ラベル 美術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 美術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年5月12日土曜日

【第835回】『ドイツ・オーストリア』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 日本で描かれた作品とも、北欧で描いた作品を集めた『森と湖と』で取り上げられた作品とももまた違う、印象を抱いた。ドイツやオーストリアで描いた作品を集めた本作では、人工物を対象としたものが多いように思え、その中に人の生活の蓄積としての文化が描かれているように感じる。

 そこには、その土地で生きる人々への尊敬と、そうした人々が創り出した構造物への尊重が描かれているのではないだろうか。

「東山魁夷 晩鐘」の画像検索結果

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年5月5日土曜日

【第833回】『森と湖と』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 著者の日本の各地を描いた風景画は美しい。風景画というジャンルが同じであれば、日本であろうと、海外であろうと、描かれた作品は変わらない、と思っていた。しかし、本書で描かれている北欧の景色を眺めていると、素人考えとしては「これが東山魁夷の作品なのか」と驚かされた。

「静暁 東山魁夷」の画像検索結果

 海外、特に北欧を著者が描こうとしたのはなぜなのか。その理由は本書の最後に端的に記されている。

 なぜ、北欧を旅して、私が心の故郷に巡り合ったのか。北欧の自然と、町と、そこに住む人々に対して、あれほど心を通い合わすことが出来たのか。私の北方的要素は、北方の人でない私、むしろ南の人間であるべき私の上に、積み重ねられたものである。私が根本的に北国の人間であるなら、おそらく光の豊富な南方へ憧れたであろう。だからこういう本質を持つ私が北の風物の中で心を打たれるのは、むしろ、寒さの中での暖かさであり、暗さの中での明るさ、生に対して苛酷な条件の中での生の輝きというように、本当に北方的な極限の姿ではなくて、北の要素の中にほの見える南の要素であるとも考えられる。だから、私は北国が雪と氷に蔽われ、寒風の吹きすさぶ姿を、いっそう北国らしい姿であると見るのだが、私の描いが雪は春を待つ雪であった場合が多い。
 あの北欧の旅で私の心を打ったのは、自然と人との営みの中に、静かでつよい生の感動を読みとったからである。(148~149頁)

 横浜で生まれて神戸で育った著者は、北国育ちではない。だからこそ、北国の環境の厳しさ、そこで生きる人々の強靭さに魅かれたのだという。そうして著者の想いが込められた作品だからこそ、それを鑑賞する私たちに響くものがあるのだろう。

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年4月29日日曜日

【第832回】『風景との巡り合い』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 言わずと知れた日本を代表する風景画家の一人である著者が、なぜ風景画を描くことになったのか。また、風景を描き続けたのはなぜか。以下の一節にその答えがあるように私には思える。自然を描きながら、自然の中に自身を位置付け、自然を通じて自分自身の内奥を描いていたのではないだろうか。

 私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によって、いくらか救われる。(178頁)

 自身の作品に著者自身が言葉を添えながら構成されている本作。頭と心で、じっくりと味わいたい一冊である。

 夏の早朝の草原の中に、一すじの道がある。
 遍歴の果てに、新しく始まる道。
 絶望と希望が織り交ぜられた心の道。(「道」(18頁))
「東山魁夷 道」の画像検索結果

 絵画もいいが、言葉に考えさせられた。新しい道というものにポジティヴな清新さを感じていたが、希望とともに絶望が混ざっているというところが唸らさせられる。

 弦楽器の合奏の中を
 ピアノの静かな旋律が通り過ぎる。(「緑響く」(115頁))
「東山魁夷 緑響く」の画像検索結果

 好きな作品の一つ。白馬を「ピアノの静かな旋律」と形容しているところがすごい。絵画の中に音を見出すという感覚は残念ながら持ち得ないが、解説を受けるとそのように感じることもできる。

 雨が止んで、青く澄んだ嶺々が爽やかな姿を見せる。
 谷間からは白い雲が、ためらいながら立ち昇ってくる。(「山嶺白雲」(133頁))

「東山魁夷 山嶺白雲」の画像検索結果

 意識して鑑賞したのはおそらく初めてである。思わずページをめくるスピードが弱まり、じっくりと見てしまった。なんというか、気持ちが洗われる感じがする作品である。


2018年4月14日土曜日

【第827回】『京洛四季』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 京都に引っ越すことが決まってから、改めて京都への興味が増してきた。歴史的な建物や文化に目が向きがちであったが、その風景の美しさに、魁夷の作品を通じて感じ入った。
 本書では、京都の風景を四季に分けて配列している。どの季節にも、違った美しさがあり、日本の四季の素晴らしさに気付かされた。

「東山魁夷 砂紋」の画像検索結果

 庭は生きている。生きているということは絶えず変化していることを意味する。今日、名園として私達の眺めている庭の多くは、作庭当初の経験とはよほど感じが変ったものであろう。(85~86頁)

 自然を私たちの作為によって変えようとするのではなく、自然の有り様と私たちの有り様を調和させようとすること。そのためには、自然な悠久の変化を所与のものとして、その変化を楽しみながら、接することが求められる。

 庭園一つにも、私たち<日本人>の考え方や感じ方が表れているのかもしれない。

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年4月7日土曜日

【第825回】『唐招提寺全障壁画』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 襖絵という立体的な視覚がなせるわざなのか。普通の絵画とは異なる迫力のようなものを感じる。現在行われている御影堂の修繕が終わらないと、東山魁夷の襖絵も見られることができないようだ。早く、見られる時が来ることを願ってやまない。

「東山魁夷 唐招提寺」の画像検索結果

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年3月31日土曜日

【第823回】『中国への旅』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 同じ東山魁夷の作品でも、日本での作品とも、ヨーロッパでの作品とも異なる感じがするのだから、不思議なものである。タイトルにたぶんに影響を受けている可能性は高いが、中国の屹立とした自然の強さを感じさせる作品が多い。

「江月明 東山魁夷」の画像検索結果

 この幻想的な風景。勝手なイメージだが中国の雰囲気がよく表れているように思う。

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2017年5月4日木曜日

【第704回】『名画は語る(2回目)』(千住博、キノブックス、2015年)

 絵画を見るとはなく眺めていると、不思議と心が落ち着くことがある。ああでもないこうでもないと考えるのではなく、ただただ見る。ゆとりがあるから絵画を見るのではなく、ゆとりを得るために絵画を見る。何らかの気づきを得ようとするのではなく、ただ見ることで結果的に何らかの気づきを得られることもあるし、何も得られないこともある。どちらでもいい時間を過ごしたと思える。これが絵画鑑賞の醍醐味の一つなのではないだろうか。

 こうした考え方を取っていても、本書のように解説を読むこともまた興味深い。学問という鋳型に嵌めるのではなくとも、知識を持っていることで、引き出しが増える。正確には、引き出しが増えているような気がするのであるが、広い視点で絵画に向き合うことができるのである。

 再読した今回も、結果的には前回も印象深かった作品の一つであるマティスの「金魚」が面白かった。マティスのモノローグという形式で著者が「金魚」について述べている。

 私が言いたかったことは、いかなる強烈な色彩の組み合わせも、必ず画面の中で生き生きとバランスよく、ハーモニーを奏でることができるということだ。私はそれを自然から教えられた。(193頁)

 色彩の持つ意味合いと、それぞれの組み合わせによって形成される自然美について端的に述べられた箇所である。

 色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)


 色というものから、価値観へと論が展開されるのが面白い。それでいて納得的である。 異質と調和。一見すると矛盾するような概念にも思えるが、企業におけるダイバーシティ・インクルージョンを考えれば同時に並び立ち得る考え方であることがわかるだろう。


2016年4月3日日曜日

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

 芸術というものを、住みづらい世の中で、また時に訪れる逆境の中で、寛ぎの瞬間を提供してくれる存在として位置付けたのは漱石である。名画を眺め、著者の解説を読むことで、美術や芸術の世界に浸っていると、『草枕』の一節を想起することだろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(『草枕』Kindle No. 11)

 願わくば、中学や高校といった若い時分に、本書やその内容を解する教師の授業に出会いたかった。そうすれば、美術という科目に対する否定的な印象を持つことなく、学生生活を送れただろう。しかし、月並みな言い方にはなるが、物事に遅すぎることはないわけであり、こうした良質なテクストと出会えた僥倖に素直に感謝したい。

 著者は著名な日本画家である。その著者が、「抑え切れない衝動で、この画家はこの絵を描いていたのかどうか」(300頁)という基準で四十五の名画を選び、解説を加えている。時代背景やその人物の生涯を基にして客観的な記述に注力したものもあれば、その著者になりきって自作を解説するような形式で書かれたものもある。それぞれの画家の人物像に応じて書き方を変える著者の意欲的な創意工夫によって、作品の解説が読者にとってより入りやすくなっているようだ。

 多くの名画や画家に魅了される一冊の中から選ぶのは難解であるが、ここでは、ムンク、マティス、ゴーギャンの三人について、印象的であった部分を記してみる。

(1)『叫び』ムンク

 私はこの男の、とにかく生きぬいていこうとする力を感じるのです。ムンクはこの絵によって何かしらの生き続けていく手がかりを見つけ出し、それを私たちに伝えようとしていたのではないでしょうか。(41頁)

 ほとんどの人が一度は目にしたことがある作品であろう。改めてこの作品と対峙してみると、描かれている人物は、叫んで現実から逃げようとしているものではないことに気づく。また、抽象化して描かれた人物を通して、個別具体的な「叫び」ではなく、私たちが普遍的にもしくは潜在的に抱く「叫び」の源を思い起こすことができる。そうした普遍性や共感を以て、著者は以下のように芸術を定義付けた上で、ムンクの『叫び』を名画と断言する。

 芸術とは人が人に対して行う説明不可能と思えるイマジネーションのコミュニケーションのことですから、この作品は極めて本質的な、見えないものさえ見えるようにして、曰く言い難い心を伝えようとした、卓越した芸術作品であると言っていいと思います。(44頁)

(2)『金魚』マティス

 この作品の解説は、著者がマティスになりきって自作を解説するという形式で書かれている。俗に「色彩の魔術師」とも呼ばれるマティスが、なぜあのような色彩豊かな表現を用いたのか。以下の著者の解説は納得的であるとともに、現代社会におけるダイバーシティの重要性に関しても示唆的である。

 色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)

 マティスの言葉として創作されたこの文章は、時に偏狭な枠組みで物事を捉えてしまう私たちが、意識したい至言ではなかろうか。

(3)『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』ゴーギャン

 同じ時代を共にし、最終的に決別したゴッホへ宛てた手紙の中でゴーギャンが述べたというフィクションとして解説が行われる。パリから逃れ、妻子も置いて辿り着いたタヒチで描いた市井の人々。日々の生活を重ねる人々を絶えず眺めることで至った境地は、苦しくても人生を全うするということであったと著者はしている。

 この絵は僕につらくても生き続けろと言ったのだ。そしてこの奇跡の中を生きていることを有難く思うがいい、と言ったのだ。(254頁)
 この逃避という連鎖をここでやめなければ、僕は永久に、たとえ死んでからもずっと逃げ続けなくてはならない。だからやめたんだ。(254頁)

 生き続けていく上で、何かから逃げるのではなく、踏みとどまって、前を向くこと。不条理や逆境の中にあっても、無理に自分を勇気づけたり、意識を変えたりしようとするのではなく、淡々と、しかし地面をしっかりと見据えて生きること。心強い絵画である。