2011年2月27日日曜日

【第14回】『多読術』(松岡正剛、筑摩書房、2009年)

最近、人生の大先輩から異口同音に著者の名前を聞き、また「千夜千冊」で読書家として有名な著者の読書方法に興味があったため、本書を読んだ。畏れ多い書き方になるが、著者の読書方法と私の読書方法とで共通する部分があり、安心したことがある。

それは、本を読みながらマーキングをする、という点である。

著者によれば、本にマーキングをすることは、読みに徹することができ、再読のスピードが上がる、という二点のメリットがあるという。同感である。

私の場合は、文章に線を引くだけではなく、読んだ日付を本に記すことにしている。そうすることで、いつ、どのような状況で、その本に接したかを分かるようにしているのである。著者も指摘しているように、読書はコンディションや環境に影響を受けるものである。また、ある時期に読んで意味不明であったものが数年後に読んだら印象が一変する、ということもある。そうしたことで過去の自分との差分を見るためにも、日付を入れることが有効であると考えているのである。

やや余談になるが、本にマーキングをする人物として養老孟司さんの名前が本書で出ている。養老さんは2Bの鉛筆でマーキングをするのだそうだが、2Bの鉛筆がないと読書に集中できないらしい。この気持ちはよく分かる。私の場合は、赤・青・緑の三色ボールペンでマーキングをするため、それがないと読書に集中できない。ために、私が持ち歩く全ての鞄には三色ボールペンが一本ずつ常備されている。(尚、私がなぜここまで三色ボールペンにこだわるかは、参考文献にある齋藤孝さんの本に拠るところが大きい)

読書とはなにか。この大きな問いに対して様々な観点から論じられているのが本書であるが、著者の結論は、読書とは編集することである、という点にある。つまり、インプットした情報を記憶構造で静的に管理するのではなく、インプットした情報と既存の情報とを編集構造として動的に維持するということである。したがって、脳内の情報はネットワークとして組み替えを起こし続ける可変的なものであると言えるだろう。

こうした議論を踏まえ、読書はファッションと同じである、という秀逸な著者のアナロジーが挙げられる。私たちは、ジャケット、シャツ、パンツ、靴下、靴とをそれぞれ単独で選ぶわけではない。それぞれの組み合わせでその日の服装を決めるものである。読書もそれと同じであり、一冊一冊ずつを単独で読むのではなく、本を自由自在に組み合わせて自分の頭の中でコーディネートすると深みが増すわけである。

編集構造としての読書を考えれば、本の情報は送り手から受け手にメッセージを一方的に伝達されるものではないと言えるだろう。つまり、受け手の受け取り方が肝要であり、そうした意味では送り手と受け手との相互交渉によって読書は為されるものである。換言すれば、読書とは単に受動的な行為なのではなく、主体的な行為でもある、とも言えるであろう。

こうした双方向コミュニケーションの一つのありようとして、ダイアローグがビジネスの現場で注目を集めている。これも送り手と受け手との相互交渉を重視した一つの運動であると言える。たとえば、中原淳さんと長岡健さんとの共著によれば、従来型の送り手から受け手に一方的に情報を送り届ける方法は導管メタファーと呼ばれている。そうしたコミュニケーションが成り立つには、世の中には唯一の正しい解答が存在して、それを他者に伝えるということが前提とされているが、現実のビジネス現場がそうした状況にないことは自明であろう。中原さんと長岡さんはそうした問題意識の上でダイアローグの可能性について展開しているのであるが、それを読書に置き換えれば編集構造がキーワードとなってくるのではなかろうか。

編集やネットワークとしての読書を考えるためには、どういった組み合わせを自分の脳内で展開するか、ということが次の課題となる。著者によれば、そのための一つのヒントとして非自己的な本、つまりそれまでの自分が興味を持っていなかった領域の本を読むことを勧めている。むろん、興味を持っていなかった領域の本を読むのであるから、それを好きになる確率は低いのであるが、失敗することを気にしなくて良いそうだ。たとえ失敗するとしても、異分野へのチャレンジは必要である、ということである。

たとえ失敗したとしても、その過程で得られるものは大きい。様々な分野の本を読むことで、多様な読書方法を試行錯誤で身につけることができるのである。一例を挙げれば、速読と精読のどちらが優れているか、というのは問いが誤っている。本の領域によって、またその読書の目的によって、選ぶべき読書方法は異なり、したがって速読も精読もできる状態にしておくことが大事なのである。

ここまで読書を称揚すると、読書三昧の生活が望ましいようにも捉えられるが、著者は読書三昧という状況を明確に否定している。複数の人間とのやり取りを伴う仕事を続けながら、時間をやりくりして読書をするべきである、と言うのである。おそらくここには先述したネットワークの問題が関連しているのであろう。つまり、読書三昧の生活はいわば閉じたネットワークになりやすい。ネットワークを開いた状態にし続けるためには、他のことをしている時間や、他者との対話をたのしむ、ということが重要なのではないだろうか。

最後に、著者は書店に行くことも勧めている。書籍をネットで検索したり注文することはもちろん有効であるが、他方で、書店で背表紙を見て、目次を読んで、購入するということも必要なのである。書店を訪れて気になったものに目を通してみると、ときに意外な発見もあるものだ。

私の好きな書店の一つに、東京駅の丸善がある。本書を読んで、その中にある松丸本舗に行きたくなった。松丸本舗とは、著者がプロデュースする書店である。

<参考文献>
齋藤孝『三色ボールペンで読む日本語』角川書店、2002
中原淳・長岡健『ダイアローグ 対話する組織』ダイヤモンド社、2009





2011年2月20日日曜日

【第13回】GANTZ(奥浩哉、集英社、2000年~)

未完のものについて書くのはいかがかなとも思うのですが、「試論」ということで書いてみようと思います。尚、本エントリーでは映画版やアニメ版を対象とせず、コミック版のみを対象とすることを予めお断りしておきます。

同僚に借りたGANTZを一気読みしたぐらいですから、明らかに本作品にはまったのは事実です。しかし、その魅力を記そうとすると、はたと困るのです。何に魅了されたのかについてうまく説明できません。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とも言われますが、なぜ「語りえぬ」のかについて探索することには意義があるのではないか、と考え、試論を記してみます。

そのためにはまず設問を変える必要があるでしょう。なぜGANTZに魅了されたのかと直接的に理由を探るのではなく、間接的なアプローチを採ることとします。すなわち、これまで私が魅了された作品とGANTZとは何が異なるのか、という設問が有効ではないでしょうか。

ここでは、ドラゴンボール、北斗の拳、はじめの一歩、あしたのジョー、新世紀エヴァンゲリオン、MAJOR、アカギ(もしくはカイジ)、すごいよマサルさん、という八つの作品との違いについて記します。蛇足ですが、こうして列挙してみると私の世代観がもろに出るなぁと思うと同時に、明らかに欠落している領域があるなぁという二つの思いが出てきます。

ドラゴンボールで最も印象に残っているのは、ナメック星でクリリンがフリーザに殺された後に悟空が超サイヤ人になる件(くだり)です。何度読み直しても感動をおぼえてしまいます。引いた書き方になってしまいますが、同じ釜の飯を食べ、幾多の闘いの場を共にした戦友が殺されて潜在力が引き出される、ということであり、共感をおぼえやすい設定だと思います。

かたやGANTZではこうした展開は見当たりません。加藤が死んだ時は星人と刺し違えたというタイミングもあって、計ちゃんが怒り狂うというリアクションはありません。むしろ、闘いの後に計ちゃんは悲嘆してしまい、直後のチビ星人篇でタイムオーバーをおかす有様で、クリリンの死をきっかけに悟空が限界を超えたのとは対照的です。

もっと書けば、GANTZには理不尽な死が多いように感じます。あんなに点数を稼いでいた西君があっけなく星人に殺されたり、和泉が死んだのもあまりに唐突です。また、途中から良い味を出していたおっさんが極めて短いミッションの中でやられてしまったのも理不尽に思えます。このように、いきなり死が訪れるというのがGANTZの特徴のように思え、こうした特徴は決して私の趣味ではなく、この点は魅力に感じるポイントではないようです。

続いて比較したいのは北斗の拳です。私にとっては、ラオウとケンシロウとの死闘がハイライトです。あのシーンではラオウは敵であるわけですが、単純にケンシロウに共感をおぼえるのではなく、ラオウにも敗れてほしくない、という複雑な感情を持ちながら読み進めた記憶があります。北斗の拳では、他の敵の中でも必ずしも完全なる悪役ではないケースが多く、善と悪という単純な二項対立を感じさせない部分が私にとっては興味深かったのかもしれません。

他方のGANTZでは、星人の存在は独特ではありますが、決して善であるかのような気配はありません。また主人公の側であっても、たとえば和泉は善とは言えず、悪と言えるでしょう。GANTZの世界に戻りたい一心で、現実世界で大量殺人を犯すわけですから。私が好きなキャラである西君も善的ではなく、どちらかと言えば悪ですし。したがって北斗の拳とGANTZとは大きく異なりそうです。

続いて、はじめの一歩です。私にとってのベストバウトは宮田君と真柴の東日本新人王の準決勝です。なんとしても勝ちたい真柴に故意に足を踏まれてパンチを受けた宮田君は致命的なダメージを負ってしまうわけですが、一歩との再戦を目指して死に物狂いで戦うシーンは圧巻です。いつもは冷静沈着な宮田君の変貌ぶりに驚くとともに、深く感動した質感を今でも覚えています。

このように、宮田君と一歩という固定的な関係性がはじめの一歩に通底するストーリーであると思うのですが、同じことはあしたのジョーにもあるように考えます。

もちろん、ジョーの好敵手としてはホセ・メンドーサやカーロス・リベラ、古くはウルフ金串がいます。しかし、結局は力石との関係性が第一でしょう。金竜飛との東洋太平洋王者戦で、苦戦の中で力石の生き様を思い出してジョーはいわば覚醒して勝つわけですが、その際にジョーが言う力石との「奇妙な友情」があしたのジョーのテーマだと思うわけです。

このように、はじめの一歩がわりと分かり易い友情であるのに対してあしたのジョーは奇妙な友情である、という違いはありますが、友情を一つの軸にしている共通項はあります。しかし、GANTZのストーリーの軸が友情にあるとは思えません。友情関係に最も近いのは計ちゃんと加藤でしょうが、一歩と宮田君、ジョーと力石、といった関係性とは濃さが違うように感じます。彼らとの関係性と比較すると、どこか淡々としたものを感じるのです。したがって、友情という軸でGANTZを括るのも私にとっては少し難しいようです。

新世紀エヴァンゲリオンについて。この作品における使徒とGANTZにおける星人とは、その存在感の不可思議さが似ているとも言えます。しかし、使徒が唯一無二の目的のために人類を襲撃してきたのに対して、星人の存在意義は今ひとつ分かりません。

また、エヴァではシンジ君の自我意識の獲得が一つのテーマになっていると思うのですが、GANTZでは自我意識の獲得がテーマとは思えないのです。たしかに計ちゃんの自我の変容はテーマの一つではあると思うのですが、自我意識をメインにしてストーリーを括るのには無理があるでしょう。

次に、MAJORとの比較を試みます。MAJORで魅せられるのは吾郎の目的意識の高さであり、それに向けた成長欲求の高さおよび克己心の強さです。海堂という野球の名門高校で一軍に勝利した後に、あえて弱小高校に入り直して甲子園を目指す、という発想には痺れました。また、その海堂との県大会の準々決勝で眉村を抑えた直後に力尽きてボークで試合を終えたシーンは感動的です。こうした劇的な試合の裏には、他のどんな同世代よりも徹底して練習をする日常があるという、イチローやダルビッシュの発言を想起させるような徹底的な克己心があります。

これに対して、GANTZにおいては成長や克己心というものはほとんど描かれません。一時期、GANTZメンバーの多くが計ちゃんの家に集まって鍛錬するというシーンがありますが、あまりに一瞬の出来事です。

今度はアカギについて検討します。鷲津麻雀をはじめとして異様な状況の中での闘牌が続くわけですが、そうした場を最終的に支配するのはアカギの圧倒的な理性です。したがって、一見して異世界に見えて、最終的には不条理に理性が打ち勝つというストーリーであり、これは不条理な見方の死が多いGANTZとは大いに違うでしょう。

最後に、すごいよマサルさんとの比較を行ないますが、GANTZと最も親和性を感じるのが本作品です。平和な学園生活を送る高校生たちの織り成すいわゆるギャグ漫画である本作品とGANTZに共通するのは何か。それはストーリー展開の読めなさです。

人の生死を扱うGANTZと学園での何気ない生活を扱うマサルさんとではテーマが全く違います。しかし、マサルのボケの読めなさや、メソをはじめとしたキャラの意味不明な行動、副タイトルにもなっている「セクシーコマンドー」の全国大会の予期できない終わり方が、GANTZのストーリーの読めなさに共通しているのではないかと思うのです。あっけなく人が死に、訳のわからない大変な状況に計ちゃんたちが巻き込まれていく、というところに同じ匂いを感じるのです。

こうして半ば強引に共通性を見出したわけですが、これはあくまでストーリーの展開のしかたというHOWに関するものに過ぎません。何に魅了されているのか、というWHATに関してはまだ分かりませんし、それはGANTZが完結するまで分からないのかもしれません。この辺りで「語りえぬもの」について語ることはおしまいにし、引き続き、おとなしくGANTZの展開の読めなさをたのしむこととします。

2011年2月11日金曜日

【第12回】『肉食の思想』(鯖田豊之著、中央公論新社、1966年)

著者の問題意識は、日本人はなぜ肉食ではないのかという点であり、それはヨーロッパ人がなぜ肉食になったのかという問いと関連している。

たしかに、日本でも多くの牛肉や豚肉が消費されているが、著者によればそれは「肉食」ではないという。たとえば、ヨーロッパでは家畜が身近であり市場には解体された動物をよく目にする。それに対して、日本の市場ではそうした光景を目にすることはあまりない。私自身、小学生時代に教科書で豚の屠殺の描写を読んだ際に違和を感じたものだった。動物や自然に対する感謝の気持ちを涵養するための題材であったのであろうが、率直に記せば「気持ちが悪い」ものだったように記憶している。こうした違いが、肉食の社会であるか否かの違いであると著者は主張している。

著者によればその背景にはヨーロッパと日本における農業観の違いがあるという。日本の水田耕作をヨーロッパにおける麦作と対比するのは正しくなく、麦作と家畜飼育とを併せたものと比較することが正しい。耕作面積の大きな違いがその理由である。つまり、耕作面積が日本と比べて大きいヨーロッパでは家畜に頼らざるを得ないのである。したがって、ヨーロッパにおける家畜の存在は人間と身近である。

では、こうした環境要因がどのように思想に影響を与えるのであろうか。

身近な存在である家畜を食用に殺さなければならないという心理的ストレスを解消するために、人間と動物との間が明確に区分けする宗教が生み出された。その証左の一つとして旧約聖書が挙げられるだろう。日本の神話では神々が動物と対等に話し合う場面が少なからず存在するのに対して、旧約聖書ではそうした場面はほとんどない。その数少ない例外は、エデンの園で蛇がイヴを誘惑する場面である。これが人間の堕落に繋がるというストーリー展開を考えれば、動物がポジティヴに描かれていないことは自明だろう。

このような人間と動物とを明確に分ける断絶の論理は人間社会の中の断絶にも影響を与える。端的に記せば階層意識である。

その証拠として著者が提示しているのは支配階級の総人口に対する比率の比較である。1819世紀における、日本の支配階級(武士)が総人口のうちで56%であるのに対して、フランスの支配階級(僧侶および貴族)の比率は0.50.6%である。この理由として、日本の支配階級のうちには「武士はくわねど高楊枝」と言われるような富裕でない層が入っていることが考えられる。つまり、日本では同じ階級の中でも断絶の度合いが厳しくなく、緩やかに括られているのである。それに対して、ヨーロッパでは階級が厳密に峻別されており、上位の階級と下位の階級との差は大きい。

階層意識は社会意識に影響を与える。その一つの例は近代化に至る過程における彼我の違いに見出せるだろう。

まず日本における近代化は明治維新という武士階級という単一の階級の中における争いによるものであった。つまり、武士以外の階級は近代化に対して主体的な行動を起こしていない。

他方、ヨーロッパにおける近代化は、「市民」革命という名称からも明らかなように、階級間の闘争の結果として実現されたものである。いうなれば、既存の身分制を打破して、階層意識の近代化をはかる結果としてのものであったのである。それが、国家意識や国民意識へと影響を与えていると言えるだろう。

最後に少しだけ私見を述べたい。

本書が上梓されたのは「国民総中流」時代であり、それから約半世紀が経った現代の社会背景は当時と大きく異なる。特に大きな違いはナショナリズムではないだろうか。

もちろん、ナショナリズムへの盛り上がりは当時もあったのであるが、それは主として学者やマスコミをはじめとしたインテリゲンチャが主流であった。それに対して、現代では、三浦展さんの『下流社会』によれば「下流」である人ほどナショナリズムへの共感度合いが高いという。これはいったい何を意味しているのであろうか。

下流層のナショナリズムの高揚という社会意識の背景には階層意識の相違の進展があるのではないだろうか。つまりは、下流と中流、上流との差異が大きくなっているのではないか、という仮説である。

さらに、本書が書かれた時代においては日本という国家自体が高度成長という高揚感に溢れていた。しかし、現代ではそうした社会の高揚感もない。その結果として、将来に対して希望をより持ちづらい層においてナショナリズムの高揚現象が生じている、と言えるのではないだろうか。

<参考文献>
三浦展『下流社会』光文社、2005
小熊英二『<民主><愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社、2002





2011年2月6日日曜日

【第11回】“TRANSITIONS”(William Bridges, Da Capo Press, 2004)


Of course, I have learned about human transition which is researched by William Bridges, who is the author of this book, because I majored in Organizational Behavior especially about human career in master course. But to tell the truth, this was the first time to read this “English” book..
  
           At first, the author writes about transition itself. He says that transition is different from “change”. In his definition, change is situational thing, and transition is psychological one. Without a transition, a change is just a rearrangement of the surroundings. So, change is based on outer things.

On the other hand, transition is based on inner matter, especially about personal development. The author says that this views transition as the neutral process of disorientation and reorientation making the turning points in the path of growth.

It is interesting for me that one person’s transition influences the transition of his or her family. When one member of the family feels transition, he or she tends to consider another member’s change transition.

Transition is composed of three phases, that is to say, endings, the neutral zone, and the new beginning.

When we feel transition, we tend to focus on our future. But the author says that it is dangerous for us to neglect the endings of previous situation. For example, marriage is so big transition that we prefer to think about our future life which is positive side, but it is also important to think about the negative side. It is the end of our free life, and it makes us feel some stress. If we neglect this negative effect, we don’t understand the reason why we feel it, and it may cause some kind of mental illness in the worst scenario.

In the neutral zone, we sometimes feel irritating. The neutral zone should be an unfamiliar one and free of the ordinary influences from our daily situations, as was the initiate’s journey of old ones.

Last phase is the new beginning. According to the author, it is difficult for us to know the signs of the new beginning, because the most important of them begins as a faint intimation of something different.