『ビニール傘』で興味を抱き、著者の書籍を他にも読もうと思っていた。期待を持って読み始めると良くない結果に至ることが多いのであるが、そのような懸念は杞憂であった。社会学と銘打ってはいるが、随筆のようなタッチで書かれているために読みやすく、そうでありながらも、社会学者ならではの絶妙な観点から社会を描き出している。
断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。
私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない、ということである。社会学者がこの問題にどう向き合うかは、それはそれぞれの社会学者の課題としてある。(13~14頁)
社会学者という言葉を、定性研究を行う人物と読み替えて読んでも違和感がなく、自分事として読んでしまった。他者にインタビューし、その内容を切り取ってラベル化することは、定性研究の中ではよく行われる手法であり、私自身も行った。
もちろん、そうした際には恣意的なラベリングにならないように留意に留意を重ねるわけであるが、その断片を一般化する上ではある種のジャンプが生じざるを得ない。それが論理的もしくは恣意的な飛躍にならないように、節度を保ってラベリングを行うことが肝要であるのは間違いない。
他者の言動をラベル化することは、そのラベル化したものの善悪を判断することにも容易に繋がるだろう。その結果として、客観的・一般的に良いものという価値観を創り出すことにもなりかねない。
完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰を傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰を排除することもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人びとの区別を、自動的につくり出してしまう。(中略)
したがって、まず私たちがすべきことは、良いものについてのすべての語りを、「私は」という主語から始めるということになる。(111頁)
一般的に良いということは、「そうではないもの」つまり普通でないものを創り出す。語り手にそうした意識がなくても、受け手は、自分自身が「そうではないもの」と判断される内容であれば、否定されたという意識を持ってしまう。
ことほど左様に、普通と普通でないということの分断は、必ずしも悪意のある言葉によって生じるのではない。私たちのさりげない「良識」に基づく言葉が、普通でないものを創り出す。では「普通」とは何か。少し長いが、引用してみたい。
多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。(中略)
マイノリティは、「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しをされる。(中略)
一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。
そして、このことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。(170頁)
「普通ではない」ものがラベル化され、ステレオタイプなものとして意味づけが為される。結果として、そうではない状態が「普通」となるのであるが、それは「普通でないもの」の反対概念ではなく、色付けされていない無色透明のものに過ぎない。だからこそ、ある事象について「普通」である人々は、自分自身の特異性を気にせずにいられる存在なのである。
言葉というものの用い方の難しさに気付かされる作品であった。月並みだが、言葉は暴力になり得る。意識していなくても、相手に悪意として伝わることはある。価値中立性を重んじる研究においてもそうである。研究は難しい。しかし、言葉に力があると考えれば、研究というものは尊い行為にもなり得るのではないか、とも思えるがいかがであろうか。
【第142回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
【第240回】『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)
【第426回】『<民主>と<愛国>』(小熊英二、新曜社、2002年)
【第240回】『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)
【第426回】『<民主>と<愛国>』(小熊英二、新曜社、2002年)
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