2012年2月25日土曜日

【第72回】『民法改正』(内田貴、筑摩書房、2011年)


 著者は学部で基礎レベルの民法しか学んでいない私でもその名を知っている民法学の大家である。その著者が現在、長年勤めた東京大学での教授職を辞して法務省で契約法改正のプロジェクトに携わっている。なぜそこまでして現行の民法を変える必要があるのだろうか。

 明治期に日本の民法が制定された際にいわゆる民法典論争が起きたことは日本史でも学ぶ内容である。代表的な論考は穂積八束の「民法出デテ忠孝滅ブ」であろう。ボアソナードを中心に作成された民法は、帝国議会が始まる前に作成を終えたいという政府側の意図を汲んだ結果、極めて短い期間で作成せざるを得なかったと言う。そのため、解釈なしには適用できないほどシンプルな内容になった。

 さらに著者によれば、条文じたいはフランスの民法を基礎に置いている一方で、解釈論はドイツの民法を前提としているため、条文と解釈論との乖離が生じてしまっている。したがって、民法学において学ぶ民法の解釈論とは、民法の条文の解釈ではなく、民法には全く触れられていない民法の解釈論を学ぶこととなる。その結果、民法学は法文とかけ離れ、よくわからない解釈を必要とする、人にやさしくない法律と言われてもしかたがなかろう。

 これを一般の人々に分かり易くするために民法を改正するということはたしかに必要であろう。しかし、民法改正の理由にはもう一つ大きな要因があると著者はいう。それはグローバルな規模での市場競争における契約のルール策定である。つまり、契約法のグローバルスタンダーと作成に向けて、日本のプレゼンスを高めるために、日本の民法を世界標準に足るものへと変える必要があるというのである。

 民法の第一人者であり、民法改正の現場に携わる著者の本作は、日本で生きる人間として目を通しておきたい書物であろう。


2012年2月19日日曜日

【第71回】『条文から学ぶ労働法』(土田道夫ら、有斐閣、2011年)


 「条文から学ぶ」と銘打っている通り、労働法に関連する各法規の条文について、要件と効果とに切り分けて解説が為されている。法的三段論法の第一段階である規範定立を丹念に行っていることが本書の特長であろう。

 その上で、判例や学説を用いて、法的三段論法の第二段階であるあてはめに関する著述がされている。つまり、要件に事実関係を嵌め込んでいくことで事実を要件に包摂するわけである。この結果として第三段階である結論が出るわけであるが、本書を読んで改めて考えさせられたことは、いかに要件を構成する事実関係を導き出すかが大事であるという点である。労働者と使用者のどちらの立場に立つ場合であっても、両者の関係性に内在する要件と、それを構成する事実関係をいかに用意するかが結果を規定する。

 ここにおける使用者と労働者との主要な関係性は労働契約において成り立つと言えるだろう。労働契約は、労働者による労働の提供と使用者による賃金支払いの交換関係を基礎として構成される。つまり両者による有償の双務契約であり、これを著者は労働の他人決定性と名付けて説明をしている。労働の他人決定性という概念の素晴らしさは、民法632条の請負や同643条の委任と労働関係との違いをこの表現が的確に表しているからである。

 こうした雇用関係の基本を為す法律の一つとして労働契約法がある。労働契約法における最近の主要な争点として整理解雇の権利濫用法理があり、この論点においては四要件を用いて判例が整理されつつある。本書によれば、主張立証責任がそれぞれの要件によって異なると言われている。すなわち、人員削減の必要性、解雇回避努力、人選の合理性の三つの要素については使用者が、解雇手続きの不当性については労働者が、それぞれ主張立証責任を負う。

 法律を現実の諸問題に即して学ぶということは、要件、効果、事実を整理し、主張する必要のある主体を意識する、ということにあるのではないか。もしそうであるとしたら、本書は、そうした法的思考の訓練を行う上で優れたテクストであり、読み返しながらじっくりと理解したい。


2012年2月12日日曜日

【第70回】『イノベーションのジレンマ』(クレイトン・クリステンセン、翔泳社、2001年)


 名著というものは読むたびに新しい気づきのある、噛めば噛むほど味の出る書物のことを言うのであろう。本書を最初に熟読したのは学部三年の時分であり、今から十年以上も前のことになる。その後も何度か目を通してきたのであるが、改めて通読してみると、これまで読み落していたこと、また失念してしまっていたことがあまりに多く、驚かされた。

 本書の特筆すべき点は、技術領域のイノベーションを持続的技術と破壊的技術とに切り分けて捉え、後者が前者を駆逐してきた歴史を可視化した点であろう。持続的技術とは、既存の技術の延長線上にある製品の性能の向上を為すものである。他方、破壊的技術とは既存の技術を使わない新たな顧客層を創り出し、そこから既存市場へと浸食するという技術である。実績ある優良企業は、持続的技術の進展に成功する一方で、破壊的技術の取り扱いに失敗するという一貫したパターンが歴史上数多く見られてきた。それを著者は六つのステップとして、いわば「敗北の方程式」として描き出している。

 第一のステップとして、これがまさに驚く点であるが、破壊的技術は既存企業で開発されるという。しかし、破壊的技術は上層部の指示で開発されることは稀であるためにその多くは陽の目を見ることがほとんどない。ジョブズがゼロックス社のパロアルト研究所で「見た」ものは破壊的技術であり、なぜそれらを製品開発に活かせなかったかは、それが破壊的技術であったからである。

 ではなぜ優良企業において破壊的技術は陽の目を見ないのであろうか。その答えが第二のステップにある。つまり、マーケティング担当者が主要顧客に意見を求める、という構造そのものに原因がある。持続的技術がこれまでの顧客のニーズを満たした上での性能向上であるのに対して、破壊的技術は既存の顧客のニーズとは関係がないものである。したがって、既存の主要顧客に意見を求める時点で、破壊的技術の可能性はないものと判断される運命にあると言えるだろう。

 その結果、第三のステップとして、優良企業は持続的技術の開発速度を上げることになる。これは優良企業にとって短期的には合理的な判断と言わざるを得ない。なぜなら、自社にとっての売り上げの大半を占める主要顧客からの要求なのであり、売上の向上が約束されているものだからである。

 優良企業が全社的な意思決定として持続的技術の向上に目を向けるようになると、破壊的技術を産み出した人間としては面白くない。そこで第四のステップとして、そうした人材が一見して競合とは思えない他社へと移転したり、自ら起業して破壊的技術を世に送り出すこととなる。しかし、第二のステップにあるように破壊的技術は既存の顧客に受け容れられるものではないために、新しい顧客を見つける必要がある。むろん、その過程でスタートアップできずに失敗に終わるものも数知れないであろうが、その中のほんの一部が従来とは異なる顧客に受け容れられる新市場が細々と形成される。

 新市場の売上規模は当初小さい。したがって、破壊的技術を担う企業からすれば、少しの売上向上を実現することで成功と見做される。他方で、優良企業からはその新市場がどのように映るか。売上規模が明らかに大きい優良企業からすると、新市場での売上の少しの向上などは評価するに値しないものとなるであろう。優良企業ともなると市場からのプレッシャーもかかるわけであり、そうした新市場にリソースを投入することは合理的な判断とは言えないのである。これが上位市場から下位市場を見た場合の反応であるのに対して、新市場である下位市場から上位市場を見た場合には上位市場は極めて魅力を感じるものとなるだろう。その結果、第五のステップとして、破壊的技術とともに新市場を開拓している企業は上位市場へと移行を開始するようになる。

 破壊的技術とは、既存の技術と既存の使用スペックで比較すると劣位にあることがほとんどである。しかしその結果、安価でシンプルなものを提供できる。したがって、下位市場が上位市場へと食い込み始めた後には、破壊的技術の方に価格優位性が伴う。一方で持続的技術には価格劣位とともに顧客の要求水準をも超えたものを提供する傾向があり、その結果として顧客は次第に割高感をおぼえるようになる。その結果として、顧客が破壊的技術へと乗り換え始める。そうすると第六のステップとして優良企業は破壊的技術を取り扱う部署を設けたり、ベンチャーを買収することで破壊的技術を用いようとするが、時流に乗り遅れて衰退してしまう。

 以上の六つのプロセスは外部環境への適応に関するものである。一方で、本書では企業の内部環境へも目が当てられている。技術を取り扱う上で組織として対応できることとできないことは、資源、プロセス、価値基準の三つの要因によって決まるという。資源とはいわゆる「ヒト・モノ・カネ」であり、プロセスとは組織内における相互作用、協調、コミュニケーションや意思決定のパターンであり、価値基準とは組織の優先順位を決めるときの基準である。

 著者によれば、ここでのポイントは、組織の保有する能力が人材という資源にある場合は、新しい問題に変化することは比較的簡単であるという。人材の保有する知識や能力を向上させることで対応可能であろうし、もっとドラスティックな対応としては適切な人材を外部からつれてくるという対応も可能であろう。しかし、能力がプロセスや価値基準の中に埋め込まれることが通常であり、それが組織風土に組み込まれると変化は極めて難しくなる。

 破壊的技術に対応するためには、こうした外的環境と内的環境とを整合させることが必要である。その答えを出すことは難解であるし、それは状況によって異なると言わざるを得ず、画一的な正解は存在しない。したがって、私たちはまず上記のようなポイントをもとに自社と環境、そしてそれらの適合性について常にチェックすることが必要であろう。


2012年2月11日土曜日

【第69回】『眠れる遺伝子進化論』(四方哲也、講談社、1997年)


 科学とは、HOWを知るものでありWHYに答えるものではない、とよく言われる。史実とは異なると言われている落ちるリンゴを見てニュートンが万有引力の法則を見つけた、という例を持ち出してみよう。ニュートンは、リンゴが落ちたという事実をもとに、引力を発見したとされているが、これは「どのように」というHOWに対する答えを導き出したということである。もし「なぜ」というWHYに対する答えをニュートンが考えたとしたら、「動物がリンゴを食べて、その中の種が土に入り、やがて芽が出て...」といった子どもへの説明のようなものになってしまう。これはこれで子どもにとっては意味があるのであろうが、科学的態度とは言えない。

 このような科学的態度がときに貫徹されない領域が進化論や遺伝子に関するものであると著者は述べる。たとえば、ラマルクは進化の過程において「使用する器官は発達し、そうでない器官は発達しない」という用不用説を述べたことで有名だ。後にこの説は獲得形質が遺伝するという事実が認められなかったために否定されたのであるが、現在でも「誤った説」との注釈付きで教科書等には掲載されている。なぜいまだに影響力を持つのか。これはWHYに答える理論であるからではないか、というのが著者の主張である。すなわち、進化論は人間の根源的な存在に関わるWHYの質問を扱いがちなのである。

 ではこのようなWHYアプローチじたいに問題はあるのだろうか。著者はダーウィンの適者生存の考え方に危険性を感じている。環境に最も適した種が他の種を駆逐して生き残るという適者生存の考え方は、ともすれば、人類という進化論の先端に位置するものが最も環境に適していると考えてしまう。つまり、人類が人類の正当性、地球に存在する理由をWHYアプローチで証明するものとなってしまうのである。

 こうしたWHYアプローチは、人類を取り巻く環境問題への悪影響を及ぼすばかりではない。たとえば「努力して勉強しなければ社会の不適格者になる」といった私たち社会の中における適者生存の理論へと応用的に用いられてしまうことは自明であろう。私たちは、自分たちが人間社会の中において、また地球環境の中において、いかにアイデンティファイするかについて、適者生存というWHYアプローチで正当化してしまうのである。

 しかし、これが現実的であれば問題は少ないのであろうが、自然は適者生存的ではない、というのが本書で著者が明らかにしている研究結果の要諦である。

 まず、適者生存が前提にしている、最適種のみが生き残り他の種は駆逐されるということは起こらない。他の種と比べて比較優位に立つという意味での最適種はもちろん存在する。しかし、そうした最適種のみが生き残って他の種が淘汰されるというのではなく、共存状態が起こることがむしろ自然なのである。

 また、最適種が自然環境のみと影響を与え合うのではなく、他の種と相互依存関係を持つという著者の研究結果も興味深い。環境と最適種とが動的な関係を持つことは分かり易いが、最適種と比較劣位の種とがお互いに影響を与え合い、お互いの存在を前提として繁栄するのである。むろん、お互いに好意的な影響を及ぼし合うだけではなく、自らの種を増やすために他の種への攻撃を行うことはあるが、結果的に共存するのである。この現象を著者は競争的共存と名付けている。
 
 なぜ最適種と比較劣位の種とは競争的共存関係を持つのであろうか。その理由として著者は、競争的共存が多様性をもたらし、多様性がお互いの種の存続をもたらすからではないか、としている。実際、著者の実験結果によれば、相互作用があることで種は分化をもたらし、多様性を担保しようとするらしいのである。最適種のみが繁栄する社会というのは画一的で息苦しいものであろう。そうではなく、様々な方向性でエッジが利いている人々や種が、相互に影響を与え合い同時に繁栄する社会の方が豊かではないか、という著者の声を推察することは邪推であろうか。

2012年2月5日日曜日

【第68回】『解雇の研究』(高橋賢司、法律文化社、2011年)


 本書は、日本における解雇に関する裁判例や学説の変遷について先行研究を丹念に行った上で、解雇法理を積極的に擁護することを主張する研究書である。

 まず著者は、アメリカ企業における hire and fire の原則に批判を加えている。この原則はアメリカ以外の国における労働法だけではなく、私法の体系から鑑みて相容れない考え方であるとする。私法秩序の原則に照らせば、契約関係の存続を維持することが通常であり、そうした私法の論理からすると、たしかに解雇の自由が原則となり得ることはないだろう。

 使用者に解雇権を与えない考え方は、日本において解雇規制を正当化してきた流れと整合的であると言えるだろう。従来、解雇規制に関する学説は、解雇に正当事由を要求する正当事由説、使用者の解雇権を承認しつつ権利の濫用を禁止するという民事法の一般ルールによって修正を加える権利濫用説、解雇を原則的に自由とする解雇自由説の三つがあった。判例が積み重なり、またその判例が2003年の労基法改正で明文化され、2007年の労契法で規定されたことで、権利濫用説が採られたと解釈される。

 権利濫用説は労働者個人を解雇する場合に適用されるものであるが、企業の業績不振に伴う解雇については解雇権濫用法理に加えて整理解雇の四要件(以下、四要件)が求められる。四要件とは、(1)人員削減の必要性があること、(2)使用者側が解雇を回避するために相当な努力をしたこと、(3)選定基準が合理的であって、被解雇者の人選が合理的であること、(4)解雇に至る過程で労働者や労働組合と十分協議を尽くしたこと、であり、これらを欠く場合は解雇権の濫用として無効とするというものである。

 こうした整理解雇法理の主要な部分を為す四要件は、現在どのように適用されているのであろうか。(4)については協議を尽くしたかどうかの客観的な基準が整えられており、(1)と(2)についても整理が進んでいるが、(3)については客観的で画一的な基準がないと、著者は警鐘を鳴らす。

 まず(1)については、判例を四つの観点に分けて捉えることができるという。①経営が赤字であるかどうか、売り上げ・営業成績が上昇しているかどうか、販売費・一般管理費等を削減しているか、という「経営状況確定のルール」、②新規採用を行っていてはならないという「新規採用禁止のルール」、③希望退職者・退職勧奨者など任意退職した者が今後予想される場合、退職者をまず確定しなければならないという「任意退職者確定先決のルール」、④役員の報酬や賞与をある程度減額するなどの方策を検索すべきであるという「経営者の負担軽減先決のルール」の四点から、人員削減の必要性が判断される。

 次に(2)については、配転・出向、希望退職が行われないままの当該労働者の解雇は、解雇権行使の濫用となり無効であると判断される。

 問題の(3)であるが、著者が平成不況時の101件の整理解雇事案を調査したところ、10人未満の少数の被解雇者しかいないケースが91件にも及ぶという。この事実から、著者は指名整理解雇が昨今の日本企業の解雇の実態ではないかと指摘する。その上で、そうした指名整理解雇が果たして企業の再生を可能としたのか、これまでの判例や学説の積み重ねから十分な保護が与えられたのかについて疑義を呈する。実際、執拗な退職勧奨や職場内いじめについては不法行為法理などでの救済がなされるが、解雇や希望退職において、中高年、疾病者、障碍者、勤務態度不良者等が選別された場合の労働契約関係の存続保護法理は現在のところ十分ではない。この(3)について、今後、判例と学説の整理が喫緊事であることは論を俟たないであろう。

 法的正義を用いて不当な解雇から労働者を守るという著者の姿勢には首肯する部分が多い。しかし、組織行動論を研究し、十年弱企業で働き続けている身としては、違和を感ずる部分もまたあったのが率直なところである。とりわけ、職業訓練や職場内トレーニングによって他の職務への配転を行うことを著者は主張するが、これは現実的ではない。むろん、配転を行うことで労働者の潜在的なパフォーマンスを開花させる努力を企業が行うことは必要であろう。しかし、企業が労働者を保護するという文脈で職業訓練と配転を繰り返すことは、財務面が潤沢な一部の大企業であればできるが、それ以外の圧倒的多数の企業にとっては現実的でない。いつまでも教育コストがかかる人材を抱える職場では、部門としての生産性が上がらないばかりか、業務が集中するその他の労働者の心身面に悪影響を及ぼすからである。

 労働法は働く個人の外形的な保護に重きを置きがちであるが、働く個人の内面、職場のダイナミクス、企業行動といった他の要素にも配慮する必要があると言えるだろう。具体的に言えば、組織行動論や労働経済学といった職場を科学する学問を横断的に捉える姿勢が、多様な働き方が表れつつある現在においては必要とされるのではないだろうか。