2016年6月26日日曜日

【第591回】『<自己>の哲学 ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎』(黒崎宏、春秋社、2009年)

 後期のウィトゲンシュタインの思想を中心に、鈴木大拙や西田幾多郎など様々な思想家・哲学者を縦横無尽に関連付けながら述べた意欲作である。すべてを理解しようとすると骨が折れるかもしれないが、興味深く読めるところをつまみ食いするように読むのはいかがだろうか。

 時間の経過を追って順次に、近接作用的に、ではなく、過去も未来も、そして宇宙の涯までも含めて、「全部が一挙に」現成するのである。そして変化する場合も、ゲシュタルト・チェンジ(相貌変換)として知られているように、「全部が一挙に」変化するのである。この事は、「縁起の関係」が「意味上の関係」であるからこそ、可能なのである。(33頁)

 物事の変化とは予定調和的に因果関係に応じて次第に起こるものではない。部分が順番に変化するのではなく、全体が一挙に変化するということが変化の本質であるという著者の指摘は興味深い。ここで述べられている「意味上の関係」という点に注目し、意味とは何かという以下の部分を引いてみよう。

 <意味>というものは、それを「説明するもの」という<他>によって成り立つものなのであり、この連鎖は限りなく続く。「説明するもの」の中にある語の<意味>についても、同じことが言われるからである。それゆえ、意味の凝固体なるものは、それを理解しようとすれば、たちどころに全世界へと拡散されて、解体されてしまう(私はこれを、ものの「ウィトゲンシュタイン的解体」と呼びたい)。そしてここに、無自性=空の世界が現前するのである。この世を理解しようとすれば、われわれは、必然的に、無自性=空の世界を自覚せざるを得ないのである。したがって、「一々のものが、すべてのものにつながっている」というその<つながり方>は、意味連関の<つながり方>でなくてはならない。そして、それゆえにこそ、一挙に、宇宙の涯まで伝わっていくのである。こうして、意味の凝固体ーー結晶体ーーであるものは、同時に、宇宙全体に拡散するのである。(36~37頁)

 一つ一つの意味が独立して存在するのではなく、相互依存関係がここで指摘されている。こうした相互依存関係が続いていく中で、意味が連関し続けることで全体が関係することになる。したがって、部分の変化とはすなわち全体の変化を意味することになるのである。

 過去も未来も現在も、言語ゲームにおいて、初めて存在し得るのである。(40頁)

 意味を明らかにするためには、言語が必要となる。こうした言語は、ウィトゲンシュタインのいう言語ゲームに基づいて言明される。

 ウィトゲンシュタインも、言語ゲームの背後には踏み込まないのである。そこは、論理的に理解不可能な世界であるから。我々は、縁起の世界に踏みとどまるべきなのである(61頁)

 言語ゲームの背後を説明するためには新たなゲームが求められ、そのためには新たなゲームが、とループに陥ってしまう。そうではなく、ウィトゲンシュタイン自身もそれを所与の条件として論理立てているのであるから、私たちも受け入れてみてもいいのではないか。もちろん、それ以外の考え方も同時に持つことによって、多様な物事を把握することが可能になることは言うまでもない。

【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
【第292回】『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)
【第144回】『善の研究』(西田幾多郎、青空文庫、1911年)

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