2017年6月25日日曜日

【第721回】『草枕(2回目)』(夏目漱石、青空文庫、1906年)

 漱石の作品の中で、最初に印象深く思ったのは本作であった。風景における美や、内面が外化されることの美といった、漱石が描き出す美に魅了されたからだろうと思う。

 私たちが自然の風景を美しいと思う心情は、本質的に備わっている作用ではない。風景という概念は、風景画が誕生した一五世紀頃から発明されたものにすぎない。日本においても、一九世紀初頭から葛飾北斎や歌川広重が描き出すまでは、風景は存在しなかったのである。風景に美を見出し、それを現出した画家たちの努力に因って、私たちは自然の中に風景という美を認識することができるようになったのである。

 絵画によって描き出す風景を、文章によって描き出すことの難しさは、また異なるものなのだろう。本書は、それを体現しているからこそ、私たち読者を惹きつけるのではないか。たとえば、雨中を歩く主人公を描く以下の箇所は、情景を思い描くことが容易にできるだろう。

 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。(Kindle No. 217)

 後者について、すなわち内面が外化された場面を挙げるとしたら、やはり以下のラストシーンになるだろうか。

 茶色のはげた中折帽の下から、髭だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
 「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(Kindle No. 2731)


 本作は、漱石の他の作品と比べると分量の割には登場する人物が多く、プロットを味わうのに難儀することもある。しかし、ヒロイン的存在である那美と離縁した夫との関係を端的に描くこの箇所に内面描写の凄味が凝縮されているようだ。


2017年6月24日土曜日

【第720回】Number929「桜の挑戦。」(文藝春秋、2017年)

 前回のワールドカップでセンセーショナルな活躍を見せたラグビー日本代表。その記憶がまだ新しいために、2019年に日本で開かれる次回大会は遠い未来に開かれるものであるかのように錯覚してしまっていた。あと二年という期間は、長いようでいて、短いのかもしれない。

 ワールドカップ後に、日本代表ヘッドコーチがエディー・ジョーンズからジェイミー・ジョセフへと交替したことは記憶していた。しかし、現ヘッドコーチがどのようなタイプのコーチであり、その結果として日本代表チームがどのような状況なのかは、よくわかっていなかった。前回のワールドカップでの躍進で、日本ラグビーへの国内での注目はたしかに上がったが、サッカーや野球の日本代表と比較するとまだ報道は少ないのであろう。

 今回の特集号において、主要な代表選手に関する記事を読むことで初めて理解することが多いとともに、やはりヘッドコーチの言葉が興味深かった。

 素早さ、スキルフルであること。全般には、NZで用いる言葉なら、コーチャブルであるところ。コーチをしやすいのです。協力的で忍耐強い。これはラグビーに限らず、広く日本の文化なのだと思います。コーチの立場としては、そこに加えて、もっと選手の側から率先して動き考えることを求めたい。みずからをプロデュース、みずからをオーガナイズできれば、さらにチームは強くなります。(22頁)

 上に引用したジェイミー・ジョセフの日本代表チームに対する所感は、日本の組織全般に通用する指摘であるように思えてしまう。良い点として挙げられている「コーチャブル」という言葉に特に面白味を感じた。協力的であったり忍耐的というのはよく言われることであるが、教えられるマインドセットが教えを引き出す言動をとることができるというのである。人材育成が行われやすいマインドセットを持っていることが、日本人の優れた特徴の一つなのではないだろうか。


 反対に、ラグビーの日本代表であるプロフェッショナルを見ている彼からしても、「もっと選手の側から率先して動き考えることを求めたい」という言葉が投げかけられている点に留意したい。速い判断、自分で考えて素早く行動することに長けている人物でもそうした特徴を持っているのであれば、普通の<日本人>も同じような特徴をよりネガティヴなレベルで持っていると考えて、マネジメントに活かすべきではないだろうか。


2017年6月18日日曜日

【第719回】『坊っちゃん(2回目)』(夏目漱石、青空文庫、1906年)

 改めて漱石を一通り読み直している。彼の遺作である『明暗』を最初に読み直してから『吾輩は猫である』『坊っちゃん』と続けてみた。私が表面的にしか読解していないからかもしれないが、遺作とデビュー直後の二作品とのコントラストが鮮明で、本当に同じ著者の手になるものなのだろうかと訝しんでしまう。

 漱石は、イギリスから帰国して文学を探究する過程で思索に苦しむ状況が続き、その発散のために他者からの勧めで小説を書き始めたというエピソードを目にしたことがある。そこから類推すれば、初期の作品群ではユーモアが溢れ、精神的な葛藤や悩みを描かないように意図的に取り組んでいたのであろう。本格的に小説に取り組んでいく中で、自身の精神や苦しみとも向き合ってそれを描き出すようになり、後期三部作から『明暗』へと続く作風へと変化した、ということであろうか。

 本作は、初期の代表作の一つであり、明るさとユーモアに富んでいる。後期に漱石が描き出す内面描写も読み応えがあるが、彼のユーモアにも思わず微笑んでしまい、作品自体にも惹きつけられてしまう。その中でユーモアとは異なる箇所に、目を留めて考えさせられる部分があることに気づく。

 清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。(Kindle No. 999)

 何かをもらったら、何かを返したくなる。無料でもらうことによって債務を持っているような感覚を持ち、それを解消したくなるという性質を多くの人間は持っている。これは、社会心理学でいうところの返報性であり、セールスやマネジメントの領域だけではなく、新興宗教の勧誘でもよく使われるテクニックの基盤となる考え方である。


 しかし、と漱石はここで私たちに投げかける。そうした債務性を感じずに黙って受け取ってただただ感謝してお返しをしないことが、その人物に対する尊敬なのではないか、と。もらったら返すという贈与のシステムは社会の発展において大事な機能を持っていることを否定するつもりはない。しかし、ここで漱石が投げかけている通り、時に他者への感謝を示すためには、もらったことを感謝するだけにとどめてお返しをしない、ということも大事なのではないか。


2017年6月17日土曜日

【第718回】『覇王の家(下)』(司馬遼太郎、新潮社、2002年)

 著者は、本書で家康という人物の考え方を形成した歴史や環境に焦点を当てたかったのだろう。だからこそ、家康の人生の総仕上げである天下取りのシーンを描くことをしていない。関ヶ原や大坂の陣は他の書籍に記しているから本書では一切書かない、という著者の態度は潔い。

 この男は、どうやら自分を抽象化するという奇妙な訓練を自分に課していたか、それとも徳川家康という名をもった虚空の抽象的存在が、この男の欲望と感情を管理しぬいてゆくという、そういうぐあいに自分の仕組みをつくりあげたか、どちらかであろう。本来、どれほどの想像力ももたず、むろん天才でもなかったこの人物が、この乱世のなかで多くの天才たちと戦ってゆくには、こういう自分をつくりだすほか手がなかったのかもしれなかった。(9~10頁)

 ユング心理学の碩学である故河合隼雄氏に『中空構造日本の深層』という名著がある。中心に権力を置く西欧に対して、中心が空であり周辺に権力を持たせるのが日本社会の特徴であるとしている。ここでいうところの家康の思想、もっと言えば家康が作り上げだ江戸幕府という考え方もその系譜にあるようだ。何より、前任の天下人であった秀吉が朝廷との距離を近づけた流れに逆らい、征夷大将軍という朝廷の周縁にある役割に自らを位置付け、物理的にも京都から遠い場所に幕府を開いたのがその証左であろう。加えて、そうした状況を当たり前のように認め、京都の朝廷ではなく江戸の幕府を権力主体として捉えた全国の大名たちの考え方が<日本人>的思考なのであろう。

 三河衆はなるほど諸国には類のないほどに統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外来の風を警戒し、そういう外からのにおいをもつ者に対しては矮小な想像力をはたらかせて裏切者ーーというよりは魔物ーーといったふうな農民社会そのものの印象をもった。(285頁)


 鎖国という政治判断を下し、公的には他国とのやり取りを著しく制限した江戸幕府の思想の大元がここに的確に指摘されている。驚くべきことは、江戸末期の排外主義の流れが<日本>のほとんどの地域で見られたことであり、三河という限られた地域での思想が<日本>全体の考え方に大きな影響を与えたことである。このように考えれば、こうした思想形体は時代を超えて、かつ江戸幕府の政治体制から変わって百数十年しか経っていない現代においても、色濃く残っていると考えるのが合理的であろう。


2017年6月11日日曜日

【第717回】『覇王の家(上)』(司馬遼太郎、新潮社、2002年)

 「真田丸」に続いて「おんな城主 直虎」を興味深く観ている。両者で共通に出てきていい味を出しているのが、徳川家康である。私が小学生の時に最初に書いた読書感想文では家康を扱った書籍であった。少なからず興味は持っていたが、信長や秀吉と比べると控えめで、慎重すぎるために印象に残りづらい人物ではある。しかし、天下を統一し、三世紀にわたる治世を行う礎を築いた傑物であることには間違いがない。彼を改めて知りたくなり、著者の小説でカジュアルに理解しようと本書を紐解いた。

 後年、豊臣家をほろぼすというその決断をするその瞬間までは、長いものに対するこの種の巻かれかたの態度が巧みで、そのことは巧みという技巧的なにおいはいっさいなく、天性の律儀さから発露しているようにも他人にはみられ、しかもひとだけでなく自分でも自然に自分の律儀さを信じ、さらにひるがえっていえばかれの律儀は決して律儀ではなく自分の鋭鋒をかくすための処世的なものであったことをおもえば、これほどふしぎな人物もまず類がない。この堅牢複雑にできあがった二重性格は、その幼少期の逆境と、少年期、敵国の織田家や今川家ですごした人質としての生活環境の苛烈さが自然につくりあげたものであろう。(41頁)

 人質として多くの時間を過ごした家康には、忍従という形容詞が付きまとうことが多いように思う。そこで培われたものは忍従や忍耐といったものだけではなく、他者に対して心の底から律儀に接することとともに、他方でそれを第三者的に俯瞰して意識できることとを両立することだと著者は述べている。「堅牢複雑にできあがった二重性格」という表現は家康を的確に表しているように思える。

 家康は、信長や秀吉のような天才ではなく、自分の体験を懸命に教訓化し、その無数の教訓によって自分の臓腑を一つずつつくりあげたような男だけに、戦勝よりも戦敗のほうが教訓性が深刻で、いわばためになった。(109頁)

 三方ヶ原での大敗に関する箇所であるが、読んでいて、勇気が湧いてくるから不思議である。普通の人間でも、普通に得られる経験を基にして、自分自身を高めていくことができる。もちろん、その程度は私たち凡人とは異なるのであろう。しかし、向かっている方向性に親近感が湧くと、程度の違いは関係がなく、人間味に触れたような気がして元気になるようだ。

 かれは、みずから中央と断絶した。この男が、この時期から死に物狂いでやったことは、ごく地方的な範囲内での領土の拡大であった。自分の勢力基盤をできるだけ強大にし、中央にいかなる勢力が勃興しようとも、それとの対決に堪えるだけの体質と体力を徳川家はつくっておかねばならない、と考えた。家康は、羽柴秀吉のように、一世にむかって華麗な大魔術を演出してやろうというような天分はまったくなく、その思考法はつねにきわめて素朴で、素朴であることに自分を限定しきってしまう冷厳さをもっていた。人間の思考は、本来幻想的なものである。人間は現実の中に生きながら、思考だけは幻想の霧の上につくりあげたがる生物であるとすれば、現実的思考だけで思考をつくりあげることに努めているこの家康という男は、そうであるがゆえに一種の超人なのかもしれなかった。(317~318頁)


 本能寺の変の後において、天下取りを無視して自分の基盤を地道に増やそうとした家康の行動の背景に関して述べられている。現実主義というものもここまで徹底されるとある種の理想主義になるのではないかとも思えてくる。現実を徹底的に突き詰めて、その中でのベストを実現していけば思いがけないレベルにまで達することになるのかもしれない。


2017年6月10日土曜日

【第716回】『誰にでも碁は打てる』(李仁煥、 洪敏和訳、東京創元社、2012年)

 9路盤を卒業し、13路盤になってから伸び悩みを感じている今日この頃。成長を実感できないと、対局に向かうことにもつながり、遠ざかり始めていた。せっかく始めたものだから続けたいがと思っていたところ、図書館で出会ったのが本書である。

 まず、気楽に読めるのがいい。伸び悩んでいる時は、始めるまでに腰が重くなってしまう。そうした状況で、本格的な書籍は少し重すぎる。本書のような入門書がちょうど良い。


 加えて、あまりに簡単すぎると途中で飽きてしまうが、にわかに分からない部分もあるので、少し考えさせられる。こういった書籍はありがたい。改めて、13路盤に臨もうと、思った。


2017年6月4日日曜日

【第715回】『吾輩は猫である(2回目)』(夏目漱石、青空文庫、1905年)

 読み進めていて、ずっと読める感じがする。「吾輩」が酩酊して溺死することがなければ、ずっと物語が続くのではないかと思わさせられる。決して短い作品ではないが、小気味良いテンポで、小さな話題が散りばめられているために、読んでいて飽きがない。

 元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。(Kindle No. 161)


 こうした風刺が小気味いい。人間というように一般化せずに、自分に置き換えてみることで、自らを省みることができる。


2017年6月3日土曜日

【第714回】『明暗(2回目)』(夏目漱石、青空文庫、1917年)

 最初に読んだ際は、興味をそそられながらもよく分からず、掴み所がないという印象であった。今回、改めて読み直して、漱石が主人公夫妻の両者の側から交互に描写するということの面白さを感じられた。主語が入れ替わることで、主観と客観、多様な人間関係の織りなす物語の深みが、明瞭に現れている。漱石がどのような結末を想定していたのか、とても気になる。

 津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。(Kindle No. 7285)

 情景が変わる際に、「〇〇に出た」という表現は漱石に特徴的なものなのだろうか。以前、『行人』でも同じような表現に出会い、いたく印象に残っており、本作で目にしてもやはり良い表現であると感じた。それまでのシーンでの心情を人物が保持しながら、次のシーンへと移行する感じが想像できるだろう。

 彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。(Kindle No. 7849)

 小説を読む醍醐味を、稀代の小説家が書いているように私には思えるのだが、いかがだろうか。自分とは程遠い人物だと思って客観的に読んでいると、ふとある場面で共感できる行動や発言をしている箇所に遭遇し、意外な感をおぼえる。そこでの意外性とは、他者とのつながりへの気づきであると共に、未知なる自分への気づきでもあるのではないか。こうした他者性や未知なる自分との邂逅が、小説を読むことの醍醐味の一つであると私には思える。

 先刻まで疎らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて、見渡す限の空間を一度に充たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄まじく感ぜられた。(Kindle No. 8000)


 この情景の描写も美しいなと思う。俗っぽい解説になってしまうが、外の天候やその変化の激しさを端的に示すことで、その後の主人公への変化や暗雲の可能性を示唆していると言えるだろう。それをあからさまに書くのではなく、簡潔かつ美しく描写している箇所を読むのは、心地よい。