2019年3月9日土曜日

【第936回】『陋巷に在り 3 媚の巻』(酒見賢一、新潮社、1998年)


 孔子をめぐる政治闘争から、顔回をめぐる暗闘へと物語は展開していく。孔子はどこに行ったのかというくらい登場回数が減り、顔回と顔儒集団が中心となっている。

 論語にもよく現れる子貢が危地に陥る。その直前で、子貢は、その後の生涯の師となる孔子との出会いが描かれる。

 子貢は師という言葉の意味を初めてさとったような思いがした。楽とか礼とか、この師の教えることはそういう科目に分けていいものではあるまい。それを超えた、人生あるいは天命などという人としての普通のものについて語るに違いないと思った。今の子貢に欠如している重要な知識であろう。(20頁)

 師とは何か。特定の知識や経験に対して敬意を示すのではなく、それらも含めた全体としての人間性に対して私たちは魅せられるのではないだろうか。子貢のこの描写は美しいが、その後で悪の媚の罠にはまってしまうのであるからもどかしい。

 割り切れないものは割り切れる時が来るまで待てばいいのである。そう、顔回はとりとめのないとらわれ心の堂々巡りにけりをつけた。(205頁)

 小生卯の教団から辛くも子貢を救い出し、陋巷へと帰る顔回。しかしその闘い自体に顔回は意味を見出せず暗鬱としながら帰路につく。暗い気持ちの中でも気持ちを切り替えられるのだからすごい。

【第934回】『陋巷に在り 1 儒の巻』(酒見賢一、新潮社、1996年)
【第935回】『陋巷に在り 2 呪の巻』(酒見賢一、新潮社、1997年)

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