2016年4月30日土曜日

【第569回】『新編 教えるということ【2回目】』(大村はま、筑摩書房、1996年)

 教育を職業としている身として、教育対象が子供とおとなという違いがあれども、学ぶところは多い。もっと違う言い方をすれば、教育対象が異なるが故に学べる部分があるのかもしれない。

 もう四十幾年も教員をやっていれば、かっこうよくやりたければ、何でもやれます。およそ困ることはないといえばいえるでしょう。どんな古い方法でも、今までやった方法ででもよかったら、すぐにでもやれます。
 けれども、それでは老いてしまうと思います。それは精神が老いてしまうことです。未来に対して建設できないなら、私は、さっさとやめた方がよいと思っています。(30頁)

 教える主体であるためには、教えられる客体への共感と理解が求められる。したがって、何かを教えるプロフェッショナルであれば、与えられたものだけではなく、自身で決めた課題を主体的に学ぶことが必要だろう。


2016年4月24日日曜日

【第568回】『ジャスト・イン・タイムの人材戦略』(ピーター・キャペリ、若山由美訳、日本経済新聞出版社、2010年)

 本書で取り上げている新しい人材マネジメントのアプローチは、人的資源ではなく組織全体の目標を出発点にしている点でこれまでのものとは根本的に異なる。ここでいう目標は、組織の業績向上であり、ビジネス需要の不確実性や新たに出現した開かれた労働市場によって生じる人材にかかわるリスクをうまく管理することで達成することが可能である。(43頁)

 著者が端的に述べるように、本書は、組織全体の目標を出発点にした上で、人材マネジメントについて述べられている。人事のあるべき姿を起点にするのではなく、部門戦略を起点にするのでもなく、あくまで起点は組織「全体」の「目標」である。自明のことのようにも思えるが、日常のビジネスシーンを想起すれば、人事の官僚化や部門のサイロ化を目にしたことがない人の方が少ないのではないだろうか。ことほど左様に、組織全体の目標を念頭に置いた人材マネジメントというのは難しいものであり、それを体系的に扱う書籍というものは稀有でありかつ頼もしい存在である。

 では、不確実性の増大するビジネス環境において、人材マネジメントはどうあるべきなのか。著者は、人材の需給バランスを調整する必要性が増している状況においては、製品や資材の需給を調整するサプライチェーン・マネジメントが参考になるとして、四つの原則を掲げている。

原則1 内製と調達を併用して需要サイドのリスクに対処する(28~31頁)

 人事の世界では「Make or Buy」という言葉がよく使われる。つまり、事業を永続させるために必要な人材を確保するために、既存の人材を育成するか、外部から人材を新たに採用するか、ということである。著者は、ここでの「or」を「and」に変えるべきであると主張する。それだけでは目新しさはないが、176頁で指摘しているMakeとBuyの使い分けの基準に刮目すべきだろう。

  1. その人材が必要となる期間はどれくらいか。その期間が長ければ長いほど、内部育成投資の回収はより容易になる。
  2. スキルや職務が階層的に体系化されていて、候補者が内部育成によって段階的に学習、成長できるような構造になっているか。そうした状況であればあるほど(機能分野の範囲内であればその可能性が高い)人材を内部で育成することがより容易である。
  3. 現在の組織文化を維持することがどの程度重要か。特に上位層の人材を採用した場合には、異なる価値観や規範が組織に持ち込まれることになり、その結果、組織文化が変化することになる。組織文化を変えることが重要な場合は、外部採用がそれを実現してくれる。ただし、外部採用によって文化を変えることができたとしても、具体的にどのように変わるかを事前に予測することは難しく、複数の外部人材を同時に採用した場合には、なおさらそうである。
  4. どの程度、正確な需要予測を行うことが可能か。その人材が必要となる期間についてどの程度、確信が持てるか。予測の不確実性が高ければ高いほど内部育成のリスクやコストは高くなる。

原則2 需要の不確実性を減少する(31~35頁)

 不確実性を克服して需要を予測し、計画を策定することは可能だという幻想は捨てて、不確実性を既知の事実と受け止め適応する方法を見出すほうが得策である。そのひとつの方法として、ポートフォリオ原理の活用が挙げられる。(33頁)

 著者の主張のポイントは簡潔である。人材の需要を予測し合理的に長期的なサクセッションプランを作成しフォローしていくことは、現代のビジネス環境においては機能しない。予定調和性の低いビジネス環境においては、将来において求められるポジション自体が変化するため、将来時点から複雑に逆算するサクセッションプランは機能しづらいのである。したがって、部分最適ではなく全体最適において、かつ静的ではなく動的に、短期的な視野をもとに人材マネジメントのしくみを企画し、丁寧にフォローしていくことが必要だ。この新しい人材マネジメントの要諦は、236頁によくまとめられている。

  • 人材の需要を予測することは明らかに意味がある。
  • 将来のポストについて柔軟性を持たせるために、候補者を幅広い職務に就けるように範囲を限定せずに育成するのが賢明である。
  • 個人のスキルを評価し、向上し続けるために必要な育成経験が何かを検討する人材レビューを行うことは意味がある。
  • 育成計画の更新手段として、後継者候補からなる人材プールを明らかにするためにリプレースメント・プランを作成することは意味がある。

 第二の点として挙げられているものは、日本の重厚長大な伝統企業における部門や職務を超えたジョブローテーションを想起させるようで興味深い。これは、日本型人事管理の進化型においても、マネジメント人材に関しては、本社人事が人材情報を更新し、部門を超えたキャリア開発とジョブ・ローテーションが重要であるとする神戸大の平野光俊教授の『日本型人事管理』での結論と符合する。タレント・レビューやリプレースメント・プランといったいわゆる外資系企業の得意領域と、タレントを計画的にジョブ・ローテーションをかけていくという日系企業の得意領域の合わせ技が提言されているのである。

原則3 人材育成のROIを高める(35~37頁)

 人材育成の施策を考える際に最も大切なのは、コストよりもメリットに重点を置くことである。すなわち、社員が会社により多くの価値をもたらす仕事により早く就けるようにすることで、社員の組織に対する貢献度が高まるというメリットを受けることだ。これを実現するには、有望な人材を早期に発掘し、昇進スピードを速めることができるような能力開発の機会を提供する必要がある。部下のなかで誰がより高度な仕事に就く準備ができているのかを見極めるのは、ライン管理者の重要な使命である。(37頁)

 タレントを早期に発掘し開発していくシステムは人事が用意すべきであるが、そうした人材を発掘する主体は、部下のパフォーマンスを日常的に見るライン・マネジメントにある。では発掘した人材をいかに開発していくか。ここで私たちは、著者の本書の起点になっている組織全体の目標に立ち返る必要がある。職務を離れたトレーニングも重要であるが、会社目標という観点からすると日常的な業務において貢献することを視野に入れる必要がある。加えて、部門がタレントを抱え込むのではなく、クロス・ファンクショナルなキャリアを用意することも必要だ。こうした二つの厄介な命題を同時に解決するヒントとして、部門を超えたプロジェクトへのアサインメントが挙げられる。

 ここ数年で最も目を引く人材マネジメントの動向のひとつは、「職務」(ジョブ)が、社員が実際にどのように仕事を遂行し、仕事を通じてどのように学ぶかを捉える最適な単位であるとはいえないのではないかという認識が出ている点である。職務要件の柔軟性が増し、チーム作業がより一般的になったいまでは、職位や肩書きの枠を超えて広範囲に及ぶタスクを遂行することが普通になっている。社員が関与している特定のプロジェクト、もしくは実際に遂行しているタスクのほうが、より意味のある分析単位だといえるのかもしれない。(315頁)

 職務要件という考え方がなくなることはないだろうが、静的な職務や資格等級を超えたプロジェクトやタスクといった単位でのアサインメントの重要性が増していることは事実だろう。とりわけ非管理職層のタレントに対しては、部門横断型のプロジェクトや自身の部署とは日常的に関係性の少ないプロジェクトにアサインすることがキャリア開発の点で望ましいのではないか。

原則4 内部市場を活用して社員との利害をバランスさせる(37~42頁)

 本書の主題のひとつは、外部採用の限界に伴い、採用活動においては外部市場だけではなく、内部市場も活用せよという点である。内部市場における採用を支援する制度とは、社内公募制度や自己申告制度が挙げられる。社内公募にせよ自己申告にせよ、人事やマネジャーではなく社員自身がキャリアをすすめる主体であるということが前提になる。

 根本的な人材マネジメントの課題である不確実性を減少させることに関係している。社員はキャリア・アドバイスのおかげで、自分が目指す方向を見極めたり、キャリア・プランを作成したりすることが容易になる。社員が自分のキャリアに関してはっきりとした考えを持っていると、企業側としてはいろいろな意味で対処しやすくなる。(329頁)

 キャリア開発という社員側の要望と、企業目標の達成のための計画的なジョブアサインやローテーションという企業側の要望とが、内部市場の活用によって実現可能となり得る。こうした考え方を綺麗事として画餅にするのではなく、人事と現場のマネジャーとが地道に連携して行うことが、私たちに求められるのであろう。

2016年4月23日土曜日

【第567回】『こころ【3回目】』(夏目漱石、青空文庫、1914年)

 西洋の文学には多数の登場人物が現れる。それに比べ、日本文学では登場人物が少ないようだ。とりわけ、本作では、先生・K・お嬢さん・奥さんの四名のみであり、その関係性によって多様な世界観が創り出されている。それによって、何度読んでも感じ入るポイントが異なっており、それが本作を名作と呼ばしめる所以ではなかろうか。

 私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。(Kindle No. 1284)

 これまで本作を読んだ際には特に印象に残った箇所ではなかった。今回、キャリアという文脈で考えると示唆的であると気づいた。大学を卒業するということは、形式的には外的な変化に過ぎないし、卒業したことで何かを得られるということはない。しかし、そうした時季的な節目があることによって、私たちは、過去を振り返り、将来を見透かそうとし、自身の内的な変化に目を向ける契機になる。外的キャリアと内的キャリアという二分法でキャリアを捉えることが多いが、二つに分けるということではなく、ある事象を二つの側面から捉えてみることが大事なのではないだろうか。

 私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。(Kindle No. 4485)

 先生が遺書として自分自身の過去を書き連ねることの意義を述べている箇所である。もちろん遺書という形式で過去を記すことは重要であろうが、多くの人にとってそれは人生の最終局面での極限的な出来事である。キャリアや人生という視野で捉えれば、たとえば人生の節目と呼ばれる局面で、自分自身のそれまでを振り返り、それ以降を見通すために、自分自身の過去を書いてみることもいいのかもしれない。


2016年4月17日日曜日

【第566回】『行人【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1913年)

 後期三部作の第二作。今回もまた、ラストの手紙へと至るストーリーに唸らさせられる。

 自分はこういう烈しい言葉を背中に受けつつ、扉を閉めて、暗い階段の上に出た。(Kindle ver. No. 3713)

 心理をそのまま描写することは不可能である。したがって、ある心理が投影されていると推察される行動を私たちは描くことで、心理状態を明らかにしようとする。大げさに書き現わすのではなく、抑制の利いた筆致でありながら、「暗い階段の上に出た」という表現に主人公の心理が存分に表されている。

「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」(Kindle ver. No. 5612)

 真面目に生きようと、思いつめてしまう主人公の兄。彼の中には、他者を信じようとする心と、他者に猜疑心を持ってしまう心とが、相克しながら存在し合う。一方が他方を苦しめ続ける統合体として、自分自身が自分自身を信じられない状態に陥っている。多様な個性や可能性が存在する人間観というものが、現代における人間観であろう。しかし、それは手放しで称揚できるものではなく、統合する自分という存在がいることで初めて成り立つものである。ここに、可能性が解放された近代以降を生きる私たちの、豊かさとともに苦しさの萌芽が見出されるのである。


2016年4月16日土曜日

【第565回】『彼岸過迄【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1912年)

 後期三部作の第一作を改めて。

 彼は眠い時に本を読む人が、眠気に抵抗する努力を厭いながら、文字の意味を判明頭に入れようと試みるごとく、呑気の懐で決断の卵を温めている癖に、ただ旨く孵化らない事ばかり苦にしていた。(Kindle ver. No. 1258)

 やるべきこと・やりたいことが明確にあるにも関わらず、できない理由が目につき、やる気も起きずに終えてしまう心持ち。そして、そうした状態に苛立つ気持ち。私たちに日常的に訪れるそうした感覚が見事に描き出されている。

 僕は目的もなく表へ出た。朝の散歩の趣を久しく忘れていた僕には、常に変わらない町の色が、暑さと雑沓とに染めつけられない安息日のごとく穏やかに見えた。(Kindle ver. No. 4759)

 衝撃を受ける話を聴き、気持ちの整理がつかない中で夜を過ごし、朝を迎える。そうした時に外を漫然と歩きたくなる気持ち、またそうして歩いている時に感じる風景の様子。人の感情の機微を深く理解する、文豪の卓越した文章表現である。

 こんなつまらない話を一々書く面倒を厭わなくなったのも、つまりは考えずに観るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番楽だと思います。(Kindle ver. No. 5478)

 考えすぎる人にとっては、「考えずに観る」という態度が時に大事なのかもしれない。身につまされる思いのする箇所である。


2016年4月10日日曜日

【第564回】『人類哲学序説』(梅原猛、岩波書店、2013年)

 骨太な哲学に関する内容であっても、新書であればカジュアルに読める。久しぶりに新書の醍醐味を味読した心地がする。本書で著者は、自身の研究の履歴を振り返りながら、西洋哲学への耽溺と、そこからの脱却について丹念に記している。彼の思想の進展や展開の様を見ることは、人間の発達について学ぶことに繋がる。とまで書くと書きすぎであろうか。

 自然を征服することは大変難しいことであったにもかかわらず、デカルト哲学のおかげで人類は自然を征服することができた、と言ってもいいでしょう。しかし、征服した今、その征服がやがて人類そのものを滅ぼす危険性を持っていることが明らかになってきたのです。(73頁)

 著者が最初にはまったデカルトの思想に対する簡潔なまとめの後に、上記の引用箇所ではその限界を指摘している。物事を分解し、最小単位に小さくしていくことで、解決可能な問題へと落とし込む。そうしたアプローチが有効な時があることは事実であろうが、そうしたアプローチが対応できる環境が減りつつあるし、デメリットも存在する。

 賢治が伝えたかったその仏教思想こそ、まさに「草木国土悉皆成仏」の思想なのです。森羅万象のすべてが、星や風、虹や石といったものも、人間のように生きていて、仏に通じている、利他の心を持っていると語っているようです。(171頁)
 天台本覚思想である「草木国土悉皆成仏」という思想は、ありのままの現実を肯定し受け容れる、という面を持っています。流転の世界があり、弱肉強食の世界がありながら、そのような世界は、素晴らしい世界であり、それをありのまま受け容れようではないかという思想があります。(190頁)

 デカルトをはじめとした西洋近代の思想を否定した上で、「草木国土悉皆成仏」という概念へと著者は至る。起こっていることをただありのままに受け容れ、利他の心で他者に大事に接していきたいと思った。


2016年4月9日土曜日

【第563回】『キャリア・ドメイン【2回目】』(平野光俊、千倉書房、1999年)

 自身のキャリアに真摯に向き合うためには、他者との対話が重要だ。その対話で得た気づきをたしかなものにするためには、良質な知識で整理することが有効だろう。良質な知識を得るためには、先行研究に基づいた研究の成果がまとめられた学術書を読むに限る。修士の頃から読み続けている本書は、キャリアを考える上で気づきを与えてくれるとともに実務家にとって読み易い、ありがたい学術書の一冊である。

 本書のタイトルでもあり、筆者がキャリアを捉える上で名付けたキャリア・ドメインとは何を指すのか。著者は、「人生全体をひっぱる目標(striving goal)あるいはライフテーマに結びつく、その人独自の(労働市場における)存在領域と使命」(94頁)と定義している。

 ドメインという言葉が使われているのであるから、そこにはある領域とある領域との接点が見出される。多様な自分自身の有り様の結節という観点では、「キャリアの歩みの過程の経験の束を総体的にとらえ」(45頁)るということがキャリア・ドメインの策定には求められる。こうした内部における多様性の統合体としての自身の「キャリアの深層に潜む価値を検討し、他者との関係の調和を図る」(45頁)という自己と他者という接点も見出せるだろう。こうした自身の内部および他者との関係を基にしながら、社内外における労働市場という外的環境との接合を検討することになる。すなわち、「労働市場の環境の分析と自分自身の知識・技能の強みの分析過程からキャリア・ドメインとも呼べる戦略性を見いだすこと」(45頁)である。

 キャリア・ドメインを見出す上で「発達という動態的な組織と個人の相互作用によるダイナミクスが静学的なコンティンジェンシー論に新たな視点」(228頁)を与えることが理論的含意の重要な一つである。人間の有する可能性や多様性へ焦点を当てて、そうした対象を静的ではなく動的なものとして捉えることで、キャリアを生き生きとしたものとして見出すことができる。

 次に実践的含意として、ホワイトカラーにおいても「技能の分化と統合の同時発達が重要」とした上で「多様な経験から得られたコンテキスト関連技能が現在の職務のテーマの中に統合されてこそ意味がある」(235頁)という点に注目したい。日本企業におけるジョブローテーションでは多様な職務の経験を積むことがこれまで重視されてきた。この研究における実践的含意から鑑みると、単に多様な部署や職務を経験することが重要なのではなく、そうした多様な経験を統合して意味づけることが大事なのである。したがって、企業においては、職務設計を行うだけではなく、そこに意味を見出そうとする社員のキャリア・デザインを支援することが必要となる。

2016年4月3日日曜日

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

 芸術というものを、住みづらい世の中で、また時に訪れる逆境の中で、寛ぎの瞬間を提供してくれる存在として位置付けたのは漱石である。名画を眺め、著者の解説を読むことで、美術や芸術の世界に浸っていると、『草枕』の一節を想起することだろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(『草枕』Kindle No. 11)

 願わくば、中学や高校といった若い時分に、本書やその内容を解する教師の授業に出会いたかった。そうすれば、美術という科目に対する否定的な印象を持つことなく、学生生活を送れただろう。しかし、月並みな言い方にはなるが、物事に遅すぎることはないわけであり、こうした良質なテクストと出会えた僥倖に素直に感謝したい。

 著者は著名な日本画家である。その著者が、「抑え切れない衝動で、この画家はこの絵を描いていたのかどうか」(300頁)という基準で四十五の名画を選び、解説を加えている。時代背景やその人物の生涯を基にして客観的な記述に注力したものもあれば、その著者になりきって自作を解説するような形式で書かれたものもある。それぞれの画家の人物像に応じて書き方を変える著者の意欲的な創意工夫によって、作品の解説が読者にとってより入りやすくなっているようだ。

 多くの名画や画家に魅了される一冊の中から選ぶのは難解であるが、ここでは、ムンク、マティス、ゴーギャンの三人について、印象的であった部分を記してみる。

(1)『叫び』ムンク

 私はこの男の、とにかく生きぬいていこうとする力を感じるのです。ムンクはこの絵によって何かしらの生き続けていく手がかりを見つけ出し、それを私たちに伝えようとしていたのではないでしょうか。(41頁)

 ほとんどの人が一度は目にしたことがある作品であろう。改めてこの作品と対峙してみると、描かれている人物は、叫んで現実から逃げようとしているものではないことに気づく。また、抽象化して描かれた人物を通して、個別具体的な「叫び」ではなく、私たちが普遍的にもしくは潜在的に抱く「叫び」の源を思い起こすことができる。そうした普遍性や共感を以て、著者は以下のように芸術を定義付けた上で、ムンクの『叫び』を名画と断言する。

 芸術とは人が人に対して行う説明不可能と思えるイマジネーションのコミュニケーションのことですから、この作品は極めて本質的な、見えないものさえ見えるようにして、曰く言い難い心を伝えようとした、卓越した芸術作品であると言っていいと思います。(44頁)

(2)『金魚』マティス

 この作品の解説は、著者がマティスになりきって自作を解説するという形式で書かれている。俗に「色彩の魔術師」とも呼ばれるマティスが、なぜあのような色彩豊かな表現を用いたのか。以下の著者の解説は納得的であるとともに、現代社会におけるダイバーシティの重要性に関しても示唆的である。

 色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)

 マティスの言葉として創作されたこの文章は、時に偏狭な枠組みで物事を捉えてしまう私たちが、意識したい至言ではなかろうか。

(3)『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』ゴーギャン

 同じ時代を共にし、最終的に決別したゴッホへ宛てた手紙の中でゴーギャンが述べたというフィクションとして解説が行われる。パリから逃れ、妻子も置いて辿り着いたタヒチで描いた市井の人々。日々の生活を重ねる人々を絶えず眺めることで至った境地は、苦しくても人生を全うするということであったと著者はしている。

 この絵は僕につらくても生き続けろと言ったのだ。そしてこの奇跡の中を生きていることを有難く思うがいい、と言ったのだ。(254頁)
 この逃避という連鎖をここでやめなければ、僕は永久に、たとえ死んでからもずっと逃げ続けなくてはならない。だからやめたんだ。(254頁)

 生き続けていく上で、何かから逃げるのではなく、踏みとどまって、前を向くこと。不条理や逆境の中にあっても、無理に自分を勇気づけたり、意識を変えたりしようとするのではなく、淡々と、しかし地面をしっかりと見据えて生きること。心強い絵画である。


2016年4月2日土曜日

【第561回】『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾×村上春樹、新潮社、2011年)

 村上春樹さんの対談本は面白い。おそらく、事前の知識面に関する準備が十全に為されていることと、それに基づいて質問が練磨されていることに因るものだろう。加えて、相手や対象に対する尊敬と興味・関心の強さもまた大きいのかもしれない。

村上 小説を書いていると、だんだん自然に耳がよくなってくるんじゃないかな。逆の言い方をすると、音楽的な耳を持ってないと、文章ってうまく書けないんです。だから音楽を聴くことで文章がよくなり、文章をよくしていくことで、音楽がうまく聴けるようになってくるということはあると思うんです。両方向から相互的に。(129頁)

 頭が単純にできているもので、この箇所を読んで、良い音楽を聴こうと強く思った。音感が良いと語学の習得が早いと聞いたことがある。良いリズムを聴けることで、良いリズムでのアウトプットを文章という形式でできるようになるのではないだろうか、という仮説は、いくぶん納得的だと私には思える。

村上 小澤さんが結局、全員のぶんをカバーしていたんだ
小澤 だってアシスタントがブロードウェイでアルバイトして、穴を開けているときに、レニーが急に病気でもしたら、演奏会ができないじゃないですか。だから僕が全部の曲を覚えました。良いのか悪いのか知らないけど、僕はいつも楽屋でごろごろしていたから(144頁)

 小澤征爾さんがレナード・バーンスタインのアシスタント指揮者をしていた時代の頃を語ったシーンである。良い仕事が訪れる、単純にして簡潔な回答の一つがここに書かれている。バーンスタインのアシスタント指揮者は三人いたのだが、小澤さん以外の二名はアルバイト等で時に練習に出られない時があったという。そうした時に備えて、小澤さんは他のアシスタントの担当する曲も含めて全てを覚えておき、彼(女)らのバックアップを行っていた。こうした、ほとんとが結果的に無駄になることがわかっていても準備に余念なく、かつ本気で行うことが自分自身の糧となり、数少ないチャンスを逃さず結実させることなのだろう。

小澤 僕が言いたいのは、マーラーの音楽って一見して難しく見えるんだけど、また実際に難しいんだけど、中をしっかり読み込んでいくと、いったん気持ちが入りさえすれば、そんなにこんがらがった、わけのわからない音楽じゃないんだということです。ただそれがいくつも重なってきていて、いろんな要素が同時に出てきたりするもんだから、結果的に複雑に聞こえちゃうんです(211頁)
 一歩引いて解釈すれば、複雑なものをどのように読み解くか、という抽象的な事象に対するヒントに満ちた至言である。もちろん、複雑ではあっても合理的であったりストーリーがあるという前提条件はつくが、複雑な要素を一つひとつ丹念に見ていくこと。そうした一つひとつの積み重ねを理解することができて、解釈することができるようになる。

小澤 ある部分を演奏する人はもっぱらその部分だけを、一生懸命やればいいわけです。別の部分を演奏する人は、そっちとは関係なく自分のところだけをまた一生懸命やる。そしてそれを同時にあわせると、結果としてああいう音が出てくる。(212頁)

 そうした一つひとつを解釈することを楽器の演奏に置き換えれば、自分自身の担当領域を懸命に練習してパフォーマンスできるようにすることである。とにかく、マーラーを聴きたくなった。