2013年6月9日日曜日

【第165回】『走ることについて語るときに僕の語ること』 (村上春樹、文藝春秋社、2007年)

 感化され易いタイプなので、本書を読んでジョギングをしたいと思い始めた。走ることは人生と深い部分で通じる部分があるようだ。

ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。(17~18頁)

 アウトプットを短距離的に行うと、その後に全くアウトプットできない時期が訪れることがたしかにある。それがスランプの一因なのかもしれない。著者の言うようにアウトプットすることをマラソンとしてとらえれば、こうした態度を取ることも可能だろう。しかし、調子がいいときにアウトプットをやめることには多大な勇気が必要であることは明らかであり、著者のすごみはそこにある。

僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。(180頁)

 走ることによってアウトプットをする。アウトプットをすることによって思索を深める。とかく、書くべきものが先にあって、それをアウトプットするという順番に思われがちだが、そうではない。手を動かすことによって、自分が何を考え、何をアウトプットしたいのかが形作られていく。

本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。(252頁)

 単なる骨折りや徒労に終わる可能性が高いとしてもアウトプットをし続けること。そうした失敗の積み重ねの先に、自分自身にとって大事なものを得たり、大事な気付きを得たりすることができる。著者のこうした言葉には勇気を与えられる。失敗は成功を保証しない。しかし、失敗を恐れないチャレンジがなければ、何かを掴み取ることはできない。

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。(39頁)

 走ることは自己管理にも活用できるのである。走ることでストレス発散、という安易な発想しか持ち合わせていなかったのがはずかしいくらい、自身の人格を練磨する作用まで走ることによって見出している。先ほどの引用箇所と同様に、長い距離を走り続けることは、謙虚な姿勢を培うためにも有効なのかもしれない。

終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。かなり哲学的だ。(171頁)


 いや、本当に哲学的だ。目標を設定して目標達成のために一喜一憂する。たしかにそうした姿勢に効用がある部分もある。しかし、マリッジブルーや成功の復讐ということがあるように目標達成じたいが私たちに危機をもたらすこともまた、事実である。ゴールを自身で設定しつつ、そこに囚われないこと。


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