2013年3月30日土曜日

【第146回】『関わりあう職場のマネジメント』(鈴木竜太、有斐閣、2013年)


 本書における著者の仮説は、帰納的に紡ぎ出されたものである。その際に最も参考になったとしているものが「はちみつ黒酢ダイエット」などで有名なタマノイ酢社での調査研究だ。著者が明らかにしているタマノイ酢のジョブアサインメントは独特である。まず、若手に対して非常に大きな仕事を与える。たとえば営業部門であればビッグクライアントを新入社員に任せることもあるという。次に、新入社員を配属する上で相手の専門性を重視しないという特徴もある。文系学部出身者を研究所に配属するケースもあるとのことだから、その本気度合いが伝わってくる。さらには入社数年の間は極めて頻繁に異動を繰り返させる。一部の例外を除いて、原則的には一・二年のスパンで異動をさせるというのだからその頻度と早さの凄まじさが分かるだろう。

 こうした三つの特徴が組み合わされることで、職場には誰かからの教えを必要とする人材が常に、そして複数存在することになる。その結果として、お互い様といった具合に助け合い、関わり合う職場が機能している、という仮説を著者は提示している。帰納的に紡ぎ出した仮説に対して、経営学はもちろんのこと、公共哲学といった一見して意外な学問領域の先行研究を用いて仮説を深めている点は興味深い。研究を志す人間にとっては、刺激的な取り組みである。

 研究プロセスについては詳細に渡るため、本書をお読みいただくとして、理論的含意と実践的含意で特に興味深いと思った点は以下の三つである。

 一点目は、集団的なマネジメントが個人の自律的な創意工夫を促す、という点である。社員の自律性を重視するというととかく個人主義を助長するという誤解を生じがちであるが、集団的なマネジメントと社員の自律性が相関するという点は示唆に富んでいる。さらには、過度に集団的なマネジメントは社員の自律性を損なうという逆転共生関係を導き出しているのが本研究の秀逸なファインディングであろう。

 二点目は、職場における関わり合いの強さを規定する仕事の相互依存性と目標の相互依存性とが主観的なものを前提にしているという点である。つまり、職場のメンバー間における目標が客観的に整合性が取れているだけでは関わり合いを強化することには必ずしも繋がらない。それぞれのメンバーが目標の整合性が取れていると心の底から思い、またお互いの仕事が相互に依存していると思っていることが必要条件なのである。とりわけマネジャーにとって示唆に富んだ含意であろう。

 三点目は、職場という概念自体に関することである。本書では会社という単位と個人という単位の間にある職場に注目を当てている。翻って、職場という概念に注目することで、既存の組織という枠組みを超えた職場の重要性が明らかになる。つまり、これまでの仕事の進め方の主流であった部門や部署といった単位としての職場から、組織内外のクロスファンクショナルで組成されるプロジェクト単位としての職場が浮かび上がってくるのである。既存の静態的な職場における関わり合いだけではなく、動態的な職場における関わり合いをどのように創り出すか。著者が提示しているポイントは、私たちの「職場」に対する捉え方を拡げるものであるとともに、私たちが直面しているやや頭の痛い課題を的確に示している。


『自律する組織人』(鈴木竜太、生産性出版、2007年)
『組織と個人 キャリアの発達と組織コミットメントの変化』(鈴木竜太、白桃書房、2002年)
キャリア・ドメイン(平野光俊著、千倉書房、1999年)

2013年3月24日日曜日

【第145回】“To sell is human”, Daniel H. Pink


This is the Pink’s latest book which has not been translated into Japanese yet. As is often the case with his other books, this book is interesting and has many implications in order to think about our work and career.

As this title means, considering about current business condition, we have to rethink about the role of selling. Let’s think about 20 or 30 years ago. At that time our roles and skill sets tended to be fixed for a long time, because most big organizations were highly segmented. We didn’t have to worry about much outside our career domain, because other people covered other roles.

But the business world has changed dramatically. Especially because of rapid innovations of IT, flat organization movements and globalizing business conditions punished fixed skills. What we do day to day on our job now must stretch across functional boundaries. We start to have to care about outside of our static job descriptions.

According to author the most important key factor to stretch our functional boundaries is selling skill. In order to work with other sections we should collaborate and suggest many things to them. When we kick off a project team, we have to make good team through human skill as soon as possible. When we want our plans to be approved, we have to make a nice presentation to all our stakeholders. All these skills which ‘once’ belonged to salesperson are NOT needed for almost all salesperson today.

Then the author says selling ABC has changed. Old ABC meant Always, Be, Closing, say pushing sales style. New ABC means Attunement, Buoyancy, Clarity. According to latest ‘Wiktionary’, attunement is “the quality of being in tune with something”, buoyancy is “the ability of an object to stay afloat in a fluid”, and clarity is “the state, or measure of being clear, either in appearance, thought or style”. He, of course, puts emphasis on latter ones, and explains each points.

He warns that we often neglect human related factors because we put too emphasis on work itself saying as professionalism. But we should change our mind and be cared for concrete and personal issues. The value of making the matter personal has two sides. One is recognizing the person you’re trying to serve, and the other one is putting yourself personally behind whatever it is that you’re trying to sell.

And he also suggests that we should move from ‘upselling’ to ‘upserving’. Former one is an old style of sales. Latter one is doing more for the other person than he expects or we initially intended. To do upserving, it is important for us to take the extra steps that transform a mundane interaction into a memorable experience for other person.



“FREE AGENT NATION”, D H. Pink, BUSINESS PLUS, 2002
“How will you measure your life?”, Clayton M. Christensen
“HPI essentials”, George M. Piskurich, ASTD Press
“The Inventurers (third edition)”, Janet Hagberg / Richard Leider

2013年3月23日土曜日

【第144回】『善の研究』(西田幾多郎、青空文庫、1911年)


 京都を訪れる際には哲学の道を歩くようにしている。川辺を歩き、ベンチで本を読み、静かな茶屋で抹茶をいただく。こうした贅沢な時間がたまらなく心地よい。慈照寺から南禅寺へと連なるこの道が哲学の道と呼ばれるのは、本書の著者である西田が思索に耽りながら散策していたからだと言われる。京都学派の創始者でもある著者の本はぜひ読みたいと常々思ってきたが、極めて難解であるとの評価が気になり二の足を踏んできた。しかし、Kindleで本書を気軽に読めるようになったために重い腰を上げて読み進めてみたところ、やや回りくどい言い回しは見られるが論旨自体は思いのほか分かり易い。哲学書であるために本質的な問題に対する踏み込んだ記述が多く、知的好奇心を満たす良書であると言えるだろう。

 まず興味深い点は、著者は、意志の本質を、未来性ではなく現在性に置いている。これは一般的な私たちの理解とは異なる見解であろう。彼は意志に伴う未来における動作は意志の要素と捉えず、内面における意識の頭角作用を意志の構成要素と見做しているのである。この際に、内面における主観的意識と、外界に対する客観的意識とが統一されるとし、こうした主客の統一という考え方は随所に表れ、著者の基幹を為す考え方であろう。

 主客統一は自然観にも表れる。自然とは、単に私たちが客観的に認識する客体として存在する抽象的概念ではなく、主客を具した意識の具体的事実である。したがって、あるがままの自然という抽象的存在としてではなく、私たち人間の主観的認識と綯い交ぜになった統一作用の結果として表れるものである。したがって、自然の意義や目的を理会するためには、私たち自身の理想や上位の主観的統一に依存することになる、としている。

 さらには精神にも主客統一が関係する。実在を把握するのは種々の体系であり、体系における統一が個々人で異なるために生じる矛盾や衝突によって、体系的統一が自覚される。こうした衝突や矛盾のあるところに精神がいわば形作られ、精神が矛盾衝突を生み出すという相互依存関係があるのである。

 このように考えると、一人ひとりの意識現象は、単独で成立するものではないということになる。意識現象は、必ず他との関係があってはじめて成立するのである。したがって、人格的に善であるということは、全体との関係や位置づけによってはじめて善として認識されることになる。著者はこの考え方をさらに進めて、自己の外面における客観的理想と内面における主観的理想とが一致することが善であるとする。そして、こうした善の行為は必ず主客合一の感情、すなわち愛に通ずるとする。

 こうした理想の主客統一の状況においては、自己という意識を忘れ、自己には不可知な巨大な作用が働いている。これが、主体も客体も存在しない真の主客合一の状況であり、知即愛、愛即知という理想状況であり、愛により相互の感情を直覚することができるとしている。

 では主客の統一とはいかにして行われるのか。

 この壮大な問いへの回答として著者は宗教を挙げる。真の宗教的覚悟とは、単なる抽象的知識でもなく、また単なる盲目的感情でもなく、知的直観であるとするのである。宗教的要求は、意識統一の要求であり、宇宙との合一の要求に解を与える作用を担うとする。たしかに、学問道徳の本質に宗教があるとする著者のこうした見解が、著者の評価を分けるきわどいポイントにも繋がっているという側面はあるだろう。また、安易に宗教を主客合一の解に持ってきているようにも思える。しかし、主客合一の重要性を説き、その問いに対する回答を試みようとして踏み込んだ議論を展開していること自体に意義があるのではないだろうか。



『竹田教授の哲学講義21講』(竹田青嗣、みやび出版、2011年)
『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀、講談社、2011年)
『サンデルの政治哲学』(小林正弥著、平凡社、2010年)
『国家とはなにか』(萱野稔人著、以文社、2005年)

2013年3月16日土曜日

【第143回】“The Fifth Discipline”, Peter M. Senge


What is ‘discipline’? The author says it doesn’t mean ‘enforced order’ or ‘means of punishment’, but ‘a body of theory and technique that must be studied and mastered to be put into practice’. Because learning organization consists of discipline, we can never be a perfect learning organization. To practice a discipline is to be a lifelong learner.

This attitude to discipline is deeply related to that to ‘truth’. He suggests that it is important for us to make learning organization through having commitment to the truth. But he also says that commitment to the truth doesn’t mean seeking the absolute final word or ultimate cause, say the truth. On the contrary, it means a relentless willingness to find out the ways we limit ourselves from seeing what is, and to continually challenge our continually broadening our awareness, like discipline. This attitude makes us deepen our understanding of the structures underlying current events.

What we believe discipline or truth is made from our mental models. If we don’t care about our mental models, they remain unexamined. If they are unexamined for a long time, they remain unchanged. But as the world around us changes, the gap between our mental models and reality becomes wider and wider. Then it tends to lead to counterproductive actions. So it is important for us to be aware of our mental models.

Though learning organization is an organizational issue, to seek for learning organization depends on people in it. In a learning organization, there should be people with a high level of personal mastery. When they attain to be  this level, they are deeply self-confident. 


『インテグラル・シンキング』(鈴木規夫、コスモス・ライブラリー、2011年)
『インテグラル理論入門Ⅰ』(青木聡ら、春秋社、2011年)

2013年3月9日土曜日

【第142回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)


 きれいな日本語を読むと心が洗われる。日常の些細な風景までもが、新鮮に思えてくるから不思議だ。新しい枠組みを通して眺めると見えてくる世界はこれまでと異なったものとなる。きれいな文章を読むと、こうしたことが起こるように私には思える。

 著者については、筆名よりも社会学者・見田宗介として名前を目にすることが多く、真木悠介という筆名で書かれた書籍を読むのはこれが初めてであった。自分にあった著者を見つけることはそれほど楽なことではない。友人からいただいた本であり、うれしい発見であった。もう何冊か読み続けようと心に決めている。

 自然をどれほど豊かにセンスできるかが、ともすると人間が自然と切り離された日常を送らざるを得ない私たちの感性を規定する。おそらくは、身体感覚からのフィードバックをどれほど大事にできるかが鍵となるのではないか。日常の中でも、新しい動きをしてみること、新しい関係性を築いていくこと。そうした新しいアクションをいかに創り込み、そのフィードバックループを自ら開発していくか。こうしたことが自然や宇宙という壮大なものへの感応性を豊かにすることに繋がるのである。

 ではこうした外界をどのように認識するのか。著者は、図と地の関係をもとにして紐解きながら、<焦点をあわせる見方>と<焦点をあわせない見方>という二つのものの見方を対比しながら論考をすすめている。<焦点をあわせる見方>を用いるとは、すなわち、<図>に意識が偏り<地>を無視することである。したがって、自身が予め有しているものの見方の枠組みに則り、その枠組みを通してみられるもののみをもって「これが世界である」と認識する態様に繋がる。

 他方で<焦点をあわせない見方>が大事なのではないだろうか、というのが著者のスタンスであろう。この見方では、<図>というよりも<地>への意識を強めることになる。したがって、自身のこれまでの枠組みからこぼれ落ちるようなものへと意識が向くことになる。特定のものへ意識を向けるというよりも、予期せぬ多様な異物への自由な構えである。そうしたおおらかな構えこそが、世界の<地>の部分に関心を払うことであり、豊穣な世界を認識するということになるのだろう。

 外界の認識の変容は、私たちの生活の捉え方もまた変容することになる。私たちはつい自分たちが行うことに外的な意味を求めてしまう。なにを行うことが正解なのか、いま行っていることにはどういうメリットがあるのか、他者から認められるためになにをするべきか。外的な意味が満たされていることによって内的な生活に意味があるという論法で捉えてしまうことは、<焦点をあわせる見方>に偏りすぎているということであろう。そこには、心の奥底から発露するような感情は出づらい。<焦点をあわせない見方>により、内奥から密度が満ちていくという感覚を持つことが大事なのであろう。

 私たちの生活に密接に関わるのが労働である。労働とは、生きるために必要な金銭を得るための対価としても捉えることができる。他方で、人間生命の発現としての労働というものを考えられるとしたら、という前置きをした上で、著者は、そうした労働観においては人間と人間との関係で捉えるべきではないとする。そうではなく、人間と自然の関係を根本から変える有り様が必要であるとする。職業人として働く身としては、こうした有り様をイメージできないながらも、なにか心の琴線に触れるものがあるようにも思える。それは到達点としてのイデアのようなものではなく、そこを目指しながら、その過程で自分にとってしっくりとくるものをデザインし続ける作用なのではないだろうか。そうした有り様が、<焦点をあわせない見方>で物事を捉えることであり、外的な意味ではなく自身の内側から満ちてくる生活へと繋がるのかもしれない。

2013年3月2日土曜日

【第141回】『「論語」人間、一生の心得』(渋沢栄一著、竹内均解説、三笠書房、2011年)


 近代日本の産業振興を担った一人である著者は、論語を非常に重視し、折りに触れて読み返し、実業に活かしたと言われている。本書は、そうした著者による論語の活かし方を分かり易く解説してくれている。

 まずは人材教育について。相手の能力・スキル・知識レベルに応じて対応することが教育の基本であり。その結果として、場合によっては教えないことにより弟子に教える、というスタンスが重要となることがある。

 「弟子が自ら研究して行き詰まったときに、はじめてその障害を取り除いてやり、また意味が少し理解できかかって、口で表現しようとして詰まっているときに、はじめて手伝ってやる。学ぶ側が熱心でなければ、教えても無駄なことである。そして、啓発してやるときは、ただその一端だけを示し、残りの部分は自分で発見理解させることだ」

 渋沢の解釈をそのまま引用したが、大学における研究においても、企業における仕事においても、考えさせられる深い言葉である。さらに、大岡越前守を例に引きながら「実地に富んで工夫研究したことでないと、学問の意味は到底わかるものでない。」とする。ここまで畳み掛けられると、耳が痛いのを通り越し、むしろ心地よい思いがする。

 次に実行力について。「論語」には、君子のように整然としているよりも、人間味溢れて動き回る野人を評価している箇所がある。その箇所を捉まえて、著者は明治時代を切り拓いた人々の実行力を評価している。社会的な制度が未確立であり対外的に不自由であった時代においては、西洋列強に追いつこうという一心で献身的に働き、その結果として維新が成就したと言うのである。そうした時期と比較して、形式が整然と備わっている明治後期を「蝉の抜け殻のような感じ」がすると評している。前者では野人的な実行であり、後者では君子的な評論が求められ、著者は前者に刮目しているのであろう。

 著者を慨嘆させる明治後期から考えると、現代はさらに君子然としていると言わざるを得ないだろう。だからこそ、野人的なリーダーが表れると、私たちは自然と心惹かれてしまうのであろう。むろん野人は求められている。しかし、ときにそうした野人に一見して見える存在は、実は虎の威を借りた狐であることに注意する必要があるだろう。虎と狐をどう見極めるか。そのためには、私たち一人ひとりが日常の中で小さな実行力を発揮し続けるしかないだろう。そうすることで、実行力の優れた野人を見極めることができるのではないか。

 最後に自らを律することについて。ずばり「自分に”甘い”から他人の欠点だけが目立ってくる」と著者は断言する。自分に対しては常に厳しい視線を向けて至らない点を反省し、他人を責めることを控えめにして長所に目を向けて多くを求めないこと。こうした態度を取ることが、他者に対して、またひいては自分自身に対して節度を弁えた言動に繋がる。他者から恨まれることはないだろうし、他者を恨もうとする気持ちが湧いてくることもなくなる。さらに、自分自身の行動が道を違えることもなくなり、自信を持って正しい道を歩むことに繋がる。

 こうした態度は一つの理念型と捉える方が精神衛生上よいだろう。このようにあり続けることはおそらくは不可能である。しかし、そうあろうと努力することで他者の痛みを共感できるようになり、結果的に仁の心で他者に接することへと近づけるようになるのではないだろうか。