2017年12月31日日曜日

【第791回】『1Q84 BOOK1』(村上春樹、新潮社、2009年)

 少し前に出た作品だと思っていたが、出版されてから十年近くが経っていたことに驚いた。私が勝手に思い描く、著者らしい作品。『海辺のカフカ』を読んでいてわけがわからなくなった、異なる主人公の物語が交互に出てくるパターンの展開である。細かなプロットを追おうとすることを断念し、すらすらと読むとなんとなく心地よい感じがする。日本語がきれいだからなのだろう。

 何かに見えないというのは決して悪いことじゃない。つまりまだ枠にはまっていないということだからね(213頁)

 いかにも◯◯らしいという言葉は褒め言葉で使われることが多いように思う。とりわけ、ある職務役割に習熟してきた若手社員が使われることで、一人前に近づいたという感触を得ることができる言い回しである。しかし、著者は、そうした言説構造に疑問を投げかける。ステレオタイプで描かれないということは、その人の大いなる多様な可能性に目を向けさせるのである。

 世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ(525頁)

 青豆という登場人物は主人公の一人である。その独特なネーミングはさておき、戦争やテロリズムにおける当事者間の感情についての表現に唸らさせられた。記憶という曖昧なものに基づく闘いであるために際限がなくなり、人によって受け止め方が異なり、また、減衰しながらも世代継承性がある。


 頭で論理的に戦争やテロを正当化することは簡単ではある。しかし、いかなる状況であっても、暴力によって解決を図ろうとすることは、果てしない記憶による闘いを招くことになることを、私たちは重く受け止めなければならない。


2017年12月30日土曜日

【第790回】『不道徳教育講座』(三島由紀夫、角川書店、1995年)

 三島の随筆というのは小説とは毛色があまりに違って戸惑いながらも、その一方で彼の意外な側面が見えて興味深かった。道徳という、ともすると重苦しいテーマについて、皮肉を交えて軽快に述べる。

 何も自信を持てというのではない。自信とは実質を伴う厄介な資格である。誰でもなかなか本当の自信などもてるものではない。しかし己惚れなら、気持の持ちよう次第で、今日からでも持てるのです。(74頁)

 セルフエフィカシー(自己効力感)とセルフエスティーム(自己肯定感)の関係性と捉えればよいのだろうか。成長実感と繋がる自己効力感を私たちは意識しすぎてしまうことがあるが、今の多様な価値観の統合体としての自分自身を認めることを意識したいものである。

 知性を、電気洗濯機や冷蔵庫並みの、生活の便利のための道具と考えているのは、本当の知性の人ではなく、知性の人とは、知性自体の怪力乱神的な働きに、本当の恐怖を感じている人のことをいうのですから。(258頁)


 知性について考えさせられる。効率性や利便性を向上させることが知性なのではなく、その持つ危険性を意識できることが知性であるという三島の言葉に耳を傾けたい。


2017年12月24日日曜日

【第789回】『1973年のピンボール』(村上春樹、講談社、2004年)

 デビュー作に続いて芥川賞候補になった著者の二作目。

 空はまだどんよりと曇っていた。午前中よりそのグレーの色は少しばかり濃くなったようにも思える。窓から首を突き出すと微かな雨の予感がする。何羽かの秋の鳥が空を横切っていった。ブーンという都会特有の鈍い唸り(地下鉄の列車、ハンバーガーを焼く音、高架道路の車の音、自動ドアが開いたり閉まったりする音、そんな無数の音の組み合わせだ)が辺りを被っていた。(78頁)

 漱石の情景描写も好きだが、心象と情景との描写もいいなと思う。少しニヒルな感じもするのだが。私たちが描き出そうとして描き出せないことを、事も無げに、淡々と、しかし共感的に描くのは本当にすごい。

 「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ」(97頁)


 ちょっとした教訓めいた書き方もまた、嫌味に思えず、すんなりと入ってくる。単に努力を礼賛するのではなくて、日常の中でちょっとした努力や積み重ねをしたくなる、そんなさりげない書きっぷりである。


2017年12月23日土曜日

【第788回】『風の歌を聴け』(村上春樹、講談社、2004年)

 稀代の小説家がデビュー作で何を語り、どのような物語を展開させるのか。著者のエッセーである『職業としての小説家』を読んで改めて興味を抱き、遅まきながら本作を読もうと思い立った。

 小説の作品の良し悪しが分からない身としては、著者らしい作品だなぁと思いながら読んだ。細かな巧拙はあるのだろうが、著者の後年の作品と同じ文体だと思った。

 「良い小説さ。自分にとってね。俺は、自分に才能があるなんて思っちゃいないよ。しかし少なくとも、書くたびに自分自身が啓発されていくようなものじゃなくちゃ意味がないと思うんだ。そうだろ?」(117頁)

 著者が自身に言い聞かせているのかと邪推してしまうが、どうなのだろう。お節介的な推測はさておき、自分自身が今後まとまった文章を書くのであれば、この言葉は響くし、意識したいなと思った。究極的には読者を意識するよりも、書くというプロセスやその結果としての文章によって自分自身の可能性を拡げ、気づきをゆたかにしたいものだ。

 あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
 僕たちはそんな風にして生きている。(152~153頁)


 著者の淡々とした文章は、変に力が入ってなくて、いいなと思う。他の人に読ませようとか、あからさまに他者を意識しているような文章ではなく、こうした文体を身につけたいものだ。


2017年12月17日日曜日

【第787回】『西田幾多郎の生命哲学』(檜垣立哉、講談社、2011年)

 西田の哲学は難しい。なんとなく惹かれるものがあって書籍に取り組んでも、毎回、そのほとんどが理解できない。だからこそ、こうした解説本で少しずつ理解を補足できることはありがたい。徐々にでも難解な書籍にアプローチできることは嬉しいものである。

 「実践」であり、「働き」であり、「ポイエシス」(制作、創出、作ること)であること。自ら自己形成される世界であること。徹底的に、働きつつ変わりゆく、そうした世界の現場に自らを投げこむこと。そして、そうした「行為」の立場以外からこの世界をみないこと。これは、西田の発想の根本的な基軸をなしているのである。(49頁)

 考えたり内省するといったことが、哲学という概念のイメージとして私にはあった。しかし、西田の哲学は、行為が基本であるという。行為し、世界に対して自分自身を位置付けることで、見えてくるもの感じられるものがある、ということであろうか。

 「純粋経験」とは、西田の表現を借りれば、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(1-6,7)という場面である。「私」という主体(世界のこちら側に設定できる自己)があらかじめ存在していて、客体(世界の向こう側に想定される対象)が描けるのではない。私とは、そもそもが、「私」であるか「世界」であるかも判別できない純粋で未分化な体験を生きている。未分化であるはずのこうした場面に、はじめから区切りをいれてしまうのが、近代的な認識論の装置の誤りである。(50頁)

 行為する哲学から純粋経験という西田特有の概念が出てくる。すなわち、西欧近代における神と対置する主体として「私」が客観的世界を経験するという二分法と異なった世界認識である。理性によって分けることで成り立つ世界観ではなく、私と世界とが未分化な中で、体験を通して自己と一体的な世界を認識するという考え方である。

 「自覚」とは、「行為」のなかで世界と一体化している私が、その「行為」そのものにおいて、自己を「限定」していく「働き」のことだからである。世界と同一視される私は、自己という中心性をはじめからもつものではない。しかしそれは、世界と無限に一体化した運動性のなかで、自己が何であるかを切りわけなければならない。切りわけることによって、私も世界も現れる。この切りわけの「実践」が、「自覚」の運動に託されている。(51~52頁)

 純粋経験では自己と世界との一体化が説明されている。こうした一体化した状態の中から、自分自身を実践を通じて切りわけることが自覚である。一般的な「自覚」の意味合いと、西田における使い方が異なることに留意が必要であろう。


 鈴木大拙との交流が示すように、西田の哲学には、素人からすると禅的な考えが多分に盛り込まれているように思える。こうしたものも、彼の哲学を豊かにしているものであり、西洋哲学との違いを示すものなのではないだろうか。


2017年12月16日土曜日

【第786回】『断片的なものの社会学』(岸政彦、朝日出版社、2015年)

 『ビニール傘』で興味を抱き、著者の書籍を他にも読もうと思っていた。期待を持って読み始めると良くない結果に至ることが多いのであるが、そのような懸念は杞憂であった。社会学と銘打ってはいるが、随筆のようなタッチで書かれているために読みやすく、そうでありながらも、社会学者ならではの絶妙な観点から社会を描き出している。

 断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。
 私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない、ということである。社会学者がこの問題にどう向き合うかは、それはそれぞれの社会学者の課題としてある。(13~14頁)

 社会学者という言葉を、定性研究を行う人物と読み替えて読んでも違和感がなく、自分事として読んでしまった。他者にインタビューし、その内容を切り取ってラベル化することは、定性研究の中ではよく行われる手法であり、私自身も行った。

 もちろん、そうした際には恣意的なラベリングにならないように留意に留意を重ねるわけであるが、その断片を一般化する上ではある種のジャンプが生じざるを得ない。それが論理的もしくは恣意的な飛躍にならないように、節度を保ってラベリングを行うことが肝要であるのは間違いない。

 他者の言動をラベル化することは、そのラベル化したものの善悪を判断することにも容易に繋がるだろう。その結果として、客観的・一般的に良いものという価値観を創り出すことにもなりかねない。

 完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰を傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰を排除することもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人びとの区別を、自動的につくり出してしまう。(中略)
 したがって、まず私たちがすべきことは、良いものについてのすべての語りを、「私は」という主語から始めるということになる。(111頁)

 一般的に良いということは、「そうではないもの」つまり普通でないものを創り出す。語り手にそうした意識がなくても、受け手は、自分自身が「そうではないもの」と判断される内容であれば、否定されたという意識を持ってしまう。

 ことほど左様に、普通と普通でないということの分断は、必ずしも悪意のある言葉によって生じるのではない。私たちのさりげない「良識」に基づく言葉が、普通でないものを創り出す。では「普通」とは何か。少し長いが、引用してみたい。

 多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。(中略)
 マイノリティは、「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しをされる。(中略)
 一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。
 そして、このことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。(170頁)

 「普通ではない」ものがラベル化され、ステレオタイプなものとして意味づけが為される。結果として、そうではない状態が「普通」となるのであるが、それは「普通でないもの」の反対概念ではなく、色付けされていない無色透明のものに過ぎない。だからこそ、ある事象について「普通」である人々は、自分自身の特異性を気にせずにいられる存在なのである。


 言葉というものの用い方の難しさに気付かされる作品であった。月並みだが、言葉は暴力になり得る。意識していなくても、相手に悪意として伝わることはある。価値中立性を重んじる研究においてもそうである。研究は難しい。しかし、言葉に力があると考えれば、研究というものは尊い行為にもなり得るのではないか、とも思えるがいかがであろうか。


2017年12月10日日曜日

【第785回】『サピエンス全史(下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)

 上巻では人類自体に焦点が当てられがちだったのに対して、下巻では、近代西洋諸国がなぜ覇権を握るに至ったのかに焦点が当てられている。近代に至るまでの地域における覇権国家と異なった特徴とは何だったのか。

 ヨーロッパ人が特別なのは、探検して征服したいという、無類の飽くなき野心があったからだ。やろうと思えばできたのかもしれないが、ローマ人はけっしてインドやスカンディナヴィアを征服しようとはしなかったし、ペルシア人はマダガスカルやスペインを、中国人はインドネシアやアフリカをけっして征服しようとはしなかった。たいていの中国の支配者は近くの日本さえも自由にさせた。それは特別なことではなかった。特異なのは近代前期のヨーロッパ人が熱に浮かされ、異質な文化があふれている遠方のまったく未知の土地へ公開し、その海岸へ一歩足を踏み下ろすが早いか、「これらの土地はすべて我々の王のものだ」と宣言したいという意欲に駆られたことだったのだ。(157~158頁)

 飽くなき野心が挙げられている。こうした野心の背景には、上巻であげられた第三の革命である科学革命による技術の裏付けが挙げられるのであろう。科学技術を進展させた西欧近代の人々は、見たかったからではなく、見えてしまったが故に、野心を持ったという側面もあるのではないだろうか。

 一方のスペイン人は、世界は見知らぬ人々の国だらけであることがわかっていたし、よその土地に侵入してまったく未知の状況に対処することにかけては誰よりも経験豊かだった。近代ヨーロッパの征服者にとっては、同時代のヨーロッパの科学者にとってと同様、未知の世界に飛び込むのは胸躍ることだったのだ。(112頁)


 科学革命によって新しい世界を見ることができ、それによって新たな世界へのチャレンジ精神が培われた。チャレンジを続ければ、未知の世界への対応という点で経験値が他の人々よりも格段と上がったのである。


2017年12月9日土曜日

【第784回】『サピエンス全史(上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)

 タイトルが示す通り、気宇壮大な書籍である。人類の歴史における三つの革命として、認知革命、農業革命、科学革命を挙げ、それぞれが生じた背景とそのインパクトについて丹念に述べられている。詳細を細かく理解するというよりも、歴史の大きな流れを追うことで、ダイナミックに私たちの来し方を把握することができる。

 この精神的限界のせいで、人類の集団の規模と複雑さは深刻な制約を受けた。特定の社会の人口と資産の量がある決定的な限界を超えると、大量の数理的データを保存し処理することが必要となった。人間の脳にはそれができないので、体制が崩壊した。農業革命以降、人類の社会的ネットワークは何千年間も、比較的小さく単純なままだった。
 この問題を最初に克服したのは、古代シュメール人だった。(中略)紀元前三五〇〇年と紀元前三〇〇〇年の間に、名も知れぬシュメール人の天才が、脳の外で情報を保存して処理するシステムを発明した。(中略)シュメール人が発明したこのデータ処理システムは、「書記」と呼ばれる。(157~158頁)

 認知革命に関して、文字の発明が与えたインパクトの大きさは、淡々と書かれながらも説得力がある。私たちが当たり前のように活用している言葉や文字というものの抽象性と、それに伴う汎用性がよく理解できる。言語を用いた抽象度の高いコミュニケーションが、ホモ・サピエンスを他の動物たちとを分けたのである。

 認知革命を境に、ホモ・サピエンスはこの点でしだいに例外的な存在になっていった。人々は、見ず知らずの人と日頃から協力し始めた。彼らを「兄弟」や「友人」と想像してのことだ。だが、この「兄弟関係」は普遍的なものではなかった。どこか隣の谷には、あるいは山脈の向こうには、相変わらず「彼ら」の存在を感じられた。最古のファラオであるメネスが紀元前三〇〇〇年ごろにエジプトを統一したとき、エジプトには国境があって、その向こうには「野蛮人」が潜んでいることは、エジプト人たちには明らかだった。野蛮人はよそ者で、脅威であり、エジプト人が望んでいる土地あるいは天然資源をどれだけ持っているかに応じてのみ、関心を惹いた。人々が生み出した想像上の秩序はすべて、人類のかなりの部分を無視する傾向にあった。(212~213頁)


 認知革命は他者とのコミュニケーションを変えただけではなく、連帯のあり方をも変えた。これがコミュニティの範囲を大きく変え、自らが住む地域以外への想像を可能とし、見たこともない人々との間接的な協働を可能とした。


2017年12月3日日曜日

【第783回】『哲学の使い方』(鷲田清一、岩波書店、2014年)

 哲学とは問いだ。ともすると、哲学は難解な思想や考え方が述べられたものであり、私たち「普通」の人々には理解しがたいもののように思えてしまう。実際に、いわゆる哲学書を一冊通して読み通すことは難しく、特に著名な過去の偉大な哲学者に手になる書籍はおよそ解読不能とまで思えてしまう。

 まずは問いのなかに飛び込むこと。以降のプロセスを歩み抜く知的耐性は、問いを問いつづけるなかではじめてついてくる。(iv頁)
 哲学はむしろすすんで初心者であろうとする。「なぜ?」という問いを連発する子どもたちと連帯しようとする……。なんとも不思議な知的いとなみである。(23頁)

 単に学問領域として哲学を捉えるのではなく、問いを発する際のヒントとして哲学を用いてみる。こうしたカジュアルな発想であれば、哲学を生活の中で活かし、ゆたかに生きるためのきっかけにできそうな気がしてくる。

 ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業できる人のことであり、彼/彼女らにじぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人だということになる。(123頁)
 哲学とは知の「すべてに気をくばる」べきものとしていた。中井が右で指摘していたようなたがいに異質な複数の知をつないでゆく、そういう機能が哲学にはもとめられている。広範な知識をもって社会を、そして時代を、上空から眺める高踏的な「教養」ではなく、むしろ何がひとの生において真に重要であるかをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げてゆく技としての哲学である。(125~126頁)


 生活に活きるだけではなく、哲学は、他者との協働、プロフェッショナル同士の協働に活きる。社会が多様化しているという。「他者性」の強い多様なステイクホルダーと関わる現代において、他者に問いを投げることができ、また他者からの問いに対してオープンに率直に回答できることが、私たちに求められている。現代において、哲学を使うことの効用は高まっているのではないだろうか。


2017年12月2日土曜日

【第782回】『職業としての小説家』(村上春樹、スイッチ・パブリッシング、2015年)

 著者の小説は、決して苦手ではないのだが、好んで何度も読むということはこれまでなかった。しかし、それでも長編小説はわりと読んでおり、気になる存在ではある。このような「なんとなく気になる」というのもファンの一つであろうから、私も著者のファンであったようだ、やれやれ。

 本書はエッセーであり、誠実なモノローグという印象だ。特に興味深かったのは、彼が自身の小説における文体を創り上げる過程で、まず英語で書いてそれを翻訳するという手法を取ったという以下の箇所である。

 机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。(47頁)

 英語で書いてから日本語に「翻訳」する。文体はどのように生み出されるのかが詳らかにされることは珍しいことであろう。シンプルに書くことの秘訣は、シンプルに書かざるを得ない状況を作り出すことにあるのかもしれない。

 以前、英語でアウトプットする訓練をしている際に、英語で書こうとすると言葉が限られざるを得ないので同じような印象は持った。但し、それを日本語に翻訳するとどのような効果があったかまでには意識が全く及ばなかったし、訳してみても著者のような文体にはほど遠かった。文体を構築するための装置は人それぞれによって異なるということであろうが、印象的な発想法ではある。

 自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。(中略)
 それでは、何がどうしても必要で、何がそれほど必要でないか、あるいはまったく不要であるかを、どのようにして見極めていけばいいのか?
 これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。(98頁)

 「好きこそ物の上手なれ」とまとめるだけではもったいない。情報が氾濫している状況の中で、いかに情報を精査し、シンプルな表現形態を見出すかというプロセスにおいて、「楽しい気持ち」という基準を用いている。こうしたオリジナリティの創出方法は、小説家ではない私たちの多くにとっても参考になるだろう。というのも、提案であったりプレゼンテーションといった、何かをアウトプットするという文脈に照らし合わせてみれば、応用できるのではないか。

 大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。(151頁)

 この箇所も、私たちの日常におけるメールをはじめとした文字コミュニケーションに適用できるように考えるがいかがだろう。たとえば、即興性を楽しむSNSと比べてやや長い文章を表現するメールを思い浮かべてほしい。

 他の方から届いたメールを一読して何らかの印象を私たちは持つ。その際の印象の差異は、意志や心がそこにこもっているかどうかであり、それは、送り手が頭の中で充分に練ったり推敲しているかどうかの差なのかもしれない。反対に言えば、真剣に何かを伝えよう、他者に理解してもらいたい、という気持ちがあれば、推敲するというのは自然なのかもしれない。

 いろんな種類の本を読み漁ったことによって、視野がある程度ナチュラルに「相対化」されていったことも、十代の僕にとって大きな意味あいを持っていたと思います。本の中に描かれた様々な感情をほとんど自分のものとして体験し、イマジネーションの中で時間や空間を自由に行き来し、様々な不思議な風景を目にし、様々な言葉を自分の身体に通過させたことによって、僕の視点は多かれ少なかれ複合的になっていったということです。(209頁)


 読書の効用について触れられた箇所も面白い。インプットという基礎体力があるからこそアウトプットができるとした上で、上述した箇所では、なぜ大量のインプットが必要かということが述べられている。大量に幅広く読むことで中立的な立地点を見つけることができるという点は納得的である。