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2019年11月2日土曜日

【第999回】『ある男』(平野啓一郎、文藝春秋、2018年)


 タイトルが意味深であるが、読み進めていくとなるほどと思え、これ意外には想像できないほどのタイトルである。著者が2010年頃の作品からテーマとしてきた分人主義とは趣が異なり、戸籍を売買することに伴う人格の有りようが問われる。「人格」を扱う本作は、分人主義からの試行的発展を目指す著者の方向性が示唆されているのかもしれない。

 彼はグラスの底に残った、もう気の抜けてしまったビールを飲んで、唇を噛み締めた。そして、今のこの人生への愛着を無性に強くした。彼は、自分が原誠として生まれていたとして、この人生を城戸章良という男から譲り受けていたとしたなら、どれほど感動しただろうかと想像した。そんな風に一瞬毎に赤の他人として、この人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら。(319~320頁)

 本作でも、思わずため息が出るような美しい文体で物語が展開される。物語自体の興味深さとともに、その文章の美しさにも魅了される一冊である。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)
【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月19日土曜日

【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 いやはや予測を裏切る展開となった。主人公を最後のシーンへと誘ったのは一体なんだったのか。いかようにも解釈できる余韻を持たせた結末であり、読者は色々と考えることができる。悪はなぜ生まれ、伝播していくのか。この物語を読んでいると、どうしても悲観的に考えてしまう。

 自分の中に堆積していた様々な記憶の断片が、何か大きな棒のようなものを差されて、力任せに一掻きされたように、底から身を翻しつつ湧き起こっては、しばらく渦を巻きながら意識の内側を巡り、その色を混濁させた。(103頁)

 切れぎれの、今にも夢の向こうが透けて見えそうな昨夜のうっすらとした眠りは、どうにか掻き集めても、三時間程度の分量にしかならず、その頼りない手応えの分だけ、体には重みが残った。(440頁)

 どちらも主人公の内面を描写している。彼が抱える悩み、葛藤、暗部を、読者があたかも目の前に想起できるようだ。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月14日月曜日

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 インターネットの匿名性による犯罪。私が知る限りでは、著者は推理小説を書く方ではない。そのため、中盤以降から話題の中心となる犯罪を犯した人物は想像に難くない(誤解かもしれないが)。ある予期を持って読み進めることになり、誰が犯人なのかというよりも、なぜ殺人を犯すのかという点に関心が湧く。

 プロットとは直接関係ないが、思わず首肯したのがこちら。

 他者を承認せよ、多様性を認めよと我々は言うわけです。しかし、他者の他者性が、自分自身にとって何ら深刻なものでない時、他者の承認というのは、結局のところ、単なる無関心の意味でしょう。(453頁)

 新しい形の犯罪であるにもかかわらずやや古い印象を抱くのは、本書のハードカバーが出版されたのが2008年だったからだろうか。その後に、FacebookやInstagramといった実名でのSNSが主流になったために、インターネットの匿名性というものに古いイメージを持ってしまう。

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)
【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)

2019年10月13日日曜日

【第994回】『64(下)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 この展開はすごい。下巻の中盤あたりからラストに向けた畳み掛けが見事。上巻から散りばめられた様々なエピソードが、これがそれに繋がるのかと感嘆するようにこれでもかと結びついていく。組織とは何か、正義とは何か、報道による知る権利とは何なのか。人間ドラマを通じて様々なことを考えさせられる。

<ひと月で慣れる。ふた月で染まる。人事は例外なくそうだ>(128頁)

 「人事」という機能に対する皮肉な台詞もそうだよなと思わさせられる。

 事件は何度でも人を試す。暗がりを、三上は一歩一歩踏み締めて歩いた。(396頁)

 ネタバレにならないように書くと、事件が新たな事件を生み出す。そこには様々な感情が綯い交ぜになり、誰が何の権利で誰を裁くのかという究極の難問が生じる。そもそも、人は人を裁けるのだろうか。裁けるとしたら、その根拠は何なのだろうか。

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)

2019年10月12日土曜日

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 警察機構を題材とした小説であり、暗い印象のある書き出しから始まる。冒頭からしばらくは人物同士の関係性がわかりづらいが、次第に明らかになりかつ物語に引き込まれているのは、さすがの展開力と言え、文句なしに面白い。

 三上は階段の踊り場に立ち尽くした。
 上の階は刑事部。下は警務部。自分の立っている場所が、そのまま己の置かれた立場に思えた。(160頁)

 元々は刑事部の出身であり、自分自身を生粋の刑事だと思っている主人公。しかしながらキャリアの初期の段階で広報部というスタッフ部門にわずかながら経験し、現在も広報部という警務部側に色分けされる立場で働く。その葛藤が文章によく現れている。

 三上は運転席のウインドウを少し下げた。冷気が頬を撫でる。わずかばかりの葉を残した歩道の冬木立が北風に鳴いている。(313頁)

 ここの表現もまた、いい。主人公の置かれる厳しい環境が、情景に描写されている。

【第905回】『空飛ぶタイヤ』(池井戸潤、講談社、2009年)

2019年9月23日月曜日

【第990回】『葬送 第二部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 第一部の上巻でショパンの葬儀のシーンが描かれるため、私たちはショパンの死を予感させられながら読み進める。彼が死に対して抗いながら、その中で人々と静かに交流する最終盤では、潮騒、奔馬、豊饒などといった三島の名作のタイトルがさりげなく文章に散りばめられる演出も見事だ。

 病床に伏せるショパンがドラクロワに対して語りかけるシーンでは、才能に対する興味深い考えが提示される。

「君はきっとそれに打勝つことが出来ると思う。……」と言った。そして、その一瞬だけ海が凪いだように呼吸が静かになって、「……君は、自分の才能を、人には得難い或る特権的な穏やかさの中で楽しむことが出来る。それは、熱烈に名声を追い求めるのに劣らない価値のあることだよ。……」と言った。(55頁)

 才能には、輝かしいものや異彩を放つものといった華やかなイメージがある。しかし、ショパンが語るような静謐な特質も才能には含まれるのかもしれない。このように考えれば、天才と呼ばれるような一部の人たちが持つ特別なものではなく、ごく普通の私たちが才能というを考えることもあり得るのではないだろうか。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月22日日曜日

【第989回】『葬送 第二部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 静かに、淡々と、しかし確実に物語はもの悲しい展開へと向かうようだ。第一部の上巻の冒頭でショパンの死後の情景が描かれるために一つの予感を持って読者は物語を読み進める。そのために徒に暗い展開を予期し過ぎてしまうのかもしれない。

 或る意味で、天才とは一つの病です。僕には僕の天才の過剰は苦痛です。それは泉の規模を知らず際限もなく溢れ出る湧き水のようなものです。……吐き出しても、吐き出しても、……すぐに飽和してしまう。……僕はその窒息感に常に苛まれています。苦しくて、どうにも仕方がなくて、……いっそ枯渇するまで吐き出してしまうことが出来たならば、どれほどの心の安寧が得られることでしょう。(237~238頁)

 ドラクロワが自身について長く語るシーンである。私たち<普通>の人間は、良質なアウトプットを継続できる人物を天才として尊敬し、羨望の眼差しで眺める。あのようになってみたいと思う。

 しかし、月並みな言い方となってしまうが天才には天才の悩みがある。スランプや停滞といったものではなく、自身の内から創意やアイディアが湧き出すぎると、常に満足感が得られないのかもしれない。私たちは何かをアウトプットするとそれに心地よさを感じるものだが、天才には、その後にもまた新たなアウトプットの欲求が訪れて、余韻に浸れないのかもしれない。それはそれで苦痛だろう。

 時は本の頁を飛ばし飛ばし乱暴に捲ってゆくようにして慌しく過ぎ、二箇月が経って四月二十三日に憲法制定議会の最初の普通選挙が行われると、個々の人間がこの革命によって何を得、何を失ったかが一先ず明らかとなった。(187頁)

 この時間の経過の描写がすごい。物語の展開とは直接的に関係がないとしても、こうした表現に出会うとうれしくなる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月21日土曜日

【第988回】『葬送 第一部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 上巻に続き、ドラクロワとショパンとの交流を軸にしながら物語は進む。ショパンとその愛人サンド夫人との関係が破綻へと至る一連のプロセスがもの悲しいためにトーンとしては暗い。しかし、時に烈しく時に静かに流れる展開は読み応えがある。

 私たちはなぜ小説を読むのか。小説とは、様々な人物の様々な感情が発露し、その関係性もまたダイナミックなものとなる。日常生活において私たちの多くが経験できないような場面が多いが、どこかに共感できる足がかりがある。ために登場人物のある特定の感情や行動に寄り添いながら私たちは物語を我が事のように思い浮かべながら読む。こうした共感と投影の作用が私たちに浄化をもたらすから、小説を読みたいと思うのかもしれない。

 失望が、丁度握り締めた真綿が開いた掌で膨らんでゆくようにして静かに胸に広がっていった。今日は何もしなかった。これから出来る仕事といえば、素描くらいのものだ。そう思うと、今し方の愉快な気分が嘘のように霧散してすっかり沈み込んでしまった。(7頁)

 全般的にシリアスな展開の中でも、冒頭にはこのような日常的に仕事に対して私たちが共感できるような日常が描かれる。ドラクロワが、他者と会うことに長く時間を要しすぎて慨嘆する気持ちは、私たちの多くが共感できるものではないだろうか。

 ショパンは、徐に懐から手紙を取り出すと封筒を覗きながら便箋を引き出して手中に広げた。紙の擦れ合う音が耳に硬く響いた。僅か数秒のことであったが、彼はその間の緊張を耐え難く感じた。窓から風が吹いて膝の上の封筒が飛ばされそうになった時、咄嗟に自分でも驚くほど大袈裟な身振りでそれを押さえつけた。そして、急激に速まった心拍に自分の狼狽ぶりを思い知らされた。(294頁)

 サンド夫人との別離が色濃く予感される最終盤の一コマ。心象風景がほとんど描かれないにも関わらず、ショパンの行動と背景の描写によって、彼の気持ちが十二分に伝わってくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月16日月曜日

【第987回】『葬送 第一部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 美しい文体に触れると心象風景に現れるビジョンに焦点が合い、現実世界が遠景となる。ために、物理的に疲れていたり精神的に疲弊している時にはホッと一息をつける。そうした美しい文章を読みたい折には、夏目漱石、三島由紀夫、村上春樹、そして著者のいずれかの本を読むようにしている。

 本作では、十九世紀パリを舞台にドラクロワとショパンとの親交を基本軸に、様々な人物がその補助線として二人と交流を重ねる様が描かれる。抑制の利いた穏やかな筆致の中にも著者の美しい文体が物語を構成していく。静かな情景の中にも、登場人物の心の襞が描かれているようだ。

 日常のあらゆる記憶から逃れたところで、気がつけば数時間もの時を過ごした。時間の経つのがまるで感ぜられなかった。あっと言う間だった。それでも、知らぬ間にからだを抜けていった時間の澱が、少しずつ足腰に溜まって痛みを発し始めていたので、彼は自分が、何時までもここに留まっている訳にはいかないことを否応もなく感じさせられた。名残惜しいが長居しすぎたようにも思った。最後に見た麒麟の不自然に伸びた頸の格好が、興を醒ませて、彼に帰る決心をさせた。(116頁)

 美しい文章を読むことは、美しい絵画の前で時間を過ごすことと近い。美術館を訪れ、時間を全く気にせずに没頭する。その行為は、日常から時間的にも空間的にも距離を置くことにほかならない。そうすることで、日常に改めて入っていこうという気力が自ずと湧いてくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月1日日曜日

【第982回】『日本沈没(下)』(小松左京、小学館、2006年)


 地殻変動によって日本列島が沈没する可能性が極めて高いことが徐々に明確になる。物語の展開の早さと相待って、緊張感の高まりも次第に増していく。未曾有の災害を扱ったSF作品であるため、読者が過去に経験した災害を良くも悪くも想起させられ、その実感には悍ましくも生々しく、読者を内省させるようだ。

 この物語の主人公と呼べる人々は、早くから日本列島の地殻を襲う変動を調査している。その調査をバックアップしているのが、政界のドンと言われる百歳を超えた老人だ。その老人の、日本および日本人に対する考察が考えさせられる。

 「日本人であり続けようとしても……日本人であることをやめようとしても……これから先は、どちらにしても、日本の中だけでは、どうにもならない。外から規定される問題になるわけじゃからな……。”日本”というものを、いっそ無くしてしまえたら……日本人から日本を無くして、ただの人間にすることができたら、かえって問題は簡単じゃが、そうはいかんからな……。文化や言語は歴史的な”業”じゃからな……。日本の国土といっしょに、日本という国も、民族も、文化も、歴史も、一切合財ほろんでしまえば、これはこれですっきりはしておるが……だが、日本人は、まだ若々しい民族で……たけりをたっぷり持ち、生きる”業”も終わっておらんからな……」(112頁)

 日本の企業組織がダメになれば、外国で外国資本の企業で働けばいいものだと個人としては思っている。いまでもその考えに変わりはないが、果たして、その時に抱くアイデンティティは何か。また外国で「一時的に過ごす」ことと、祖国がなくなって外国で「一生涯を暮らす」ということには絶対的な違いがあるのではないか。

2019年8月31日土曜日

【第981回】『日本沈没(上)』(小松左京、小学館、2006年)


 Eテレ「100分de名著」の小松左京特集で興味を持った一冊。恥ずかしながら著者の書籍を初めて読んだのであるが、簡潔な文章で文体も私のフィーリングに合う。この後も何冊か読んでみたい。

 本書の結論は上記の番組でなんとなくは理解している。加えて、同番組の中でも言われていたが、題名の時点で読者は想定しながら読み進める。しかし、そこに何を見出すかは読者次第ということであり、多様な読み方を許すところが出版当時にミリオンセラーとなるほど売れに売れた理由なのではないか。

 尾をひいて、小さくかがやきつつ、直下の闇へおちていく、三つの星を見つめながら、小野寺は、その大洋の水の壁の巨大さ、その底にひそむ暗黒の怪物の巨大さ、そしてそれに対する人間の存在の小ささ、知識の小ささを感じ、体の芯から冷気がこみあげてくるような気がした。ーーこの広大な道の中を、小さな船に乗ってのぼっていくわびしさが、冷たい海水の圧力といっしょになって、ひしひしと胸をしめつけた。あとの二人も、同じ思いにとらわれているらしく、ひっそりと息をひそめ、暗がりの中に身じろぎもせず、小さな観測窓のうす青い円形に、じっと眼をすえていた。(99~100頁)

 海底の不気味な動きを潜水艦で目の当たりにすることとなった主人公たち。その後、日本列島に襲いかかる天変地異を暗示させる薄ら寒い見事な表現だ。

2019年4月21日日曜日

【第949回】『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海、新潮社、2015年)


 ドラッカーを読み直そうと思っていた。しかしあまり時間がなかったために本書で代用したという側面はある。とはいえ、本書は再読であり改めて読み直そうと思わせる魅力が本書にはあるとも言える。実際、読み直してみて、改めて気づかされるものが多かった。

 主人公である野球部マネジャーのみなみがドラッカーの『マネジメント』を座右の書として部および部員に貢献しようとする一連の動きは興味深い。理に適っているとも思えるし、ストーリーとしても違和感がない。

 安富氏が『ドラッカーと論語』で言及しているのと同感で、最後にヒロインが亡くなる展開は安っぽいドラマのようで今ひとつではあるがそれ以外は読み応えがある展開だ。それでいてドラッカーを学べるのであるからお得な一冊であることは間違いない。

「働く人たちに成果をあげさせる」ことは、マネジメントの重要な役割だった。そのためみなみは、「どうやったら部員たちに成果をあげさせられるか」ということを、ずっと考えてきた。(94頁)

 企業組織における社員を部活動における部員に置き換えて考える。簡単なようでいて難しいことであり、それを愚直に繰り返すことは至難の業であろう。しかしこれをみなみはやりきり、かつ自分の親友である夕紀に援用した。

 みなみは夕紀の仕事を設計していったのだ。
 まず、彼女の仕事を生産的なものにしようとした。だから、マネジメントにとって最も重要な仕事の一つである「マーケティング」を、彼女に一任した。
 次に、フィードバック情報を与えた。面談が終わると反省会を開き、自分の評価や感じたことを率直に伝えた。また、部員たちからも感想を聞き、それらも全て伝えるようにした。
 最後に、夕紀自身が学習を欠かさないよう気を配った。彼女にも『マネジメント』を読んでもらったのはもちろん、どうやったらもっと部員たちの本心を聞き出すことができるか、話し合ったり、それ以外の本を読んでもらったりもした。また、親や病院の人たちにも相談してもらうなどして、幅広く情報を蓄えさせた。
 そうやって、みなみは夕紀の仕事に責任を持たせようとしたのだ。(95~96頁)

 下手なマネジメント本よりも本質を簡潔に押さえている。自分自身を省みても気づきの深まる箇所である。

【第662回】『ドラッカーと論語(2回目)』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

2019年4月14日日曜日

【第947回】『陋巷に在り 13 魯の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)

 大作がついに大団円を迎える。尼丘での一件が終わり、魯における孔子の政争へと舞台は移る。やや静かな展開の中であればこそ、孔子や顔回の意志が色濃く現れているように思える。クライマックスに近づき、孔子は魯を出る決意を固める。その孔子に従って魯を出ることを、顔回は即決する。

「潰えたものをただ見守るだけでは将来はありません。わたくし回は先生に学ぶ者です。どうして陋巷に残り、一人楽しむことが出来ましょう」(588頁)


 孔子にとって最愛の弟子と言われる顔回は、ひたすらに孔子を尊敬する存在であった。師弟関係の理想として、微笑ましいとともに羨ましくも感じる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月13日土曜日

【第946回】『陋巷に在り 12 聖の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 子蓉の兄・悪悦。悪意の塊として描かれる彼もまた、子蓉と同様に過酷な幼少期を過ごしていることが明かされる。子蓉とは異なり、悪意しか感じられない彼が、その大きな力をもって子蓉とは異なるアプローチで尼丘へと至る。

 思えばそもそも力自体に倫理道徳的なものはないのである。力を善く使って福をなすことも出来るし、力を悪しく使って禍をなすことも出来る。使う者は仕合わせにもなれるし、その為に非業にして亡びることもある。しかし使われる力は同じものであり、ただ使う者の意図や目的により他者より道徳的評価が下されるにすぎない。実に単純なことなのである。神の力もそうなのかも知れない。(60頁)

 力には悪も善もない。その保有する者の意思によって良き使い方と悪い使い方とが現れるだけである。先の大戦で多大な犠牲によって人類が学んだことがここでも描かれているようだ。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月7日日曜日

【第945回】『陋巷に在り 11 顔の巻』(酒見賢一、新潮社、2004年)


 戦いの舞台は顔儒の総本山である尼丘へと移行する。そこには顔儒に壊滅的なダメージを与える展開が予感される。尼丘へと向かう子蓉の描写は、禍々しいものを描いているかのようでもあるが、神聖なものを描いているようにも受け取れる。向かってくる顔儒を惨殺するシーンにもどこかもの悲しさが現れる。

 子蓉はきちんと復讐してから、故郷を出たはずであった。しかし記憶は残っていた。子蓉をいつでも縛り付けようとするものの正体は自分の中にいる。記憶を殺さねば、まだ何も清算されないのである。子蓉に潜む底無しの残虐性、瞬時に現れる凶暴さはその記憶に由来するものであった。(206頁)

 顔回とともにこのシリーズの主人公に近い存在にもなりつつある子蓉の内にある残虐性が説明される。なぜ人は残虐な行動が取れるのか。それにもかかわらず、通常の状態では「普通の人」のような人物であり得るのか。幼少期からの人格形成について考えさせられる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年4月6日土曜日

【第944回】『陋巷に在り 10 命の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔氏の太長老が、自身の娘であり孔子の母親である顔徴在について、妤に対して語り聞かせる。孔子の謎に包まれた誕生における大胆か仮説の提示に魅了されながら一気に読み進められる。以下の引用は、その間に挟まれた顔回と医とのやりとりから。

 秘鍵は問われるものではなく、自ら摑むべきものである。他者の秘匿を考え無しに問うのは非礼である。(324頁)

 一見すると礼に基づいて顔回が医に医術を尋ねただけなのであるが、医はそれに対して怒りを表す。徒に他者に対して尋ねるのではなく、自分で考えて自分で行動してみて会得する。そうした過程を経た上で尋ねるということが礼なのであろうか。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月31日日曜日

【第943回】『陋巷に在り 9 眩の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔回の内的世界かのような九泉での顔回・子蓉・妤のやり取りが終わる。九死に一生を得て再び現実世界に戻った顔回は、寿命の終わりが見えてきた顔儒の長老・太長老と対話する。

 太長老はかれらとは別に孔子の中に、礼を根底から革める可能性を見ているのである。歴史を知る者ならば、今が巨大な変革期であることを覚っているはずだ。顔氏はこのままではいずれその礼とともに滅びるであろう。だが、孔子や顔回によってまったく新しい形で顔氏の礼が生き延びる可能性がある。それがどのようなものか太長老にも想像だに出来なかった。また自分がそんな革まった礼のうちに生きることなど考えたくもなかった。老いが変化を嫌い、いやがるのである。(350頁)

 温故知新に関する長老の述懐のようにも受け取れる。自分自身は変革を厭いながらも、若い者による変革にはある程度の理解を示す。こうした懐の深さがリーダーシップの源泉なのかもしれない。さらに著者は、長老に続けて以下のように述べさせる。

 しかしそれでも可能性なのである。
『述べて作らず。信じて古を好む』
 という信条を持ちながらも、改革者であるという不思議な立場にある孔子であればこその可能性なのだ。そしてその隣には顔回が立っているだろう。太長老が生きて目にすることはかなわないであろうが、礼の変革、新興が成った世界が出現するのである。顔氏の礼は生命をいたずらに長くして生き残るのではない。不死の知識として生き残れるはずなのである。(351頁)

 こういうリーダーと一緒に働きたいものである。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月30日土曜日

【第942回】『陋巷に在り 8 冥の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 子蓉が操る妤と医との息つまる闘いがクライマックスに近づいた時に、顔回の内面世界へと場面が一転する。この展開もすごいが、顔回の内的な世界を通して論語の世界に触れさせる著者の筆致には恐れ入る。ともするとオカルティックな展開であるが、決して重たくはなくすらすらと読み進められる。

 それが顔回の卓越した知る力のせいである。知るということは子蓉には分かりにくい。知る力は、認識すること、尋ねること、窮めること、分かること、推し測ること、洞察すること、直観すること、他人の心に共感することなどが渾然となった能力である。そのいくつかは子蓉には欠如しているか、萎縮してしまっている能力であった。(318頁)

 孔子をして「一を聞いて十を知る」と言わしめる顔回の学習能力に関する記述である。顔回の受身的な学習に対する態度を子蓉から否定される中で差し込まれる一節に、顔回の凄みが現れる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月24日日曜日

【第941回】『陋巷に在り 7 医の巻』(酒見賢一、新潮社、2002年)


 半死の状態でかろうじて救い出された妤を救うべく尼丘に戻った五六たち。妤に医療を施すべく、異色の名医・医が登場する。この医のキャラが甚だ濃く、医と子蓉との妤を介した闘いが凄まじく、一気に読ませる。

 相手の心情を透視できる医を以ってしても、最初は顔回という人物を評価することができなかったようだ。しかしながら、二言三言交わす過程でその類まれな学習欲求を通じてその可能性を見出す。

 顔回を前にすると自分の考えや知識、何を学べばよいかなどを、うずうずと伝えたくなり、顔回が怠けていたり間違っていたりすると、そんなことは滅多にないことながら、必要以上に叱りつけたくなる。しかも教え甲斐のあることには顔回はそれらを渇いた砂のように吸収して、独りで実践にまで漕ぎ着けてしまうのである。これほど教授する心を動かす男も稀であろう。(210頁)

 学ぶ者として、かくありたいものである。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月23日土曜日

【第940回】『陋巷に在り 6 劇の巻』(酒見賢一、新潮社、1999年)


 前巻ではほとんど現れなかった顔回が、ここぞという場面で現れ、難題を解決する。しばらく鬱々とした展開だったからか、余計に顔回のかっこよさが際立つ。さらには、ここまで今ひとつ冴えない感のあった孔子も危地で活躍を魅せる胸のすくような展開である。

 顔回とは一見するに何もしない男である。悪いことはしないし、とりたてて善いこともしない。陋巷に住んで独り沈思している。だが無為にして無事であり、知っていて何も言わないことが如何に有為なことか、分かる者には分かるのである。(16頁)

 孔子の弟子の一人であり本巻で難に遭う公冶長による顔回評である。論語での印象からするとなんとなくわかる気がする。しかし、最後の文による形容の素晴らしさがすごい。

『朋友と交わりて信ならざるか』
 つまりは信が足りなかったのだと反省するしかなかった。顔回も五六も、故旧であることに安んじて、お互いが本当に言わねばならぬことを忘れていたのである。(61頁)

 自身の守役である五六が、敵の術にかかりかけていたにも関わらず関与することが遅れたことを悔やむ顔回。結果的に難は逃れられたとはいえ、故旧との関係を反省し失敗から学ぶ姿勢には恐れ入る。

 顔回は脳中に引き起こされた混乱は混乱として素直に受け止めて、それと別に自分の意思を肚に据えている。様々な感情が渦巻いて点滅するが、肚に己を留めておけば感情の乱舞をある程度客観的に見ることが出来た。すると錯乱に陥ることはなく、それは媚蠱が侵入する隙を作ることはなかった。(91頁)

 媚術を仕掛ける子蓉と再び合間見える顔回の態様。相手を圧倒するとか、相手に打ち克つという発想ではなく、受けるものはそのまま受け止めて、その上で自身の内面を客観的に捉える。飛躍を恐れずにいえば、現代におけるストレスマネジメントのヒントになりそうな気がする。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)