2017年8月27日日曜日

【第746回】『成長する管理職(2回目)』(松尾睦、東洋経済新報社、2013年)

 歯ごたえはあるが、実務家が読んで咀嚼できる学術書がある。そうした書籍を読むと、共感できる具体的な事実に基づきながら、言われてみればなるほどと得心する抽象化され、学びが深まって応用可能なように思えて勇気が湧いてくる。本書は、まさにそうした学術書の一冊である。

 企業内の人材育成において、管理職へ当たる焦点は年ごとに強まっているように思える。管理職に人材がいない、人材が育たないのは管理職のせいだ、優秀な若手は管理職になりたがらない、などと、企業における人材上の課題の責を管理職は一手に引き受けているようにも見える。まさに、管理職受難の時代である。

 本書では管理職をどのように育成するか、もっと言えば管理職になる前の時点からどのように育成するか、に焦点が当てられている。序章で述べられている示唆では、管理職にとって「それを言っちゃおしまいよ」と言いたくなるような一節が語られる。

 マネジャーの成長過程において、過去の経験が現在の経験を制約する「経路依存性」(path dependence)が存在する(26頁)

 つまり、今の自分にとって必要な経験は、そうした経験を促す経験を過去において経たかどうかに因るということである。過去の経験が現在得られる経験を規定するとしたら、私たちは経験から学んで成長するわけなのだから、過去が自分の伸びしろを決めるというのは残酷な発見事実とも言える。

 では経験を積む上で留意するべきことは何か。ここで著者の示唆は、私たちに恵みを与えてくれるかのようだ。

 人が特定の経験を積むとき、組織における役割の重さよりも、その出来事に「かかわる」こと自体に重要な意味があることを示している。(118頁)

 同僚に恵まれていようが、成長しているエクサイティングな企業で働いていようが、経験を積むという点で環境は関係がないとし、かかわることが大事であると著者は述べる。環境を言い訳にするのではなく、主体的に、当事者として出来事にどう関与するか。それによって、後で活きる経験を積むことができるという著者の提言に救われた気がするのではないだろうか。

 ではどのようにすれば経験を引き寄せることができるのであろうか、という鋭い問いへと著者の研究の射程は広がる。

 これまでの研究では、挑戦的経験と学習の関係を強める要因として学習志向が分析されてきたが、本章の分析によって、学習志向が挑戦的経験そのものを引き寄せる効果を持つことが明らかになった。(143頁)

 まず定義から入ると、ここでの学習志向とは「挑戦・好奇心・独自性を重視」することを指している。こうしたマインドセットを持っていることが、「部門を超えた連携」や「変革への参加」といった経験へと繋がるのである。


 私たちは安定したいし、ベストプラクティスという名の右へ倣えの精神を持ちがちだ。しかし、ここで述べられている学習志向というマインドセットを持つことが私たちに次の経験を積ませるということを意識することが肝要である。自戒を込めて。


2017年8月26日土曜日

【第745回】『ビニール傘』(岸政彦、新潮社、2017年)

 社会学者として著名な著者の書籍を読むのはこれが初めてである。彼の本分である研究者としての著作を読む前に小説から入るのもどうかとは思ったが、気にせずに読むことにした。したがって、社会学者としての著者というフィルターを経由せず、純粋に作品自体を読むという機会に恵まれた、とも言えるだろう。

 芥川賞候補となった表題の小説は、複眼的に心情描写が為されているやや複雑な構成であり、一読してプロットを詳細に理解することは難しいかもしれない。しかし、ざっと読めばあらすじは理解しやすく、あとで点と点が結びつく新鮮な気づきがあるのが面白い。

 また、日本語がきれいなので読んでいて心地が良く、うまく言い表せないのであるが、文体が私の好みに合致しているのであろうと感じた。情景の描写が多く、内面を直接的に表現する箇所が少ないのにも関わらず、登場人物の心的風景が想像できるのであるから見事なものである。たとえば以下の箇所である。

 マンションの窓を開けると、ビルの隙間に小さく通天閣が見えていた。五階建ぐらいの小さなビルやワンルームマンションがどこまでも並び、その合間に古い木造の長屋が残っている。居酒屋、印刷屋、衣料問屋、なにかわからない小さな部品を作っている町工場、駐車場、整骨院、スナック、薬局、コンビニ、郵便局、コンビニ、駐車場、スナック。つぶれた喫茶店、つぶれた服屋、つぶれた本屋、つぶれた焼き鳥屋。都会に出て住んだ街はそんな場所だった。汚いビルやアパートや駐車場ばかりの街。それが私が住んだ大阪だった。美容院が休みの月曜日はいつも寝ていた。布団にもぐっていても、国道を通るトラックの音が絶え間なく低く聞こえてくる。それは和歌山の海の音と似ている。(50~53頁)

 具に描かれた場面から、難波から大阪港あたりまで見渡せるマンションからの風景が思い浮かぶだろう。「つぶれた○○」が意図的にまとめられて書かれるなど、和歌山の郊外から大阪という都会に出てきて、そこで必ずしも好ましい生活を送れていない人物の心情が、大阪の暗い側面に投影されているようだ。

 今回は純粋に小説として本作を読んだのであるが、著者の社会学者としての書籍も読みたいと強く思った。そのうえで、改めて本作を読んだら、どのような印象を持つかということも気になる。

2017年8月20日日曜日

【第744回】『美しい星』(三島由紀夫、新潮社、1967年)

 三島はすごいと改めて思った一冊。三島っぽくない感じなのに、それでいて文体は三島である。宇宙人を自称する家族が主人公となるストーリーが三島が取り上げる題材と懸け離れているように思いながらも、家族が起こす様々な事象があまりに地球人のそれで皮肉である。こうした皮肉を基底に据えながら、当時の日本社会を痛烈に諷刺する小気味の良いテンポに惹き込まれる。

 大喜利は三島由紀夫の「鰯売恋曳網」という新作だったが、助教授がこんな小説書きの新作物なんか見るに及ばないという意見を出したので、あとの人たちもこれに従った。(239頁)

 こういうウィットの効いた文章を書くとは意外であったが、これまで気づかずにいた三島の一面を垣間見たような気がした。

 本書のハイライトは、最終盤で主人公一家の父親が、彼を敵視する自称宇宙人との議論のシーンだと思う。厭世的で、無機質に物事を捉えているようにしか見えなかった彼が、議論の中で自身の想いに気づいていく過程に、感動させられた。

 気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も甘美なものの片鱗がうかがわれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のようなもの、許容された詩のようなもので、それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。人間どもの宗教の用語を借りれば、人間の中の唯一の天使的特質といえるだろう。(294~295頁)
 私が希望を捨てないというのは、人間の特性を信頼するからではない。人間のこういう美しい気まぐれに、信頼を寄せているからだ。あなたは人間どもは必ず釦を押すと言う。それはそうだろう。しかし釦を押す直前に、気まぐれが微笑みかけることだってある。それが人間というものだ(295~296頁)


 三島は、日本社会というものに絶望して自死を選んだと思っていた。しかし、ここに見えるのは人間愛や人間に対する慈しみの気持ちのように思える。もちろん、本作を書いてから自決するまでには数年を要するのだから、その間に人間が変わったとも思えるが、果たしてどうなのだろう。私は、こうした人間に対する情愛の深さが三島の本質なのではないかと想像してしまうのであるが。


2017年8月19日土曜日

【第743回】『暮らしの哲学』(池田晶子、毎日新聞社、2007年)

 著者の書籍を一時期集中して読んでいた時期がある。哲学書を本格的に読むことには難儀するが、哲学をわかるように書いてくれる著者の作品は、ありがたい存在であった。

 図書館で本を渉猟していて、早逝する直前まで連載されていた記事を集めた本書を読んでいなかったことを知った。腎臓がんで亡くなられたとのことであるから、本書に取り上げられている論考を執筆している際にも自身の死を意識していたのであろう。生死を扱うものもあるが、重くなく、淡々と、しかし噛んで含めるような筆致で綴られていて、これが漱石のいう則天去私ではなかろうかとまで思ってしまう。

 鋭い視点から思考を進める著者の論考を読んでいて、興味深かったのは、意味や言葉に対する概念に関する考察であった。

 驚くべきことは、人が意味をわかることができるのは、意味が在るからだということであります。人がそれを「わかる」「わからない」と感じることができるというこのことは、意味がその理解よりも先に存在するという、驚くべき事実を告げている。(60頁)

 私たちは、意味というものはアポステリオリに創り出すものであると捉える。しかし、何かを分かったり分からなかったりするという私たちの理解の有り様を基にすれば、意味はアプリオリに存在するものであるとしている。他の考え方もあるようには思えるが、この著者の論理構成を否定するのは難しい。

 言葉(ロゴス)が宇宙を創った。言葉は神であったというこの文脈での「言葉」、言葉=ロゴスというこれが、物書きとしての私の言語感覚に、最も近いものです。日本人では見たことないと、よく言われます。(63頁)

 新約聖書の創世記の「はじめに言葉ありき」を引きながら、上述の箇所まで著者は思考を展開する。言葉によって世の中の事象は表現されるものであり、表現されるものがアプリオリにあってそれを言葉で表現するという順番ではない。言葉というフィルターは既に存在しているものであり、言葉を創造することはないという。

 著者の考え方に従えば、「造語」についても、意味内容を私たちが了解可能であることを考えれば、予め存在していたが私たちが気づかなかったものが「造語」としてあたかも後から作られた、ということになるのであろう。これはこれで筋が通っているように思える。

 ところでしかし、人は自分の言葉をもってはならないが、やはり自分の言葉をもたざるを得ないということが、じつはある。相対的個人を超えた絶対的意味を掴んだ人が、再びこの世に還り来て、そのことを語り出す時のその「語り」、すなわちスタイル、文章においては「文体」というものが、それに当たります。「意味」は普遍的ゆえに非人称的なものですが、発語もしくは文章として書きつけられる言葉は、必ずその人の肉体を通過している。したがってそこには否応なく個別性、正確には独自性というものが、刻印されているはずなのです。(71頁)


 では私たちが創り出すものは何か。言葉でもなく、意味でもなく、文体であるという。つまり、言葉や意味内容であっても、自分たちの身体を通じてアウトプットすることになるのであり、そこに私たちの創意が生じることになる。言葉をどのように選び、そこに物語を創り出すか。自分という存在による創作は、こうしたプロセスを経て生み出すことができるのである。だからこそ、どのような言葉を選ぶかが大事になるのであり、つまりは多様な言葉を知っていて使いこなせることが知的と言われるのではないだろうか。


2017年8月18日金曜日

【第742回】『高慢と偏見(下)』(ジェーン・オースティン、富田彬訳、岩波 書店、1994年)

 海外の小説というものに苦手意識を持っていたが、本作は面白かった。訳文独特の言い回しを読んでいると少し居心地の悪さを感じる部分もある。一人の人物を愛称で呼んだり、ファーストネームで呼んだり、属性で読んだりと、慣れない身には混乱させやすい箇所もある。それでも話の展開には惹きつけられる何かがあったと思う。

 ずっと相容れなそうに思える人物同士が惹かれ合い、問題なくくっつきそうな人物たちが悲劇的に別れても最後にはくっつく。ベタといえばベタなのだが、面白く読めてしまうのだから不思議だ。

 話の展開だけを楽しんでいると、それだけで終わってしまう。すんなりと読めることは、小説のひとつの素晴らしさだとは思うが、味気なく感じることもある。ただ、本書の場合は、同時期に並行して「100分de名著」で解説を見ながら読めたので、素人としては全く気付かない視点を学びながら読み進めることができるという僥倖があった。

 すべては、あなたのおかげなんです!あなたはわたしに、最初のうちは実につらいが、とてもためになる教訓を教えてくれました。わたしはあなたに高慢の鼻を折られたが、これは当り前のことです。わたしは、かならずうけいれてもらえるものと思って、あなたに近づきました。ところが、あなたは、わたしという男は、取りいるだけの価値のある婦人に取りいる資格のない男だということを、教えてくれました(244~245頁)


 わかるようでわからない。複雑にして難解な文章であるが、その発話の主体である人物の人となりから、なんとなく類推ができ、そこから何か感じ取れるものがあるから不思議である。西洋文学と呼ばれるものを読むのも、日本の小説とはまた異なる趣があり、いいものだと思った。


2017年8月17日木曜日

【第741回】『高慢と偏見(上)』(ジェーン・オースティン、富田彬訳、岩波書店、1994年)

 NHKの「100分de名著」で2017年7月の作品として取り上げられている本作。同番組の第一回目の冒頭で、司会の伊集院光さんが「恋愛小説は苦手でほとんど読まない」という趣旨の発言をされていて共感を覚えた。あまり関心を持たずに番組を見ていたところ、解説を聞きながら興味を持ち始めた。私が理解する限りでは、単に恋愛自体を扱っている小説ではなく、身分や家族といった外的環境から、人間関係や信頼といった人間の内面を丹念に描写されている。

 舞台となっているハーフォードシャーは、現在では高級住宅街であり、サッカーの元イングランド代表のデビッド・ベッカム等も住んでいるそうだ。しかし、18世紀頃と思われる本作の舞台としては、のどかな地域として描かれており、穏やかで慎ましい情景描写も心地よく読める。

 「高慢は、」と考察の堅固なことを得意にしているメアリが言った、「誰にもある弱点だと思うわ。これまでわたしの読んだすべての本によって考えても、それは万人共通的のものだと思うのよ。人間の性質は、とかく高慢に傾きやすいんだわ。そして実際にせよ、想像だけにせよ、何かしら自分の特質に自己満足を感じない人は、ほとんどいないと思うわ。虚栄と高慢は、よく同じ意味につかわれる言葉だけど、まるで別なんだわ。虚栄がなくても、高慢な人もあるんだから。高慢は、自分自身をよく思うことだし、虚栄は、人によく思われたいってことなんだわ」(35頁)

 本作のタイトルにもなっている高慢について、「誰にもある弱点」となっている点が面白い。これを否定することはなかなか難しいのではないか。自分自身に満足したいという性向は決して悪いものではない。自身をよく思いたい気持ちは自己肯定感につながる。しかし、それが行き過ぎると、他者からもよく思われたいという虚栄心へと繋がってしまうのだから気をつけたいものである。

 「何よりずるいのは、」ダーシーが言った、「謙遜らしく見せかけることだ。それはしばしば意見に無頓着なこと、また時には間接に自慢することにすぎないからね」(80頁)

 この箇所にはぐさりと来た。謙虚であること、謙遜することは美徳であると、特に日本社会においては受け取られがちだ。しかし、そうした行為の背景に、間接的に何かを自慢しようとしていること、つまり虚栄心が含まれていることは多いのではないか。虚栄心を糊塗するために、謙遜や謙虚を前面に押し出そうとしていないか、自覚的になりたいと思った。

 恋をしたって、これほどみじめなめくらにはならなかったであろう。けれども、わたしのお馬鹿だったのは恋のためではなくて、虚栄心のためだったんだわ。一人に好かれて喜び、もう一人に無視されて腹をたて、そもそもおつきあいのはじめから、二人に関係したことでは、自分から先入見と無知を求めて理性をおいだしていたんだわ。今の今まで、わたしは自分というものを知らなかったのだ(328頁)

 ここでも虚栄心が描かれている。虚栄心とは、他者の目線を気にしすぎることであり、したがって自分自身を省みないことに繋がるのだろう。自分自身を知らずに行動することは、意識しているはずの他者に対して理不尽なことをする結果を招いたり、さらには自分自身をも傷つけることになってしまう。



2017年8月16日水曜日

【第740回】『「働く居場所」の作り方(2回目)』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)

 仕事でしんどいなぁと思うことが続き、読みたい書籍が届くまでに少しだけ時間がある微妙な時期だったために、そういえばと本書を読み直した。今回で通読するのは実に五回目であり、論語に次ぐ多さである。

 学術上の師が書いた書籍でも、さすがにもう新しい気づきはあまりないかと考えていたが、甘かった。しっかりと、気づきを得られる部分が随所にあり、また「こんなこと書いてあったのか」と驚かされる箇所も散見され、むしろ自分のこれまでの学びの不十分さを痛感させられた。

 満足が自分の安定化を促し、それを守ろうとするところから、安住、そしてぶら下がりが始まります。キャリア作りにおける保守化・安定化現象です。(中略)
 組織や職務の満足が本当に個人の成長につながるでしょうか。むしろ個人が成長するのは、厳しい現場に向き合った時です。それこそ、個人個人が、自己の成長に本気になり、当事者意識をもって真剣になるのではないでしょうか。(56頁)

 この箇所を読んだ時は、恥じ入る思いであった。「しんどいこと=悪いこと」ではないのである。このように考えれば、現状に満足していることが必ずしも良いことではないことは間違いないだろう。私たちは心地よく働きたいと思いがちだ。しかし、その心地よさが現状への満足からくるものかどうかをチェックする必要があるだろう。

 反対に、しんどいという心情がどこから来るかを考える必要もある。いわゆる「ブラック企業」のように、自分で何もできない外的な事象でかつ完全にコントロールできる要因がない中で生じるしんどさであれば、そこから避けようとすることは正しいだろう。しかし、冒頭の私のように、職務上のチャレンジの高さや、それに伴う他者からの厳しいフィードバックによってしんどいと感じるのであれば、それは避けるべきものではない。そのしんどさと向き合い、それを乗り越えようと、目的を意識して工夫を凝らしながら取り組むことで成長実感を自分で創り出すことができるかもしれない。

 不安に対しての私の提案は二つ。一つは不安や不安の原因、そのインパクトなどに関心を向け、内省を始めてしまうより、むしろ、基礎的な各年代の、一般的な基準を自分なりにクリアすることへの努力をしっかりと行い、それにエネルギーを割くこと。そしてある一定のレベルに達したと思ったら、自分としてこうしたいという対応をしてみることです。そしてその結果どのような変化が自分や自分の周囲に生まれたかを考えてみることが大切だと思います。
 もう一つは不安を受け入れるということです。不安は不安、それは抱えていかざるを得ないという考えを出発点とするのです。不安をもつのは当たり前。でもだからこそ、自分で楽しむ一歩を踏み出してみるという発想です。(183~184頁)


 何れのアプローチも、不安を取り消すべき問題として対処しようとしないという点が興味深い。不安を抱くことは心地よいことではなく、だからこそ取り消すべき問題として捉えてしまう。しかし、不安は軽々になくなるものではなく、解消しない問題を抱えてままでは気分がいつまでも優れない。だからこそ、不安は所与のものとして置いておき、他の対象に目を向けるという著者の助言に目を傾けた方が良いのではないだろうか。


2017年8月15日火曜日

【第739回】『人工知能の核心』(羽生善治・NHKスペシャル取材班、NHK出版、2017年)

 NHKスペシャルで著者が人工知能を取材していた番組は興味深かったのであるが、必ずしも内容を理解しきれなかった。当時はまだ人工知能というものを書籍でも読んだことがなかったので咀嚼できなかったのだと思う。図書館で本書を偶然に見つけて、復習も兼ねて、著者が人工知能という存在をどのように捉えて、どのように共存しようとしているかを学ぼうと考えた。

 私は、これまで将棋の本で折に触れて、無駄な情報を扱うことを減らす「引き算」の思考にこそ人間の頭脳の使い方の特徴があると書いてきました。ディープラーニングに、こういう「引き算」の要素が入っていることは、とても面白く思います。(25頁)

 情報を膨大に蓄積することで能力を高めていくコンピュターに対して、将棋の棋士として大事なことの一つとして無駄な情報を減らすという引き算が重要であると著者は述べる。こうした人間の持つ強みの部分を、ディープラーニングは機能として持っているというから驚く。著者特有の軽妙な言い回しで表現されるために、これが恐怖としてよりも、ディープラーニングを行うコンピュータに共感を覚えながら読めてしまうから面白い。

 認識エラーが発生したという結果から遡って、つまり信号が逆方向に流れて、問題のありそうなところの「重みづけ」を自動的に変更する、というようなことを繰り返せば、認識の精度は向上するはず。これが「誤差逆伝播法」と言われる手法で、ディープラーニングは、この手法に工夫を加えて出来ているアルゴリズムだ。(57頁)

 「引き算」をディープラーニングがどのように行うのかを、取材班が解説した箇所である。最初に引用した箇所とセットで読むことで、著者が述べたかったことをより理解できる。

 そのときに大事なのは、実は「こうすればうまくいく」ではなくて、「これをやったらうまくいかない」を、いかにたくさん知っているかです。取捨選択の「捨てる方」を見極める目こそが、経験で磨かれていくのです。(210頁)

 引き算をできるようになるためには、経験によって磨き、経験を活かすことである。成功体験が後で自身に復讐するという考え方がある中で、この部分は納得しやすいのではないか。失敗から謙虚に学ぶことは、失敗を繰り返さないようにすることとともに、長期的な成功へと活かすことができるのかもしれない。

 人工知能は、データなしに学習できない存在だということです。とすれば、データが存在しない、未知の領域に挑戦していくことは、人間にとっても人工知能にとっても、大きな意味を持つと考えています。(215~216頁)

 いい捨て方を学ぶことによって、未知の領域に挑戦し、すぐに失敗してもすぐに修正して立て直す対応力が磨かれる。変化に激しい時代と言われて久しい現代社会において、こうしたマインドセットが求められているのである。

 

2017年8月14日月曜日

【第738回】『人工知能はいかにして強くなるのか?』(小野田博一、講談社、2017年)

 人工知能という存在を初歩の初歩から学ぶ上で、概念の定義を丁寧に行い、様々なボードゲームにおける適用の例をふんだんに示して解説を試みている。今さら聞くに聞けないことを学べる、初心者にとってありがたい一冊である。

 機械学習とは、素データ(集めたままの状態で、何も加工していないデータ)の背後にある何らかの規則をコンピューターが拾い上げることです。(27頁)

 著者が何度も本書で述べていることは、「学習」という言葉が使われていても、人間が行う「学習」と人工知能が行う「学習」とは異なる、という点である。ここでは機械学習について述べられており、コンピュータが規則を拾い上げるという特徴が挙げられている。

 換言すれば、データ化されていないものをコンピュータは学べないのであり、どのようにデータ化するかが今後私たちが行うべきものとなるのであろう。例えば、人事の領域で言えば採用はAIが担える可能性が高いと言われている。適用するとしても、採用活動の全てを置き換えるのではなく、どのようにデータを用意し、それをどのように活用するかが鍵となる。少なくとも黎明期においては、私たちがそれを判断しサポートする必要があるのではないか。

 深層学習(deep learning、deep machine learning)は、英語の後者の呼び名でわかるように、機械学習の一部で、ニューラル・ネットワーク(neural network)を使った分析計算とほぼ同義と言っていいでしょう。ニューラル・ネットワークとは、多層パーセプトロン(multilayer perceptron)のことです。パーセプトロンとは、ミンスキー(Mrvin Minsky)の説明によれば、「一群の機械」で「多数の部分的な観測結果を加え合わせることによって判別ーー入力事象が、あるパターンに合致するかどうかの判断ーーをするもの」です。(61頁)

 アルファ碁で広く人口に膾炙した深層学習の定義である。同時並行的にある現象を観測してその結果を統合的に判断することが深層学習であり、ある事象を人間が深掘りするという行為とは異なることが理解できるだろう。言葉の持つイメージ、また翻訳された言葉によって感じる印象があることは致し方ないが、原義における定義を押さえることが、新しい現象を理解する上で必要な態度である。

 人間同士の対局では、とんでもないポカがあって、そこで形勢が逆転することが多々あるので、人間同士の対局だけでデータを解析すると、「一方が優勢な局面(α)でポカをして結局負けた対局」では、αを負けの局面として解析用資料としてしまうことになりますーーそのような解析をしないように工夫されていないならば、ですが。それで、結果予測の解析に正しくないデータが多々加わっていることになるので、人間同士の対局だけの解析では、結果予測がいくぶん正確さに欠けるものとなります。それで、AlphaGo同士の対局を行なって、ポカなし対局データを多量に加えることで結果予測をより正確にしたのです。(215頁)


 最初に引用した機械学習の概念からすると、機械は、良くも悪くも全てから学んでそこから規則を生み出す。したがって、失敗や誤解をそのまま受け取ってしまう。だからこそ、補正が必要であり、その補正の手段として、機械同士のミスのない対局によって学び合うというのだから、空恐ろしい感じもする。


2017年8月13日日曜日

【第737回】『仏教、本当の教え』(植木雅俊、中央公論新社、2011年)

 仏教の起源は現在のインドであるが、それが中国を経て日本へと伝来する過程で、その受容の有り様は変わってきている。第一に大きいのは言語であろう。仏教伝来時の直接の送り手は中国であり、インドではない。したがって、サンスクリット語から直接日本の言葉に置き換えて理解したのではなく、中国の言語を介して私たちは仏教を理解したのである。

 そこで仏教を理解しようとするのであればインドにおける元々のテクストから学ぶ必要があることを著者は述べている。たとえば初期の大乗仏教における代表的な書籍の一つである『中論』をもとに自己と他者との関係性を以下のように解釈している。

 「真の自己」に目覚めることは、利己的になるということではない。「真の自己」に目覚めることは、他者の「真の自己」に目覚めることでもある。それは、あらゆるものとの関係性の中で存在しているという縁起の関係としての自己に目覚めることでもあるのだ。ここに他者への慈しみという行為が成立するのである。(50~51頁)

 他者との慈しみという行為の前提として、自身と他者との縁起という関係性を気づくことが必要であり、そのためには自分自身という有り様に気づくことが必要となる。したがって、自分自身を意識することは利己的なものではなく、自身が有する多様な可能性や他者との潜在的な関係性のゆたかさに気づくことの萌芽となる。このように捉えると、自分自身と他者とを二項対立的に捉えるのではなく、全体としての関係性というより広い存在に意識を向けることが可能になるのではないだろうか。

 こうした起源における仏教が日本に輸入されると、強調するポイントが異なってくる。それは中国における受容からさらに変化をして受容されていると捉えるべきであろう。

 日本に来ると、さらに「現実即実在」が強調された。例えば道元(一二〇〇~五三)の場合は、この「諸法は実相」に加えて、「実相は諸法」と言い出した。論理学では、「人間は動物である」という命題がよく用いられる。人間はたくさんいる動物の中の一部分だという意味である。これに「動物は人間である」を付け加えると、「動物=人間」ということになる。同様に、この「実相は諸法」を追加することによって、「諸法=実相」となり、完全に「現実肯定論」に成ってしまった。それが悪くなると、例えば、だらしない人がいて、だらしないという現象自体が、すでに「実相」なのだとされたり、いい加減なことをやっていて、これが実相なんだとされたりすることも起こり得る。人間は煩悩の塊だ、それが実相なのだから、それでいいではないかということになりかねない。そういうことで「煩悩肯定論」になりやすい。あくせく努力しなくたって、修行しなくたって、ありのままでいいじゃないかということになってしまい、「修行否定論」も出てきてしまう。そういったところから戒律無視も出てくることになったりする。(193~194頁)

 親鸞の悪人正機説を学校で学ぶと、こうした身勝手な解釈が出てくる場面に出くわすことがあるのではないか。不善を為しても救われる可能性があるのであれば、善を為すことに積極的な意味を見出すことが難しくなることも理解できる。現実に重きをなして捉えてしまうとこのような誤解をしてしまうため、実相とともに諸法を捉えることが大事であると著者は以下のように述べる。

 われわれのものの見方は、諸法と実相のどちらか一方に偏りがちである。現実をよく見なさいというので現実ばっかり見ていると、現実はコロコロ変わるから、空転して落ち込んだりする。やはり普遍性を見なければいけないというので今度は普遍性ばかりを見ていると、抽象論になったり観念論になったりしてしまう。中諦というのはその両方を合わせ持ち、いずれにも偏しないという見方である。あらゆるものは実体がなく、仮のものでいつまでも存続するものではないというものの見方と、現実というものを見据えていく見方、この両方を踏まえなければいけないというのである。(210頁)

 抽象化と具象化の往還関係は、研究と実践との相互適用させようとする営為という文脈で理解してきた。しかし、これはどのような場面でも求められるものなのであろう。私たちは、どちらか得意な方に傾きがちであり、特に日本においては実相に重きが置かれがちである。たとえが古いが、「事件は現場で起きている」という言葉に溜飲を下げる私たちの感情には、実相に重きを置く価値観がかいま見えるのではないだろうか。そうであるとしたら、諸法に目を向けようとする努力が私たちにより必要なのかもしれない。

 諸法と実相とが融合した良い例の一つとして、日本文化における俳句の世界が指摘され、松尾芭蕉が例として挙げられている。納得的に理解できるものであったので、やや長いが最後に引用したい。

 古池や蛙飛び込む水のをと
 という句がある。俳句に関しては、ど素人である筆者の勝手な思い込みかもしれないが、自分なりに解釈してみると、ここには「古池」、「蛙」、「水の音」という「現象」が羅列されている。「私」が「ここ」にいて、「古池」が向こうにあって、「蛙」がいる。その「蛙」がボチャンと「水の音」を立てて池に飛び込んだ。すると、その水面に波紋が生じて同心円を描いて広がっていく。さらには、そのポチャンという音が向こうからこっちへ伝わってきて、それが「私」を通りすぎて宇宙大に広がっていくーーというようなイメージを筆者は抱く。単に「古池」と「蛙」と「水の音」を羅列したことによって、「私」が「今」、「ここ」にいて、宇宙の中に存在しているというような宇宙の広がりを筆者は感じる。これは「諸法」を通して「実相」というものを表現しようとした結果ではないかと筆者には思えるのだが、いかがであろうか。(213~214頁)



2017年8月12日土曜日

【第736回】『日本仏教入門』(末木文美士、KADOKAWA、2014年)

 本書で興味深かったのは、仏教が日本に伝わった後にどのように位置付けられたのか、に関する考察である。元々の伝来がどのようなもので、どのように定着することになったのか。既存の宗教との受け容れられ方の相違はどうだったのか。

 仏教が伝来する以前に日本に何らかの宗教的な活動があったことは確実であるが、それがどのようなものであったかを確実に知ることのできる資料はない。仏教以前の宗教は体系的に表現されることはなかった。もっとも古い文献である『古事記』や『日本書紀』は既に仏教や中国思想の影響下にある。日本の神祇崇拝は、仏教の影響下に、仏教を意識しながら自覚され、体系化されたのである。(133頁)

 歴史教科書の影響からか、私たちは土着の宗教として神道があったと考えてしまうが、著者に言わせればそうした捉え方は必ずしも正しくないようだ。神道という形式で現代において捉えられる宗教形態はまだできておらず、そうした状態の中で仏教といういわば進んだ文化が伝えられたと考えられるのである。

 仏教以前から何らかの土着の日本宗教の伝統があり、それが仏教と結びついて神仏習合を生じたというのは、必ずしも適切でない。むしろ、やや極端な言い方をすれば、仏教と関係を持つことではじめて日本の神が自覚的に捉えられるようになったのである。この点が、インドや中国と大きく異なる点であり、仏教が伝来してから、次第に日本の神祇崇拝が自覚的に行われるようになり、また体系化されるようになった。(133~134頁)

 仏教という存在が輸入されたことで、翻って神道という存在が宗教として確立されることになった。そもそも宗教という概念自体が曖昧であるのだから、相互依存的に成り立たしめるという関係性にならざるをえないのかもしれない。日本においては、それが神道と仏教という二つによって成立したことが、日本における宗教の始まりなのであろう。

 日本の仏教と神道は対立することもあるが、今日に至るまで両者は並存している。中国の道教と仏教も同じように並存しているが、日本の場合、中国と違うのは、神道と仏教が役割を分担しているところである。すなわち、誕生したばかりの子供を連れて神社に参ったり、子供の健全な発育を願う七五三の行事、さらには結婚式など、生に関する行事は神道が担当し、葬儀や死後の法要のように、死に関する行事は仏教が担当している。このように、相互の分業による補完関係が認められる。これを私は「神仏補完」と呼んでいる。日本の宗教を解明するためには、この神仏補完関係をよく知ることが重要である。(139頁)


 異文化としての仏教が日本に伝来し、それによって神道が確立されることになり、二つの宗教が並立することになった経緯から、両者が私たちの日常の生活に浸透することになった。来日した外国の方々、つまりは特定の確立した宗教を礎に行動する方々からすると異常に見える私たちの正常は、こうして出来上がったのである。


2017年8月11日金曜日

【第735回】『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(山本一成、ダイヤモンド社、2015年)

 今年行われた第2期電王戦で現役の将棋のタイトルホルダーである佐藤天彦名人が将棋ソフト「ポナンザ」に敗れたことはまだ記憶に新しい。そのポナンザの生みの親が、本書の著者である。AIを語る上で最適な人物の一人であることは間違いなく、期待を裏切らない興味深い一冊であった。

 人間は物事を見続けているなかで、適切な一般化や隠れているノウハウを発見するのが得意です。(中略)
 しかし残念ながらコンピュータには、一般化する能力がほとんどありません。ですから人間にとっては途方もないように感じる5万の棋譜ですら、教師としては足りないということになります。コンピュータにはより多くの棋譜が必要なのです。(60頁)

 コンピュータと比較して人間が得意としていることは、一般化や抽象化であるという。私たちが他者と話していて、頭がいいと思う人は、記憶力が優れた人物よりもこうした特徴を有する人物ではないだろうか。

 頭がいいということは知性があると換言できるだろう。知性とは「目的を設計できる能力」(171頁)であるの対して、AIが保有する知能は「目的に向かう道を探す能力」(171頁)だ。他者から与えられたものではなく、自分自身で目的を設定し、その目的に合致した一般化を行うことが知性的な人物が長けた行動特性、ということであろう。

 しかし、人間が持つこうした知性が、必ずしも知能に対して常に優れているというわけではない。

 人間は、あらゆることに意味を感じ、物語を読み取ろうとします。この能力=知性によって人工知能にもならぶパフォーマンスを出すこともありますが、それは意味や物語から離れることができないという制約にもなっています。
 一方、人工知能は、意味や物語から自由なために人間を超えることができますが、目的を設計するという知性を持つことはできていません。(181~182頁)

 一般化は人間の得意技であるが、それに縛られることでデメリットが生じることがあると著者は指摘する。将棋に置き換えれば、定跡や格言といった高度な抽象化はほぼ全ての局面において通用するが、百パーセント正しいわけではない。私たち人間は、一般化されたセオリーに過度にこだわってしまい、そうしたものからかけ離れた発想を持つことが阻害されてしまう。

 こうした意味性や物語性を度外視し、目的に向かう最短距離を目指すことができるのが人工知能である。未知の領域に出会った時のデメリットはあれども、膨大な計算によって既知の領域を増やすことで適用可能な領域を拡げられるのが人工知能のメリットであろう。

 こうして人間と人工知能との得意領域が峻別されていれば良いが、そうした楽観論は残念ながら通用しないようだ。囲碁の世界的棋士を圧倒したアルファ碁で使われていることで有名なディープラーニングは、知性を学習可能な人工知能であるという。人工知能が人間に近づいているというように捉えることも可能であろう。このように捉えれば、本書で指摘されているのは、人工知能と人間の対比というよりも、知性・知能とは何か、というより一般的な問題であるように思えてくる。

 人間の結果を模倣して学習するプログラムは、人間の間違いも学習するのです。もちろんこういった間違いは強化学習をするなかで少しずつ解消されていきますが、少なくともポナンザに関しては、いまだに人間から学習したときの名残があると思います。同じように、人間の知性を上回るようなコンピュータが将来生まれたとしても、必ずそのコンピュータは人間から学習した名残をとどめているはずです。(198頁)


 というのも人工知能はもはや知性や知能といった領域において人間を包含する存在になり得るからである。では私たちが世界に対して貢献でき得るものは一体なんなのか。おそらくは、データにすることができず、私たちが意味を見出して価値を創り出す領域が、人間が今後も行う領域になるのではないか。これが、本書を読んだ段階での私の仮説である。


2017年8月6日日曜日

【第734回】『日本仏教史』(ひろさちや、河出書房新社、2016年)

 「日本において仏教は、民衆や庶民のための宗教ではなしに、支配階級のための宗教でありました。」(16頁)という冒頭の話に目から鱗が落ちる思いであった。仏教に造詣のある方々には当たり前のことなのかもしれないが、いわゆる宗教というものである限り、個人が依拠するものであり国家が介在することは二次的なものだと考えていた。

 しかし、考えてみれば当たり前であるが、現在のように情報や人の行き来に制約があった島国という特性を考えれば、ユーラシア大陸から流れてきたものは国家が輸入したものである。したがって、日本における仏教という存在には、その出自として国家仏教としての意味合いが強いことを意識する必要があるだろう。

 こうした国家のアイデンティティと関連する存在であるからこそ、明治における廃仏毀釈という現象を理解することができる。天皇を中心とする国体を創り上げるという近代明治国家の物語を正当化するためには、神道との近接を図ることが合理的である。いわば、国家神道というフィクションによって、権力主体の正当性を明らかにしようとしたのであり、そうなると邪魔な存在になるのがもう一つの国家宗教である仏教である。仏教の正当性を打破することで、神道の正当性を証明するために廃仏毀釈という考え方に至ったのである。

 国家宗教が持つ宿命としての、権力主体からの庇護と排撃。その宿命を持った仏教を、導入時に広く膾炙させた聖徳太子が、皮肉にも政治性を除いた仏教の本質を提示していた、という著者の主張は興味深い。やや長いが引用する。

 仏教者としての聖徳太子の思想は、「世間虚仮、唯仏是真」に結実している。
 そしてこれこそが、仏教の真実をよく言い当てた言葉である。わたしたちが仏教を学ぶのであれば、世間を虚仮と見なければならない。(中略)
 聖徳太子は、仏教の真理をよく見抜いた人である。わたしは彼を尊敬する。
 ところが、日本の仏教は、太子によって喝破された仏教の真理をまったく無視してしまった。仏教は権力者のものであり、権力者にとっては世間が虚仮であるか/否か、いっさい関心がない。ただうまく仏教を利用して、自分たちの利益を増大させることだけが大事なのだ。そして、権力者イコール国家であるから、仏教は徹頭徹尾「国家仏教」である。その「国家仏教」は、真の仏教者=聖徳太子の発言なんかに聞く耳を持たないのは当然であった。

 だとすれば、聖徳太子は古代の日本の土地で咲いた仏教の徒花であった。わたしにはそのように思えてならないのである。(29頁)


2017年8月5日土曜日

【第733回】『道元の思想』(頼住光子、NHK出版、2011年)

 三島の『豊饒の海』を再読してから、輪廻転生を取り巻く考え方、つまりは仏教に興味を抱いた。生きるとは何かといった哲学的な問いもいいが、死への恐怖にどう対処し、大切な存在との死別をどう乗り越えるか、といった生々しい問いに応えるために、仏教の考え方はあるのだろう。

 禅も含めて仏教においては、真理は自己の外側に学ぶべき対象としてあるわけではなく、すでに自己にあるとされる。そうであるならば、仏道修行とは、すでにある真理を自覚し、「今、ここ」に顕現させることにほかならない。(9~10頁)

 こうした内側と外側とを捉えた考え方にはハッとさせられる。自分がいかに外側を意識して物事を捉えているかを思い知らされるからである。しかし、認識をする主体は自分自身であり、学ぶべきものは自分の認識にあるのかもしれない。

 「無常」とは、すべてのものが永遠不変ではないということである。人間は、自分がいずれは死を迎える運命にあることを頭では知っていながら、その日常において固定的自己を単位として生を営んでいるため、その自己が無意識に実体化され、あたかもそれが永遠不変であるかのように錯覚してしまう。仏教は、吾我が本来的には「無常」であることを強調する。すなわち、知らず知らずのうちに固定化され実体化されて、あたかも不滅のものであるかのように誤認されている自己(吾々)は、決して永遠のものではなく、生滅変化するものだと言う。自己は流動的なものであり、固定的なものではないということが「無我」であり、「無常」であるということなのだ。(25頁)

 常では無いものが無常である。というように頭で理解していても、儚さや切なさといった曖昧なイメージを無常という概念には持ってしまっていた。ここでの無常に対する著者の考えはしっくりとくるものがある。あらゆるものが固定化されず変化し続ける存在であるからこそ、私たち自身も変わり、私たちと他者との関係性も変わり続ける。そこには、可能性の萌芽があると考えれば、ゆたかに生きることができるのではないだろうか。

 無我とは、ただ我がないという消極的な事態ではなく、関係的成立、真なる全体世界の顕現なのである。つまり、相互依存の関係性の中にあって、主客の二項対立的な固定的実体(我)は存在し得ない。全体が相互相依的に関連した真理世界が成立するためには、「無我」でなくてはならないのであり、そのような世界に立脚してこそ、「無」としての「我」の主体性が成立し得るのである。(30~31頁)


 無常という考え方から、無我という考え方が生まれる、ということであろうか。変化し続ける自分、他者との関係性から刹那的に生まれる自分、ということを考えれば、固定的な自分という存在がない、という考え方を納得的にイメージすることができるようだ。