2017年10月29日日曜日

【第771回】『里山資本主義』(藻谷浩介・NHK広島取材班、角川書店、2013年)

 数年前に著者の『デフレの正体』を興味深く読み、本書が出た時には意外なテーマを扱っていると感じていつか読もうと思いながら何年も経ってしまっていた。清々しい書籍である。

 タイトルからすると、地域の活性化や環境問題について肩に力が入った議論が展開されるのかもと思ったが、そのようなことはなかった。テーマとしては地域経済や環境が扱われるが、取材やインタビューで展開される論旨は、おおらかで心地よい。

 こうした清々しい展開は、里山資本主義の定義にあるのではないか。以下の定義に目を通してほしい。

 里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。
 ここで注意すべきなのは、自己完結型の経済だからといって、排他的になることではない点だ。むしろ、「開かれた地域主義」こそ、里山資本主義なのである。
 そのために里山資本主義の実践者たちは、二〇世紀に築かれてきたグローバルネットワークを、それはそれとして利用してきた。自分たちに必要な知恵や技術を交換し、高め合うためだ。そうした「しなやかさ」が重要なのである。(100~101頁)

 地域における資源の活用を重視するとともに、内側に閉じるのではなく、利用できる外部のリソースやテクノロジーは十分に活用するしなやかさ。これが里山資本主義であると著者たちは述べているのである。

 こうしたオープンな姿勢は、IターンやUターンで地域が活性化して注目されている周防大島町の椎木町長の以下の言葉に表れている。

「私は行政のなかにいる人間ですが、一番不足しているのは、やる気があってもアイディアが薄い点。自分でも反省しているのですが、外のまったく違うタイプの方々のアイディアをいただけたら、もっと面白いものができるのではないかと期待しています」(174頁)

 地方都市においては、そこに住む人々が外から来る人々に対して排他的な姿勢を示すことが多いと言われる。いわゆるムラ社会に対して多くの人々が抱くイメージであり、現代においても決して現実とかけ離れたものではないだろう。

 しかし、活気のある地域においては、周防大島町長のようなマインドセットを持った方々が活躍されているのではないか。上記の言葉は、いろいろな可能性を感じさせてもらえる。

 里山資本主義は、マネー資本主義の生む歪みを補うサブシステムとして、そして非常時にはマネー資本主義に代わって表に立つバックアップシステムとして、日本とそして世界の脆弱性を補完し、人類の生き残る道を示していく。(303頁)

 しなやかな態度で捉えれば、里山資本主義と現代におけるマネー資本主義とは、トレードオフの関係ではなく補完関係にあるという最後の結びをよくかみしめたい。



2017年10月28日土曜日

【第770回】『浮世の画家』(カズオ・イシグロ、飛田茂雄訳、早川書房、2006年)

 ノーベル文学賞を受賞した著者の書籍を恥ずかしながら読んだことがなかった。本読みの名が廃ると思い、近所の図書館に所蔵してある書籍をまずは借りてみた、というのが事の次第である。

 時制が突然にして変わる文体に慣れるのがなかなか大変ではあったが、そうしたストレスを感じながら読むというのも趣深いと後半では思えるようになった。戦前に国策に合致した作品で著名になり、戦後にその過去の「遺産」に対する周囲の目を意識する主人公を描いた物語である。重たいテーマであるにもかかわらず、すらすらと読めるのだからすごい。おそらくは、役者の力量もあるのだろう。

 「少なくともおれたちは信念に従って行動し、全力を尽くして事に当たった」後年に至って、自分の過去の業績をどう再評価する事になろうとも、その人生に、あの日わたしが高い峠で経験したようなほんとうの満足を感じるときが多少ともあったと自覚できれば、必ず心の慰めを得られるはずだ。(304頁)

 過去にとらわれ、苦悩しながらも、旧友と対話をしながら、過去の信念に対する是非ではなく、信念に準じて悔いのない行動をとったことに誇りを持つという結論に至った主人公。その是非はなんとも難しいことではあるが、悔いなく、真剣に何かに取り組むという点には魅きつけられる。

 わが国は、過去にどんな過ちを犯したとしても、いまやあらゆる面でよりよい道を進む新たなチャンスを与えられているのだと思う。わたしなどはただ、あの若者たちの前途に祝福あれと心から祈るだけである。(306頁)

 自身の過去に対するこだわりからある程度抜け出た後に、後世に対する優しい眼差しと、社会の将来に対する明るい展望とを見出した主人公。戦後すぐの時代における時代精神も含まれているであろうし、本書が最初に出版された1986年というジャパン・アズ・ナンバーワンの時代精神も反映されているようだ。今、著者が主人公に最後を語らせるとしたら、どのような発言になるのだろうか。



2017年10月23日月曜日

【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)

 異なる分野の碩学同士の真剣な対話はスリリングである。真剣であるからこそ、分からない点を端的かつ鋭く質問し合うために読み手にとって理解がし易くなる。福岡氏の動的平衡論も、池田氏が解説しようとする西田哲学も、どちらも興味がありながら理解が追いついていなかった。本書で徹底的に質疑応答をしてくれているため、理解が進んだように思え、今後も繰り返し読み解くことで理解を深めたいと思える一冊である。

福岡 先ほど、西田哲学はそれ自身で、すでに「科学」としても扱えると発言したのですが、今回、西田哲学に正面から向き合ってみて、私は、生物学、物理学、化学、数学、言語学、歴史学……といったさまざまな学問が西田哲学において融合しているといった印象を強くいたしました。(271頁)

福岡 科学でなんでもできると思っていたら、それは時としてとんでもない災いや誤りを招く。西田哲学はそれを戒めてくれている学でもある、と私は思います。先ほど池田先生は「自然に謙虚に」と言われたのですが、科学者のみならず、およそ研究者というものは、常に自分や自分の研究していることに対して懐疑的な視点を持つことも大切です。西田哲学は、そうしたことをあらためて私たちに思い起こさせてくれる学でもあると思います。(282頁)

 徹底的な対話を経て西田哲学と自身の動的平衡との統合的理解を得た福岡氏が最後の対談で述べた一言に、学際研究の必要性が端的に示されているように思える。近代西洋科学が批判的に捉えられる存在というわけではない。しかし、西洋科学中心で物事を捉えすぎることによる危険性を著者たちは指摘し、様々な学問領域を統合し、自然を中心に据えて謙虚に物事を捉えることの重要性を説く。

 冒頭で著者たちが導き出したのは、自然に還ることの必要性である。

福岡 ヘラクレイトスが「万物は流転する」とか、「相反するところに最も美しい調和がある」と言ったように、自然本来のあり方をとらえようとする立場がある(ピュシスの立場)。一方、それを忘れて、いわゆる「存在者」というものだけでものを語ろうとする立場がある(ロゴスの立場)。プラトン以降の哲学はロゴスの立場に基づくもので、それが続いてきたことに対する一種のアンチテーゼとして、西田は「ピュシスの世界に還れ」という旗印を言わば行間に掲げて、独自の考えを深めていった。(47頁)

 近代西洋科学をロゴスの立場とし、そこからだけ眺めるのではなく、自然に立ち返ることが重要であると両者は述べる。その上で、福岡氏が着目している生物と無生物や内側と外側の「あいだ」の概念が、西田哲学における絶対矛盾と近しい関係にあることが述べられている。

 続いて、ピュシスを基にして、時間と空間をどのように捉えるかというテーマへと両者の対談は進む。

池田 そもそも時間と空間というものを考えることができなくなってしまうんですよ。時間と空間というものはまったく矛盾していますから。片一方は流れていくものだし、もう一方は流れない。しかし、現実においては時間と空間というのは一つになっている。
 そのことを「(絶対)矛盾的自己同一」と西田は言っているわけです。矛盾したものが一つになっている、と。(89頁)

池田 そういう矛盾しているものが自己同一(している)と説かれるわけですけれども、このことを言葉を変えて、「逆に限定されている」とか「逆限定」とも言うんです。
 ですから、「逆限定」と「絶対矛盾的自己同一」というのは、ほとんど同じことを言っている概念なのです。(89頁)

 時間と空間という捉え方は、日常生活を送っていると当たり前の概念として何気なく認識してしまう。ある場面を表現する際に、緯度と経度で空間を同定し、年月日で時間を同定することでその場面を把捉できているように思える。しかし、本来的に流れの概念である時間を年月日で捉えた場合にはそれは「時刻」であると著者たちは指摘する。

 したがって、私が上述したような認識は時間と空間とを一つのものとして捉えられていないものであり、必要とされるのが逆限定という概念である。この概念の難しさは福岡氏ですら本書の対談内で苦闘しているので私自身も分かったとは容易には言えない。しかし、苦闘の末に至った福岡氏の以下のまとめは私たちの理解を促すうえで役に立つだろう。

福岡 逆限定においては、「環境が年輪を包む」ということは同時に「環境が年輪に包まれる」ということも含んでいて、それは「包む・包まれる」という言い方で、ーーこれは「作る・作られる」という言い方に置き換えてもいいのかもしれませんがーー、つまり、ピュシスにおいては、環境が年輪を作ると同時に環境は年輪によって作られている、と。(134頁)

池田 環境が樹木を「包みつつ」樹木に「包まれ」、樹木は、場に「包まれつつ」場を「包む」という逆限定的な関係がここには(見えないながらも)現れているのですが、「逆限定」あるいは「絶対矛盾的自己同一」とはつまり、環境と樹木の「あいだ」のことであって、そこにおいて環境と樹木とは相互に否定し合っています。こうした相互否定関係のうえに成り立つピュシスの働きというものが「歴史的自然の形成作用」ということになるのです。(144頁)

 樹木の中にある年輪と、樹木を取り巻く環境との相互作用についてここでは述べられている。ある一時点をスナップショットで収めると、樹木とその周囲の環境というものはたしかに存在する。そうした空間における両者の存在に、時間という流れを加えると、お互いに影響を与え合う関係性が見えてくる。ある一時点において観測したものを基に私たちは思考を進める傾向があるが、流れという時間を想定して時間をも捉えることが必要なのである。こうした時間論について、対談のテーマは移っていく。

福岡 個体は絶えず交換されるジグソーパズルのごとき細胞によっておぼろげな全体としても存在している、ということが西田においても言われていると思います。
 ですから、「多の自己否定的一」という表現について、「多」というのは多細胞の「多」であり、細胞の構成要素であるというふうに考えると、その構成要素が自己否定している、と言われているわけです。絶えず生まれ変わる。壊されながら作られる。分裂しながら死んでいくのですけれども、また新たなものが生み出される。そういった自己否定性の中に「多」というものはある、と読むことができます。
 けれども、それが同時に「一」であるところの全体というものを構成していて、さらに「一の自己否定的多」としてその逆の働きにも言及されています。そして、「多の自己否定的一」が時間的であり、「一の自己否定的多」が空間的である、と続く。つまり、ここで時間と空間が対比されているわけですけれども、このとき西田先生が言われている時間というのは、合成と分解の繰り返しという動的平衡によって生ずる流れとしての時間ですよね。(156~157頁)

池田 時間を考える場合に、多くの人は過去から未来へという方向に着目し、未来から過去へという反対の方向にはほとんどの人が目を向けることがないわけですけれども、引用文中に「作られたものから作るものへ、作るものから作られたものへ」という表現がありますね。「作られたもの」というのは、要するに過去のことです。「作るもの」というのは未来のことなんですけれども、世界においては両者が絶えず、逆限定的に作用しているんです。
 で、こうした矛盾的自己同一というあり方がすべてにわたって徹底していくところに西田の論理性が現れているのですが、従来、西洋哲学にはこうした論理は存在しなかったわけです。(160~161頁)

 絶対的矛盾的自己同一における時間と空間との関係性は、西田哲学における円環的な時間論へと繋がっていく。

池田 西田では、それは絶対矛盾の自己同一ということになり、ここにおいて、福岡さんの「先回り」(動的平衡)と「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なることになるのです。
 そして、時間というのはただ直線に進むむだけじゃなくて、円環する性格もあるはずだ、ということを西田は明言しています。
 「先回り」という概念が西田においてもしもあったとすれば、直線じゃなくて、円環……、戻って来るという、そういう時間について語られるものでなければならない。そう西田は暗に語っているわけですね。(218~219頁)

 ここまでざっと著者たちの対談で印象に残ったところを関連付けながら引用してきた。しかし、正直に言えば、改めて読み直してみるとあまり理解できていないようである。もう少しじっくりと読みたいと思う。


 その際には、本書で述べられてきた生命というものを、企業組織やそこで働く社員へのアナロジーとして捉えられないかと考えている。というのも、しばしば、企業組織は生命体として捉えられる。そうであれば、ピュシス、時間と空間の「あいだ」、絶対矛盾的自己同一/逆限定、円環する時間論、といったものは、企業組織でも援用できるのではないかと考えるからである。機会を作って、もう少しじっくりと取り組んでみたい。


2017年10月22日日曜日

【第768回】『これからの「正義」の話をしよう』【2回目】(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

 唐突なタイミングで衆院選が行われることとなった。やや不謹慎なのかもしれないが、政治は面白い。わくわくする。もちろん大事な選択であり、どの政党に入れるべきか、どのような見識を持った候補者に投票するべきかを真面目に考えたい。そう思った時に、本書を読み直そうと思った。

 改めて読み解いていくと、あれほど感銘を受けたのに内容をいかに忘れていたかに気づかされる。リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムという三つを軸にしながらの論理展開は読み応え十分である。ハーバードでの著者の講義をもとに書籍化しただけあって、ライブ感があって読みやすい。

 人間に特有の能力である言語は、快楽や苦痛を表現するためだけにあるのではない。何が正義で何が不正かを断じ、正しいことと間違っていることを区別するためにあるのだ。人間はそうしたことを沈黙のうちに把握してから言葉を当てはめるのではない。言語は、それを通してわれわれが善を識別し、熟考するための媒体である。(253~254頁)

 哲学とは、語ることとの親和性が高い。プラトンによるソクラテスの対話の物語を例に出すまでもないだろう。言語を「善を識別し、熟考するための媒体」と喝破した著者の定義にはハッとさせられる。月並みではあるが、言葉を大事にして使いたいと思った。

 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気が無いならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。(304頁)


 ロールズの「負荷なき自己」を批判した上で、負荷のある自己について語った箇所である。負荷のある自己とは、自分自身に責任を持ち、自分を形成するコミュニティの持つ歴史に対する責任をも持つ存在である。自国の文化や歴史に誇りを持ちながら、過去の自国の行動に伴う責任を無視しようとする考え方への痛烈な警句である。


2017年10月21日土曜日

【第767回】『今こそアーレントを読み直す』【2回目】(仲正昌樹、講談社、2009年)

 全体主義とは何か。現代においてもその影が何となくちらつくように思えるのは杞憂であろうか。「100分で名著」でアーレントの『全体主義の起原』が扱われていたシリーズを興味深く見て、本書を読み直したくなった。衆院選に向けて、政治を考えるためのテクストでもある。

 以前のエントリーで詳細に各章をまとめたので、以下では、今回読み直して特に印象に残った点のみを扱うこととしたい。

 アーレントに言わせれば、利害のために「善」の探求を放棄してもダメだし、特定の「善」の観念に囚われすぎてもダメなのである。両極のいずれかに偏ってしまうことなく、「善とは何か?」についてオープンに討議し続けることが重要だ。政治的共同体の「善」について様々な「意見」を持っている人たちがーー物質的な利害から解き放たれてーー公共の場でお互いに言語による説得を試み合うことが、アーレントの考える本来の「政治」である。そうした意味での「政治」を通して、暴力とか感情によって相手を支配しようするのではない、「人間」らしい関係性が培われるというのが、アーレントの独特の「人間」観である。まとめて言うと、物質的利害を超えた「政治」的な討議を通して、我々は「人・間」になるのである。(kindle ver. No. 139)

 このアーレントの人間観にハッとさせられる。極端に安易に流れないという姿勢は、孔子の『中庸』のようでもあるし、右翼からも左翼からも批判されるという著者にも通ずるところがあるようだ。極端にならないからこそ様々な異なる価値観を理解し尊重することができるのであり、こうした態度がダイバーシティを重視する社会において求められるのではないか。

 肝心なのは、各人が自分なりの世界観を持ってしまうのは不可避であることを自覚したうえで、それが「現実」に対する唯一の説明ではないことを認めることである。(kindle ver. No. 574)


 両極端にならないようにすることが大事であることが分かりながらも、私たちは自分に独特な考え方を重視してしまう。こうした現実的な人間観を持ったうえで、自分の考え方が全てではないという認識を持つこと。自分の外側にある外形的な多様性だけではなく、自分自身の内側にある多様性を意識することが大事なのであろう。


2017年10月15日日曜日

【第766回】『八甲田山死の彷徨』(新田次郎、新潮社、1978年)

 物語の展開にのめり込みながら、暗鬱とした気持ちになるというのは不思議である。まず英雄譚ではないし、成功に導いた偉大なリーダーと失敗によって隊を全滅させたリーダーとを対比的に論じているのでもない。全員が生還した隊における言動の描写にも首をかしげざるを得ない箇所は随所にみられるのである。

 成功したリーダーはすべてが美化されて一部のネガティヴな部分すらユーモラスに語られるという後付けのストーリー構成は私たち読者に受けがいい。特に、失敗したリーダーを対照的に描写すれば、なおさらそのストーリーは面白いものになる。

 しかし、現実とは、本書に描かれるようなものなのだろう。安易な善と悪という二項対立で論じることは、現実を曲解し、見たいものだけを見ようとする作為なのではないか。このように捉えなおすと、本書のような記録文学の価値というものが改めてわかるような気がする。

「将校たる者は、その人間が信用できるかどうか見極めるだけの能力がなければならない。弥兵衛も相馬村長も信用置ける人間だと思ったからまかせたのだ。他人を信ずることのできない者は自分自身をも見失ってしまうものだ」(69頁)

 何が雪山の走破を可能にした成功要因であり失敗要因であったのかを断じるつもりはない。しかし、困難なプロジェクトであればあるほど、同じ船に乗る人々をいかに信じることができるのかが肝要になるのではないか。

 もしなんらかの形で他者や他者の行動に疑念や疑問が生じると、他のメンバーと一緒に同じ方向を向くということは難しくなる。プロジェクトが困難であればあるほど、少しの疑問がにわかに大きくなり、それによって成功から遠ざかるということはあるのだろう。文字通りそれが生き死に関わるようなシリアスなものであれば尚更だ。

 プロジェクトというとやや無機質な響きもある。しかし、その完遂に向けては、人という有機体、そして人と人との繋がりというものが大きく作用する。このことを改めて考えさせられた。 



2017年10月14日土曜日

【第765回】『<日本人>の境界』(小熊英二、新曜社、1998年)

 自分自身が<日本人>であるということを意識するのは、外国を訪れたり、外国籍の方々とコミュニケーションをとる時に限られるのではないか。それほど<日本人>という概念は「私たち」に内面化しているものであり、この「私たち」という意識もまた曲者である。「私たち」が「私たち」という言葉を普段の生活の中で用いる際には、それはほぼ<日本人>を指しているからである。

 ことほど左様に<日本人>という「私たち」に内面化されたパラダイムを自覚することは難しい。本書では、国民国家の形成過程において<日本人>がどのように創造されたのかについて、日本という国土の境界領域における包摂と排除の歴史を基に論旨が展開されている。<日本人>という自明に思えてしまう概念をエポケーし、<日本人>を基にした現代の日本という国民国家を改めて考える上で適したテクストであろう。

 国民国家という言葉からは、ナショナリズムという概念を想起することも多いだろう。両者は親和性の高い概念であるが、著者は、その用いる主体によって、意味合いと受け手の印象が異なると指摘している。

 現在われわれは、ナショナリズムという言葉に反発を感じることが多い。だがその一方で、ナショナリズムが弱者によって担われたときには、必ずしも非難すべきものとは考えない。(中略)強者が排外と侵略のために掲げるナショナリズムと、弱者が独立と解放のために掲げるナショナリズムは、暗黙のうちに区別されているのである。(524頁)

 世紀が変わってから、その初年に起きた9・11が典型的な事例として、ナショナリズムという言葉が用いられることは増えているように思える。著者が指摘しているように、その言葉を強国が用いる、もしくは用い続けるとメディアや人々から非難される傾向がある。反対に、圧制や強制的な包摂からの独立としてのナショナリズムは共感とともに受け入れられるものである。やや古い事例であるが、ベトナム戦争時における世論の推移を想起すれば分かりやすいだろう。

 では、明治維新以後の日本という後発的な国民国家の形成過程において、<日本人>はどのように形成されたのか。著者は、633頁においてその特徴を三つに整理している。

①外部の脅威を意識して支配地域の確保を重視
②支配対象が近接地域で国境紛争と国民統合の要素が混入
③文化的劣位意識があるため「特殊」な文化を強制するしか依拠する権威がない

 ①は、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ等の列強諸国による植民地化を避ける生存戦略である。とりわけ地理的に近いロシアの脅威にいかに対処するかという点で、有力な軍事拠点としての国土を本州から離れた地に確保することが求められた。

 したがって、②で挙げられているように、必要とされる新たな国土は、ヨーロッパやアメリカとは異なり、近接した地域にターゲットが絞られた。先発して国民国家が形成され植民地政策が行われた先進国とはこの点が異なり、国土の拡大戦略はあくまで受け身の対応となったのである。海外情勢への対応という変数に合わせるかたちで、沖縄、北海道、台湾、朝鮮半島といった地域が従属的に選ばれたのである。

 こうした地理的な近さは、文化面での統合という点で日本にとっては固有の難しい側面があった。つまり、儒教や仏教という「借り物」の思想をバックボーンに持っている国家にとって、その輸入元である国家に対して③にあるような劣位意識を持たざるを得なかった。そのため、普遍的な文化に頼らず、日本語の国語化と天皇というシンボルを活用し、国語の強制と天皇への忠誠を強いることで支配の論理を構築しようとしたのである。

 そのため、近代日本においては「ナショナリズムや人種主義は必ずしも政策決定の本質的動機であるとはかぎらず、むしろ他の動機による主張の表現形態にすぎな」かった(651頁)という側面があったことに留意するべきであろう。以上のような歴史的経緯を踏まえて、今の日本に生きる私たちに向けた著者の最後のメッセージをよく吟味するべきであろう。


 本書では、多くの人びとが「日本人」という言葉に込めた、さまざまな願望をみてきた。それは、たとえば精神の支配への欲望であり、国家資源としての計算であり、権利や幸福への期待であり、憎悪と失望の念であり、対話と共存の夢であった。こうした歴史から何を学ぶか、それは人によって異なるかもしれない。だがどのような立場の人であろうとも、今後の時代において、「日本人」にどのような意味をあたえるか、そしてその境界のあり方をどのように好走するかは、われわれの課題であるはずである。なぜなら国家とは、「日本人」とは所与の運命ではなく、それを決める権利は私たちの手の中にあるはずなのだから。(666~667頁)


2017年10月9日月曜日

【第764回】『ローマ人の物語Ⅴ ユリウス・カエサル ルビコン以後』(塩野七生、新潮社、1996年)

 前巻までは文庫版で読み進めてきたが、ここにきてハードカバーで読むと、長い。カエサルが暗殺される本巻まで読み直そうと思っていたが、私にとっての今回の「最終巻」は、話とともに物質的にも重たいものだった。

 ルビコンを渡って後のポンペイウスとの内戦に勝利して絶対的な権力を獲得したカエサル。自身の理想に基づき、奢ることなく民主的な統治を行う様子からは、なぜ暗殺されなければならなかったのかと訝ってしまう。しかし、詳細は本書に詳らかであるので譲るとして、多くの人々にとって善政であっても、そこに疑いや懸念を抱く人は出てくる。さらには、他者からの尊敬を集めれば集めるほど、その人物が絶対的な存在になろうとしていなくても恐怖を覚える人は現れるのであろう。

 わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている(27頁)


 カエサルがキケロに送った手紙の一節だそうだ。寛容をモットーとした政治を心がけたカエサルの想いが詰まっているように思えるし、のちの暗殺も想起させられる。


2017年10月8日日曜日

【第763回】『ローマ人の物語10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(下)』(塩野七生、新潮社、2004年)

 前巻では、カエサルにおける、もしくはリーダーの持つ野心と虚栄とについて考えさせられた。ではカエサルにとっての野心とはどのようなものであったのか。野心とは何かを為すという意志であり、著者によれば、カエサルの野心は気宇壮大なもののようであった。

 ラインとドナウの両大河を視野に入れたカエサルによって、ヨーロッパの形成ははじまったのである。小林秀雄も書いている。「政治もやり作戦もやり一兵卒の役までやったこの戦争の達人にとって、戦争というものはある巨大な創作であった」。ユリウス・カエサルは、ヨーロッパを創作しようと考えたのである。そして、創作した。だが、キケロに代表される首都ローマの知識人たちは、これもカエサルの私利私欲の追求としか見なかった。先見性は必ずしも、知識や教養とはイコールにはならないのである。(37~38頁)

 「ヨーロッパ」を創り出そうとしたのがカエサルの意志であったと著者はここで主張している。もともと存在しないものに絵姿を与え、それによって他者をその夢に巻き込みながら人と組織を引っ張る存在がリーダーであろう。事細かに彼の考えを理解していた人々はあまりいなかったかもしれないが、彼の考えに基づくビジョン提示や戦術の指示に人々は動機付けられたのではないか。


 著者はカエサルを好んでいるからか「私利私欲の追求」とは見なかったのであろうが、私利私欲もあったのではないか。政治とは、100パーセント公的なもので行うものではないように思う。しかし、自分にとっての実利もありながら、公的なビジョンの方により本気で信じていたのであろう。だからこそ、周囲が彼の提示する物語に惹きつけられ、新しいローマの政治体制の構築を実現できたのではないだろうか。


2017年10月7日土曜日

【第762回】『ローマ人の物語9 ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)』(塩野七生、新潮社、2004年)

 カエサルが政治の表舞台での活躍を始め、三頭政治を展開している様が描かれている本作。古今東西の稀有なリーダーが、四十に至るまで鳴かず飛ばずであった遅咲きであることも面白く、また不惑を越えて活躍し始めるというのも論語を体現しているようで興味深い。

 野心とは、何かをやりとげたいと思う意志であり、虚栄とは、人々から良く思われたいという願望である。(19頁)

 大学生の時分に初めて本シリーズを読んで最も感銘を受けた箇所である。記憶もしていた。改めて考えると、印象深かったのは三つにまとめられるようだ。

 第一に、野心という言葉をネガティヴに捉えていたのであるが、それ自体は価値中立的な意味合いとして捉えて良いのであろう。もちろん、やりとげたい何かがポジティヴかネガティヴかによって評価は異なってくることにはなる。第二に、虚栄心というものもネガティヴに捉える必要はなく、ニュートラルに捉えれば良いという点も興味深かった。第三に、野心と虚栄とは相互に対立するものではなく、カエサルのように両者を高く持つことができ得るものであるという点である。但し、野心が少しでも虚栄よりも高くないと自分を律することが難しくなるのかもしれない。

 戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。生きるためにやるものだと思っている間は、組織の健全性も維持される。その最もはっきりした形が、一兵卒にもわかるようにはっきりした形が、食料の確保だった。カエサルは、その重要性を生涯忘れていない。(91頁)


 野心家であったカエサルは、理想を追い求めるだけではなく現実を見据えていた。だからこそ兵糧・兵站の重要性を忘れず、その確保を前提とした上で戦略遂行のためのアクションを計画・遂行していたのであろう。これは『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』でも述べられている先の大戦における日本軍の失敗要因の主要な一つを端的に指摘しているとも言えよう。私たちにとって耳が痛い部分であるとともに、社会にとって大事な点は古今東西でも変わらない本質があるのかもしれない。


2017年10月1日日曜日

【第761回】『ローマ人の物語8 ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)』(塩野七生、新潮社、2004年)

 本シリーズのハイライトのひとつであるユリウス・カエサルを題材にした最初の巻。彼が檜舞台に立つまでの背景が淡々と述べられている。後に三頭政治として活躍するポンペイウスやクラッススと比して、カエサルの地味なキャリアが鮮明になっている。

 私には、ギリシア人とローマ人のちがいの一つは、この点にもあるような気がする。ギリシア人は、アテネであろうとスパルタであろうと、階級闘争はどちらかが勝利するまでつづけられ、勝ったほうが敗者を従属させることでしか終わらなかった。スパルタ国内の階級は固定したままだったし、アテネでも、平民側が勝てば平民の独裁政体としてのデモクラツィアになり、貴族側の反撃が成功すれば、平民側は貴族の独裁に、黙って従うしかなかった。反対にローマ人の性向は、しばらくは争っても結局は、共存共栄の方向に向うのである。これが、ローマ人に帝国創立とその長期の維持を許した要因ではないか。ちなみに、対決主義で通したギリシア人中唯一の例外は、アレクサンダー大王であったと思う。(53頁)


 階級闘争におけるギリシアとローマの対比。ローマの寛容性がここでも述べられている。元老院の支配する体制を守ろうとする貴族側と、貴族による寡頭制を打破しようとして共和制を目指す平民側との対立構造がローマにおいても見られる。こうした対立構造によって、この後の時代においてカエサルとポンペイウスとの対立が見られるわけであるが、それでも階級闘争が行われても共存共栄に終わることがここで暗示されているのである。