2011年9月25日日曜日

【第45回】『心を整える。』(長谷部誠、幻冬社、2011年)

 二十代半ばにして自己管理の術(すべ)を深く会得し、他者が読んで分かるレベルにまで言語化していることに脱帽する。以前、著者と同じくサッカー日本代表の本田選手がメディアで注目され始めた頃に彼の記事を読んだ時にも同じような感覚を抱いたものである。若い時分からプロフェッショナルとしてスポーツに対峙し、厳しい環境を自ら求めて挑戦し、成功と失敗を繰り返す中で己と向き合い続けた結果として得られるものなのかもしれない。

 状況を前向きに捉える考え方にポジティヴ・シンキングというものがある。私もその考え方じたいを否定するつもりはない。しかし、いわゆるネアカな性質を持つ人間がポジティヴ・シンキングの重要性を他者に説いたところで、ネアカでない人間がポジティヴ・シンキングに変えることはできないだろう。また、ネアカな人ほど失敗して落ち込んだ際に、そうした経験が少ないために回復できないというリスクもあるかもしれない。したがって、無理にポジティヴ・シンキングを身に付けるという必要性はないだろう。

 それではどうするか。著者が述べる自己管理の考え方の要諦は「常に最悪を想定する」という言葉にまとめられていると言えるのではないだろうか。つまり、無理に現状や未来についてポジティヴに捉える必要性はないのである。私は、ポジティヴ・シンキングよりも著者のこのような考え方の方が多くの人々に受け容れられ易いものだと考える。

 「最悪を想定する」ということは、「弱気になる」というネガティヴ・シンキングの発想と誤解を受けやすいが、そうではないと著者は言う。そうではなくて、「何が起きてもそれを受け止める覚悟があるという「決心を固める」作業」という意味合いである。単に事態を前向きに捉えるというだけではともすると状況を受動的に捉え、挑戦の少ない成り行き任せな行動へと繋がってしまう。しかし、著者のような考え方であれば、物事を主体的に捉え、挑戦の過程で得られる人間的な深みを感じる。

 このような著者の考え方は五木寛之さんが『他力』の中で引用しているブッダの考え方に近いと言えるだろう。ブッダは究極のネガティヴ・シンキングから出発して、人間存在を積極的に肯定する境地に至った。つまり、ネガティヴ・シンキングでもがき苦しむ過程を経てこその受容が重要であり、ただ単に考え方をポジティヴにするということにあまり意味はないのだろう。

 孔子やニーチェを読んでいる著者であるから、ブッダも読んでいるのだろう。いずれにしろ、挑戦しながら深く考える著者であるからこそ、教養あふれる言葉の数々を咀嚼して分かりやすく言葉として紡ぐことができるのであろう。

2011年9月17日土曜日

【第44回】『マネジャーの実像』(H・ミンツバーグ著、日経BP、2011年)

 私が生まれる前に書かれた著者の『マネジャーの仕事』も興味深かったが、本書もまた興味深い内容であった。読後の所感としては、前作と今作とでの主要な主張点には近しいものがあると私には思える。

 おそらく、その背景にはマネジャーの役割が以前と今とで変わらないという現実があるからだろう。著者は「私たちは、変化しているものしか目に入らない。しかしほとんどのものは、昔と変わっていない」と指摘し、「マネジャーの仕事はずっと変わっていないのだ」と断言している。

 そうであればこそ、新たにマネジャーになる方々が苦労をするということに今昔の差はない。コミュニケーションツールが整備され、研修が用意されていても、新たな役割を担う際の大変さは変わらないということである。

 この指摘は、数年前まで「新任管理職研修」を開発したり売っていた身として、身につまされる思いがする。むろん、その手の管理職研修が全く役に立たないとは思わない。しかし、管理職研修で扱うフレームワークは、それを仮説的に用いて自身の経験を整理する上では有効であるが、経験がない中でフレームワークをインプットしてもそれほど助けにはならないのかもしれない。少なくとも、同じフレームワークを他のマネジャーにもインプットして、新任のマネジャーがそれを使えるように継続的に学び合えるしくみを同時に整備する必要はあるだろう。

 また同様に、目標管理制度の導入・浸透のコンサルテーションを行っていた身として、マネジャーが業務目標を立てることの難しさに関する指摘も自身を省みて感ずることが多かった。とりわけ、「ビジョンなき目標設定は、組織の能力をおとしめかねない」との指摘には恐れ入る。また、ビジョンとの整合性があり、つまり経営からのカスケーディングがしっかりしていたとしても、それを部下にそのまま落とすことは自分の責任を部下に転嫁する行為に他ならないという。

 マネジャーの身になって考えみよう。上からは戦略や理念との整合性を求められ、下へは難しすぎず容易すぎない納得感のある目標を設定しろ、と突き上げられる。マネジャーという役割における目標管理制度の運用の難しさは、私のような部下側の人間が想像する以上の高いプレッシャーが掛かっている重大事であるに違いない。

 マネジャーは、こうした目標設定を足がかりに、部下の行動を観察し、指導し、評価し、育成を支援するというマネジメントサイクルを回すべし、と研修では言われる。その通りではある。しかし、上記のサイクルを想起するとスタティックなものが想像されるが、現場ではマネジャーは行動が求められる。しかも、変化に富み、同じ仕事に長い時間をかけられず、差し込みが多い、という極めてダイナミックな現場である。そうした状況であるために、著者もマネジャーの行動志向の強さを指摘している。実際、マネジャー自身も「動きと変化と流れのある活動、目に見えて、最新で、定型業務でない活動をしがたる」という傾向を持っているそうだ。私自身、修士課程論文を執筆する際に、数社の管理職・中堅層・ジュニア層という三つの類別の方々に対してインタビュー調査を行ったが、この傾向には同感である。

 ではこのようなマネジャーという役割に適した人物はどのような人間なのだろうか。やや長い引用となるが、著者によれば「マネジャーとして最も成功を収めるのは、環境に合わせてスタイルを変えたり、自分のスタイルに合わせて環境を変えようとしたりする人物ではなく、ましてや、あらゆる環境で通用するスタイルをもっていると自負する「プロの」マネジャーでもなく、それぞれの環境に適したスタイルを元々もっている人物なのかもしれない」そうだ。つまりは、小手先の対人対応力や環境適応力といったスキルに関するものではなく、人格レベルの適性が求められるということであろう。

 そうであるならば、私たちには、自社において求められるマネジャーの人材要件をしっかりと定義し、それに合致した人材を早期に選別し、長い年月をかけて育成する、という壮大なしくみを構築することが求められているのかもしれない。著者の主張を私なりに斟酌すれば、既存のありものの人材要件をそのまま適用したり、画一的なシステム構築を行ったり、浅薄なスキルトレーニングを行うといった類いの無意味さは言うまでもないだろう。

2011年9月11日日曜日

【第43回】『日本の歴史をよみかえす(全)』(網野善彦著、筑摩書房、2005年)

 歴史に関する網野さんの一連の著作は、歴史を歴史として学ぶということではなく、現代社会に歴史がどのような影響を与えているのか、という深い視座を与えてくれる。いわば、歴史を透徹して現代を明かす、ということであろうか。

 まず興味深い点は、畏怖の対象としての存在が、時を経るにしたがって賎視の対象となっている点である。歴史の物語で「太郎丸」などというような幼名が出てくるだろう。こうした名前に「丸」をつける風習は、世俗の境界にいる存在にも行われていたらしい。たとえば、現代でも残っている風習であるが、船に「〇〇丸」という名前を付けることが挙げられる。船には、人知の及ばない危険な世界である海へと旅立つ際に人間が命を託すものであり、そのために呪的な力を与えるために「丸」という名前を付けたのであろう。

 しかし、時代が下る過程で畏怖は賤視へと変わる。鎌倉新仏教が世俗の境界にあり救いの対象としていた遊女や博奕打、また現代で言うところの非差別部落に対する畏怖の視線は十六・七世紀頃から蔑視の視線へと変わったのである。たしかに、これは当時の政権が社会政策の一環として差別対象を設けた、という初等中等教育課程で私たちが学んだ背景があることも事実であろう。しかし、畏怖の対象とは社会と自然との関係性からくるものである。したがって、社会と自然との関係性の大きな転換が、畏怖の対象が賤視の対象へと転換したという著者の指摘は首肯するところが多いと言えるだろう。

 こうした統治主体を考える際には天皇制とを不可分に捉えるわけにはいかないだろう。近代化の果てに形成された国民国家としての日本という概念ではなく、より広い概念としての「日本」の形成過程で天皇という称号が定着したわけであるが、著者によれば、その時期は天武・持統朝の頃からであると言う。さらに言えば、「日本」という国号も、その頃に「発明」されたものであるそうだ。すなわち、縄文人や弥生人はもとより、卑弥呼や聖徳太子は「日本人」ではないのである。アンダーソン流に言えば、卑弥呼や聖徳太子を「日本人」として概念規定することは、「国民教育」の結果として私たちに想像的な共同体観念を植え付けられただけなのだろう。

 こうした天皇制を職の体系の一つの重要な要素として著者は位置づける。つまり、摂政や関白をはじめとした官職のトップに位置するものとして、いわば「天皇職」が創造、定着したというのである。さらに、天皇が世襲制になったことはすなわち、他の官職をはじめとした職業が世襲制になったことにも大きな影響を与えている。その結果として、静的な職業体系が成立したわけであろう。

 この結果として生じた興味深い点は、天皇の地位の安定的な世襲と、実質的に天皇の実務的な職能を行う権力主体との分離現象である。河合隼雄さんの、アメリカをはじめとした権力主体の集中で国家を形成する中心社会と、権力主体の周囲が実質的な権力を握る中空社会との対比で言えば、日本は後者として機能しているのである。であるからこそ、古くは天皇の周囲にいる摂政や関白が権力を掌握し、天皇が任命する征夷大将軍が幕府を開いて統治を行い、天皇を輔弼する軍部が実権を握ることが可能であったのである。

 穿った見方をすれば、世襲制である以上、パフォーマンスの低い存在が生じる事態を想定し、それを補佐する存在を選別する制度を作り上げてきた歴史であるとも読み取れよう。ポジティヴに捉えれば、絶対的な権力主体を設けないことは、物事に対して柔軟に対応し、しなやかな変化を受け容れられる国家形態を構築してきたとも考えられるかもしれない。

2011年9月10日土曜日

【第42回】自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート著)

最近、ある方に本書をお勧めする機会があったので改めて読みたくなりました。

本を読む際にいつ読んだのかを記録する癖が私にはあります。本書の背表紙を見ると、2007年1月を皮切りに、同年11月、2008年9月、2009年7月、2010年7月に読んでおり、今日(2011年9月)は6回目のようです。再読が好きな人間ではありますが、これほど繰り返して読んだ本はこれ以外にはないでしょう(もちろん、修士論文を書く際に何度となく熟読した学術書は除きますが...)。

自己啓発やコミュニケーションに関する本は、ある時期を境にどうも浅薄に感じるものが多く、書店でパラパラと目を通すだけで全く買わなくなりました。そんな状況でこれだけ再読してもまだ気づかされる本があるというのは、ありがたいことです。

今回も読んでいていろいろと考えさせられました。しきりと反省することばかりですが、不思議と読み終えての読後感は爽快です。

2011年9月3日土曜日

【第41回】『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸著、講談社、2011年)

 特定の宗教を持たない身としては、宗教に対しては「信じる」というよりも「学ぶ」という態度で臨むこととなる。本書は、こうした態度を取る私のようなタイプの人間には向いているだろう。「はじめに」で大澤さんが書かれているが、橋爪さんはキリスト教をはじめとした諸宗教について造詣の深い比較宗教学者であるため、一歩引いた視点で述べているからである。

 学問として捉えたときに、宗教という対象は興味深い。宗教は人の考え方、態度、生活その他様々なものに影響を与える究極的なパラダイムであるとも言えるだろう。本書ではキリスト教について、ユダヤ教やイスラム教、また「日本」という国民国家を形成する思考形態とを比較しながら、多様な視点で書かれている点が面白い。


 まず、多神教と比較した一神教という観点である。


 橋爪さんの言葉をそのまま引用すれば、多神教における神(神様)とは人間の仲間である。日本における八百万の神様をイメージすれば想像することは容易いであろう。したがって、多神教の社会においては、神からの視点で物事を捉えるというよりは、あくまで人間を中心とした視点で物事を捉えることになる。


 他方、一神教における神(God)は人間ではない。Godは人間の仲間ではなくまったくのアカの他人にすぎない。そうであるからこそ、一神教ではアカの他人であるGodは人間を「創造する」ということになる。一人しかいないGodの視点から世界を視ることになる。人間を、そして世界を創造するGodという全知全能の存在であるからこそ、一神教の社会ではGodとの対話が成り立つ。これが祈りである。しかし、全知全能のGodが創り出す世界を全知全能でない人間が理解しきることは不可能である。したがって、Godとの対話には終わりがなく、不断の対話という試練を通じて、将来の理想的な状態へと至る道程を受容して人間は生きることになる。


 一神教であるキリスト教の大本となっているものは、同じく一神教であるユダヤ教である。では、ユダヤ教とキリスト教の違いは何であろうか。


 両者を分つ最も大きな存在がイエス・キリストである。ノアの箱船というGodの直接介入によって多大な処罰を受けた人類が改善せずにいる中で、Godの描くルール通りに行動しない人類の罪を究極的に解消するための装置としてイエスは存在した。


 ここには契約の概念が活きている。契約とはこうだ。冤罪に近い罪によって磔刑にあったイエスには人類に対する復讐の資格がある。しかし、その復讐の資格をイエスが放棄するというキリスト教の論理は、人類全体を赦されるという契約の更新の意味合いを持たせているのである。したがって、人類にはGodと元々結んだ契約を充分に遂行していないという原罪があるが、イエスの磔刑と復活による契約の更新によって、人類全体が赦されるということになるのである。


 こうした宗教観による世界観は、法制度にも影響を与えている。本書では、イスラム教とキリスト教とを比較している。


 イスラム教には宗教法がある。宗教法とはすなわち、世界にいる人間への神の配慮を言語化したものである。したがって、イスラム社会における優れた知識人は、宗教法の解明と発展を行おうと考えるし、新たに法律を制定するということは考えない。


 それに対して、キリスト教には宗教法は存在しない。宗教法がないために、なにをすべきかどうかについての自動的な解答は存在しない。したがって、人々は途方に暮れ、いわばやむなく創意工夫を行って、神学や哲学、自然科学を用いてGodの創出した世界の論理を解明しようとする。


 その結果として、現実世界に合致させるかたちで法律を新たに創ることができる。これは宗教法のない日本も同様の状況であるが、経済成長を為すためには大きなポイントである。すなわち、変化する経済にあわせるためには、イスラム社会のように新たな法律を制定できないことは極めて不利である。それに対し、宗教法がなく新たな法律を創り出すことに抵抗感がない、キリスト教圏や日本が有利になることは、宗教と法律の観点からも説明できるだろう。


 宗教観が世界観を創り、それが日々の生活や経済社会システムへと影響を与える。その概況を、対談を通じて読ませる本書はキリスト教をはじめとした宗教一般を理解するために優れたテクストの一つであると言えるだろう。