2016年6月12日日曜日

【第587回】『定本 柄谷行人集 第1巻 日本近代文学の起源』(柄谷行人、岩波書店、2004年)

 著者の評論を理解することは決して容易なものではない。しかし、読み応えがあり論理的でもあるために、著者の文章は各大学の現代文の試験に課されることが多いのであろう。

 国木田による風景の発見、旧来の風景の切断は、新たな文字表現によってのみ可能だった。『浮雲』(明治二〇ー二二年)や『舞姫』(明治二三年)に比べて目立つのは、独歩がすでに「文」との距離をもたないようにみえることである。彼はすでに新たな「文」に慣れている。それは、言葉がもはや話し言葉や書き言葉といったものではなく、「内面」に深く降りたということを意味している。というよりも、そのときはじめて「内面」が直接的で現実的なものとして自立するのである。同時に、このとき以後「内面」を可能にするものの歴史的・物質的な起源が忘却されるのだ。(66頁)

 言葉というものに着目すると興味深いことがわかるようだ。言葉を紡ぐという行為は、現実の一部分をある観点で描き出すことだからである。風景を言葉によって描くことができるようになってはじめて、風景と人間との境目に意識が向くようになる。そうすることで、その結果として人間の内面を描写することができるようになった。いったんできるようになると、風景を描くことや内面を描くことが当たり前のこととなり、それができなかった以前の状態を忘却してしまう。これが言葉で表すことの不思議さであろう。


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