著者の書籍を一時期集中して読んでいた時期がある。哲学書を本格的に読むことには難儀するが、哲学をわかるように書いてくれる著者の作品は、ありがたい存在であった。
図書館で本を渉猟していて、早逝する直前まで連載されていた記事を集めた本書を読んでいなかったことを知った。腎臓がんで亡くなられたとのことであるから、本書に取り上げられている論考を執筆している際にも自身の死を意識していたのであろう。生死を扱うものもあるが、重くなく、淡々と、しかし噛んで含めるような筆致で綴られていて、これが漱石のいう則天去私ではなかろうかとまで思ってしまう。
鋭い視点から思考を進める著者の論考を読んでいて、興味深かったのは、意味や言葉に対する概念に関する考察であった。
驚くべきことは、人が意味をわかることができるのは、意味が在るからだということであります。人がそれを「わかる」「わからない」と感じることができるというこのことは、意味がその理解よりも先に存在するという、驚くべき事実を告げている。(60頁)
私たちは、意味というものはアポステリオリに創り出すものであると捉える。しかし、何かを分かったり分からなかったりするという私たちの理解の有り様を基にすれば、意味はアプリオリに存在するものであるとしている。他の考え方もあるようには思えるが、この著者の論理構成を否定するのは難しい。
言葉(ロゴス)が宇宙を創った。言葉は神であったというこの文脈での「言葉」、言葉=ロゴスというこれが、物書きとしての私の言語感覚に、最も近いものです。日本人では見たことないと、よく言われます。(63頁)
新約聖書の創世記の「はじめに言葉ありき」を引きながら、上述の箇所まで著者は思考を展開する。言葉によって世の中の事象は表現されるものであり、表現されるものがアプリオリにあってそれを言葉で表現するという順番ではない。言葉というフィルターは既に存在しているものであり、言葉を創造することはないという。
著者の考え方に従えば、「造語」についても、意味内容を私たちが了解可能であることを考えれば、予め存在していたが私たちが気づかなかったものが「造語」としてあたかも後から作られた、ということになるのであろう。これはこれで筋が通っているように思える。
ところでしかし、人は自分の言葉をもってはならないが、やはり自分の言葉をもたざるを得ないということが、じつはある。相対的個人を超えた絶対的意味を掴んだ人が、再びこの世に還り来て、そのことを語り出す時のその「語り」、すなわちスタイル、文章においては「文体」というものが、それに当たります。「意味」は普遍的ゆえに非人称的なものですが、発語もしくは文章として書きつけられる言葉は、必ずその人の肉体を通過している。したがってそこには否応なく個別性、正確には独自性というものが、刻印されているはずなのです。(71頁)
では私たちが創り出すものは何か。言葉でもなく、意味でもなく、文体であるという。つまり、言葉や意味内容であっても、自分たちの身体を通じてアウトプットすることになるのであり、そこに私たちの創意が生じることになる。言葉をどのように選び、そこに物語を創り出すか。自分という存在による創作は、こうしたプロセスを経て生み出すことができるのである。だからこそ、どのような言葉を選ぶかが大事になるのであり、つまりは多様な言葉を知っていて使いこなせることが知的と言われるのではないだろうか。
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