2017年2月26日日曜日

【第683回】『フェイスブック 若き天才の野望』(デビッド・カークパトリック、滑川海彦・高橋信夫訳、日経BP社、2011年)

 Facebookを日常的にたのしみ、同社のNo.2であるサンドバーグの『LEAN IN』を読んで感銘を受けたのに、ザッカーバーグに関する書籍を読んでいないのは盲点だった。ジョブズやベゾスの伝記を読んだ時に感じたのと同じような躍動感をおぼえながら読み進めた。自分自身がなろうとは思わないし、なれるとも到底思えないが、スタートアップの経営者というものは面白い。

 MacBook AirでBloggerをつけてTwitterやFacebookで発信し、AmazonのiPhoneアプリで買い物を済ませて、FacebookやLinkedInで「ともだち」と情報共有する。このような生活が日常になった現代において、アメリカのITベンチャーや企業を論じた書籍に多くの人が興味を持つのは当たり前なのかもしれない。情報「技術」を論じられるだけではなく、情報「社会」という私たちの近い将来のありようを想像できるのだから。

「われわれの会社はガスや水道と同様の公益事業です」
と彼は慎重に言葉を選びながらこの上なく真剣な口調で言った。
「われわれは人々が世界を理解する方法をより効果的なものにしようと試みています。われわれの目的はサイトの滞留時間を最大にすることではない。われわれのサイトを訪問している時間を最大限に有意義なものにしようと努力しているんです」(1頁)

 2006年の夏、つまりFacebookが前途有望なITベンチャー程度の存在であった時代に、ザッカーバーグが著者に語った言葉だそうだ。Facebookが人々の生活のインフラになるというミッションに向けて、彼はビジネスを進めていたのである。では、学部生の時からFacebookの事業を始めた彼が、理念に向けてどのように事業を継続して組織をマネジメントするところにまで至ったのか。

 彼はこうして大勢の企業トップに会うことを自分の学習の一部だと考えており、スタッフにいちいち意図を説明する必要を認めていなかった。(236頁)

 謙虚に先達から学んだのである。トップとして、ビジネスをどのように考えるか、社会に対する貢献をどのように定義するか。こうしたことを学ぶためには、近しい経験を積んでいたり、同じような立ち位置にいる人物に聴くことが有効であろうが、「学習」と割り切ってできるものではなかなかないだろう。他方で、こうした学習行動が、大手IT企業や投資家に自社を身売りしようとしているのではないかと社員から疑念の目を向けられることになってしまったという。それに対するザッカーバーグのバックアップ行動が素晴らしい。

 その後数週間の間に、リードはザッカーバーグがはっきりと変わったのに気づいた。ザッカーバーグは、事実、効果的な企業リーダーとなる術を教えるコーチに付いて、レッスンを受け始めた。さらに幹部たちと一対一で話し合う時間をつくるようになった。リードにどやしつけられた翌週、ザッカーバーグはフェイスブックで初めての全社員ミーティングを招集した。(240頁)

 急速に事業が成長して多忙な中でかつ高揚している状況の中で、周囲の人物からの箴言を聞き入れた点がまずすごい。そして、箴言の理を理解してからすぐに愚直に行動している点も驚くべきだ。リーダーには、こうした素直さが大事なのかもしれないと改めて感じた。

 「こんなことを言うと心配するかもしれないが」と彼は言った。
「ぼくは、仕事を通じて学んでいるんだ」(288頁)

 生涯学習というきれいな言葉しか思いつかないが、彼の謙虚さや素直さは、仕事を通じて学ぶという姿勢が根本にあるようだ。学習と仕事とを結びつけること。これが、ゆたかに働くとともに、信念を持ってゆたかに生きるということなのかもしれない。

 聞いて聞いて聞きまくって、ある段階まで来ると、これで行くしかないと自分で結論をだす(454頁)


 初期のFacebookの盟友であり現在でもザッカーバーグと親交を持ち続けるショーン・パーカーが彼を評した言葉である。とにかく聴くが最後に自分で決断を下すというところが、沈思黙考タイプのリーダーのあるべき姿の一つのように思える。


2017年2月25日土曜日

【第682回】『やり抜く力』(アンジェラ・ダックワース、神崎朗子訳、ダイヤモンド社、2016年)

 心理学を学んでいた身として、早く読まねばと思っていたベストセラー。例示が多く実感しながら読みやすい一方で、エリクソンの「意図的な練習」とチクセントミハイの「フロー体験」との関係性を論じるなど玄人にも読み応えをおぼえさせるのは流石である。

 人間のどんなにとてつもない偉業も、実際は小さなことをたくさん積み重ねた結果であり、その一つひとつは、ある意味、「当たり前のこと」ばかりだということ。(60頁)

 アスリートが例示としてよく登場することからわかるように、イチローをはじめとした日本人のプロフェッショナルの言葉や書籍を愛読する方には納得感が高いだろう。上記に引用した箇所などはイチローの言葉ではないかと思ってしまう。あらためて重要な点を、心理学という枠組みによって整理してくれる、そんな一冊である。

 みごとに結果を出した人たちの特徴は、「情熱」と「粘り強さ」をあわせ持っていることだった。つまり、「グリット」(やり抜く力)が強かったのだ。(23頁)

 さくっと読み進めることはできる。しかし、やや大部とも言える本書で著者が主張するGRITの要諦は、情熱と粘り強さという二つにまとめられる。つまり、先天的な要素が成果を出すために必要なのではなく、後天的に、私たちが意識しながら耕すことができる二つの要素が重要なのである。

 「才能」とは、努力によってスキルが上達する速さのこと。いっぽう「達成」は、習得したスキルを活用することによって表れる成果のことだ。(70頁)

 上記を図示するかたちで、「才能×努力=スキル。スキル×努力=達成。」と本書では模式化させている。ポイントは、努力は才能との結びつきで最初の一歩として重要であるとともに、それを継続して成長していって達成まで至る段階においても求められるということである。努力こそが重要だと捉えれば面白味がないともいえるが、自分次第でどうとでもできると可能性をも感じさせる。

 では、どのように努力を継続することができるのか。そのためのヒントがいくつか具体的に記載されている。

 自分と同じ興味を持っている仲間を探そう。力強く励ましてくれるメンターと近づきになろう。年齢に関係なく、「学習者」としてのあなたはますます積極的になり、知識も増えていく。ひとつのことに長年打ち込んでいると、経験による知識や専門知識が増えるとともに、自信も増し、ますます好奇心旺盛になっていく。
 最後に、好きなことを何年か続けているのに、本腰を入れて打ち込む覚悟ができていない場合は、「興味をさらに深めることができるかどうか」を見きわめよう。(162頁)

 まずはロールモデルや、同じようなものに価値を感じる他者とのコミュニティ形成や越境学習を想起させる指摘である。一人で黙々と取り組んだり学んだりすることも重要であろうが、それを多角的な視点から気づきを得て継続させるためには、信頼できる他者との協同が重要だ。とりわけ後段に書かれている箇所については、心理学者のウィリアム・ジェイムズの以下の言葉を引用しており、論語の一節を読むかのような思いがする。

 「新しきものに古きものを見出したとき、人は注意を引かれる――あるいは古きものに、さりげない新しさを見出したときに」(163頁)

 深めていって気づきを得るためにはどうするか、という問いに対する二つのアプローチである。一つは、新しい事象や対象の中に以前から重要であるとされたものを見出してその関連性を見出した時に成長を継続させるためのヒントが得られる。反対に、もう一つは、以前から行ってきているものや昔からあるものに対して新しい価値を見出した時である。含蓄のある考え方である。

 次に、冒頭で述べたチクセントミハイとエリクソンという二人の心理学の大家の理論に関する関係性が、簡潔にまとまっていて興味深い。

 「やり抜く力」の強い人は、ふつうの人よりも「意図的な練習」を多く行い、フロー体験も多い。
 このことは、ふたつの理由によって矛盾しない。第一に、「意図的な練習」は行為であり、フロー体験である。エリクソンが語っているのは、エキスパートたちが「どのように行動するか」であり、チクセントミハイが語っているのは、エキスパートたちが「どう感じるか」だ。第二に、「意図的な練習」を行いながら同時にフロー体験する必要はない。というより、ほとんどの場合、同時に経験することはない。(186頁)

 こうした関係性を踏まえて、具体的に何を私たちは取り組めるのかについても、著者は指摘してくれているからありがたい。

 具体的に説明すると、「意図的な練習」を行うために、自分にとってもっとも快適な時間と場所を見つけることだ。いったん決めたら、毎日、同じ時間に同じ場所で「意図的な練習」を行う。なぜなら大変なことをするには、「ルーティーン」にまさる手段はないからだ。(197頁)

 ここまで来るとデシの理論まで関連付けてもらえればありがたいのであるが、それ以降は読者である私たちが自身で行うべきものだろう。

【第500回】『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(エドワード・L・デシ+リチャード・フロスト、桜井茂男監訳、新曜社、1999年)

2017年2月19日日曜日

【第681回】『ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人、NHK出版、2011年)

 舌鋒鋭く小気味良いテンポで進む明快な論旨。『国家とはなにか』を引き継ぎながら、なぜ著者が国家について着目しているのかがわかってくる。保守主義vsリベラルという安易な構図でナショナリズムへの賛成・反対を論じようとする言説構造を否定する。では、ネーションステイトやナショナリズムを私たちはどのように捉えれば良いのか。

 グローバルな視点では「格差の縮小」になっていることが、国内的な視点では「格差の拡大」としてあらわれるのである。私たちが「格差問題」だと考えているのは、じつはグローバル化した労働市場の観点からすればけっして「問題」ではなく、ただ国内的にのみそれは「問題」とするにすぎないのだ。(22頁)

 国内のリベラルは、格差拡大とナショナリズム意識の高揚を結びつけ、それらをナショナリズムを否定することで解消しようとする。しかし、リベラルが主張する格差拡大の主語は日本という国民国家を単位としたものであり、グローバルでは格差が縮小しているという著者の指摘は納得的だ。したがって、ナショナリズムを否定すれば日本における格差拡大を解消できるわけではない。

 私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり、国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。私がナショナリズムを支持するのは、あくまでも国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。(29~30頁)

 そうであるからこそ、著者は限定的にナショナリズムを肯定している。その限定性は、国民の生活を守る主体としての国家であり、制約原理としてのナショナリズムであることを理解する必要がある。

 格差の問題についていえば、労働市場がグローバル化し、国内の格差が拡がれば拡がるほど、社会のなかでは逆に「日本人」というアイデンティティが強調され、それを拠り所にするような傾向が強まってくるということである。(32頁)

 その上で、国民の生活を保障するという国家の役割に鑑みて、国内における格差の是正が必要不可欠であると主張する。その理由はシンプルであり、格差を放っておくことによって、格差によって被害を蒙っているという意識を持つ層が排除の論理としてのナショナリズムを標榜するからであろう。本書は2011年に出版されたものであるが、アメリカの現在の政治動向を考えれば、この指摘が杞憂ではなかったことは残念ながら間違いがないだろう。

 国民国家がファシズムへと向かわないようにするためには、国外市場の拡大を重視することで国内経済の脆弱化を放置ないしは加速させてしまう経済政策を進めないようにすることが必要となる。つまり、国内経済を保全するというナショナルな経済政策が、国民国家をファシズムに向かわせないためには不可欠なのだ。(210頁)


 国内の格差が是正されず貧困層を中心とした人々によるナショナリズムの高揚は、排外主義と共に国外への市場拡大路線を目指すファシズムへとつながりかねない。それを防ぐためには、国家の関与を否定するのではなく、国内経済を再建し、雇用を創出することが肝要である。


2017年2月18日土曜日

【第680回】『アルバイト・パート[採用・育成]入門』(中原淳+パーソルグループ、ダイヤモンド社、2016年)

 本書では、「店長」という言葉が統一的に使われるようにファストフード・レストラン・コンビニといった業界におけるパート社員の採用・育成がメインの焦点であろう。しかし、非正規社員の採用・育成という観点に敷衍して、拡大解釈もあるだろうが応用・展開することも可能ではないか。私自身は顧客接点の多いパートタイマーの採用育成に携わったことはないが、思わず膝を打ちたくなったり、目からうろこが落ちるような想いがする素晴らしい学びの書籍であった。

 今回の調査によれば、直近3年以内にアルバイトを辞めた人のうち、なんと50%以上は入社から半年までのあいだに離職しています(中略)
 どんなにコストをかけて「入口対策」をしても、ごく短期間のうちに辞められてしまっては、まったく意味がありません。じつはこの早期離職を防ぐことこそが、最も重要な対策になってくると私は考えています。(31頁)

 労働人口の不足による人材の奪い合いがメディアでも喧伝されることが多い。このような状況では「入口」、つまりは採用の困難さに焦点が当てられがちだ。しかし、ここで示されている調査によれば、アルバイトを辞めた人のうちの実に半分以上が半年以内に離職しているという。したがって、パートタイマーとしての就労が始まったあとに、どのように職場としてフォローするかということが肝要となる。予期せずに「出口」に向かってしまう人々を減らすことが、「入口」で困難な課題解決に取り組む機会を減らすことに繋がるのである。

 こうした採用から育成に至るまでのプロセスを示し、それぞれのタイミングにおけるフォローを丹念に記しているのが本書の特徴である。四つの段階に合わせて、パートタイマーの定着率が高い職場と低い職場との特徴について、以下の四つのステージに応じて35頁で網羅的に記されている。

ステージ
定着率の高い職場
定着率の低い職場
採用ステージ ・友人紹介での採用がうまくいっている
・面接ではフレンドリーに。たわいない話で和ませる
・「学校卒業」などの理由以外ではほぼ辞めない
・10年選手が4割
・入る前に予期したほど仕事が大変ではない
・採用は主に求人媒体。なかなか集まらない
・1ヶ月で辞める人が4割
・入ったあとで仕事の多さに唖然とする
新人ステージ ・スタッフの意見をよく聞き、積極的に採用
・いい仕事を褒める(ただし、本人が成長を実感していないところはむやみに褒めない)
・少しでもルールに反したこと、遠慮のないことをしたときは厳しく叱る
・「叱るのは店長、フォローはスタッフ」という役割分担がある
・社員や店長が仕事を押しつけてくる
・シフトを無理強いする
・社員や店長がアルバイトによって取る態度が違う
・店長や先輩のもの言いがきつい
中堅・ベテラン
ステージ
・店長の「右腕」となるベテランアルバイトがいる
・主役はアルバイト。教育係なども基本的にはアルバイトに任せている(店長は数年で交代するため、別の店長になっても職場が回るように)
・ベテラン主婦たちが徒党を組んでいる
・先輩アルバイトが新人に高圧的に接している
その他
(職場の状況や受けた印象)
・気持ちのよい挨拶
・和気あいあいとした雰囲気
・売上がよい
・忙しすぎて従業員の顔が疲れ切っている
・社員や店長が数字に追われてカリカリしている 

 以下からは四つのステージごとにポイントとなりそうな部分を拾い読みしていこう。

(1)採用ステージ

 人づて採用のほうがより定着率が高くなることも指摘されており、近年は、SNSなどを用いた求人などが注目されています。アカデミックな成果としても、「人づて採用」はかなり確度の高い採用手法だということがわかってきているのです。(60頁)
 採用活動では、どのような媒体を用いてどのような体裁でどのような訴求を行うのか、ということがまず議論されてきた。しかし、最近では社員紹介制度が盛んになってきている。こうした社員紹介が採用時点において有効であるだけではなく、その後の定着率にまで良い影響を与えているということは納得的であるし、もっと重視して良いポイントであろう。さらに言えば、他の箇所で本書でも触れられているが、好ましい行動を継続的に取る社員に喜んで紹介してもらうかを検討することが重要であろう。

(2)新人ステージ

 もう1つ注目したいのは、スキルアップ研修やeラーニングよりも、業務マニュアルについて「役に立った」と評価している人が多かったことです。
 仕事のやり方や手順を自分のペースで自習・復習できるような、優れたマニュアルがあると、スタッフたちも自ら学ぼうという姿勢を持ち、好循環が生まれます。(119頁)

 恥ずかしながら、人材育成に携わる身として、導入時の研修や定期的な研修がどこまで効果があるのか、悲観的に見ていた。しかし、本書における調査によれば、教育に対するパートタイマーからのニーズは非常に高く、好意的な評価がなされている。それに加えて、業務マニュアルに対するニーズの高さも顕著である。私たちは、何を学んでもらうかという内容の検討に加えて、職場で働くパートタイマーも含めて社員の方々が学び合える環境をいかに作るかという「場」のデザインに留意するべきなのであろう。

(3)中堅ステージ

  1. カネへの不満――じつは「時給のアップ」ではなく、承認してくれている・気に掛けてくれているという「評価実感」が求められている 
  2. ヒトへの不満――じつは「仲良しグループ」ではなく、職場をよくしようという「チーム実感」が求められている
  3. 成長への不満――じつは「楽な仕事」ではなく、自分の能力やスキルが伸びているという「成長実感」が求められている(146頁)

 ここでの三つの発見事実はどれも示唆的である。お金ではなく評価、仲良く働きたいではなく協働しながら職場を良くしたいという意欲、割り切って楽に働くのではなく成長を求める。これらの三つは、パートタイマーと正社員とで大差はないだろう。したがって、徒らに両者を分けて考えるのではなく、同じ部分は同じものとして公平性・公正性を担保した運用を行いたいものである。

 各論で面白いと思ったのは以下の箇所である。非正規社員のベテラン層が派閥を作ったり、仲間外れを利用するのは、地域特性や職場風土によるものではなく、普遍的に見られうる現象なのである。

 ベテランスタッフは自分のポジションを守るために、新人に圧力をかけたり派閥をつくったりする傾向があります。「みんなに頼られたいがために、あえて新人を潰して『人が足りない状況』を維持しようとするベテランがいた」というゾッとする話も耳にしました。(136~137頁)

(4)ベテランステージ

 長期的な展望が見える働き方ができている人ほど、ベテランになったときにも職場に貢献しようという気持ちを持つということです。裏を返せば、何もビジョンを与えないまま、目の前の仕事ばかりをこなさせていると、その人材は将来的に「ガン化」する可能性が高まるとも言えるでしょう。(161頁)


 中堅ステージにおける三つ目のポイントである「成長実感」の延長線上にあるポイントではある。しかし、職場での実質的なリーダーであり、正社員登用の候補ともなり得る層に目の前の同じ業務をアサインし続けると人に仕事がついてしまう。その結果として、自分の役割を限定的に捉え、それを周囲に伝えることを怠り、自分の仕事を固守しようとして頑なな態度になってしまいかねない。

 パートタイマーに焦点を当てながら、職場での学習を機能させるために、採用・育成とを一気通貫したフォローのあり方を考えさせられる示唆に富んだ一冊である。

【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)
【第638回】『会社の中はジレンマだらけ』(本間浩輔・中原淳、光文社、2016年)
【第359回】『駆け出しマネジャーの成長論』(中原淳、中央公論新社、2014年)
【第269回】『研修開発入門』(中原淳、ダイヤモンド社、2014年)
【第113回】『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)

2017年2月13日月曜日

【第679回】『東大教養囲碁講座』(石倉昇ら、光文社、2007年)

 東大では囲碁を教養科目として教えているという。素晴らしい取り組みであり、羨ましい。このタイトルはずるいなとも思うが、初心者が囲碁を学ぶ上で読みやすく、かつ何度も読み直したい一冊である。


 九路盤で実践を積みながら、時に読み返すということを繰り返している。少しずつではあるが上達していると信じている。ただ成長感はあまり得られずとも、幅広に盤面を眺めて、速く意思決定をするというゲームの面白さは実感しているから良しとしよう。

【第675回】『一人で強くなる囲碁入門』(石倉昇、日本文芸社、2002年)

2017年2月12日日曜日

【第678回】『チームの力』(西條剛央、筑摩書房、2015年)

 著者の質的研究に関する書籍は、修士時代の私にとってバイブルだった。その著者が、3・11後の復興に向けたボランティア活動に取り組んでいることを知った時は意外な気がした。糸井重里さんの「ほぼ日」でその活動の概要は知っていたが、内容を詳らかに語る本書は、興味深かった。

 多くの場合、一度利権を得た組織は、それを維持すること自体が目的となってしまう。
 しかし、「なくなることが目的」という理念をチームに浸透させることにより、目的と状況を勘案して必要なくなったと判断したプロジェクトはすみやかに解体し、理念に沿った意思決定をすることが可能になったのだ。(50頁)

 ボランティア組織であっても、組織ができあがると、そこに生まれる利権を守ろうというインセンティヴが働くという。そうした利権を守ることが目的化することで、当初の目的から離れるリスクがある。こうしたダイナミクスは、営利組織と変わらないものなのであろう。そうであるからこそ、ボランティア組織でこそできる「なくなることが目的」という理念は目から鱗である。

 リーダーは、パフォーマンスに直結する「能力」は考慮しても、「関心」は見落としやすい。しかし、まったく関心のない仕事は、当人の心を徐々に、あるいは急速に消耗、疲弊させる。(153頁)
 ”適材適所の本質”とは、さしあたり「関心と能力を踏まえながら、それに適合する仕事や役職を与えること」と言える。(155頁)

 心して読みたい箇所である。人を導くという意味でのリーダーという存在は、能力を周囲に期待してしまう。能力がなければ、仕事を安心して任せることができないからである。しかし、継続的に意欲を持って働いてもらうためには、その人の関心にあったものであることが必要であると著者は述べる。したがって、適材適所を実現するためには、人の関心と能力とを踏まえるべきという指摘に傾聴するべきだろう。

 「一番やりたい仕事」だけにとらわれると現実的にはマネジメントできなくなるため、「人間は多様な関心を持っている」ということを念頭に置く必要がある。(156~157頁)


 関心に合わせるということは、必ずしも人の表面的な希望に合わせて、その人が主張するやりたい仕事をアサインしなければいけないということではない。人が本来的に持つ多様な関心というものに焦点を当てて、工夫して職務をアサインするという発想は、現実的であり大変興味深い考え方である。


2017年2月11日土曜日

【第677回】『「なぜ?」から始める現代アート』(長谷川祐子、NHK出版、2011年)

 アートは難しいし、現代アートとなるともはや意味不明、という方も多いのではないか。私もそうである。しかし、本書を読むと、鑑賞のしかたにはいくつもあることがわかるし、何より楽しくなる。そんな入門書である。

 現代アートは、その方法と素材の多様さゆえに、面白い現象を引き起こします。普通であればつながることのないAさんとBさんの専門領域を、アートはいつの間にかつないでしまう。アートは、人と人、領域と領域の隙間を埋めていくための、有効な一つの装置です。要するに「隙間装置」「関係装置」の性質をもっていると考えてください。(24頁)

 アートとは、唯一無二の作品であると私たちは考えるし、だからこそ他との関係性というものがないように誤解しがちである。しかし、アート作品は、人と人、事象と事象とを結びつける媒介物であるという。新しい視座を私たちに提供し、それによって、私たちが日常的に見落としがちなものに焦点を当てることができるということであろう。

 線描において、西洋人が最終的に描かれた「形」を鑑賞するのに対して、私たち東洋人は、「過程ー時間」を見るのです。(44頁)

 鑑賞の対象に関して、西洋と東洋における違いが端的に指摘されている。西洋人が結果を見て、東洋人がプロセスを見るということは、結果重視とプロセス重視との違いが表れているようだ。

 世界はそこかしこでつながっていますが、みんなが一斉に同じ方向を向いているわけではありません。人間には絶えずいまの人間関係、自分の情報環境を更新していこうとする強い能力があります。それが多くの人に共有される場合、特定の人との間だけの場合などさまざまなケースがありますが、いずれにおいてもアートは、他者との関係をつくり続ける媒介となるのです。(176頁)


 だからといって、違う文明の間において文脈や価値観を共有できないということではない。多様な価値観を背景にして、多様な方向を向いていながらも、創り出されるアート作品によって、私たちは多様な人間関係を多様な方法で創り出すことができる。アートを鑑賞して得られるワクワク感は、この可能性にこそあるのではないだろうか。


2017年2月5日日曜日

【第676回】『経営の精神』(加護野忠男、生産性出版、2010年)

 経営学の碩学による、マネジメントに興味関心の強い日本の読者への書籍。「我々が捨ててしまったものは何か」という副題が重く私たちにのしかかる。

 コミットメントをまったく無視しているのは、「同一労働、同一賃金」という考え方である。同じ仕事をしていてもコミットメントの高い人は企業にとってより大きな価値がある。企業が正規社員により高い給与を支払うのは、彼らがコミットメントを持ってくれているからである。(165頁)

 時代の潮流は同一労働・同一賃金である。しかし著者は、コミットメントの観点からそれを否定する。職務の中で工夫をし、そこでストレッチをしていくことを評価することで、社員の企業へのコミットメントを担保することができるのではないか。


 また、そうした考え方を持たないと、労働から人間的な要素が抜け落ちてしまうことになるのではないだろうか。働く私たちにとって、働くことによって人間的な成熟を深めることができるのではないか。


2017年2月4日土曜日

【第675回】『一人で強くなる囲碁入門』(石倉昇、日本文芸社、2002年)

 誕生日が近づくと、今年こそは囲碁を始めようと思って数年が経った。今年も同じ轍を踏みそうになってふと気づいた。入門書をとにかく読めばいいのではないかと。つまらなければ始めなければいい。

 この「お試し感覚」がハードルを下げた。本なら読める。この思いつきは正しかった。全く囲碁に触れたことがない私でも、本書は面白く読めた。もちろん、すべてを理解したわけではないし、一息に読めるほど簡単でもなかった。しかし、ときに前のページに戻って読み返したりしながら少しずつ読み進める感覚は心地よかった。

 脳の障害で右脳が機能しなくなった人はそれまで碁が打てた人でも碁が打てなくなるそうです。しかし、左脳の機能をやられた人は、少し弱くなりますが、立派に碁が打てます。これは、碁が右脳を使うことの証明です。(80頁)


 現時点では左脳で碁を理解しようとしているように感じる。しかし、著者によれば、囲碁は主に右脳で打つものだという。左脳偏重で日常を暮らす私にとって、大変ありがたいことであり、囲碁に今後も取り組みたいと思えた部分である。