2019年7月28日日曜日

【第972回】『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 菜根譚』(湯浅邦弘、KADOKAWA、2014年)


 著者が「100分de名著」で菜根譚を扱っていた回を見ていて同書に興味を持った。久しぶりに菜根譚に関連する本を読んでみたが面白かった。解説をしてくださる方に信頼感があると、安心して読み進められる。

 洪自誠の基本は、やはり儒家としての道徳心でした。確かに、『菜根譚』には、道家や仏教の思想が色濃く見られ、「無」や「空」の思想まであと一歩のところまできている条もあります。しかし、洪自誠は、ぎりぎりのところで踏みとどまり、道家や仏教とは一線を画しています。現に、仏教や道教を批判する条さえあります。(15頁)

 まず菜根譚は、論語、道教、仏教といった様々な先行する思想を含みながら発展させている書物である。その中でどこに軸を置いているかという論語であるとここで著者はしている。

 耳にはいつも聞きづらい忠言や諫言を聞き、心にはいつも受け入れがたいことがあって、それではじめて、道徳に進み、行動を正しくするための砥石となるのである。もし、言葉がすべて耳に心地よく、ことがらがすべて心に快適であれば、それは、この人生を自ら猛毒の中に埋没させてしまうようなものである。(前週五)(25頁)

 このようなまさに良薬口に苦しのような警句がいいなと思う。

 治世にあっては四角張って生き、乱世にあっては丸く生き、末の世にあっては、四角と丸の生き方を併用しなければならない。善人を待遇するには寛大に、悪人を待遇するには厳格に、普通の人を待遇するには寛大・厳格を併用するのがよい。(前集五〇)(69頁)

 こうした現実を見据えた一言も心地いい。だから菜根譚は現代でも活きる人生訓に満ちた良書と呼ばれ続けるのであろう。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第390回】『菜根譚』(今井字三郎訳注、岩波書店、1975年)

2019年7月27日土曜日

【第971回】『入門 老荘思想』(湯浅邦弘、筑摩書房、2014年)


 孔孟に対して老荘と対比的かつ同一的に捉えられることの多い老子と荘子。本書では、中国思想の碩学である著者が、「入門」と銘打って、老子と荘子の相違に加え、論語との関連性にも触れながら易しく解説してくれている。

 冒頭では、2009年1月に北京大学に寄贈されたほぼ完本の『老子』竹簡群をもとに、従来の『老子』とは異なる解釈がなされてきた背景が説明される。

 従来、『老子』の思想は、儒家に遅れて成立したものであり、「アンチ儒家」の思想だととらえられてきた。しかしそれは、後世のテキストに手が加えられて、そのように解釈されたためではなかったかという可能性すら出てきたのである。(71頁)

 老子は、論語を否定する存在と考えてしまうが、それは、後世の人々がそのような意図で編集したり新たに書を著したために、現代の私たちが理解しているだけなのかもしれない。もちろん、論語と老子との間の考え方の違いは大きいと思うが、違いにだけ焦点を当てる読み方は避けるべきなのだろう。

 『老子』は、無や無為とは言いながら、何もするなと言っているわけではない。無為であるからこそ、為さないことはない、という。少し言葉を補えば、無為にしているように見せかけることによって、実はすべてのことを成し遂げているという意味にもとれる。逆説的な、見方によっては、実に老獪な思想である。(94頁)

 無為自然は老子の一つの有名な考え方である。学問を否定し、知識を無意味だという。しかし、このような老獪な考え方というのも面白い。何も為さなくてもいいというのではなく、何も為していないかのようにみせる、という考え方は興味深い。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第915回】『老子の教え』(安冨歩、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)

2019年7月21日日曜日

【第970回】『ランニングする前に読む本』(田中宏暁、講談社、2017年)


 一年前の私、つまりフルマラソンに向けて準備を進めハーフマラソンを目指していた頃の自分に読ませたかった本である。マラソン初心者にとって、具体的な方法や留意点が述べられており、頭で理解した上で走りたいランナーにとって適した書籍である。

 いま読んでも唸らさせられる箇所が多い。自分にとっての気づき・学びとなったところを中心に、将来の自分への備忘録として述べていく。

 まず驚いたのが、マラソンのレース中に水を飲みすぎることで引き起こされる低ナトリウム血症である。具体的には「体重がスタート前よりも重くなればなるほど発症率が高くなる」(190頁)と指摘している。ではどのようにすれば適切な水分摂取量を測ることができるのか。

 レース1週間前に10~15kmほどの距離を水分摂取せずに走って、その前後で体重がどれだけ減少するか測定してみてください。その体重減は、ほぼ水分の喪失によるものですので、走るときの水分摂取量は、レースの距離に換算したその喪失量未満に抑えるようにします。それがレース中に必要な水分摂取量ですから、事前に確認しておきましょう。(192頁)

 次にグリコーゲンローディング(カーボローディング)について。炭水化物をレース前に食べ続けるだけではない。

 レース3日前に長い距離(20~30km)を走り込むことをおすすめします。いったん、筋肉中のグリコーゲンを枯渇させることが目的です。
 そのために、走る30分ぐらい前に糖分を摂取します。そうするとインスリンが分泌されて、運動中の脂肪のエネルギー供給が阻害されますから、より多く筋肉中のグリコーゲンが使われます。長い距離を走り込むといっても、20~30kmを継続して走り続ける必要はなく、細切れ運動で構いません。(196頁)

 しかし「前日に走ることでプラスになることはまずあり得ません」(198頁)としている点には注意したい。前日は休むに限るのである。

 グリコーゲンローディングの食事におけるポイントも見ておく。

 炭水化物食を3日間摂取すると、2日目までは筋肉のグリコーゲン量は急増しますが、3日目にはほとんど増えません。すなわちレース当日は、筋肉のグリコーゲンは満タンでそれ以上増やせない状態です。(201頁)

 つまりレース三日前からは炭水化物食にすることが勧められている。具体的には日本食で行うことが有効であるとして、お餅、ご飯、うどん、蕎麦、和菓子を推奨し、著者は食後に好んで大福を食べるとしている。

 レース当日の朝は、炭水化物をとっても増やせないので炭水化物は最低限、たとえばご飯一膳程度で良いようで、著者は、ハンバーガーとポテトといった塩分を取るようにしているらしい。その上でレース直前にはゼリー状のエネルギー補給用飲料を飲んでいる。

 以下の箇所は、黒部名水マラソンの時の自分に言い聞かせたい。

 ペースをうまく守ってはしれたとしても30km過ぎてからつらくなる場合は、脳の疲労が主な原因と考えられます。それは低血糖から起こるものですから、乗り越えるためには、糖分の補給をするとよいでしょう。積極的に糖分を補給して血糖値を維持することが、脳疲労を起こさない予防手段につながるからです。
 そうした理由からも、レース中の捕食は、血糖値を維持するために有効です。
 レース直前に糖分を摂取することをおすすめしましたが、それによって走り出して10kmほど血糖レベルを高く保つことができます。レース中の捕食はそれ以後に、1時間毎に消化吸収の速い捕食ゼリータイプのもの(糖40~50g)を摂取するとよいでしょう。(205~206頁)

 最後にレース後の休息期間について。

 休息も大事なトレーニングです。次の練習再開は少なくとも1週間休んで、走りたいとの気持ちが高まるまで待ちましょう。(210頁)

【第868回】『マラソンの強化書』(小出義雄、KADOKAWA、2015年)
【第165回】『走ることについて語るときに僕の語ること』 (村上春樹、文藝春秋社、2007年)

2019年7月20日土曜日

【第969回】『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(M・ピュエットら、熊谷淳子訳、早川書房、2018年)


 タイトルがキャッチーな書籍は、今ひとつな品質である時は目を当てられないほどであるが、本書は面白かった。原題は「The Path」であり、孔孟も老荘も重視している「道」をテーマとしていることがわかるだろう。著者が行ったハーバードでの講義を書籍化したものであり、読みやすいのもまたありがたい。

 自己を定義することにこだわりすぎると、ごくせまい意味に限定した自己ー自分で強み、弱み、得手、不得手だと思っていることーを基盤に未来を築いてしまうおそれがある。中国の思想家なら、これでは自分の可能性のほんの一部しか見ていないことになると言うだろう。わたしたちは、特定の時と場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、それが死ぬまで変わらないものと考えてしまう。人間性を画一的なものと見なしたとたん、自分の可能性をみずから限定することになる。(30~31頁)

 あるべき自己は不偏的なものではない。だから、真の自分を探しても構わないが、それはその時点におけるものにすぎず、私たちは自分自身が持つ多様な可能性に意識を当て、柔軟に自身を開発することが必要だ。

 しかし、変化し続けることには不安を伴う。一歩踏み出すことには勇気がいり、常に一歩踏み出せと言われても自信がない人は多いだろう。そうした時に変化の時代における生き方を様々なアプローチで問うて来た中国古典の著者たちの至言に耳を傾けてみたい。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第930回】『論語 増補版』(加地伸行、講談社、2009年)

2019年7月14日日曜日

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)


 老荘思想をここまで意訳的に解説してくれるとうれしい。「簡単な」本の功罪はあれども、やはり何かを入門的に学ぶためにはアクセスしやすい書籍というものはありがたいものである。本書では、老子と荘子の思想が余すことなく描かれている。

老人「老子は無為を説いておるが、『バカでいい』なんてことは言っておらん。殊更な作為をしないと言ったが、これはたとえできたとしても、あえて何もしないことを選ぶとも言える。それに、この後には『天下を取るは常に事無きを以てす』と続き、事を起こさないことを天下を取る条件にあげておる」(44~45頁)

 著者は、老子は老獪だとしてこの言葉を例にとって説明をしている。何もしないとはすなわち努力をしないということではなく、やりすぎを戒めているということなのかもしれない。世の中から離れるのではなく、むしろ世の中とかかわりながら、どのように自分自身を処するのかを説いていると考えると、老子の主張も現実的で面白い。

老人「そう、それだけ。心の持ちようをちょっと変えるだけじゃよ。ただ、もし自分からアクションを起こして状況を打開したければ、『論語』や『孫子』を読めばいい。ワシも読んでおるが、どちらも含蓄に溢れているし、非常に素晴らしい書物じゃ。だが、誰もがその通りにできるとは限らん。そんなときに『こんな考え方もあるんだ』と老荘の教えを知ることができれば、いい意味で肩の力が抜けると思うんじゃ」(169~170頁)

 老荘の世界観には憧れる。しかし、老荘が否定している(ように見える)孔子の世界観にも惹かれる身として、どのように対処すればいいか、迷ってきた。しかし、この箇所を読んで救われる思いがした。勝手に解釈すれば、自分で勝手に選べばいいのである。自分の引き出しとして、老荘も論語も持てば良いのであり、それが自由ということなのではないだろうか。

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)
【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)
【第749回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

2019年7月13日土曜日

【第967回】『老子・荘子』(守屋洋、東洋経済新報社、2007年)


 論語を好む者として、ともすると論語やその解説本にばかり目が向きがちになってしまう。老子は好きだが論語ほどではないし、荘子は正直に言ってまだよくわかっていない。否、老荘を「分かろう」とすること自体が間違ったアプローチなのかもしれない。

 いずれにしろ、老荘をもっと腑に落としたいと感じ、近々荘子を扱う読書会を設けることとしたため、いいテクストを探し求めている。碩学が簡潔にまとめている本書は、入門書としてさすがの感がある。

 人皆、有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり。(67頁(荘子 人間世篇))

 「有用の用」は、現時点において求められるものであるために誰もがわかりやすいものである。だからこそ、多くの人がそこで求められる能力を身につけようとするが、過当競争になるか、身につけた時には時を逸していているかになりがちだ。

 反対に荘子では「無用の用」を発見することの重要性が説かれる。一見して無用に思える内容は、単に暗黙的であるがために客観的に捉えられないだけなのかもしれない。視野を広げて、また時間軸を拡げて、無用の用を意識してみたい。

 人に順いて己を失わず。(197頁(荘子 外物篇))

 この節のタイトルである「柔らかさのなかに主体性がほしい」という著者の要約が素晴らしい。柔軟すぎて日和見主義的になるのではなく、柔軟でありながらも芯を持った対応ということを心がけたいものだ。

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)
【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)
【第749回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

2019年7月7日日曜日

【第966回】『社会学史』(大澤真幸、講談社、2019年)


 新書ではあるが、ざっと一読して中身を理解できるものではない。少なくとも私にとってはそうであった。しかし、難しいことは悪いことではない。わかりやすさを求める姿勢にこそ、問題があるものではないだろうか。

 社会学は、「近代社会の自己意識の一つの表現」なのです。近代社会というものの特徴は、比喩的な言い方をすれば、「自己意識をもつ社会」です。自分が何であるか、自分はどこへ向かっているのか、自分はどこから来たのか。それが正しい認識かどうかはわかりませんが、近代社会とはこういう自己意識をもつ社会です。(3-4頁)

 このように言われると、自己意識を持たない社会とは何か、ということが考えられる。おそらくは、本書でも示唆されるが、神という絶対的な存在との関係性の中で自分を位置づけていた社会ということであろう。つまり、近代とは、神から人間が自立した社会であり、その結果として自分という存在に対して意識を持つ社会である、ということなのであろう。

 ヴェーバーは学問をやることで鬱と戦っているわけです。だから、時代の病としての鬱に対して、それに拮抗する精神の営みとして社会学がある。(16頁)
 
 神から自立した社会では、自立できるかどうかが問題となる。自立するための病の一つとして、鬱病が取り上げられている。鬱との戦いを、社会学という手段によって対抗しようとしたのがマックス=ヴェーバーということのようだ。本書でも説明されているように、ヴェーバーは、鬱を発症してから後に社会学の嚆矢とも形容される様々な代表作を発表している。

 少し気取った言い方をすれば、現実の社会秩序に他性を対置する認識なしに、社会秩序はいかにして可能か、という問いはでてきません。言い換えれば、社会学を成立させているのは、通常のものの「不確実性」(ありそうもない)の感覚なのです。(22頁)

 近代以降の私を取り巻く不確実性。それは不自由なものではなく、近代以降の自由主義の生み出した、可能性としての存在なのかもしれない。


2019年7月6日土曜日

【第965回】『残業学』(中原淳+パーソル総合研究所、光文社、2018年)


 2016年に当時の安倍内閣が打ち出した働き方改革。その目的や方針は、多くの日本の大企業で受け入れられているものの、導入に際した各論では賛否の議論が喧しい。企業の中では、経営や人事が導入を大々的に喧伝しながらも、現場ではやらされ感がいっぱいということも多いようだ。

 働き方改革の主要な施策の一つが残業への対応策であることは容易に想像がつくだろう。残業時間を抑制しようとすると、「それでは仕事が終わらない」「ハードワークによって人は成長する。現場の人財育成を否定するのか」などという反論が起こる。それぞれの反論には傾聴の余地があるものの、本当にそのようなケースなのかという峻別が必要だろう。

 本書では、月間の超過勤務時間が60時間以上の層を「残業麻痺」と定義づけている。著者らの調査によれば、「残業麻痺」層は、そもそも仕事上の高い負荷を自覚していないタイプだけではなく、高負荷を自覚しながらも幸せを感じているタイプが含まれているようだ。初期キャリアの最初の少なくとも二年間は、この後者のタイプに該当していた私自身、そこで成長感や達成感のようなものを感じていたことは実感がある。

 仕事を通じて幸せを感じ、自ら超長時間残業を受け容れる「残業麻痺」層に対して、どのように対応すれば良いのか。リスクを伝えるとともに、仕事を通じた幸福感の背景を伝える必要があるだろう。

 仕事を通じて「フロー」や「幸福感」を持つことができるのは、それ自体悪いことではありません。しかし、この「フロー」に近しい幸福感が、超・長時間労働において感じられているのであれば、話は別です。心身の健康を犠牲にしても仕事の手を止めず、依存症的に「いつまでも働き続ける」ことになりかねません。私には超・長時間労働とは一種の依存症に近いもののように思えます。(121頁)

 著者らは、こうした「残業麻痺」層が生じる組織には特徴があると明らかにしている。「組織の一体感」と「終身雇用への期待」という組織の要因と、「個人の有能感」「出世見込み」というキャリアの要因とが、職場における長時間労働における幸福感へ影響を与えているようだ。これらをまとめると、以下の引用箇所となる。

 「定年」という明確なゴールに向かって、一体感を持ってがむしゃらに目標に向かって行くような凝集性の高い組織において、「出世見込み」を感じながら自信を持って働いている人が、「幸福感」を抱きながら超・長時間労働をしている。(123頁)

 「残業麻痺」層が、いわば依存症のように残業を行い幸福感を得ようとすることには、心身上のリスクがあるだけではない。個人の成長にも問題があるのである。

 残念ながら、人は「経験」を積み重ねるだけでは成長できません。「経験」したことについてのフィードバックを受け、振り返りを行って、次の行動に活かしていくことが「未来」に向けた学びとなります。このことを踏まえると、長時間の残業は、むしろ仕事経験を通した成長を阻害していると言えます。(130頁)

 人は経験から学ぶのではなく、経験を振り返ることで学ぶと喝破したのはデューイである。超・長時間労働が奪うものは、経験のあとで振り返る機会である。

 かつての日本企業では、超・長時間労働を伴う仕事の中に、ストレッチのある職務でPDCAを回す要素がふんだんにあったので超過勤務によって成長できたのではないか。翻って、成長機会の乏しい経済環境と組織環境である現代の日本企業ではそのような質の意味でストレッチできる手応え感のある業務は少ないのではないか。

 そうした業務を超・長時間行っても、達成感があるだけで成長は乏しく、それに気づくのは後になってから、しかも心身の不調を感じるようになってから、では悲劇である。残業に健全に対応することは、組織で働く全ての人々にとって真摯な課題である。

【第929回】『女性の視点で見直す人材育成』(中原淳/トーマツイノベーション、ダイヤモンド社、2018年)
【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)
【第862回】『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』(中原淳・島村公俊・鈴木英智佳・関根雅泰、ダイヤモンド社、2018年)
【第727回】『人材開発研究大全』<第1部 組織参入前の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)