学問として捉えたときに、宗教という対象は興味深い。宗教は人の考え方、態度、生活その他様々なものに影響を与える究極的なパラダイムであるとも言えるだろう。本書ではキリスト教について、ユダヤ教やイスラム教、また「日本」という国民国家を形成する思考形態とを比較しながら、多様な視点で書かれている点が面白い。
まず、多神教と比較した一神教という観点である。
橋爪さんの言葉をそのまま引用すれば、多神教における神(神様)とは人間の仲間である。日本における八百万の神様をイメージすれば想像することは容易いであろう。したがって、多神教の社会においては、神からの視点で物事を捉えるというよりは、あくまで人間を中心とした視点で物事を捉えることになる。
他方、一神教における神(God)は人間ではない。Godは人間の仲間ではなくまったくのアカの他人にすぎない。そうであるからこそ、一神教ではアカの他人であるGodは人間を「創造する」ということになる。一人しかいないGodの視点から世界を視ることになる。人間を、そして世界を創造するGodという全知全能の存在であるからこそ、一神教の社会ではGodとの対話が成り立つ。これが祈りである。しかし、全知全能のGodが創り出す世界を全知全能でない人間が理解しきることは不可能である。したがって、Godとの対話には終わりがなく、不断の対話という試練を通じて、将来の理想的な状態へと至る道程を受容して人間は生きることになる。
一神教であるキリスト教の大本となっているものは、同じく一神教であるユダヤ教である。では、ユダヤ教とキリスト教の違いは何であろうか。
両者を分つ最も大きな存在がイエス・キリストである。ノアの箱船というGodの直接介入によって多大な処罰を受けた人類が改善せずにいる中で、Godの描くルール通りに行動しない人類の罪を究極的に解消するための装置としてイエスは存在した。
ここには契約の概念が活きている。契約とはこうだ。冤罪に近い罪によって磔刑にあったイエスには人類に対する復讐の資格がある。しかし、その復讐の資格をイエスが放棄するというキリスト教の論理は、人類全体を赦されるという契約の更新の意味合いを持たせているのである。したがって、人類にはGodと元々結んだ契約を充分に遂行していないという原罪があるが、イエスの磔刑と復活による契約の更新によって、人類全体が赦されるということになるのである。
こうした宗教観による世界観は、法制度にも影響を与えている。本書では、イスラム教とキリスト教とを比較している。
イスラム教には宗教法がある。宗教法とはすなわち、世界にいる人間への神の配慮を言語化したものである。したがって、イスラム社会における優れた知識人は、宗教法の解明と発展を行おうと考えるし、新たに法律を制定するということは考えない。
それに対して、キリスト教には宗教法は存在しない。宗教法がないために、なにをすべきかどうかについての自動的な解答は存在しない。したがって、人々は途方に暮れ、いわばやむなく創意工夫を行って、神学や哲学、自然科学を用いてGodの創出した世界の論理を解明しようとする。
その結果として、現実世界に合致させるかたちで法律を新たに創ることができる。これは宗教法のない日本も同様の状況であるが、経済成長を為すためには大きなポイントである。すなわち、変化する経済にあわせるためには、イスラム社会のように新たな法律を制定できないことは極めて不利である。それに対し、宗教法がなく新たな法律を創り出すことに抵抗感がない、キリスト教圏や日本が有利になることは、宗教と法律の観点からも説明できるだろう。
宗教観が世界観を創り、それが日々の生活や経済社会システムへと影響を与える。その概況を、対談を通じて読ませる本書はキリスト教をはじめとした宗教一般を理解するために優れたテクストの一つであると言えるだろう。
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