2017年12月17日日曜日

【第787回】『西田幾多郎の生命哲学』(檜垣立哉、講談社、2011年)

 西田の哲学は難しい。なんとなく惹かれるものがあって書籍に取り組んでも、毎回、そのほとんどが理解できない。だからこそ、こうした解説本で少しずつ理解を補足できることはありがたい。徐々にでも難解な書籍にアプローチできることは嬉しいものである。

 「実践」であり、「働き」であり、「ポイエシス」(制作、創出、作ること)であること。自ら自己形成される世界であること。徹底的に、働きつつ変わりゆく、そうした世界の現場に自らを投げこむこと。そして、そうした「行為」の立場以外からこの世界をみないこと。これは、西田の発想の根本的な基軸をなしているのである。(49頁)

 考えたり内省するといったことが、哲学という概念のイメージとして私にはあった。しかし、西田の哲学は、行為が基本であるという。行為し、世界に対して自分自身を位置付けることで、見えてくるもの感じられるものがある、ということであろうか。

 「純粋経験」とは、西田の表現を借りれば、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(1-6,7)という場面である。「私」という主体(世界のこちら側に設定できる自己)があらかじめ存在していて、客体(世界の向こう側に想定される対象)が描けるのではない。私とは、そもそもが、「私」であるか「世界」であるかも判別できない純粋で未分化な体験を生きている。未分化であるはずのこうした場面に、はじめから区切りをいれてしまうのが、近代的な認識論の装置の誤りである。(50頁)

 行為する哲学から純粋経験という西田特有の概念が出てくる。すなわち、西欧近代における神と対置する主体として「私」が客観的世界を経験するという二分法と異なった世界認識である。理性によって分けることで成り立つ世界観ではなく、私と世界とが未分化な中で、体験を通して自己と一体的な世界を認識するという考え方である。

 「自覚」とは、「行為」のなかで世界と一体化している私が、その「行為」そのものにおいて、自己を「限定」していく「働き」のことだからである。世界と同一視される私は、自己という中心性をはじめからもつものではない。しかしそれは、世界と無限に一体化した運動性のなかで、自己が何であるかを切りわけなければならない。切りわけることによって、私も世界も現れる。この切りわけの「実践」が、「自覚」の運動に託されている。(51~52頁)

 純粋経験では自己と世界との一体化が説明されている。こうした一体化した状態の中から、自分自身を実践を通じて切りわけることが自覚である。一般的な「自覚」の意味合いと、西田における使い方が異なることに留意が必要であろう。


 鈴木大拙との交流が示すように、西田の哲学には、素人からすると禅的な考えが多分に盛り込まれているように思える。こうしたものも、彼の哲学を豊かにしているものであり、西洋哲学との違いを示すものなのではないだろうか。


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