であった。自分の興味関心に応じて書物へのアプローチは変わるものであるが、見切りをつけるという態度は改めようと思う。

 本書におけるリーダーシップ開発の根幹を為す考え方は徒弟制度モデルである。これは、リーダーシップ開発をスタッフ部門が定期的に行うものではなく、ラインのマネジャーを中心にして業務活動に織り込まれた日常的に行うもの、とする考え方だ。著者がこうした考え方に至った背景には、リーダーは訓練を通じてしか育たないという見方がある。「しか」という言葉にはやや違和感もあるが、決まりきった研修やツールを粛々とこなすことでリーダーが育成されるとする従来型の企業内大学や自社内MBAへのアンチテーゼとしては納得的である。徒弟制度モデルが必要とされる背景には、ビジネス環境変化のスピードの速さ、業務に求められる知識・スキル・態度のセットの更新スピードの速さ、といった外的環境がある。現在のこうした状況を鑑みれば、徒弟制度モデルが求められていることはよく分かる。

 ではなぜラインのマネジャーが中心的な役割を担う必要があるのか。端的に言えば、育成対象者を身近で見ているマネジャーが業務の中で日常的にフィードバックを行うことでリーダー候補は育成されるからである。忙しいラインマネジャーが育成に時間をかけられないという予想される反論に対して、著者は普段の業務の中におけるやり取りの中でフィードバックを行えば良いとしている。つまり、育成と業務マネジメントとは同じ時間軸の中で並行して行えるものであり、むしろ行うべきなのである。こうしたラインマネジャーの行動は、特定のスキルを発揮するというよりは当たり前のこととして慣れるという態度によるところが大きい。月次や四半期のレビューを行う際にフィードバックを与えるようにすれば、お互いにフィードバックに慣れると考えられよう。

 マネジャーとその部下という関係性であるため、育成計画が個別具体的なものとなることは自明であろう。かつ徒弟という言葉のイメージの通り、リーダー候補にとってチャレンジを与えることになるのであるから、失敗する権利を残すことが大事であると著者は述べる。具体的には、自分なりに職務を再定義して高い目標を設定する自由、与えられたメンバーを自分のやり方で率いる自由、事業の短期的ニーズと長期的ニーズとのバランスを決める自由、の三つである。試練という名の責任を与えるのであるから、自由を保証することは必要不可欠である。

 徒弟制度モデルではラインマネジャーを「中心にして」育成すると述べた。つまり、リーダー育成をラインマネジャーのみに押し付けるということではないのである。ラインマネジャーは対象となるリーダー候補に関する育成計画を、彼(女)の業務を知る社内のステイクホルダーを集めて育成計画について適宜話し合うことが必要である。リーダー候補の評価を是か非かで決めるのではなく、ステイクホルダー同士の対話により多様なアセスメントを行い、その後の育成計画の更新へと繋げることが有用である。

 こうしたリーダーシップ開発のあり方の中では、人事部門の役割もまた変化するべきである。ともすれば研修やツールを用意するのみで結果にはコミットしない従来の役割とは異なり、ラインマネジャーが行うリーダー育成をデザインしたりサポートするという役割を担うことになる。これはなにもリーダーシップ開発における人事部門の重要性が減衰しているわけではないことには留意したい。自社にとってあるべきリーダーシップ開発について、最新の知見を集めて分析し、ラインマネジャーやCEOによる徒弟制度のより効果的な運用の改善を行うことが人事の役割である。

 ここまでは会社のしくみとしての徒弟制度モデルについて触れてきた。企業の中でこうしたしくみがあることは望ましいが、なければリーダーを育てられないというわけではない。「おわりに」で著者が述べているように、能力開発は自分自身の問題であり、個々のリーダーが徒弟制度モデルを取り入れることは自由である。さらに著者の考え方を進めれば、リーダーシップを発揮したい部下の側が、上司や斜め上の上司に対して徒弟制度モデルを用いてもらうように依頼する、ということも考えられる。リーダーシップが他者との相互作用である以上、部下側のこうしたプロアクティヴな行動こそ自身でリーダーシップを発揮する第一歩となるのではなかろうか。

【第105回】『リーダーシップ入門』(金井壽宏、日本経済新聞出版社、2005年)


 リーダーシップとは、実務家による実践と、理論家による研究の両者がないまぜとなって言語化される現象である。本書では、実践から生まれ、実践を導いている理論のことを持論と呼び、研究者が調査研究や実験・観察から生み出すものを理論と定義されている。こうした定義じたいが大事であるのではなく、理論と持論とを同時に扱うことがリーダーシップ開発においては重要なのである。

 持論が自覚されていない状況であれば、希有な経験をしたところで経験の結果としての現実と自分の考えとの擦り合わせが充分に為されない。その結果、せっかくの経験がリーダーシップをより深めることに繋がらなくなってしまう。したがって、持論を持った上でアクションをすること、またアクションをしながら持論に基づいて内省することがリーダーシップ開発には必要なのである。

 こうした自分自身の持論はなにも一つの固定的なものではない。様々な場面において、それまでの自分の持論を試してチャレンジする中で、その持論が通用しない場面や、複数の持論が矛盾してしまうこともあるだろう。そうした一見して矛盾が生じる場面をいくつも経験し、持論が試されることによって、選択が自分にとってしっくりくる持論へと深化していくのである。これはいわば、どのような場面においてどの持論が適切であるかというように、持論がメタレベルへと至る。

 このように持論を持ち、リーダーシップを開発していくためには、自分自身の内省とともに、他者からのフィードバックが重要な要素となる。本書では、ペプシコでの事例を紐解きながら、CEO自らによる一対一でのフィードバックの重要性が指摘されている。ここで誤解してはいけないことは、CEOが自分自身のクローンを養成するためにフィードバックをすることではない、という点である。あくまで多様な個人と多様なリーダーシップのあり方を前提とした上で、ペプシコならではのペプシコに求められるリーダーシップという観点でフィードバックが為される。

 フィードバックは、フィードバックをされる側にとってのリーダーシップ開発にとって有用なことは言うまでもない。しかし同時に、フィードバックをする側にとっても、貴重な学習機会となる点も見逃せないだろう。自分が話すことではじめて、自分が何を大事にしているのかということが導き出させるのである。この結果、フィードバックは両者にとっての学習機会となり、さらには、企業であれば方向性を共有することでサクセッションプランを進めるというメリットもあるだろう。

 他方で、自社におけるリーダーシップのあり方についてトップに任せるだけでは不十分であろう。むしろ、人事や人材育成を担うスタッフが、自社において理念を体現するハイパフォーマーたちへとインタビューをすることで、ボトムアップでリーダーシップのあり方を言語化する努力もまた必要である。そうしたボトムアップのアプローチと、トップによるトップダウンのアプローチとをすりあわせることで、自社にとって求められるリーダーシップの姿を明らかにするのである。これは、人事や人材育成のスタッフが、信念を持ってやり遂げるべきものであろう。

 ではリーダーシップ開発を継続した後になにがあるのか。それを上昇志向のように感じることは誤解であると著者は指摘する。そうではなく、人間力を深化させる方向へと自分自身を発達させることであるという。これはCCLが主張している「円熟したリーダーシップ」と親和性が近いと言えるだろう。多様なフォロワーの相矛盾する利害を人間力で止揚して見えないものをともに見ようとしつづける姿勢が、リーダーシップを持続的に開発するということなのかもしれない。

2012年9月2日日曜日

【第104回】『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009年)


 盧溝橋事件の約半年後に、当時の首相であった近衛文麿が蒋介石へ「爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出したことは中学・高校の日本史でも有名な史実である。私も記憶にはあったが、その意味するところを正しく理解していなかった。著者によれば、これは盧溝橋事件以降の日中の戦闘状況を戦争とみなしていない、ということであったようだ。つまり、国家同士の戦争ではなく、不法行為を働く匪賊を討伐するという討匪戦として認識していたのである。

 戦争ではなく、相手を対等な関係性のものとはみない。これは2001年のテロ以降にアメリカが相手を対等な関係性を持つものとみなさず、当然のこととして武力行使に踏み切った考え方と同じである、とする著者の指摘は鋭い。こうした指摘から考えられるのは、歴史とはアナロジーであり、史実を丹念に調べて分析を行うことで、現在以降の見通しを立てるということが歴史学の本分なのであろう。

 ではどのようにすれば歴史から学べるのか。

 著者は「いかに広い範囲から、いかに真実に近い解釈で、過去の教訓を持ってこられるかが、歴史を正しい教訓として使えるかどうかの分かれ道になる」と指摘する。つまり、歴史を時間軸と空間軸の二つから幅広く理解しておくことが一つめの鍵となる。二つめとしては、それを自分自身にとって都合の良い形ではなく、できるだけ真実に近い客観的なものとして解釈するということである。むろん、歴史は語る主体によって意味合いが揺れるものであるから完全な客観性というものはないが、作為的な変更を避けるという態度は必要不可欠であろう。

 では1930年代の日本はなぜ歴史から学べずに戦争へと至ったのであろうか。

 著者の指摘によれば、その一つの理由として当時の日本がイギリスやアメリカ、ソ連(ロシア)といった先発的な帝国から見て後発的な帝国であったことが挙げられる。すなわち、先発的な帝国が自国の経済を発展させるという目的で植民地を拡大させていったのに対して、日本は安全保障上の考慮として植民地獲得に走ったという。つまり、当時の日本にとっては、中国や東南アジアはソ連やアメリカといった脅威からの防衛線として「守る」という意識であったのであろう。

 ここで述べたいのは自衛だから正当化されるということではない。むしろ、当時の日本が自衛という名目で戦争へと突き進んだ経緯から学ぶべきことがあるということである。日本の歴史では自衛を美化する傾向が強い。古くは鎌倉時代における「蒙古襲来」を神風によって自衛したという例がある。自衛による正当化を用いて野心的なことを述べる政治家や評論家の詭弁にだまされないことが、歴史から学ぶということなのではないだろうか。

2012年9月1日土曜日

【第103回】『リーダーシップ開発ハンドブック』(C.D.マッコーレイら、金井壽宏監訳、白桃書房、2011年)


 修士課程の学生だった頃、また大学の研究機関で研究員として働いていた頃、よく図書館の中の書架を無目的に渉猟していた。ITを駆使して先行文献をリサーチすることも大事であるが、その一方で実際に本の背表紙を見てピンと来る良い本に巡り合う機会は一度や二度ではなかった。本書は、私の興味関心や業務内容としても当然チェックしておくべき書籍であったが、なぜか検索の網の目をすり抜けていたようで、名古屋駅の丸善を渉猟していて偶然見つけたものである。やはり大学の図書館や大きな書店に足を運ぶことは、私にとって欠かせない活動なのだろう。

 CCL(The Center for Creative Leadership)の存在はずいぶん前から知っていた。しかし、CCLが具体的にどういった理論をもとにリーダーシップ開発に取り組んでいるのかについては恥ずかしながら無知であった。書名にもある通り、本書はCCLの考えるリーダーシップ開発のあり方やその具体的な実践の一部をコンパクト(とはいえ400頁超の分量はある)にまとめたものである。金井先生が最後に書かれている通り、研究者や人事・人材育成を担当する方はもとより、プロジェクトマネジャーやリーダーシップを発揮したい方にとって有益な示唆に満ちている。

 リーダーシップ開発というイシューを考える上で、それを単独のイシューとして捉えると機能しなくなる。すなわち、経営上のイシューの構成概念としてリーダーシップ開発の位置づけと役割を考える必要がある。企業の中長期的な成長に向けて、リーダーを継続的に能力開発する、という基本的なスタンスが企業には求められる。本書ではそうしたリーダーシップ開発のアプローチとして、成長を促すためにはアセスメント、チャレンジ、サポートという三つの要素が求められるとする。

 第一のアセスメントにおいては、360度フィードバックが主流となる。上司、部下、同僚、顧客といった自身を取り巻くステイクホルダーから多様なフィードバックを得ることで、他者から見た自分と自身が認識する自分との相違を把握することが気づきを与える。それに加えて本書が付け加えているポイントは、「究極のスキル群」という自社において求められるリーダーシップのコンピテンシーセットと、自身のコンピテンシーセットとを比較することである。これによって、求められるレベルと自身の現状のレベルとを明快に把握することができ、具体的な今後の自身の成長プランを策定することができる。アセスメント結果が継続的な育成や開発の指針となるわけである。

 ここで大事な点は、360度フィードバックを単発のイベントにしないということである。本書で述べられている研究成果によれば、三日間のフィードバックセッションという時間を掛けたFIP(Feedback Intensive Program)を半年に二回程度行うことが大きな効果をもたらすそうだ。

 もう一つ触れておくべきポイントは「究極のスキル群」の具体的なイメージである。私たちは通常、優れたリーダーの資質として、ビジョンを描く、戦略を策定する、人を巻き込む、といった厳しく仕事を行うイメージを持つが、著者によれば必ずしもそうではない。むしろ、リーダーシップ開発のゴールは円熟したリーダーを育成することであるとしている。つまり、厳しさと思いやり、自信と謙虚といった一見すると相反する要素を併せ持ち、物事に対して柔軟に行動できる存在が理想であるとしているのである。

 こうしたアセスメントの後には、具体的な業務上のチャレンジを設計することが第二の要素として必要となる。チャレンジにおいて最も大事な点は、それを集合研修やケースといった仮想の場で鍛えるのではなく、あくまで職場で行うことである。仮想の場はあくまで職場での経験を補うものにすぎない。したがって、パフォーマンス・コーチングを通じて内省を支援することがチャレンジでは必要になるだろう。

 ここで、誰がコーチするかという点に注目する必要があるだろう。つまり、人間関係を通じて成長が促進されるという側面である。著者はそうした人間関係を通じた成長のポイントとして二点を取り上げている。一つめは多くの役割を提供する人間関係が大事であり、換言すれば、指導する人と指導される人といった単一の役割ではなく、多様な役割の関係性を築き続けることが必要なのである。二つめは、その人がコーチングを必要としているまさにそのタイミングで的確な役割を提供できることである。的を得た支援の内容であっても、それがあまりに遅すぎれば気づきは大幅に減衰せざるを得ないのだ。

 第三のサポートという観点は、アセスメントとチャレンジをいかに持続させるかというものである。まずアセスメントの結果は、能力開発以外の目的に使用しないという点が重要である。これは人事情報をコーポレイトが集約する傾向が強い日本型企業においては困難な発想かもしれない。したがって、人事や経営サイドの欲望をいかに抑えるか、ということが鍵となるだろう。実際に、CCLは360度フィードバックを能力開発の目的でのみ利用しているという。というのも、アセスメントの結果が会社に公表されるということがわかっていると、評価者の反応が変わってしまうことが研究成果から明らかであるからだそうだ。

 さらに360度フィードバックでは企画主体にこまやかな心配りが求められる。たとえば、ある評価者区分では人数が著しく少なくなってしまって評価者が推察されてしまうことが起こりえる。そうした際には基本的にはその区分におけるスコアは書かないようにするのがセオリーである。しかし、上司だけは例外であると著者は述べる。すなわち、部長以上のアセスメントを行うと上司の数は限られることが通常であるが、上司からの評価は重要な気づきを促すことが多い。そこで著者は、上司に対して回答の匿名性が守られないことを事前にはっきりと伝えるべきであるとした上で、たとえ評価者が一人であってもフィードバックすべきであるとしている。

 さらには、リーダーシップ開発のプログラムの中では真摯に自分自身に向き合ってもらうことが必要である。それに伴う否定的な感情については根気よく支援する必要があるだろう。すなわち、コンテンツ自体では率直なフィードバックやチャレンジをしてもらう必要があるが、プロセスにおいては人事や人材育成担当者が継続的なケアを心がける必要がある。企画側として、大いに考えさせられる大事な視点であろう。

2012年8月26日日曜日

【第102回】『新平等社会 「希望格差」を超えて』(山田昌弘、文藝春秋社、2006年)


 格差拡大という社会的な問題への対策として、格差をひとまとめに捉えても意味がない。日本社会においてどの格差が拡大し、どの格差は必要悪で、どの格差は縮小すべき課題なのかを切り分ける必要がある、と著者は主張する。

 ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』などをもとにして、著者は現代のニューエコノミーの特徴を「豊かな社会」「IT社会」「グローバル社会」と端的にまとめている。こうした特徴を持つ現代社会においては、多様な人々の多様なニーズをどう把握して具現化するかという「新しい発想とそれを実現できる企画力」と、それを効率的に行う「システム構築力」とが求められる。ここではこうしたスペックを持つ人材を非定型作業労働者としよう。

 非定型作業労働者が活躍できる前提には、企画から落とし込まれた事務作業を粛々とこなす定型作業労働者があると著者は述べる。それは現実的には、一部の非定型作業労働者と大部分の定型作業労働者というかたちで構成されることになるだろう。職務形態という観点のみで捉えるとこうした切り分けが問題であると断じたくなるものであるが、ニューエコノミーが生み出す製品・サービスの受け手の観点からは否定しづらい。ITの進展により利便性が増す生活を企画する主体としての非定型労働者を放棄するという選択肢は取りたくないだろうし、マクロ経済上の観点から考えても望ましくない。

 しかし、定型作業労働者の現状をそのまま肯定するわけにはいかないだろう。職務形態の峻別は必要悪として認めざるを得ない一方で、そうした方々への支援のあり方は改善が求められているのである。定型作業労働者にとって、自分自身が「労働者から期待される存在であるかどうか」という不安の結果として希望格差が生じることは本来は軽減できる問題であり、軽減させる必要がある。

 実際、定型作業労働者の端的な例と言えるフリーターを対象として著者が行った調査において、こうした希望格差が表れているそうだ。具体的な数値は述べられていないが、フリーターを選択した若者のうちのほとんどがいずれは違った立場になりたいと回答したという。さらに、フリーターになった当時の状況はともあれ、フリーターの状況が中長期化している人にとっては、現在の状況はいわば「強いられている」という側面が強い。

 では希望格差が生じる理由はなにか。

 著者はその理由を三つの要因から説明している。第一に努力が仕事能力の向上に結びつかず生産性が上がらないという生産性の要因。第二に生産性が上がっても収入の上昇に繋がらないという収入の要因。第三は努力しても生活水準が上がらないという生活水準の要因。このモデルは、第一の要因が説明変数であり、第二と第三の二つの要因を結果変数と捉えるべきであろう。このように考えると、モティベーション理論に造詣のある方は1960年代のブルームを嚆矢としてポーター=ローラーが1970年代に提唱した期待理論を想起するだろう。モティベーションという作用を、努力がパフォーマンスに繋がる期待と、パフォーマンス向上が報酬の向上に繋がる期待、とに因数分解した期待理論と著者の主張は近似している。すなわち、著者の社会学的なアプローチに基づく主張の妥当性は、心理学の領域からも認められていると言えよう。

 では、努力がパフォーマンスの向上と報酬の向上に結びつかなくなった原因はなにか。著者はその大きな理由は日本における戦後教育のパイプライン・システムの崩壊にあるとしている。つまり、受験勉強という努力を行うことが、偏差値が上がるというパフォーマンスに繋がり、良い会社に入るという報酬へと帰結するかつてのシステムが機能しなくなったことが原因である。

 現代から考えればこのシステムには大きな瑕疵がある。かつて受験勉強において求められたインプット重視型のパフォーマンスは、現代の企業において求められるパフォーマンスと異なるものになった、という点である。現代の企業においては、冒頭で述べた通りアウトプットを前提として、どのような企画を行い、それを実装する効率的なシステムをいかに構築するか、が非定型作業労働者に求められる。したがって、大学に入るまでのインプット型の努力は、非定型作業労働者に求められるパフォーマンスに結びつかなくなったのである。そうであるのに、世間が認める良い大学に入ること自体が今でもゴールであると思われていることが問題の根源であろう。

 こうした誤解はさらに根深い問題を生み出す。同じ学校の同級生の中において、望ましいキャリアを積める人とそうでない人とが生み出されるという現実である。社会において評価されるポイントよ大学入学において評価されるポイントとが全く異なるのであるから卒業後のキャリアに違いが生み出されることは本来当たり前だ。しかし、同じ大学に入るという同じような努力の質と量をしてきたと認識している人にとっては、自分にできなくてなぜ他者にできるのかが信じられず大きな不満となる。学校機関におけるキャリア教育が盛んになりつつあるが、受験指導に汲々としたり、資格取得をいたずらに鼓舞するものが大半であると言われる。これでは大学に入る前に求められるインプット型の学習を助長するだけである。そうではなく、企業や顧客から求められるエンプロイヤビリティーとはなにか、それを身につけるべくどう学生時代の努力をアンラーンして学生以降の生涯学習に繋げるか、といったことを考えさせるコンテンツを提供すべきであろう。

 社会に出る前の学生への取り組みとともに、その後の社会人への取り組みもまた喫緊時である。希望格差は外部不経済を生み出すからである。2008年の6月に秋葉原で起きた痛ましい通り魔事件を持ち出すまでもなく、派遣切りという定型作業労働者は雇用を失うリスクが低くなく、生きる希望を失う方による外部不経済の影響は計り知れない。そうした方々を政府としてNPOとして支援することももちろん重要であるが、日常的には定型作業労働者の方々への感謝の気持ちを持つこともまた重要であろう。人間にとっての希望とは、なにも金銭に集約されるものではなく、他者との日常的なあたたかい関わりの中で生まれるものなのだから。

2012年8月25日土曜日

【第101回】『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)


 小学生の頃、我が家では朝食をとるまえに本を読むことが課せられていた。両親の知人からいただいた日本や世界の「名作シリーズ」が自宅にあったため、自ずとそうした本を読んだものである。日本書紀や古事記をはじめ、信長・秀吉・家康といった歴史上の人物の伝記を読んだのであるが、世界の名作シリーズについてはほとんど記憶にない。『罪と罰』も読んだと思うが、記憶があやふやであり、改めて読むことに少し抵抗はあった。しかし、そうした私の事前の不安を良い意味で裏切ってくれるストーリーで一気に読み終えた。社会風刺、恋愛小説、推理小説といった様々な要素をよくもうまく織り交ぜたものであると感心した。

 その中でも私が最も感銘を受けたのは生と死に対する描写である。最近、宗教学を学ぶ機会があった。そこで大学の先生が「宗教とは極限状態を経験した者にとって救いとなるものである」ということを仰っていたことが心の琴線に触れたようで強く記憶に残っている。本書のタイトルにもなっている通り、人がいかに罪を犯し、罰をどのように受け容れるか、ということは、私の日常的な生活では経験することがない。そうした人間にとって、極限状態をありありと仮想体験できるという作用が小説にはあるのだろう。そうした意味で、究極の状態において生と死をいかに考えるか、という点に惹き付けられたのであろう。

 とりわけ印象に残ったのは、罪を犯した後に生活することがどんなに苦しい状況であっても、死ぬよりも生きることを選ぶことを表す著者の以下の描写である。

 「ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話しだ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!」

 生き続けることが苦以外のなにものでもなくても、死を選択せずに生きる、ということは、生きること自体になにものにも替え難い美質が含まれているということなのだろうか。言葉にするのは難しいが、なぜか印象に残った表現であり、主人公がこの言葉を何度も述べていることを鑑みると、著者も重要なメッセージとみなしていたのであろう。

 こうした生への固執は、罪を犯した主人公が、その後ある男性の死に際して現れる。死を通じて生を思い出す。生きる活力を得て、その後の困難を乗り越えようとする。この場面では、そうした活力が自身の罪を受け止めずに、それを逃れようとするネガティヴな意図のものにはなってはいるものの、活力の再生には惹き付けられるなにかがある。

 生きる活力を得つつも、自身の犯した罪に苛まれる中で主人公は自死を考える。しかし、自死を選ぶことは自身の罪による恥辱から逃げる行為であると主人公は最終的に結論づける。続けて、恥辱を恐れて自死に走ることを避けることを、誇りと肯定的に言い切っている。これは開き直りというレベルの話ではないだろう。主人公の苦悩の様子を追体験することで、誇りとはなにか、人間の尊厳とはなにか、といったことを内省させられる素晴らしいテクストであった。

2012年8月19日日曜日

【第100回】『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎、筑摩書房、2006年)


 日本人の多くにとって唯一神教を理解することは難しい。日本は多神教の社会であるとされているからである。しかし、グローバルな視点から見れば、唯一神教の文化圏の国家が多数であることは事実である。旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった唯一神教が生まれ、そうした宗教を信じる方々と接することは増える一方である。私たちにとって、唯一神教を誤解せずに、その成り立ちや考え方を理解することは必要な態度であろうと思う。

 では、唯一神教とはなにか。本書で最初に扱っているのは上述した唯一神教の中で最も起源が古いユダヤ教である。ユダヤ教においては、神こそが世界の本当の支配者である。その結果として、神の声を聞くことができる預言者の持つ影響力ははかりしれない。そうすると、ある時代の権力者であっても預言者の存在を無視することはできず、ときに預言者が王の悪政を批判することも通常であったという。これは、預言者が体現する宗教的知識と、王が体現する世俗的権力とが分離して緊張関係を築くというダイナミズムが現れている。こうしたダイナミズムが、宗教と政治を分離するという近代合理主義精神を内包していると言えるだろう。

 こうした唯一神教の精神はキリスト教でも同様である。キリスト教という共通のバックボーンがあるからこそ、近代以降において民族ごとの国民国家が成立することになった。すなわち、神は絶対であるが、地上における国民国家は相対的な権力であり、国民による国民国家へのコントロール機能が働き、場合によっては市民が権力を奪い取ることになる。それが市民革命をはじめとした近代合理主義精神のダイナミズムである。

 さらにキリスト教においては、その創始者であるイエスが教義を完成させる前に磔刑にあった。そのため、キリスト教を信じる人々がイエスの死後数世紀にわたってその教義を練り上げたという。そうしたフォーラムの場が公会議である。創始者が教義を完成させなかった以上、公会議の解釈が正当な権威を持つことになり、こうした議論や対話を重ねて真実を創り上げるというプロセスが文化として根付いたと言えるのではないだろうか。

 こうした唯一神教に対して多神教の国として多くの日本人に認識されているのが日本である。唯一神教と多神教とのどちらが優れているということを議論するつもりは毛頭ないが、多神教の持つリスクについては指摘をする必要があるだろう。著者が述べているように、明治政府は宗教の自由を認めつつ、「神道は宗教にあらず」という公式見解を打ち出し、神道、すなわち天皇を中心とする中央政府に国民を従わせようとした。そうした戦前の日本の国家神道が太平洋戦争へと至った。これは青山学院大学教授の西谷幸介教授が『宗教間対話と原理主義の克服』の中で指摘しているように、多神教が単一神教へと変わる傾向とそのデメリットを端的に表している史実と言えるだろう。すなわち、多神教というと聞こえはいいが、多神教という状況においては、多くの神の間の序列を権力主体が操作することで、他の国や宗教に対して寛容でない単一神教に堕してしまいがちなのである。唯一神教圏でない私たちにとって、こうしたリスクについては自分たちの歴史から学んでおく必要があるだろう。

 こうした多神教の内包するリスクに対する認識とともに、著者があとがきで記しているように宗教を私たち日本人は誤解しがちである、という指摘も忘れてはならない。単一神教の暴走を自分たちの国の歴史として経験しているがために、宗教全般に対して否定的な感情を持ちがちである。自分たちへの戒めとして認識することは大事であるが、他方で宗教に帰依する方々を否定することは誤りである。とりわけ、極めて稀な原理主義者の危険性ばかりに目を向けて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるごく普通の人々をも偏見の目で見ることは避けるべきであろう。そのためにも、日本人こそ宗教を学ぶべきなのかもしれない。

2012年8月18日土曜日

【第99回】『知識労働者のキャリア発達 キャリア志向・自律的学習・組織間移動』(三輪卓己、中央経済社、2011年)


 研究において、概念をいかに定義するかはその研究の質を規定する。先行研究は丹念に客観的な網羅性を担保するために丹念に行う必要があるが、それをどのように関連づけるかは自身の研究における関心に依存することになる。したがって、自身の関心に合わせて概念は定義づけられることになる。

 本書は、そのタイトルにもある通りキャリアに関する書籍であり、キャリアの研究を書物にしたものである。シャインや太田肇さんの先行研究を主に参照しながら、キャリア志向を「自己概念に基づいて認識されたキャリアの方向性、長期的に取り組みたい事柄と仕事の領域、働くうえでの主要な目的意識」と定義している。ここに著者の問題意識は集約されていると言っても過言ではないだろう。つまり、キャリアは金井壽宏さんや平野光俊さんの主要論文にあるように回顧と展望という二つの事象に分けて捉えられることが多いが、本書では後者の展望にあたる将来志向性を重視している点に特徴があると言えよう。

 著者の研究課題の一つは、キャリア志向が学習にどのような影響を与えているのか、である。まずは、インタビュー調査による探索的アプローチによって、複合的なキャリア志向を持つようになった対象群が、単一の専門職志向を持つ対象群と比べて、複雑で多様な学習を行っている、ということが明らかにされている。本書は新興専門職とされるソフトウェア開発者とコンサルタントが調査対象である。すなわち、そうした職種において、専門職志向だけではなく、それ以外のたとえば管理職志向といった他の志向をも併せ持つ対象群が現実に適応すべく多様な学習を行っている、という発見は興味深い。

 こうして探索的アプローチで明らかとなったファインディングを精査するために、仮説検証型アプローチとしてアンケート調査を試みている。その結果、上述した仮説が妥当であることが明らかになるとともに、こうした異なるタイプの学習が職務上における高い成果や満足度に繋がっていることを明らかにしている。学習を説明変数に、成果と満足度を従属変数に置いて考えれば、本研究はクランボルツやジェラットといった教育学系のキャリア理論を定量的なアプローチで進展させるものであることが分かるだろう。

 さらに、こうした多様な学習がどのようになされるかについての研究結果もまた興味深い。著者によれば、組織をまたぐキャリアを志向する者であっても、組織を軽視して個人が独力で学習するということは効果的でないと主張する。すなわち、キャリア自律、バウンダリーレスキャリア、プロティアンキャリア、が声高に叫ばれる時代であっても、組織を学習の場として活用することが知識労働者の成長にとって有益なのである。加えて、組織や集団といったグループを重視し、その中で他者と協働する態度や能力が重要であるという著者の示唆は注目すべきであろう。

 こうした新しい知識労働者の成長を促すために、企業には複数のキャリア志向に配慮した人的資源管理が求められることは著者の言を俟つまでもない。しかし、著者が例として挙げているプロジェクト・マネジャーに対してインセンティヴを与えたり、マネジメントの責任範囲の大きさに応じて職務給や役割給の設定が必要、というのは外発的動機付けに傾き過ぎではなかろうか。むしろ、複数のキャリア志向を持つことの有用性を社員の腹に落とし、日常の業務の中でどのようにストレッチするのか、という内的な意識付けへの支援を人事は行うべきであると私は考える。

 本書のように研究者の論理構成は抑制が利いていて心地よい。自身が得た知見が過度に文脈依存的でないかについて丹念に調べ、一般化する方法を検討し、その上で自身の理論の射程距離を明確に制限している。文脈依存性の高いビジネス書ではなく、本書のような研究書が当然のごとく読まれるようになれば、日本企業の知識労働者の生産性の低下が嘆かれる時代は終わるのかもしれない。


2012年8月12日日曜日

【第98回】『タオ 老子』(加島祥造、筑摩書房、2006年)


 一ヶ月ほど前に『論語』の感想を記した時の方法を今回も踏襲し、印象に残った箇所を引用し、それに対する覚え書きを記していくこととしたい。

「道(タオ)の働きは、なによりもまず、空っぽから始まる。それはいくら掬んでも掬みつくせない不可思議な深い淵とも言えて、すべてのものの出てくる源のない源だ。」(第四章)
【メモ】隙間を埋めようとするのではなく、空を積極的に創ること。

「我を張ったりしない生き方だから、自分というものが充分に活きるんだ。」(第七章)
【メモ】我を張り争ってしまうのは弱く限定された自分を守るためのものにすぎない。

「私たちは物が役立つと思うけれどじつは物の内側の、何もない虚のスペースこそ、本当に役に立っているのだ。」(第一一章)
【メモ】空を常に用意しておいて偶機に任せることが創造性を産み出す。

「社会の駒のひとつである自分はいつもあちこち突き飛ばされて前のめりに走ってるけれど、そんな自分とは違う自分がいるーそれを知ってほしいのだよ。」(第一三章)
【メモ】「あきらめる」とは「明らかに極める」と同じ。メタ認知の重要性でもある。

「こういう人だから無理をしないんだ、タオを身につけた人というのは消耗しない。消耗しないから古いものをいつしか新しいものにしてゆく。いつも「自分」でいられて新しい変化に応じられるのだよ。」(第一五章)
【メモ】多少の無理をしても精神を消耗させるまではしない。刷新していくイメージ。

「自分を曲げて譲る人は、かえって終わりまでやりとげる。こづかれてあちこちするかに見える人は自分なりの道を歩いてる。」(第二二章)
【メモ】敵を作らないこと。多少の譲歩が結果的に信念を貫くことに繋がる。

「タオに欠けた相手だったら、君はその欠けたところで付きあったらいいんだ。相手の欠けたところを楽しめばいいんだ。」(第二三章)
【メモ】能力や人徳に劣る人物に対していらつかず、その部分をたのしむゆとりを持つ。

「自分をひとによく見せようとばかりする者は自分がさっぱり分からんのさ。」(第二四章)
【メモ】SNSの危険性。「盛る」ことで自分を見失うリスクに気をつけること。

「他人に勝つには、力ずくですむけれど自分に勝つには柔らかな強さが要る。」(第三三章)
【メモ】柔らかな強さとは自分を拓くことであり、バリューのストレッチングである。

「これが正しいからやる、なんてことばかり主張する人は浅いパワーを振り回してるのさ。」(第三八章)
【メモ】SNSでたまに見る。自戒の意味も含めて気をつける。

「物や生き方を控え目に抑えた時にかえって得をする。」(第四二章)
【メモ】ヴェーバーの考えるプロテスタントの倹約主義と近いか。

「無為とは知識を体内で消化した人が何に対しても応じられるベストな状態のこと、あとは存在の内なるリズムに任せて黙って見ていることを言う。」(第四八章)
【メモ】変化への対応。受容。自ずから然り。