芸術というものを、住みづらい世の中で、また時に訪れる逆境の中で、寛ぎの瞬間を提供してくれる存在として位置付けたのは漱石である。名画を眺め、著者の解説を読むことで、美術や芸術の世界に浸っていると、『草枕』の一節を想起することだろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(『草枕』Kindle No. 11)
願わくば、中学や高校といった若い時分に、本書やその内容を解する教師の授業に出会いたかった。そうすれば、美術という科目に対する否定的な印象を持つことなく、学生生活を送れただろう。しかし、月並みな言い方にはなるが、物事に遅すぎることはないわけであり、こうした良質なテクストと出会えた僥倖に素直に感謝したい。
著者は著名な日本画家である。その著者が、「抑え切れない衝動で、この画家はこの絵を描いていたのかどうか」(300頁)という基準で四十五の名画を選び、解説を加えている。時代背景やその人物の生涯を基にして客観的な記述に注力したものもあれば、その著者になりきって自作を解説するような形式で書かれたものもある。それぞれの画家の人物像に応じて書き方を変える著者の意欲的な創意工夫によって、作品の解説が読者にとってより入りやすくなっているようだ。
多くの名画や画家に魅了される一冊の中から選ぶのは難解であるが、ここでは、ムンク、マティス、ゴーギャンの三人について、印象的であった部分を記してみる。
(1)『叫び』ムンク
私はこの男の、とにかく生きぬいていこうとする力を感じるのです。ムンクはこの絵によって何かしらの生き続けていく手がかりを見つけ出し、それを私たちに伝えようとしていたのではないでしょうか。(41頁)
ほとんどの人が一度は目にしたことがある作品であろう。改めてこの作品と対峙してみると、描かれている人物は、叫んで現実から逃げようとしているものではないことに気づく。また、抽象化して描かれた人物を通して、個別具体的な「叫び」ではなく、私たちが普遍的にもしくは潜在的に抱く「叫び」の源を思い起こすことができる。そうした普遍性や共感を以て、著者は以下のように芸術を定義付けた上で、ムンクの『叫び』を名画と断言する。
芸術とは人が人に対して行う説明不可能と思えるイマジネーションのコミュニケーションのことですから、この作品は極めて本質的な、見えないものさえ見えるようにして、曰く言い難い心を伝えようとした、卓越した芸術作品であると言っていいと思います。(44頁)
(2)『金魚』マティス
この作品の解説は、著者がマティスになりきって自作を解説するという形式で書かれている。俗に「色彩の魔術師」とも呼ばれるマティスが、なぜあのような色彩豊かな表現を用いたのか。以下の著者の解説は納得的であるとともに、現代社会におけるダイバーシティの重要性に関しても示唆的である。
色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)
マティスの言葉として創作されたこの文章は、時に偏狭な枠組みで物事を捉えてしまう私たちが、意識したい至言ではなかろうか。
(3)『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』ゴーギャン
同じ時代を共にし、最終的に決別したゴッホへ宛てた手紙の中でゴーギャンが述べたというフィクションとして解説が行われる。パリから逃れ、妻子も置いて辿り着いたタヒチで描いた市井の人々。日々の生活を重ねる人々を絶えず眺めることで至った境地は、苦しくても人生を全うするということであったと著者はしている。
この絵は僕につらくても生き続けろと言ったのだ。そしてこの奇跡の中を生きていることを有難く思うがいい、と言ったのだ。(254頁)
この逃避という連鎖をここでやめなければ、僕は永久に、たとえ死んでからもずっと逃げ続けなくてはならない。だからやめたんだ。(254頁)
生き続けていく上で、何かから逃げるのではなく、踏みとどまって、前を向くこと。不条理や逆境の中にあっても、無理に自分を勇気づけたり、意識を変えたりしようとするのではなく、淡々と、しかし地面をしっかりと見据えて生きること。心強い絵画である。
【第6回】『現代アート、超入門!』(藤田令伊著、集英社、2009年)
【第161回】『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』(長谷川祐子、集英社、2013年)
【第234回】『モバイルミュージアム 行動する博物館』(西野嘉章、平凡社、2012年)
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