近代日本の産業振興を担った一人である著者は、論語を非常に重視し、折りに触れて読み返し、実業に活かしたと言われている。本書は、そうした著者による論語の活かし方を分かり易く解説してくれている。
まずは人材教育について。相手の能力・スキル・知識レベルに応じて対応することが教育の基本であり。その結果として、場合によっては教えないことにより弟子に教える、というスタンスが重要となることがある。
「弟子が自ら研究して行き詰まったときに、はじめてその障害を取り除いてやり、また意味が少し理解できかかって、口で表現しようとして詰まっているときに、はじめて手伝ってやる。学ぶ側が熱心でなければ、教えても無駄なことである。そして、啓発してやるときは、ただその一端だけを示し、残りの部分は自分で発見理解させることだ」
渋沢の解釈をそのまま引用したが、大学における研究においても、企業における仕事においても、考えさせられる深い言葉である。さらに、大岡越前守を例に引きながら「実地に富んで工夫研究したことでないと、学問の意味は到底わかるものでない。」とする。ここまで畳み掛けられると、耳が痛いのを通り越し、むしろ心地よい思いがする。
次に実行力について。「論語」には、君子のように整然としているよりも、人間味溢れて動き回る野人を評価している箇所がある。その箇所を捉まえて、著者は明治時代を切り拓いた人々の実行力を評価している。社会的な制度が未確立であり対外的に不自由であった時代においては、西洋列強に追いつこうという一心で献身的に働き、その結果として維新が成就したと言うのである。そうした時期と比較して、形式が整然と備わっている明治後期を「蝉の抜け殻のような感じ」がすると評している。前者では野人的な実行であり、後者では君子的な評論が求められ、著者は前者に刮目しているのであろう。
著者を慨嘆させる明治後期から考えると、現代はさらに君子然としていると言わざるを得ないだろう。だからこそ、野人的なリーダーが表れると、私たちは自然と心惹かれてしまうのであろう。むろん野人は求められている。しかし、ときにそうした野人に一見して見える存在は、実は虎の威を借りた狐であることに注意する必要があるだろう。虎と狐をどう見極めるか。そのためには、私たち一人ひとりが日常の中で小さな実行力を発揮し続けるしかないだろう。そうすることで、実行力の優れた野人を見極めることができるのではないか。
最後に自らを律することについて。ずばり「自分に”甘い”から他人の欠点だけが目立ってくる」と著者は断言する。自分に対しては常に厳しい視線を向けて至らない点を反省し、他人を責めることを控えめにして長所に目を向けて多くを求めないこと。こうした態度を取ることが、他者に対して、またひいては自分自身に対して節度を弁えた言動に繋がる。他者から恨まれることはないだろうし、他者を恨もうとする気持ちが湧いてくることもなくなる。さらに、自分自身の行動が道を違えることもなくなり、自信を持って正しい道を歩むことに繋がる。
こうした態度は一つの理念型と捉える方が精神衛生上よいだろう。このようにあり続けることはおそらくは不可能である。しかし、そうあろうと努力することで他者の痛みを共感できるようになり、結果的に仁の心で他者に接することへと近づけるようになるのではないだろうか。
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