2011年2月20日日曜日

【第13回】GANTZ(奥浩哉、集英社、2000年~)

未完のものについて書くのはいかがかなとも思うのですが、「試論」ということで書いてみようと思います。尚、本エントリーでは映画版やアニメ版を対象とせず、コミック版のみを対象とすることを予めお断りしておきます。

同僚に借りたGANTZを一気読みしたぐらいですから、明らかに本作品にはまったのは事実です。しかし、その魅力を記そうとすると、はたと困るのです。何に魅了されたのかについてうまく説明できません。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とも言われますが、なぜ「語りえぬ」のかについて探索することには意義があるのではないか、と考え、試論を記してみます。

そのためにはまず設問を変える必要があるでしょう。なぜGANTZに魅了されたのかと直接的に理由を探るのではなく、間接的なアプローチを採ることとします。すなわち、これまで私が魅了された作品とGANTZとは何が異なるのか、という設問が有効ではないでしょうか。

ここでは、ドラゴンボール、北斗の拳、はじめの一歩、あしたのジョー、新世紀エヴァンゲリオン、MAJOR、アカギ(もしくはカイジ)、すごいよマサルさん、という八つの作品との違いについて記します。蛇足ですが、こうして列挙してみると私の世代観がもろに出るなぁと思うと同時に、明らかに欠落している領域があるなぁという二つの思いが出てきます。

ドラゴンボールで最も印象に残っているのは、ナメック星でクリリンがフリーザに殺された後に悟空が超サイヤ人になる件(くだり)です。何度読み直しても感動をおぼえてしまいます。引いた書き方になってしまいますが、同じ釜の飯を食べ、幾多の闘いの場を共にした戦友が殺されて潜在力が引き出される、ということであり、共感をおぼえやすい設定だと思います。

かたやGANTZではこうした展開は見当たりません。加藤が死んだ時は星人と刺し違えたというタイミングもあって、計ちゃんが怒り狂うというリアクションはありません。むしろ、闘いの後に計ちゃんは悲嘆してしまい、直後のチビ星人篇でタイムオーバーをおかす有様で、クリリンの死をきっかけに悟空が限界を超えたのとは対照的です。

もっと書けば、GANTZには理不尽な死が多いように感じます。あんなに点数を稼いでいた西君があっけなく星人に殺されたり、和泉が死んだのもあまりに唐突です。また、途中から良い味を出していたおっさんが極めて短いミッションの中でやられてしまったのも理不尽に思えます。このように、いきなり死が訪れるというのがGANTZの特徴のように思え、こうした特徴は決して私の趣味ではなく、この点は魅力に感じるポイントではないようです。

続いて比較したいのは北斗の拳です。私にとっては、ラオウとケンシロウとの死闘がハイライトです。あのシーンではラオウは敵であるわけですが、単純にケンシロウに共感をおぼえるのではなく、ラオウにも敗れてほしくない、という複雑な感情を持ちながら読み進めた記憶があります。北斗の拳では、他の敵の中でも必ずしも完全なる悪役ではないケースが多く、善と悪という単純な二項対立を感じさせない部分が私にとっては興味深かったのかもしれません。

他方のGANTZでは、星人の存在は独特ではありますが、決して善であるかのような気配はありません。また主人公の側であっても、たとえば和泉は善とは言えず、悪と言えるでしょう。GANTZの世界に戻りたい一心で、現実世界で大量殺人を犯すわけですから。私が好きなキャラである西君も善的ではなく、どちらかと言えば悪ですし。したがって北斗の拳とGANTZとは大きく異なりそうです。

続いて、はじめの一歩です。私にとってのベストバウトは宮田君と真柴の東日本新人王の準決勝です。なんとしても勝ちたい真柴に故意に足を踏まれてパンチを受けた宮田君は致命的なダメージを負ってしまうわけですが、一歩との再戦を目指して死に物狂いで戦うシーンは圧巻です。いつもは冷静沈着な宮田君の変貌ぶりに驚くとともに、深く感動した質感を今でも覚えています。

このように、宮田君と一歩という固定的な関係性がはじめの一歩に通底するストーリーであると思うのですが、同じことはあしたのジョーにもあるように考えます。

もちろん、ジョーの好敵手としてはホセ・メンドーサやカーロス・リベラ、古くはウルフ金串がいます。しかし、結局は力石との関係性が第一でしょう。金竜飛との東洋太平洋王者戦で、苦戦の中で力石の生き様を思い出してジョーはいわば覚醒して勝つわけですが、その際にジョーが言う力石との「奇妙な友情」があしたのジョーのテーマだと思うわけです。

このように、はじめの一歩がわりと分かり易い友情であるのに対してあしたのジョーは奇妙な友情である、という違いはありますが、友情を一つの軸にしている共通項はあります。しかし、GANTZのストーリーの軸が友情にあるとは思えません。友情関係に最も近いのは計ちゃんと加藤でしょうが、一歩と宮田君、ジョーと力石、といった関係性とは濃さが違うように感じます。彼らとの関係性と比較すると、どこか淡々としたものを感じるのです。したがって、友情という軸でGANTZを括るのも私にとっては少し難しいようです。

新世紀エヴァンゲリオンについて。この作品における使徒とGANTZにおける星人とは、その存在感の不可思議さが似ているとも言えます。しかし、使徒が唯一無二の目的のために人類を襲撃してきたのに対して、星人の存在意義は今ひとつ分かりません。

また、エヴァではシンジ君の自我意識の獲得が一つのテーマになっていると思うのですが、GANTZでは自我意識の獲得がテーマとは思えないのです。たしかに計ちゃんの自我の変容はテーマの一つではあると思うのですが、自我意識をメインにしてストーリーを括るのには無理があるでしょう。

次に、MAJORとの比較を試みます。MAJORで魅せられるのは吾郎の目的意識の高さであり、それに向けた成長欲求の高さおよび克己心の強さです。海堂という野球の名門高校で一軍に勝利した後に、あえて弱小高校に入り直して甲子園を目指す、という発想には痺れました。また、その海堂との県大会の準々決勝で眉村を抑えた直後に力尽きてボークで試合を終えたシーンは感動的です。こうした劇的な試合の裏には、他のどんな同世代よりも徹底して練習をする日常があるという、イチローやダルビッシュの発言を想起させるような徹底的な克己心があります。

これに対して、GANTZにおいては成長や克己心というものはほとんど描かれません。一時期、GANTZメンバーの多くが計ちゃんの家に集まって鍛錬するというシーンがありますが、あまりに一瞬の出来事です。

今度はアカギについて検討します。鷲津麻雀をはじめとして異様な状況の中での闘牌が続くわけですが、そうした場を最終的に支配するのはアカギの圧倒的な理性です。したがって、一見して異世界に見えて、最終的には不条理に理性が打ち勝つというストーリーであり、これは不条理な見方の死が多いGANTZとは大いに違うでしょう。

最後に、すごいよマサルさんとの比較を行ないますが、GANTZと最も親和性を感じるのが本作品です。平和な学園生活を送る高校生たちの織り成すいわゆるギャグ漫画である本作品とGANTZに共通するのは何か。それはストーリー展開の読めなさです。

人の生死を扱うGANTZと学園での何気ない生活を扱うマサルさんとではテーマが全く違います。しかし、マサルのボケの読めなさや、メソをはじめとしたキャラの意味不明な行動、副タイトルにもなっている「セクシーコマンドー」の全国大会の予期できない終わり方が、GANTZのストーリーの読めなさに共通しているのではないかと思うのです。あっけなく人が死に、訳のわからない大変な状況に計ちゃんたちが巻き込まれていく、というところに同じ匂いを感じるのです。

こうして半ば強引に共通性を見出したわけですが、これはあくまでストーリーの展開のしかたというHOWに関するものに過ぎません。何に魅了されているのか、というWHATに関してはまだ分かりませんし、それはGANTZが完結するまで分からないのかもしれません。この辺りで「語りえぬもの」について語ることはおしまいにし、引き続き、おとなしくGANTZの展開の読めなさをたのしむこととします。

2 件のコメント:

  1. 塩川さんもマンガにはまったりするのがわかり、興味を持ちました。で、何に惹かれているか、うまく説明できないと・・・。
    あんだけ論文書かれる人なのに、不思議なものだと思いました。

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  2. 杉本さん、コメントをありがとうございます!
    なぜ説明できないのか、私自身がとても不思議ですw
    感情を文章表現するのって難しいなぁと思いました。。

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