2019年3月31日日曜日

【第943回】『陋巷に在り 9 眩の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 顔回の内的世界かのような九泉での顔回・子蓉・妤のやり取りが終わる。九死に一生を得て再び現実世界に戻った顔回は、寿命の終わりが見えてきた顔儒の長老・太長老と対話する。

 太長老はかれらとは別に孔子の中に、礼を根底から革める可能性を見ているのである。歴史を知る者ならば、今が巨大な変革期であることを覚っているはずだ。顔氏はこのままではいずれその礼とともに滅びるであろう。だが、孔子や顔回によってまったく新しい形で顔氏の礼が生き延びる可能性がある。それがどのようなものか太長老にも想像だに出来なかった。また自分がそんな革まった礼のうちに生きることなど考えたくもなかった。老いが変化を嫌い、いやがるのである。(350頁)

 温故知新に関する長老の述懐のようにも受け取れる。自分自身は変革を厭いながらも、若い者による変革にはある程度の理解を示す。こうした懐の深さがリーダーシップの源泉なのかもしれない。さらに著者は、長老に続けて以下のように述べさせる。

 しかしそれでも可能性なのである。
『述べて作らず。信じて古を好む』
 という信条を持ちながらも、改革者であるという不思議な立場にある孔子であればこその可能性なのだ。そしてその隣には顔回が立っているだろう。太長老が生きて目にすることはかなわないであろうが、礼の変革、新興が成った世界が出現するのである。顔氏の礼は生命をいたずらに長くして生き残るのではない。不死の知識として生き残れるはずなのである。(351頁)

 こういうリーダーと一緒に働きたいものである。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月30日土曜日

【第942回】『陋巷に在り 8 冥の巻』(酒見賢一、新潮社、2003年)


 子蓉が操る妤と医との息つまる闘いがクライマックスに近づいた時に、顔回の内面世界へと場面が一転する。この展開もすごいが、顔回の内的な世界を通して論語の世界に触れさせる著者の筆致には恐れ入る。ともするとオカルティックな展開であるが、決して重たくはなくすらすらと読み進められる。

 それが顔回の卓越した知る力のせいである。知るということは子蓉には分かりにくい。知る力は、認識すること、尋ねること、窮めること、分かること、推し測ること、洞察すること、直観すること、他人の心に共感することなどが渾然となった能力である。そのいくつかは子蓉には欠如しているか、萎縮してしまっている能力であった。(318頁)

 孔子をして「一を聞いて十を知る」と言わしめる顔回の学習能力に関する記述である。顔回の受身的な学習に対する態度を子蓉から否定される中で差し込まれる一節に、顔回の凄みが現れる。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月24日日曜日

【第941回】『陋巷に在り 7 医の巻』(酒見賢一、新潮社、2002年)


 半死の状態でかろうじて救い出された妤を救うべく尼丘に戻った五六たち。妤に医療を施すべく、異色の名医・医が登場する。この医のキャラが甚だ濃く、医と子蓉との妤を介した闘いが凄まじく、一気に読ませる。

 相手の心情を透視できる医を以ってしても、最初は顔回という人物を評価することができなかったようだ。しかしながら、二言三言交わす過程でその類まれな学習欲求を通じてその可能性を見出す。

 顔回を前にすると自分の考えや知識、何を学べばよいかなどを、うずうずと伝えたくなり、顔回が怠けていたり間違っていたりすると、そんなことは滅多にないことながら、必要以上に叱りつけたくなる。しかも教え甲斐のあることには顔回はそれらを渇いた砂のように吸収して、独りで実践にまで漕ぎ着けてしまうのである。これほど教授する心を動かす男も稀であろう。(210頁)

 学ぶ者として、かくありたいものである。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月23日土曜日

【第940回】『陋巷に在り 6 劇の巻』(酒見賢一、新潮社、1999年)


 前巻ではほとんど現れなかった顔回が、ここぞという場面で現れ、難題を解決する。しばらく鬱々とした展開だったからか、余計に顔回のかっこよさが際立つ。さらには、ここまで今ひとつ冴えない感のあった孔子も危地で活躍を魅せる胸のすくような展開である。

 顔回とは一見するに何もしない男である。悪いことはしないし、とりたてて善いこともしない。陋巷に住んで独り沈思している。だが無為にして無事であり、知っていて何も言わないことが如何に有為なことか、分かる者には分かるのである。(16頁)

 孔子の弟子の一人であり本巻で難に遭う公冶長による顔回評である。論語での印象からするとなんとなくわかる気がする。しかし、最後の文による形容の素晴らしさがすごい。

『朋友と交わりて信ならざるか』
 つまりは信が足りなかったのだと反省するしかなかった。顔回も五六も、故旧であることに安んじて、お互いが本当に言わねばならぬことを忘れていたのである。(61頁)

 自身の守役である五六が、敵の術にかかりかけていたにも関わらず関与することが遅れたことを悔やむ顔回。結果的に難は逃れられたとはいえ、故旧との関係を反省し失敗から学ぶ姿勢には恐れ入る。

 顔回は脳中に引き起こされた混乱は混乱として素直に受け止めて、それと別に自分の意思を肚に据えている。様々な感情が渦巻いて点滅するが、肚に己を留めておけば感情の乱舞をある程度客観的に見ることが出来た。すると錯乱に陥ることはなく、それは媚蠱が侵入する隙を作ることはなかった。(91頁)

 媚術を仕掛ける子蓉と再び合間見える顔回の態様。相手を圧倒するとか、相手に打ち克つという発想ではなく、受けるものはそのまま受け止めて、その上で自身の内面を客観的に捉える。飛躍を恐れずにいえば、現代におけるストレスマネジメントのヒントになりそうな気がする。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)


2019年3月17日日曜日

【第939回】『憲法問答』(橋下徹・木村草太、徳間書店、2018年)


 この二人の組み合わせは意外であり、また対談が噛み合っていることがもっと意外であった。両者の議論がしっかりと噛み合った理由を、木村氏は「まえがき」でこのように述べている。

 橋下さんの主張をよくよく調べたり、聞いてみたりすると、なんの考えもなしに暴走する権力者ではないことがわかります。むしろ、橋下さんは、憲法の要求や、法律の手続きを理解しようと努力し、何かを主張するときには、法的な根拠づけを強く意識しています。私と橋下さんの間には、法や論理という共通の基盤があり、たとえ意見は違っても、そうした基盤のうえに、コミュニケーションが成立するのです。(1頁)

 何かを主張し、それが反証可能であることが科学の前提条件である。ここでは法学という社会科学の一つを相互理解の基盤として二人がコミュニケーションを丁寧にしている理由があるようだ。保守対リベラルというレッテル貼りおよびステレオタイプな対立構造によってコミュニケーションが断絶するのではなく、こうした建設的な取り組みは心地よい。

橋下 僕も憲法を勉強するまで知らなかったのですが、「間接適用説」という考え方は目からうろこでした。きっと憲法に国民向けに特定の価値観を強要するような条文を書こうとしている政治家は、間接適用説という考え方を知らないんじゃないかと思うんですよね。
木村 間接適用説について少し解説します。(中略)間接適用説は、あくまでも憲法による義務を負うのは国家であって、個人の間に憲法が適用されるように見えるのは、あくまでも国家機関が憲法上の義務を果たした結果にすぎないと考えます。(48~49頁)

 憲法とは何か。国家に義務を与える存在が憲法であり、個人に義務を与えるものではない。国民の義務はその例外的な存在ではあるが、原則は上述の通りである。では国民が望ましい言動をとってくれるように憲法は何も為せないのかというと、そのための考え方として間接適用説がある。

 こうした法的思考に基づくルールや当てはめに関する考え方は、人事制度の策定や改訂、および運用解釈をどのように行うかといったことを想起させる。企業における人事管理と近しいものがあり、興味深く読めた。

木村 憲法や法律には「法の一般性」というルールがあります。法律は一般的でなくてはいけません。一般的というのは、固有名詞を入れてはいけないということです。だから「朝鮮学校に補助金を出してはいけない」とするルールや法律は憲法の趣旨に反します。「財務諸表を公開しない学校」というように、固有名詞の出てこない形で法律を作らなければならない。これが「法の一般性」です。(68~69頁)

 この箇所も人事管理で活きる思考様式であり、よくわかる。人事も公平性・公正性を担保することが求められ、特定の人物を狙い撃ちにした施策はご法度だ。

橋下 僕は、政治家になるまでは権力者の権力の行使範囲を縮小させるのが「縛る」ことであり、それが立憲だと考えていました。でも、そもそも立憲とは権力者が権力を行使するときに、その主観ではなく憲法を根拠にするということですよね。権力を縮小することが「縛る」ことではなく、権力者に憲法を意識させることが「縛る」ことだと思うのです。つまり巷では「〇〇してはいけない」と権力を縮小するのが立憲だと思われていますが、逆に憲法を根拠として「〇〇する」というのも当然立憲だと思うのです。権力は適切に行使しなければ国民のためになりませんからね。(56~57頁)

 立憲について考えさせられる箇所である。現代日本のリベラル思潮では権力を縮小することを立憲として捉えられがちであるが、こうした建設的な考え方にも傾聴したいものである。
 
【第310回】『憲法の創造力』(木村草太、NHK出版、2013年)
【第338回】『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社、2006年)

2019年3月16日土曜日

【第938回】『陋巷に在り 5 妨の巻』(酒見賢一、新潮社、1999年)


 シリーズを通した主人公は顔回だと思っていたのであるが、この五巻では顔回はほとんど登場しない。顔回の守り役である五六が良くも悪くも物語の中心人物の一人として登場してくる。

 人の恨みというものは恐ろしい。誰かに恨まれて自分自身にその害が来るのであればまだわかるが、自分を取り巻く人にその害を及ぼすことがある。本作では、顔回を苦しめるために、顔回に想いを寄せる妤に呪術が掛けられ、それが五六にも影響を及ぼすという読んでいて暗くなる展開だ。

 五六は自分が正常であることをつゆほども疑ってはいない。五六は妤を助け、守るためにここにいる。前に決心したことであり、己の意思のままにそれを遂行しているまでのことだ。何も変わってはいない。自分には何の異常もない。もはや呪術を妤に仕掛けた者のことは心の中で後回しにされ、妤が妤でなくなっているという異常を異常と感じなくなっていた。(210頁)

 呪術についてはよくわからない。しかし、ここで怖いなと思ったのは、自分自身を省みる姿勢が弱くなると、自分は正しいと信じ、自分の判断の結果として他者をも盲信する、という姿勢になってしまうことである。

 五六の正義感が、知らず知らずのうちに変節する様を見ていると、読者としては大きな違和感を抱く。「いや、そこで気づくでしょ!」とツッコミを入れながら読みたくなってしまう。

 しかし、当事者となった時に、その変節が少しずつの連続であると、本人は気づけないものなのかもしれない。だからこそ、自らを省みることが学習の基本であると孔子は論語で述べているのではないか。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月10日日曜日

【第937回】『陋巷に在り 4 徒の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)


 小生卯と孔子との静かな闘いは、熱を帯びた闘いへと移行する。それは、徒と儒との思想の違いによる戦いのようである。その思想の違いはどこにあるのか。

 徒という移動情報者とでもよぶべき者たちが存在せねば、文化の発展の様子、歴史の進む速度はかなり変わったに相違ない。(中略)
 顔氏のような儒も、広い意味では他所から来た徒であったのかも知れない。ただ地に土着してしまったものは、生み出した思想や技術は継承するのみで、積極的に他に押し広げようとはしない。(中略)
 孔子の行ったことも言ってみれば徒的なもののそれであった。(216頁)

 儒は土着し、徒は移動した。これが違いである。しかし、儒の出身である孔子は移動して徒的に行動した。その結果として、儒教として彼の教えは形作られ、後世の今に至るまで流布している。

 これは孔子が異端であったことも表している。だからこそ、彼が政治面では必ずしも恵まれなかったということなのであろう。こうした孔子への風当りは、小生卯をはじめとした旧来の人々からの恨みの結果として現れたのではないだろうか。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)
【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)

2019年3月9日土曜日

【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)


 孔子をめぐる政治闘争から、顔回をめぐる暗闘へと物語は展開していく。孔子はどこに行ったのかというくらい登場回数が減り、顔回と顔儒集団が中心となっている。

 論語にもよく現れる子貢が危地に陥る。その直前で、子貢は、その後の生涯の師となる孔子との出会いが描かれる。

 子貢は師という言葉の意味を初めてさとったような思いがした。楽とか礼とか、この師の教えることはそういう科目に分けていいものではあるまい。それを超えた、人生あるいは天命などという人としての普通のものについて語るに違いないと思った。今の子貢に欠如している重要な知識であろう。(20頁)

 師とは何か。特定の知識や経験に対して敬意を示すのではなく、それらも含めた全体としての人間性に対して私たちは魅せられるのではないだろうか。子貢のこの描写は美しいが、その後で悪の媚の罠にはまってしまうのであるからもどかしい。

 割り切れないものは割り切れる時が来るまで待てばいいのである。そう、顔回はとりとめのないとらわれ心の堂々巡りにけりをつけた。(205頁)

 小生卯の教団から辛くも子貢を救い出し、陋巷へと帰る顔回。しかしその闘い自体に顔回は意味を見出せず暗鬱としながら帰路につく。暗い気持ちの中でも気持ちを切り替えられるのだからすごい。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)

2019年3月3日日曜日

【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)


 顔回ってかっこいいと単純に思ってしまう。もちろん、フィクションであることは百も承知。しかしながら、こんご論語や論語関連の本を読むときに、顔回に抱く印象が変わることはまず間違いないだろう。

 かっこいい顔回の活躍に魅了されながらも、孔子や孔子に私淑する先輩とのやりとりから、彼が礼を重んじて行動する姿に論語の世界観が現れている。

 顔回は太長老に聞いたことがある。八佾の畏力の根源はじつは八という数字にある。すなわち「易」の八卦の神秘力と説明された。(186頁)

 孔子と易経とは少し遠い関係性にあると通常では言われている。異教との争いに巻き込まれる顔回が、八佾を表象する六十四人の鬼との闘いでは易における八佾の位置付けが解説される。こうした少しの解説が物語にアクセントを与えていて面白い。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)

2019年3月2日土曜日

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)


 論語好きを公言している身として、本書を読んでいなかったのは甘かった。全13巻にもおよび歴史長編小説では、顔回が主人公として描かれているようだ。少なくとも今のところは。

 顔回は孔子の最愛の弟子という位置付けで論語では登場するが、彼自身が何かを発したり行動を起こしたりということは少ない。むしろ目立たない存在である。その顔回に焦点を当てているだけでも本書は面白い。

「真実を知りたいならこんな所でわたしを襲ったりせずに魯に行って尋ねればいい。知る為の正しい努力をしたらどうです」(124~125頁)

 尾行してきた敵と相対した顔回の一言。後半が痺れる。

「その竹に羽を括りつけ、鏃をつけて礪けばさらに深く突き抜くことができよう。学ぶというのはそういうことだ」(228頁)

 子路と初めて出会った時に、孔子が諭した一言である。ご存知の方も多いだろうが、子路は元々孔子に悪意を持って「絡んで」きたのである。力を誇示しようとする子路の論調に真正面から向き合い、力を強くするために学ぶことの大切さを諄々と説くシーンには、言葉の迫力を感じる。

【第92回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)