2017年8月5日土曜日

【第733回】『道元の思想』(頼住光子、NHK出版、2011年)

 三島の『豊饒の海』を再読してから、輪廻転生を取り巻く考え方、つまりは仏教に興味を抱いた。生きるとは何かといった哲学的な問いもいいが、死への恐怖にどう対処し、大切な存在との死別をどう乗り越えるか、といった生々しい問いに応えるために、仏教の考え方はあるのだろう。

 禅も含めて仏教においては、真理は自己の外側に学ぶべき対象としてあるわけではなく、すでに自己にあるとされる。そうであるならば、仏道修行とは、すでにある真理を自覚し、「今、ここ」に顕現させることにほかならない。(9~10頁)

 こうした内側と外側とを捉えた考え方にはハッとさせられる。自分がいかに外側を意識して物事を捉えているかを思い知らされるからである。しかし、認識をする主体は自分自身であり、学ぶべきものは自分の認識にあるのかもしれない。

 「無常」とは、すべてのものが永遠不変ではないということである。人間は、自分がいずれは死を迎える運命にあることを頭では知っていながら、その日常において固定的自己を単位として生を営んでいるため、その自己が無意識に実体化され、あたかもそれが永遠不変であるかのように錯覚してしまう。仏教は、吾我が本来的には「無常」であることを強調する。すなわち、知らず知らずのうちに固定化され実体化されて、あたかも不滅のものであるかのように誤認されている自己(吾々)は、決して永遠のものではなく、生滅変化するものだと言う。自己は流動的なものであり、固定的なものではないということが「無我」であり、「無常」であるということなのだ。(25頁)

 常では無いものが無常である。というように頭で理解していても、儚さや切なさといった曖昧なイメージを無常という概念には持ってしまっていた。ここでの無常に対する著者の考えはしっくりとくるものがある。あらゆるものが固定化されず変化し続ける存在であるからこそ、私たち自身も変わり、私たちと他者との関係性も変わり続ける。そこには、可能性の萌芽があると考えれば、ゆたかに生きることができるのではないだろうか。

 無我とは、ただ我がないという消極的な事態ではなく、関係的成立、真なる全体世界の顕現なのである。つまり、相互依存の関係性の中にあって、主客の二項対立的な固定的実体(我)は存在し得ない。全体が相互相依的に関連した真理世界が成立するためには、「無我」でなくてはならないのであり、そのような世界に立脚してこそ、「無」としての「我」の主体性が成立し得るのである。(30~31頁)


 無常という考え方から、無我という考え方が生まれる、ということであろうか。変化し続ける自分、他者との関係性から刹那的に生まれる自分、ということを考えれば、固定的な自分という存在がない、という考え方を納得的にイメージすることができるようだ。


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