2016年6月26日日曜日

【第591回】『<自己>の哲学 ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎』(黒崎宏、春秋社、2009年)

 後期のウィトゲンシュタインの思想を中心に、鈴木大拙や西田幾多郎など様々な思想家・哲学者を縦横無尽に関連付けながら述べた意欲作である。すべてを理解しようとすると骨が折れるかもしれないが、興味深く読めるところをつまみ食いするように読むのはいかがだろうか。

 時間の経過を追って順次に、近接作用的に、ではなく、過去も未来も、そして宇宙の涯までも含めて、「全部が一挙に」現成するのである。そして変化する場合も、ゲシュタルト・チェンジ(相貌変換)として知られているように、「全部が一挙に」変化するのである。この事は、「縁起の関係」が「意味上の関係」であるからこそ、可能なのである。(33頁)

 物事の変化とは予定調和的に因果関係に応じて次第に起こるものではない。部分が順番に変化するのではなく、全体が一挙に変化するということが変化の本質であるという著者の指摘は興味深い。ここで述べられている「意味上の関係」という点に注目し、意味とは何かという以下の部分を引いてみよう。

 <意味>というものは、それを「説明するもの」という<他>によって成り立つものなのであり、この連鎖は限りなく続く。「説明するもの」の中にある語の<意味>についても、同じことが言われるからである。それゆえ、意味の凝固体なるものは、それを理解しようとすれば、たちどころに全世界へと拡散されて、解体されてしまう(私はこれを、ものの「ウィトゲンシュタイン的解体」と呼びたい)。そしてここに、無自性=空の世界が現前するのである。この世を理解しようとすれば、われわれは、必然的に、無自性=空の世界を自覚せざるを得ないのである。したがって、「一々のものが、すべてのものにつながっている」というその<つながり方>は、意味連関の<つながり方>でなくてはならない。そして、それゆえにこそ、一挙に、宇宙の涯まで伝わっていくのである。こうして、意味の凝固体ーー結晶体ーーであるものは、同時に、宇宙全体に拡散するのである。(36~37頁)

 一つ一つの意味が独立して存在するのではなく、相互依存関係がここで指摘されている。こうした相互依存関係が続いていく中で、意味が連関し続けることで全体が関係することになる。したがって、部分の変化とはすなわち全体の変化を意味することになるのである。

 過去も未来も現在も、言語ゲームにおいて、初めて存在し得るのである。(40頁)

 意味を明らかにするためには、言語が必要となる。こうした言語は、ウィトゲンシュタインのいう言語ゲームに基づいて言明される。

 ウィトゲンシュタインも、言語ゲームの背後には踏み込まないのである。そこは、論理的に理解不可能な世界であるから。我々は、縁起の世界に踏みとどまるべきなのである(61頁)

 言語ゲームの背後を説明するためには新たなゲームが求められ、そのためには新たなゲームが、とループに陥ってしまう。そうではなく、ウィトゲンシュタイン自身もそれを所与の条件として論理立てているのであるから、私たちも受け入れてみてもいいのではないか。もちろん、それ以外の考え方も同時に持つことによって、多様な物事を把握することが可能になることは言うまでもない。

【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
【第292回】『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)
【第144回】『善の研究』(西田幾多郎、青空文庫、1911年)

2016年6月25日土曜日

【第590回】『ハード・シングス』(ベン・ホロウィッツ、滑川海彦・高橋信夫訳、日経BP社、2015年)

 九〇年代後半にインターネットを初めて体感した時分、ブラウザといえば「ネスケ」、つまり、ネットスケープであった。そのネットスケープが、マイクロソフト擁するIEと市場でしのぎを削っていた時期に、著者は同社でウェブサーバーの開発を担っていたという。その後、同社の売却後にベンチャーを立ち上げ、様々な困難(ハード・シングス)に直面しながら苦闘を続けて得られた生きた教訓が惜しげもなく披瀝されている。たとえば以下のような言葉だ。

 ひとりで背負い込んではいけない。自分の困難は、仲間をもっと苦しめると思いがちだ。しかし、真実は逆だ。責任のもっともある人が、失うことをもっとも重く受け止めるものだ。重荷をすべて分かち合えないとしても、分けられる重荷はすべて分け合おう。最大数の頭脳を集めよ。(98頁)

 この言葉は、ベンチャーのトップとして発信されたものではあるが、担当者レベルでも噛み締められるものであろう。自分自身が責任者として担っているプロジェクトであれば、自身が最もそのプロジェクトに知悉しているために、困難に対しても自分自身で解決しなければならないと思いがちだ。しかし、傍目八目という言葉にもある通り、プロジェクトに近すぎるためにすぐ見えるはずの解決策が見えないということはよくある。現状を厳しく見ることは重要だが、その責を過度に背負い込むのではなく、周囲に共有したりエスカレーションすることが、自分にとっても、また組織にとっても望ましい。

 次に、人材開発と組織開発の観点から興味深かった点を取り上げる。まずは人材開発から。スタートアップにおける教育プログラムに求められる二つの方法として挙げられているが、人材開発に積極的ではない多くの企業にとって参考になるだろう。

  • 機能教育を新規採用の条件にする。アンディ・グローブ曰く、マネジャーが社員の生産性を改善する方法はふたつしかない。動機づけと教育だ。よって、教育は組織のマネジャー全員にとって、もっとも基本的な要件である。この要件を強制する効果的な方法のひとつは、採用予定者向け教育プログラムを開発するまで、その部署の新規雇用を保留することだ。
  • 自分自身が教えることで、マネジメント教育を強制する。会社のマネジメントはCEOの職務である。すべてのマネジメントコースをCEOが教える時間はないだろうが、経営陣に求める要件のコースは教えるべきだ。なぜなら、それはCEOの期待にほかならないからだ。ほかのコースは、CEOのチームでもっとも優秀なマネジャーたちを選んで教えさせることによって、教育活動への貢献を誇りに感じるように仕向ける。そして、これも強制にする。(160~161頁)

 現場の人事を担当していると、採用には熱心だが教育には熱心でないマネジャーがいかに多いかに直面する。現場のマネジャーが嘱望する知識と経験のある中途入社社員であっても、入社後の教育は必要不可欠だ。即戦力などというものは少なくとも企業組織ではほぼ幻想であり、持っている知識と経験と、現場で求められるものには差分があるものだ。どこに差があるかを明確にし、それを埋める方策を考え、遂行することが、現場で求められる教育である。そうであるからこそ、入社後の教育を採用の付帯条件にするという著者の指摘は、シンプルにして的確なものである。

 また、トップ自らが率先垂範して教育を行うという点も刮目すべきだ。ジャック・ウェルチの頃からトップによる教育の重要性が謳われてきたが、GEのような超大手企業でないスタートアップでも同様であるという指摘は重要だ。さらに言えば、トップ自らが教えることと、その下のマネジャーが教えることを、HRは支援する必要がある。マネジメントが動かないからといってHRが何もしないというのは、職務放棄でしかない。自戒を込めて、心に強く留意したい至言である。

 次に、人材開発とセットで取り組むべき組織開発についても引用してみたい。とりわけ、組織デザインに関する指摘が参考になる。

 組織デザインで第一に覚えておくべきルールは、すべての組織デザインは悪いということだ。あらゆる組織デザインは、会社のある部分のコミュニケーションを犠牲にすることによって、他部分のコミュニケーションを改善する(262頁)

 そう、すべての組織変更には、ProsとConsが生じる。言われてみれば当たり前だが、断言されると組織替えに伴うデメリットに対する心の余裕ができるから不思議だ。では、ProsとConsをどうバランスして組織デザインを行うべきなのか。ありがたいことに著者は、263~264頁で以下の六つを挙げている。

  1. どの部分にもっとも強いコミュニケーションが必要か。
  2. どんな意思決定が必要なのかを検討する。
  3. もっとも重要どの高い意思決定とコミュニケーションの経路を優先する。
  4. それぞれの部門を誰が管理するかを決める。
  5. 優先しなかったコミュニケーション経路を認識する。
  6. あるコミュニケーション経路を優先しなかったことから生じる問題を最小限とするよう手を打つ。

 それぞれの観点から検討する必要はあるが、私たちが腹を括らなければならないのは、メリットの背景にはデメリットがある、という点である。したがって万能な組織デザインは不可能であるのだから、どのメリットに重きを置き、必然的に生じるデメリットをどうケアするかを考える必要がある。加えて、組織を変えるタイミングだけではなく、その後の日常におけるコミュニケーションにおいて、ケアし続けることを留意しなければならない。


2016年6月19日日曜日

【第589回】『西田幾多郎ー生きることと哲学』(藤田正勝、岩波書店、2007年)

 本書は西田幾多郎の著作を理解するための入門書である。入門書を以ってしても西田の哲学を理解することは難しいが、アプローチするためのヒントは本書にたしかにあるようだ。

 言葉で言い表すことは、経験の具体的な内容をある断面で切り、その一断面で経験全体を代表させることに喩えられる。その一断面から経験の全体を眺めたとき、両者のあいだに大きな隔たりがあることはすぐに気づかれる。そのあいだに無限な距離があると言ってもよいであろう。言葉には必ず事柄の抽象化が伴っている。(56頁)

 学問の本質の一つは抽象化にある。ある現象を言葉で表すためには、捨象と抽象とがセットで求められる。削ぎ落とされることによって、現象そのものと言葉で形容されたものとにはギャップが生じることは致し方ない。こうした哲学という学問の限界を踏まえた上で、私たちが取るべき態度を以下のように西田は示唆する。

 事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返して用いられる「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。(60頁)

 ある事柄自体を言語化によって客観的に把握しきれないのであれば、その事柄自体になって主観的に把握しようとする態度を併せ持つことだ。こうして西田は、客観と主観とをないまぜにした態度、つまりは学問的(客観的)態度と実践的(主観的)態度との両立を大事にしているのではないだろうか。主観と客観とが統合されるものとして、西田は「無の場所」という概念を提示する。

 「無の場所」は単に無であるのではなく、自己のなかに自己を投影するのである。しかもそれが投影される場所は、それ自身である。そのことを西田は、「自己の内容を映す鏡は亦自己自身でなければならぬ、物の上に自己の影を映すのではない」というように言い表している。
 ここでは「場所」が一つの鏡に喩えられている。通常は、自分の姿を映す者と鏡とは別のものである。しかしここでは、自己を映すものと映される場所とが一つである。全体が一つの鏡なのである。「無」である鏡がそれ自身のなかに形あるものとして自己を投影していくこと、そのことが『働くものから見るものへ』においては「自覚」と考えられている。
 そしてこの「自覚」を通して投影された形あるものが「判断」であり、「知」なのである。(96~97頁)

 自己のなかに自己を映す鏡があるという考え方によって、主体と客体という概念把握から離脱する。外の視点と内の視点とで交互に眺めることによって、主観か客観かではなく、どちらにも偏らず節度を保って判断することが可能になる、ということを提示しているのではないだろうか。その人生の末期に太平洋戦争を経験した西田にとって、こうした内と外の視点を持つということは重要だったようだ。

 西田が困難な時代のなかで、いま述べたような答を示しえたのは、彼が「外」からの眼をもった人であったということに深く関わっているように思われる。東洋と西洋の「はざま」という緊張をはらんだ場に立つことによって、西田は一方では、排他的な民族主義と帝国主義に対する批判の眼をもつことができたし、他方では「新しい世界文化の創造」について語ることができた。「内」を「外」に、「外」を「内」に映すことによって、新しい眺望を開いていったのである。(190~191頁)

 このような複眼的な思索を重視した西田であるから、京都学派と呼ばれる西田とその弟子たちによる学派は、西田の思想を絶対的なものとして解釈し踏襲するものではなかった。

 西田の「自ら思惟する」という信条とその実践から刺激を受けた人々のなかに、主体的に思惟する力が発火し、自らの思想を紡ぎだしていったその結果が、いわゆる京都学派であると言えるのではないだろうか。それは、まさに自立した思惟の飛び火であったがゆえに、多くの弟子は西田の思想を批判することも辞さなかったのである。むしろ批判することをバネにして周りの人々が自らの思想を紡ぎはじめたときに、はじめて知が飛び火し、燈火がともされたと言ってよいであろう。(186頁)

 知という開かれた態度が西田にあったということが大事であるとともに、彼のような素晴らしい師に対しても弟子たちが批判的精神を持って臨んだということも大事だ。優れた師であればこそ、自分自身の思想を批判的に論じてくる存在と、そうした人物たちとの対話を重視するのではないだろうか。このように考えると、師と弟子との相互に知に対するオープンマインドが必要であり、弟子の側には知的な文脈での躊躇は無用でありむしろ害悪と言えるだろう。


2016年6月18日土曜日

【第588回】『アライアンス』(リード・ホフマンら、篠田真貴子監訳、ダイヤモンド社、2015年)

 本書では働く個人と企業組織との心理的契約をコミットメント期間という概念で説明されている。個人と企業との新しい関係性と働き方を提示する好著だ。

 伝統的な大企業では、終身雇用のように超長期的な安定的な暗黙の労働契約が企業と個人との間で為されてきた。他方で、2000年頃からはフリーエージェントと呼ばれる短期的なプロジェクトに基づき、企業という枠組みに捉われない働き方も市民権を得てきた。本書で提示される「コミットメント期間」という考え方は、両者とは異なる第三の働き方であると言えよう。端的には、「長期的な関係のために定期的に仕事を変える」(Kindle No. 452)という考え方に基づいて、特定の期間におけるプロジェクトや職務をコミットメントとして個人と企業とで締結される。ベースとなる考え方は、「ミッションを期限内に成し遂げることに専念し、そこに個人の信用をかけている」(Kindle No. 467)であり、信用や信頼が鍵概念となる点に注目すべきだ。

 働き方を「いくつものコミットメント期間の積み重ね」という形に位置づけ直すと、起業家タイプの人材を惹きつけ、自社で働き続けようと思ってもらいやすくなる。トップレベルの人材を雇いたい時も、得られるメリットと成功の果実が明快に見える「コミットメント期間」を提示するほうが、「貴重な経験ができますよ」などとあいまいな約束をするより説得力がある。魅力的なコミットメント期間を設計できれば、「個人としてのブランド力」を高める具体的な道筋を示すことになる。自社にいる間も他社で働くことになっても通用するような個人ブランドだ。特定のミッションを統括する、実際のスキルを取得する、新たな関係を構築するなど、具体的な内容を「コミットメント期間」ではっきりと見せることができる。(Kindle No. 477)

 働く個人がプロフェッショナルとして顧客や自組織に貢献する上で、コミットメント期間を一つひとつ積み重ねていくという考え方はわかりやすい。現代における日本での企業実務の観点からすれば、ある時点におけるコミットメントは一つの職務に限定されるのではなく、複数のコミットメントが絡み合うことになるだろう。一つひとつのコミットメントが魅力的なものであれば、職務やプロジェクトを通じて個人は自分自身を磨くことができる。企業の立場から見れば、魅力的なコミットメント期間を提示することで、優秀な人材をリテインするということが求められる。そうでなければ、優秀な人材は他の企業における魅力的な役割に逃げてしまうだろう。コミットメント期間を提示することが個人に離職を促すことになるのではないかという見解もあろうが、著者らは以下のようにその前提となる考え方を否定する。

 本書執筆のために話をしたマネジャーの中には、コミットメント期間という枠組みが社員の離職を「あらかじめ許す」ことにならないかと心配する向きもいた。だが、離職は会社側が許す・許さないと決められるものではない。そのような権限が会社にあると思うのはただの自己欺瞞であり、社員との間に不誠実な関係を生み出すことにつながる。本当は、社員が転職するのに会社の許可はいらない。会社にその権限があると主張してみたところで、彼らは会社に隠れて転職活動をするだけのことだ。(Kindle No. 491)

 辛辣な主張にも一見思えるが、事実が端的に指摘されていると言えるだろう。企業が優秀な人材を惹きつけるためには、外的な報酬というよりもコミットメント期間によって提示される内的な報酬が必要不可欠だ。だからこそ企業は、もっと具体的に言えば、すべてのマネジャーは、部下にとって魅力的なコミットメント期間を用意することが求められる。

 こうしたコミットメント期間という考え方を基にすれば、マネジャーと部下との関係性のあり方も変わってくる。第一には、パフォーマンスマネジメントである。

 コミットメント期間を導入すると、従来型の年次ベースの業績評価はほとんど無意味になる。カレンダーではなくコミットメント目標がコミットメント期間を規定するからだ。(Kindle No. 1109)

 年初に目標を設定し、中間時点でフォローし、期末に評価を行う。私たちはこうした年間ベースでのパフォーマンスマネジメントを当たり前のものとして扱ってきたが、近年ではグーグルでの事例を一つの嚆矢として評価を考え直す時期に来ている。そうした中で、上記に引用しているように、評価をなくすのではなく、評価の捉え方を年間という期間ではなくコミットメント期間に基づいて行うというのは合理的であろう。

 パフォーマンスマネジメントにおける期間が変わることで、第二に、マネジャーと部下とのコミュニケーションの有り様も変わる。

 世のマネジャーの大半は、部下の「管理」に多大な時間を割いているが、率直な対話を行い、具体的な期待水準を合意するためのしっかりした枠組みはない。コミットメント期間という枠組みを使えば、あいまいかつ暗黙の「対話」プロセスを体系化し、はっきりと言語化することができる。(Kindle No. 567)

 時季的な期間に基づいたコミュニケーションでは、個別的かつ具体的なフィードバックが難しい局面が生じる。あるプロジェクトが中途半端な状態ではそれを以ってフィードバックすることは難しい。しかし、コミットメント期間に基づいていれば、職務の区切れやタイミングに応じて評価に関するフィードバックを行うことができる。職務と適合したフィードバックであれば、マネジャーは自然と行いやすく、また個人にとってもすんなりと受け容れやすい。評価によって業務の遂行をすすめるという、パフォーマンスマネジメントの字義通りの本旨に即した運用ができるのである。

 第三に重要なのは、マネジャーと部下という関係性が大事でありながらも、その起点は働く個人の側にあるという点である。

 コミットメント期間は上司がすべてを設計するのではなく、本人が中心となって設計作業を進める必要がある。(Kindle No. 714)

 何もかも企業やマネジャーが働く個人に付与するというのは、従来型の企業における人事管理・人的資源管理の思想である。そうではなく、働く個人と企業とが対等なパートナーシップによって価値を創造する考え方に基づけば、企業側が成長の機会を提供する一方で、個人側はチャレンジを提供する。こうした相互の努力の重なり合いが、現代の企業における価値共創のあり方なのではないだろうか。

2016年6月12日日曜日

【第587回】『定本 柄谷行人集 第1巻 日本近代文学の起源』(柄谷行人、岩波書店、2004年)

 著者の評論を理解することは決して容易なものではない。しかし、読み応えがあり論理的でもあるために、著者の文章は各大学の現代文の試験に課されることが多いのであろう。

 国木田による風景の発見、旧来の風景の切断は、新たな文字表現によってのみ可能だった。『浮雲』(明治二〇ー二二年)や『舞姫』(明治二三年)に比べて目立つのは、独歩がすでに「文」との距離をもたないようにみえることである。彼はすでに新たな「文」に慣れている。それは、言葉がもはや話し言葉や書き言葉といったものではなく、「内面」に深く降りたということを意味している。というよりも、そのときはじめて「内面」が直接的で現実的なものとして自立するのである。同時に、このとき以後「内面」を可能にするものの歴史的・物質的な起源が忘却されるのだ。(66頁)

 言葉というものに着目すると興味深いことがわかるようだ。言葉を紡ぐという行為は、現実の一部分をある観点で描き出すことだからである。風景を言葉によって描くことができるようになってはじめて、風景と人間との境目に意識が向くようになる。そうすることで、その結果として人間の内面を描写することができるようになった。いったんできるようになると、風景を描くことや内面を描くことが当たり前のこととなり、それができなかった以前の状態を忘却してしまう。これが言葉で表すことの不思議さであろう。


2016年6月11日土曜日

【第586回】『人生のほんとう』(池田晶子、トランスビュー、2006年)

 小気味が良く機知に富んだ軽快なタッチでありながら、著者の主張する内容は難解である。読み心地を楽しみながら、わからない部分はあれこれ悩まずにさっと読み、あとから再読するということがいいのではないか。私にとって、三度目となる読書でも、わからない部分は多くあるが、以前とはまた違う読書体験であった。

 思い出とは何か。誰も自分が思い出したいことだけを思い出します。その意味で、過去そのもの、客観的な過去なんていうものはないわけです。(中略)しかし、思い出したいことも思い出したくないことも、すべて「現在」として、意識には現存しています。「現在」として、この意識に現存しているわけです。思い出そうが思い出すまいが、それがすなわち自分の人生、全人生ということなのだから、その意味ではそれを客観と言ってもいいでしょう。ここで初めて客観という言葉を使っていいと思います。
 自分の人生というのは、主観としての客観、そういう不思議な存在です。人生というのは、存在として、そういう不思議な構造になっています。そういう自分の人生を解釈により再構成し、意味づけし、物語化したものが、いわゆる自分史というものでしょう。(79頁)

 自分を振り返るということは、自身のキャリアを考える上で重要な一つの要素である。どれだけ事実に基づいて振り返ろうとしても、そこには主観的な取捨選択が為されて物語として思い返すことになる。意識的に忘れるということもあるだろうし、他者に見せないものであっても第三者に被したくてアウトプットしないということもある。しかし、そうした主観的な意思決定が含まれていながらも、そうした存在自体が現在の時制において生じるという事実からすると、主観的意識も含めて客観的な認識であるというアクロバティックな主張が興味深い。ここに、主観と客観という、常識的には相反する概念の相互依存関係が指摘されている。

 このような緩やかな筆致のなかで、緊張感やハッとさせられるものを楽しみたい方には、ぜひ一読を推薦したい書である。


2016年6月5日日曜日

【第585回】『はじめての哲学史』(竹田青嗣・西研編、有斐閣、1998年)

 どのような分野であれ、教科書を編むということは難しい作業であろう。他の碩学からの批判に耐えうるものにしなければならず、だからといって消極的な物言いになってしまうと読者が少なくなる。ましてや哲学というジャンルにおいて、その歴史を編むということは私たちの想像を超える困難があったのではないだろうか。両編著者の書籍を好む身として、本書を再び紐解くことになったのであるが、編集の苦労も垣間見える一方で、さすがと唸る意欲的な解説も随所に見られる一冊である。

 特に素晴らしいと感じ入ったのは、哲学という概念の方法上の特質を三つに定義付けている以下の箇所である。

 ①「物語」を使わず、抽象概念を使って世界説明をすること。
 ②世界説明を「原理」、つまり世界を作りなす「根本原因」または「根本の理由」を突き止める、という仕方で行うこと。
 ③前の説を踏襲しないで、必ずはじめの一歩から考え直すこと。(5頁)

 ①は宗教の構成要素である神話を用いないという意味で、宗教と哲学との違いを端的に表すものである。その上で、事実を逐一列挙せずに、抽象的な概念だけを用いて世界を一つの解釈として説明できる原理を提示するというのが②である。その上で、科学における研究のように他の説を踏襲するという態度ではなく、ゼロから創り上げるという③の特徴が付加されている。このように定義づければ、私たちが社会の中で生きていく上で、一つの物差しや解釈を提供してくれる存在であることがわかるだろう。つまり、あやふやな議論を「哲学的」と誤用するようなことは避けられるのではないだろうか。哲学は、人生で「使える」ものなのである。

 つねに時代の必要に合わせて世界像を編み直す、という行為を意味している。(8頁)

 人生で「使える」存在としての哲学であるのだから、それは時代や環境が変われば、解釈の有り様も変わり、したがって新しい哲学が生まれることになる。時代の要請によって新たな思想は生まれるものであり、宗教が対象とする存在以外の重要なものとして哲学は創られるものなのである。換言すれば、後世から以前の時代に生まれた哲学を意味がないものとして見做すことは必ずしも正しい行為ではない。ある時代における世界の解釈として機能したものが、未来永劫機能するわけがないからである。私たちが哲学を学ぶ際には、その哲学が生じた時代や環境といった背景を踏まえること。文脈と合わせて哲学を理解することができれば、逆説的に、現代には直接的に適用できないものであっても、何らかの解釈に役立たせることができるかもしれない。

 こうした哲学における原理思考が現代においては弱くなってきていると著者たちは警鐘を鳴らす。そのうえで、原理思考が弱まることで、相対的にイデオロギー的思考が差配する領域が広がっているとしている。

 イデオロギー的思考とは、何が善で何が悪かを、あらかじめ理念型として設定したうえで、さまざまな具体的事態について、これは善、これは悪と判定するような思考の型である。(17頁)

 善悪を内包しているイデオロギー的思考は、ある意味で受け取る側にとっては楽な思考様式である。つまり、自分自身で考えることを放棄して、特定のイデオロギー的思考に自身の判断を委ねることができ、その主張者が否定するものには反対を、肯定するものには賛成すれば、あたかも自分で考えて行動しているかのようにできるからである。しかし、アーレントの指摘を見れば自明なように、そうした安易な考え方が、全体主義を生んだという歴史的な事実をよく考える必要があるだろう。

2016年6月4日土曜日

【第584回】『罪と罰(下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)

 登場人物のキャラが固まっていて勧善懲悪のようにシンプルな物語が展開する小説も心地よいが、様々な人物が多様な内面を曝け出して関係性が複雑になるものもいいものだ。片仮名の人物名に苦慮しながらも、本書を読みながら、そう思った。

 ピョートル・ペトローヴィチは、貧から身を起しただけに、病的なまでに自惚れのくせがつき、自分の頭脳と才能を高く評価していて、ときには、一人きりのときなど、自分の顔を鏡にうつして見惚れていることさえあった。しかし彼がこの世の中でもっとも愛し、そして大切にしていたものは、苦労をし、あらゆる手段をつかってたくわえた財産だった。それが彼に自分よりも上のすべての人々と肩を並べさせてくれたのである。(63~64頁)

 この人物は、決して「いい人」として描かれているわけではない。しかし、苦心しながら努力をし続けて、世間的な意味で「成功」したと称される結果を残している人物が、どのようにその努力を位置づけるのか、ということを考えさせられる。程度や領域の差異やセンスの良し悪しはあるだろうが、努力という目に見えないものを外化し、過剰にそれに価値を置いてしまうということは、時に人が行ってしまうものなのではないだろうか。

 「権力というものは、身を屈めてそれをとる勇気のある者にのみあたえられる、とね。そのために必要なことはただ一つ、勇敢に実行するということだけだ!そのときぼくの頭に一つの考えが浮んだ、生れてはじめてだ、しかもそれはぼくのまえには誰一人一度も考えなかったものだ!誰一人!不意にぼくは、太陽のようにはっきりと思い浮べた、どうしていままでただの一人も、こうしたあらゆる不合理の横を通り過ぎながら、ちょいとしっぽをつまんでどこかへ投げすてるという簡単なことを、実行する勇気がなかったのだろう!いまだってそうだ、一人もいやしない!ぼくは……ぼくは敢然とそれを実行しようと思った、そして殺した……ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニャ、これが理由のすべてだよ!」(302~303頁)
 ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ!あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!(306~307頁)

 自らの罪を信頼できる他者に伝える主人公。罪を正当化しようとする気持ちと、それによって自分自身を傷つけて苦しむ気持ちとを、同時に吐露している。殺人は許される行為でないことは当たり前。しかし、社会的正義という名の下に何らかの対象に殺意を抱くことは心理的にはあり得ることではないか。そうした留保を踏まえた上で、殺害対象の正当性がもしあったとしても、その結果として自分自身までをも殺すことになることに自覚的であるべきだろう。

 これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。この事件には書物の上の空想があります、理論に刺激された苛立つ心があります。そこには第一歩を踏み出そうとする決意が見えます、しかしそれは一風変った決意です(384~385頁)
 あのような一歩を踏み出したからには、勇気を出しなさい。そこにあるのはもう正義ですよ。さあ、正義の要求することを、実行するのです。あなたが信じていないのは、わかっています。が、大丈夫です、生活が導いてくれます。いまに自分でも好きになりますよ。いまのあなたには空気だけが必要なのです、空気です、空気ですよ!(394~395頁)

 主人公の罪を明らかにしようと度々対峙する判事による説諭のシーンである。それまでの対峙のシーンはお互いに本心を明かさずに探り合うという「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」のようなスリリングなものであるのに、最後だけは違う。物証がないということもあるのであろうが、罪に対する是非を問うのではなく、主人公に罰を受け容れる勇気を持てというところに強さと優しさを感じられないだろうか。