少し前に出た作品だと思っていたが、出版されてから十年近くが経っていたことに驚いた。私が勝手に思い描く、著者らしい作品。『海辺のカフカ』を読んでいてわけがわからなくなった、異なる主人公の物語が交互に出てくるパターンの展開である。細かなプロットを追おうとすることを断念し、すらすらと読むとなんとなく心地よい感じがする。日本語がきれいだからなのだろう。
何かに見えないというのは決して悪いことじゃない。つまりまだ枠にはまっていないということだからね(213頁)
いかにも◯◯らしいという言葉は褒め言葉で使われることが多いように思う。とりわけ、ある職務役割に習熟してきた若手社員が使われることで、一人前に近づいたという感触を得ることができる言い回しである。しかし、著者は、そうした言説構造に疑問を投げかける。ステレオタイプで描かれないということは、その人の大いなる多様な可能性に目を向けさせるのである。
世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ(525頁)
青豆という登場人物は主人公の一人である。その独特なネーミングはさておき、戦争やテロリズムにおける当事者間の感情についての表現に唸らさせられた。記憶という曖昧なものに基づく闘いであるために際限がなくなり、人によって受け止め方が異なり、また、減衰しながらも世代継承性がある。
頭で論理的に戦争やテロを正当化することは簡単ではある。しかし、いかなる状況であっても、暴力によって解決を図ろうとすることは、果てしない記憶による闘いを招くことになることを、私たちは重く受け止めなければならない。
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