科学とは、HOWを知るものでありWHYに答えるものではない、とよく言われる。史実とは異なると言われている落ちるリンゴを見てニュートンが万有引力の法則を見つけた、という例を持ち出してみよう。ニュートンは、リンゴが落ちたという事実をもとに、引力を発見したとされているが、これは「どのように」というHOWに対する答えを導き出したということである。もし「なぜ」というWHYに対する答えをニュートンが考えたとしたら、「動物がリンゴを食べて、その中の種が土に入り、やがて芽が出て...」といった子どもへの説明のようなものになってしまう。これはこれで子どもにとっては意味があるのであろうが、科学的態度とは言えない。
このような科学的態度がときに貫徹されない領域が進化論や遺伝子に関するものであると著者は述べる。たとえば、ラマルクは進化の過程において「使用する器官は発達し、そうでない器官は発達しない」という用不用説を述べたことで有名だ。後にこの説は獲得形質が遺伝するという事実が認められなかったために否定されたのであるが、現在でも「誤った説」との注釈付きで教科書等には掲載されている。なぜいまだに影響力を持つのか。これはWHYに答える理論であるからではないか、というのが著者の主張である。すなわち、進化論は人間の根源的な存在に関わるWHYの質問を扱いがちなのである。
ではこのようなWHYアプローチじたいに問題はあるのだろうか。著者はダーウィンの適者生存の考え方に危険性を感じている。環境に最も適した種が他の種を駆逐して生き残るという適者生存の考え方は、ともすれば、人類という進化論の先端に位置するものが最も環境に適していると考えてしまう。つまり、人類が人類の正当性、地球に存在する理由をWHYアプローチで証明するものとなってしまうのである。
こうしたWHYアプローチは、人類を取り巻く環境問題への悪影響を及ぼすばかりではない。たとえば「努力して勉強しなければ社会の不適格者になる」といった私たち社会の中における適者生存の理論へと応用的に用いられてしまうことは自明であろう。私たちは、自分たちが人間社会の中において、また地球環境の中において、いかにアイデンティファイするかについて、適者生存というWHYアプローチで正当化してしまうのである。
しかし、これが現実的であれば問題は少ないのであろうが、自然は適者生存的ではない、というのが本書で著者が明らかにしている研究結果の要諦である。
まず、適者生存が前提にしている、最適種のみが生き残り他の種は駆逐されるということは起こらない。他の種と比べて比較優位に立つという意味での最適種はもちろん存在する。しかし、そうした最適種のみが生き残って他の種が淘汰されるというのではなく、共存状態が起こることがむしろ自然なのである。
また、最適種が自然環境のみと影響を与え合うのではなく、他の種と相互依存関係を持つという著者の研究結果も興味深い。環境と最適種とが動的な関係を持つことは分かり易いが、最適種と比較劣位の種とがお互いに影響を与え合い、お互いの存在を前提として繁栄するのである。むろん、お互いに好意的な影響を及ぼし合うだけではなく、自らの種を増やすために他の種への攻撃を行うことはあるが、結果的に共存するのである。この現象を著者は競争的共存と名付けている。
なぜ最適種と比較劣位の種とは競争的共存関係を持つのであろうか。その理由として著者は、競争的共存が多様性をもたらし、多様性がお互いの種の存続をもたらすからではないか、としている。実際、著者の実験結果によれば、相互作用があることで種は分化をもたらし、多様性を担保しようとするらしいのである。最適種のみが繁栄する社会というのは画一的で息苦しいものであろう。そうではなく、様々な方向性でエッジが利いている人々や種が、相互に影響を与え合い同時に繁栄する社会の方が豊かではないか、という著者の声を推察することは邪推であろうか。
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