2019年6月29日土曜日

【第964回】『人間は何度でも立ち上がる』(山田忍良、スローウォーター、2019年)


 東寺で著者が約十年にわたって続けてこられている法話会の内容が書籍化された。著者が語りかけてくれるような感覚をおぼえられる贅沢な一冊である。密教というものへの理解が改まるようだ。

 宗教と呼ばれる存在には、大別して二つのものがあると著者は述べる。

 一つは「神さまに救ってもらう方法」。もう一つは「自分で自分を救う方法」です。世界中のほとんどの宗教は前者です。仏教は後者です。すなわち「自分の中に救う種を見出して、修行によって、それを磨いていく」のです。それを「自覚」と言います。(Kindle ver. No. 144)

 特定の宗教を持たない身としては、宗教というものは上記でいうところの前者のイメージで認識していた。しかし仏教では自覚が大事にされるという。その仏教の中でも、密教では自覚道であった仏教を前者にも拡大させた存在である。

 どんな人もその人に合った目標を決めて実践しよう。例えそれが成功しなくても、どんなに失敗しても、途中で挫折しても、何度でもやり直せるんだという道が、貴族であろうが民衆であろうが平等に公開されているんだということを、私たちに気づいてほしいと叫ばれていたのではないでしょうか。(Kindle ver. No. 231)

 何度失敗しても構わない、失敗から学べば良いのであり、だからこそ何にも挑戦しないことが良くないことだとされる。自らが自らを救おうと努力し、その際に他者にも委ねようとするという密教の教えが凝縮された考え方のように思える。

【第737回】『仏教、本当の教え』(植木雅俊、中央公論新社、2011年)

2019年6月23日日曜日

【第963回】『働く意義の見つけ方』(小沼大地、ダイヤモンド社、2016年)


 仕事の関係で著者とご一緒する機会があるために、本書を読んでみた。自分よりも若いリーダーがどのような想いで事業を立ち上げ、それを周囲に伝播して、社会に貢献しているかを学ばせていただいた。

対内的な対話と、外部への発信とフィードバックという2つのプロセスを同時並行で繰り返していくことで、自分たちの「大儀」が、次第に言葉として磨かれていった。(141頁)

 自分自身の想いを明確にしたり、ビジョンを創り上げることは、ともすれば自分一人でできることである。しかし、それを周囲に伝え、周囲に自分と同等の想いを分有することは難解だ。それを成し遂げることがリーダーシップの源泉であり、それをこの箇所で著者は端的に示している。

実は日本の組織に本当に足りないのは、「挑戦を応援する人」なのだと思う。(188頁)

 その一方で、リーダーに対するフォロワーの少なさを著者は指摘している。リーダーとフォロワーは相補関係にある。日本の組織にいると、たしかに出る杭を応援する存在がいかに少ないかに思い至る。一歩を踏み出した著者だから言えることなのだろう。

【第605回】『人生の折り返し地点で、僕は少しだけ世界を変えたいと思った。』(水野達男、英治出版、2016年)
【第105回】『リーダーシップ入門』(金井壽宏、日本経済新聞出版社、2005年)

2019年6月22日土曜日

【第962回】『遠野物語』(柳田国男、青空文庫、1976年)


 民俗学者である著者が、岩手県遠野地方でのフィールドスタディで聞き取った話を著述した作品。ユング心理学を直近で読んだからか、人々に膾炙する物語というものに興味がわく。特に同じような意味内容の物語が異口同音に出てくるところが集団的無意識を裏打ちするようで面白い。

 以下は、郭公と時鳥の所以と捉えるか、食糧が十分ではなかった地方における悲劇と見るか、いずれにしろ考えさせられる。

五三
 郭公と時鳥とは昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅きところを自ら食い、中の軟かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分は一層旨かるべしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりと云う。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くと言う。(Kindle ver. No. 526)

【第331回】『民俗学の旅』(宮本常一、講談社、1993年)

2019年6月16日日曜日

【第961回】『心理学的経営』(大沢武志、PHP研究所、1993年)

 リクルートで専務取締役を務め、就職活動でお馴染みのSPIを開発したことでも有名な著者。本作が復刊されるということは、元リクの方を中心にしてSNSで盛り上がっていたので知った。読書会を一緒にというお誘いも受けたので、まずはざっと読んでみた。

 タイトルにもなっている心理学的経営とはなにか。著者は、「人間を人間としてあるがままにとらえるという現実認識が出発点」(kindle ver. No.124)であるとしている。人をあるがままにとらえるということは人間を大事に扱うということであり、それを突き詰めていくと「「個性」を尊重する」(kindle ver. No.128)ことにたどり着くことは想像できるだろう。

 ではどのようにして個性を尊重するのか。著者は、人間が取り組む仕事自体に基づく内発的動機付けのメカニズムに着目する。院生時代に学んでいたハックマン&オルダムの職務特性モデルが援用されているのはなつかしく読める。

 職務特性モデルやハーズバーグの二要因理論を援用して、内発的動機付けにとって最も重要な心理的条件として、自己有能性、自己決定性、社会的承認性を挙げている(kindle ver. No.493)のは納得的である。

 個人のレベルにおいて職務のデザインを工夫することとともに、集団における職務のデザインによって個人の動機づけおよび集団の創造性を向上することも可能だ。著者は、職場における小集団活動をその具体的な施策の一つとして取り上げ、かつ会社による押し付けの活動ではなく自律的な小集団活動であることが重要であると指摘する。

 小集団からさらに発展して組織全体という視点に立つとユングの集合的無意識に結びつく。著者はユングを用いながら、活性化していない組織を不活性組織と名付け、「過去の適応を実現した状況を肯定した現状安住的な組織」や「外部に対して閉鎖的で既成の価値に拘泥し、形式を優先した硬い組織」(kindle ver. No.951)と表現している。こうした不活性組織やそこで働く個人にとって大事なのは、いかにそれまでの経験や知識を手放すか、つまりアンラーニングを意識的に行うかが重要であると指摘する。

 ここから著者は、最終的には個人の個性化の一つの考え方としてMBTIを解説する。管理職の典型例としてTJタイプが論じられており、私自身もTJなので理解はしやすい。TJの功罪についてはよく吟味して自分自身の言動を省みたいと感じる。

 あとがきでは心理学的経営の基本的なスタンスが述べられる。いわく「タテマエに対してホンネ、合理的なシステムに対して非合理的な人間の行動、表のマネジメントに対して裏のマネジメント、こうした対比のなかでありのままの人間に対する理解を中心において企業経営を考える」kindle ver. No.2446)ことである。画一的かつあるべき論で語るのではなく、組織や個人におけるアンビバレンスを重視する至言として心したいものである。

【第851回】『人事管理ー人と企業、ともに活きるために』(平野光俊・江夏幾多郎、有斐閣、2018年)
【第728回】『人材開発研究大全』<第2部 組織参入後の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第711回】『「仕事を通じた学び方」を学ぶ本』(田村圭、ロークワットパブリッシング、2017年)

2019年6月15日土曜日

【第960回】『フーコーの言説』(慎改康之、筑摩書房、2019年)


 フーコーといえばディスコース(言説)。というわけで、フーコーをもう学んでみたいと思った時にキーワード検索して見つけた本書。社会学が好きで、フーコーをかじった程度に理解していた身として、難しくはあれどもなんとなく読める箇所もあり、あまり難しく考えずに読み進めると良いのだと思う。

 現在そうであることがいつもそうであったわけではないことを示すこと、しかじかの形象が形成されたプロセスを明るみに出しつつそれを解体する可能性を手に入れること、これが、彼の歴史研究の目的であったということだ。(14~15頁)

 フーコーの研究の目的がこのように端的にまとめられている。その上で私が興味深いと感じたのは「力」に関する彼の分析である。

 権力は知の客体を生み出すということ。端的に言うなら、権力は知を生み出すということ。(中略)処罰形式の歴史的変化を分析するにあたり、権力を、支配階級が所有する特権としてではなく、戦略的な諸関係およびその効果として分析すべきであることを強調しつつ、フーコーは実際、権力と知とのあいだの関係についてもやはり伝統的な考え方から自由になる必要があると主張している。つまり、権力が留保される場所にのみ知は存在しうる、あるいは、知は禁止や利害から離れる場合にのみ発展しうる、などといった、西洋を古くから支配してきた先入見を捨てて、「権力はなにがしかの知を生み出す」ということを承認しなければならないのだ、と。(179頁)

 知は権力から独立したものだと考えられがちであるが、権力と知との関係性について触れるフーコーの指摘の鋭さである。

【第50回】『フーコー・コレクション1 狂気・理性』(M.フーコー、筑摩書房、2006年)

2019年6月8日土曜日

【第959回】『フロイト』(小此木啓吾、講談社、1989年)


 意識の背景には前意識がある。前意識は、そこに意識をフォーカスすれば思い出せるものであるが、その下にある無意識は自分自身で思い出すことはできないという。だからこそ、カウンセラーが求められ、カウンセラーによる支援によって自分自身の無意識に目を向けることができる。

 無意識を意識化しようとする、精神分析療法の目的は、多くの場合、患者がおこす「抵抗」によって阻まれる。つまり、なんらかの感情や欲求が抑圧されて、無意識化されるのは、それを意識することに、激しい不快、苦痛、不安、そして罪悪感が生じるためである。したがって、”無意識化されたもの”を、”意識化”するさいには、それらの不快、苦痛、不安、罪悪感が激しく再現される。これらの感情=抑圧のために、無意識を意識化しようとする治療は妨げられてしまうが、このような現象を、フロイトは「抵抗」とよんだ。(34~35頁)

 しかし、無意識に目を向けることには「抵抗」が邪魔をすると指摘されている。反対に言えば、私たちは意識したくないものを無意識化しているわけであり、それを思い起こすことを避けるために「抵抗」が生じる、ということであろう。

【第954回】『フロイト思想のキーワード』(小此木啓吾、講談社、2002年)
【第953回】『フロイトとユング』(小此木啓吾・河合隼雄、講談社、2013年)

2019年6月1日土曜日

【第958回】『ユング心理学と仏教』(河合隼雄、河合俊雄編、岩波書店、2009年)


 ユング心理学の大家である著者が、ユング心理学と仏教との関係性について述べている本作。ユングを学ぶ上でも面白いし、仏教を学ぶという意味でも大変興味深い一冊である。まず、仏教におけるいわゆるお経の持つ意味合いについての著者の考察に納得させられた。

 彼らは「読む」のではなく「唱える」のです。つまり、この経を唱え、似たような有難い名を繰り返しているうちに、意識変容が生じるのが期待されているのです。そのような意識によって華厳経に接してこそ、その内容が理解されるのではないでしょうか。(56頁)

 仏教に対して素人である私が経を学ぼうとすると、どこか冗長で、また繰り返しが多いように思えてしまいなかなか入ってこない。しかし、それは経を頭で読もうとしているからであり、音読することで中身が身体に入ってくると著者はしている。まだ試していないが、納得的な解説であり目から鱗が落ちる想いである。

 ユング心理学はきわめて深く広いものですが、それを受けとめる際に、西洋人が自我との関連において理解しようとするのに対して、日本人(あるいは東洋人)は、自他分離以前の存在との関連において理解しようとする、と私は感じています。(128頁)

 自我とは何か。西洋と東洋とでその捉え方は異なるものであり、だからこそカウンセラーが他者と接する際に、自我の捉え方の彼我での差異を考える必要があるのだろう。

【第957回】『ユング心理学入門』(河合隼雄、河合俊雄編、岩波書店、2009年)