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2017年8月15日火曜日

【第739回】『人工知能の核心』(羽生善治・NHKスペシャル取材班、NHK出版、2017年)

 NHKスペシャルで著者が人工知能を取材していた番組は興味深かったのであるが、必ずしも内容を理解しきれなかった。当時はまだ人工知能というものを書籍でも読んだことがなかったので咀嚼できなかったのだと思う。図書館で本書を偶然に見つけて、復習も兼ねて、著者が人工知能という存在をどのように捉えて、どのように共存しようとしているかを学ぼうと考えた。

 私は、これまで将棋の本で折に触れて、無駄な情報を扱うことを減らす「引き算」の思考にこそ人間の頭脳の使い方の特徴があると書いてきました。ディープラーニングに、こういう「引き算」の要素が入っていることは、とても面白く思います。(25頁)

 情報を膨大に蓄積することで能力を高めていくコンピュターに対して、将棋の棋士として大事なことの一つとして無駄な情報を減らすという引き算が重要であると著者は述べる。こうした人間の持つ強みの部分を、ディープラーニングは機能として持っているというから驚く。著者特有の軽妙な言い回しで表現されるために、これが恐怖としてよりも、ディープラーニングを行うコンピュータに共感を覚えながら読めてしまうから面白い。

 認識エラーが発生したという結果から遡って、つまり信号が逆方向に流れて、問題のありそうなところの「重みづけ」を自動的に変更する、というようなことを繰り返せば、認識の精度は向上するはず。これが「誤差逆伝播法」と言われる手法で、ディープラーニングは、この手法に工夫を加えて出来ているアルゴリズムだ。(57頁)

 「引き算」をディープラーニングがどのように行うのかを、取材班が解説した箇所である。最初に引用した箇所とセットで読むことで、著者が述べたかったことをより理解できる。

 そのときに大事なのは、実は「こうすればうまくいく」ではなくて、「これをやったらうまくいかない」を、いかにたくさん知っているかです。取捨選択の「捨てる方」を見極める目こそが、経験で磨かれていくのです。(210頁)

 引き算をできるようになるためには、経験によって磨き、経験を活かすことである。成功体験が後で自身に復讐するという考え方がある中で、この部分は納得しやすいのではないか。失敗から謙虚に学ぶことは、失敗を繰り返さないようにすることとともに、長期的な成功へと活かすことができるのかもしれない。

 人工知能は、データなしに学習できない存在だということです。とすれば、データが存在しない、未知の領域に挑戦していくことは、人間にとっても人工知能にとっても、大きな意味を持つと考えています。(215~216頁)

 いい捨て方を学ぶことによって、未知の領域に挑戦し、すぐに失敗してもすぐに修正して立て直す対応力が磨かれる。変化に激しい時代と言われて久しい現代社会において、こうしたマインドセットが求められているのである。

 

2017年8月11日金曜日

【第735回】『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(山本一成、ダイヤモンド社、2015年)

 今年行われた第2期電王戦で現役の将棋のタイトルホルダーである佐藤天彦名人が将棋ソフト「ポナンザ」に敗れたことはまだ記憶に新しい。そのポナンザの生みの親が、本書の著者である。AIを語る上で最適な人物の一人であることは間違いなく、期待を裏切らない興味深い一冊であった。

 人間は物事を見続けているなかで、適切な一般化や隠れているノウハウを発見するのが得意です。(中略)
 しかし残念ながらコンピュータには、一般化する能力がほとんどありません。ですから人間にとっては途方もないように感じる5万の棋譜ですら、教師としては足りないということになります。コンピュータにはより多くの棋譜が必要なのです。(60頁)

 コンピュータと比較して人間が得意としていることは、一般化や抽象化であるという。私たちが他者と話していて、頭がいいと思う人は、記憶力が優れた人物よりもこうした特徴を有する人物ではないだろうか。

 頭がいいということは知性があると換言できるだろう。知性とは「目的を設計できる能力」(171頁)であるの対して、AIが保有する知能は「目的に向かう道を探す能力」(171頁)だ。他者から与えられたものではなく、自分自身で目的を設定し、その目的に合致した一般化を行うことが知性的な人物が長けた行動特性、ということであろう。

 しかし、人間が持つこうした知性が、必ずしも知能に対して常に優れているというわけではない。

 人間は、あらゆることに意味を感じ、物語を読み取ろうとします。この能力=知性によって人工知能にもならぶパフォーマンスを出すこともありますが、それは意味や物語から離れることができないという制約にもなっています。
 一方、人工知能は、意味や物語から自由なために人間を超えることができますが、目的を設計するという知性を持つことはできていません。(181~182頁)

 一般化は人間の得意技であるが、それに縛られることでデメリットが生じることがあると著者は指摘する。将棋に置き換えれば、定跡や格言といった高度な抽象化はほぼ全ての局面において通用するが、百パーセント正しいわけではない。私たち人間は、一般化されたセオリーに過度にこだわってしまい、そうしたものからかけ離れた発想を持つことが阻害されてしまう。

 こうした意味性や物語性を度外視し、目的に向かう最短距離を目指すことができるのが人工知能である。未知の領域に出会った時のデメリットはあれども、膨大な計算によって既知の領域を増やすことで適用可能な領域を拡げられるのが人工知能のメリットであろう。

 こうして人間と人工知能との得意領域が峻別されていれば良いが、そうした楽観論は残念ながら通用しないようだ。囲碁の世界的棋士を圧倒したアルファ碁で使われていることで有名なディープラーニングは、知性を学習可能な人工知能であるという。人工知能が人間に近づいているというように捉えることも可能であろう。このように捉えれば、本書で指摘されているのは、人工知能と人間の対比というよりも、知性・知能とは何か、というより一般的な問題であるように思えてくる。

 人間の結果を模倣して学習するプログラムは、人間の間違いも学習するのです。もちろんこういった間違いは強化学習をするなかで少しずつ解消されていきますが、少なくともポナンザに関しては、いまだに人間から学習したときの名残があると思います。同じように、人間の知性を上回るようなコンピュータが将来生まれたとしても、必ずそのコンピュータは人間から学習した名残をとどめているはずです。(198頁)


 というのも人工知能はもはや知性や知能といった領域において人間を包含する存在になり得るからである。では私たちが世界に対して貢献でき得るものは一体なんなのか。おそらくは、データにすることができず、私たちが意味を見出して価値を創り出す領域が、人間が今後も行う領域になるのではないか。これが、本書を読んだ段階での私の仮説である。


2017年6月10日土曜日

【第716回】『誰にでも碁は打てる』(李仁煥、 洪敏和訳、東京創元社、2012年)

 9路盤を卒業し、13路盤になってから伸び悩みを感じている今日この頃。成長を実感できないと、対局に向かうことにもつながり、遠ざかり始めていた。せっかく始めたものだから続けたいがと思っていたところ、図書館で出会ったのが本書である。

 まず、気楽に読めるのがいい。伸び悩んでいる時は、始めるまでに腰が重くなってしまう。そうした状況で、本格的な書籍は少し重すぎる。本書のような入門書がちょうど良い。


 加えて、あまりに簡単すぎると途中で飽きてしまうが、にわかに分からない部分もあるので、少し考えさせられる。こういった書籍はありがたい。改めて、13路盤に臨もうと、思った。


2017年4月23日日曜日

【第700回】『聖の青春』(大崎善生、講談社、2002年)

 村山聖。将棋をかじったことがある方なら、夭折した悲運の名棋士として記憶しているであろう人物である。そのノンフィクションは、壮絶な彼の人生を物語るものでありながらも、清々しい読後感を与えてくれる。

 将棋を知りそれにのめりこんでいくことによって聖の内面に大きな変化が現れていた。
 聖が将棋という途方もなく深く広がりのある世界を自分なりに覗きこみ、理解しようと努力したことがすべてのはじまりだった。自由に体を動かせないことからくる苛立ちや、身近にある友達の死という絶望感すらも自分自身の内に抑えこむことができるようになっていた。風を切って走り回る緑の草原よりも、春先の山よりも澄みきった川よりも、将棋は聖にとって限りない広がりを感じさせるものだった。(48頁)

 幼くしてネフローゼを罹患し、病院で過ごすことの多かった少年は、その言い知れぬ不安と死への恐怖をうまくコントロールできなかったという。大人でも病というものはストレスを伴うものであるのだから、幼い頃に病を受け容れられないことは想像に難くない。しかし、それを救ったのが将棋であり、将棋を通じて自分が見聞きする世界を拡げていった村山のその後の人生を示しているようだ。

 だが勝ちたいという勝負に負け、何度も挫折した。
 その度に立ち上がり、上を目指した。
 来期最下位、挑戦は難しく降級争いになった時に順位は響いてくるだろう。
 だがたとえB1に落ちようとも何度でも昇るだろう。A級へ。(283頁)

 読んでいて胸が熱くなり、心が震える文章というものにはなかなか出会えるものではない。私の場合、漫画を読んでいた時には、いわゆるスポ根もので出会うことがあったし、個人的にはそうした邂逅は好きであった。この箇所を読んで、「あしたのジョー」や「MAJOR」といった作品で得た感動を思い出した。実際、村山は、病の中でA級からB1へ落ちたその年にA級復帰を果たしている。但し、その復帰を決めた直後に癌の再発が告知され、結局A級で再度戦うことはできなかったのであるが、その執念に感じ入りってしまう。

 同世代の若手棋士や生涯の目標とする谷川には激しい闘志を燃やし、その闘志を隠そうともしない村山だったが、なぜか羽生だけは違った。
 常に自分の上をいき、奇跡のような偉業を次々と成し遂げていく羽生を村山は心から尊敬していた。どんなに疲れていても弱音を吐かず、悔しくても飄々とし、そしていっさい偉そうなことを言わず、そんなそぶりも見せない羽生が村山は好きでしかたなかった。誰とでも同じ目線で話し合い、会話を楽しめる羽生は村山にとっての理想像であった。(359頁)

 羽生の人物像が垣間見えるような一節であり、羽生ファンにとっては堪らない部分である。「常に自分の上をいき」と書かれてはいるが、実際に対戦して全く歯が立たなかったわけではない。村山がもっと長く生きていたら、二人のどのような対戦がその後にあったのかと思ってしまう。そのような「たられば」を期待するのではなく、実際に時代を共にした羽生が、村山の追悼集会で語った言葉がいいなと思う。

「村山さんと同時代でともに戦えたことを私は心から光栄に思います」(385頁)



2017年3月19日日曜日

【第689回】『はじめての詰碁』(日本棋院、日本棋院、2013年)

 将棋を上達させるには詰将棋が有効だった。ということで、囲碁ならば詰碁だろうということで読み始めた。もともとは『ひと目の詰碁』を読もうとしたのであるが、初心者には難しく断念したので、より入門者向けのものを探して見つけたのが本書である。

 囲碁を普及することを目指している日本棋院が監修しているだけあって、入門者に非常にやさしいテクストである。少し考えれば正解に至れるようなレベルの問題であり、モティベーションを高く持って読み終えることができた。


 ガイドにある通り、入門~15級までもしくはそれよりも少し棋力に自信のある方にもオススメできる一冊。


2017年3月12日日曜日

【第687回】『不屈の棋士』(大川慎太郎、講談社、2016年)

 以前の将棋関連の書籍でのエントリーでも触れたが、幼い頃に将棋にはまっていた時期がある。当時は羽生善治さんが竜王位に就いた頃で、『羽生の頭脳』シリーズを好んで読んでいた。正直に白状すれば、内容を一割程度も理解していなかったが、その凄さを雰囲気だけでも掴もうとして、将棋盤に棋譜を並べていた。私にとっては、あまりに次元の異なる、頭脳明晰な人たちの展開する世界という感じであった。

 人間の頭脳の象徴として仰ぎ見ていたプロの棋士が、将棋ソフトに負けたというのは衝撃であった。いつかは訪れることであろうとの予測があったことではあるが、実際に目にした時はショックだった。プロフェッショナルな棋士の方々はどのようにソフトと向き合うのか。どのような将来を描くことができるのか。こういった興味を持ちながら本書を読んでいて考えさせられたのは、仕事におけるAIとの付き合い方である。もっと具体的に言えば、人事の領域においてどのようにAIを活用していくのか、と自分に引き付けて考えさせられた。

 何名かのインタビュー内容から、何を考え、どのように展開が可能なのかについて少し考えてみたい。

――ソフトを使い始めてから、千田さんの将棋はどこが変わりましたか。
千田 ソフトの棋譜と評価値をたくさん見たことで、判断材料が増えました。いままでの感覚でダメそうに見えたり危険に感じるような局面でも、「大丈夫」と見切って踏み込むことができるようになった部分はあります。逆に言えば「いままでの感覚なら飛び込んでいたけれど、これは止めた方がいい」と判断することもあります。(155頁)

 棋士の中にも、ソフトを使う方とそうでない方とがいるという。1994年生まれの千田五段は将棋ソフトを積極的に使うことで有名だそうだ。その千田さんの言葉からは、人間の思考やそれに伴う判断を補助するためのソフトという関係性が見える。私たちが「普通のこと」として考えたり感じたりすることをいったん括弧で括るためのもの、とも捉えられるのではないか。つまり、私たちの「普通」を拡張する作用がソフトにはあり、このように考えれば、業務の中でどのようにAIと付き合うかということのヒントにもなりそうな気がする。

――ソフトを経験して、いい面も悪い面も見えてきた。これからはどうされますか?
村山 やっぱり地力をつけていきたいです。ソフトで得るものって新しいアイデアとか、自分が指したい形での最善の一手とか、結局は情報なんですよ。ソフトを使って根本的な将棋の力がつくかというと、ちょっと疑問を感じますね。(202~203頁)

 2015年の電王戦で最強ソフトの呼び名が高い「ポナンザ」に敗れた村山七段の言葉である。千田さんはソフトの可能性を認めながらも、ソフトとの接点で得られる価値は情報であるという。つまり、一瞬で評価が数値化されて、局面が良いか悪いかが分かるという作用自体は情報であり、そこに至る思考のプロセスやそれをどのように事後の展開に活かしていくか、という点は人間が行うものなのであろう。人がソフトを活用するという点で考えれば、すべてをソフトに委ねてしまうと、そのあとの勝負という短期的な将来でも活用できず、地力を高めていくという長期的な将来にも悪い影響を与えかねない。では、どのように私たちはソフトを活用できるのだろうか。

――今後、ソフトとはどう付き合っていきますか?
糸谷 ソフトに頼りきりになってしまうのであれば、自分が将棋をやっている価値は感じません。棋士である以上は、自分なりの個性を見せなければいけないと思います。(260頁)


 ソフトとの共存、AIとの共存という難しいテーマに対して、気鋭の若手である糸谷竜王の言葉にそのヒントがあるのではないか。情報を活用することは重要であるし、それを知らない状態でプロフェッショナルとは言えないだろう。しかし、その活用のしかたやどういった考え方でそれを活かすかという点に、私たち人間の個性が作用するものは大きい。その礎となるべきものは、人間の価値観・個性・志といったものなのであろう。


2017年2月13日月曜日

【第679回】『東大教養囲碁講座』(石倉昇ら、光文社、2007年)

 東大では囲碁を教養科目として教えているという。素晴らしい取り組みであり、羨ましい。このタイトルはずるいなとも思うが、初心者が囲碁を学ぶ上で読みやすく、かつ何度も読み直したい一冊である。


 九路盤で実践を積みながら、時に読み返すということを繰り返している。少しずつではあるが上達していると信じている。ただ成長感はあまり得られずとも、幅広に盤面を眺めて、速く意思決定をするというゲームの面白さは実感しているから良しとしよう。

【第675回】『一人で強くなる囲碁入門』(石倉昇、日本文芸社、2002年)

2017年2月4日土曜日

【第675回】『一人で強くなる囲碁入門』(石倉昇、日本文芸社、2002年)

 誕生日が近づくと、今年こそは囲碁を始めようと思って数年が経った。今年も同じ轍を踏みそうになってふと気づいた。入門書をとにかく読めばいいのではないかと。つまらなければ始めなければいい。

 この「お試し感覚」がハードルを下げた。本なら読める。この思いつきは正しかった。全く囲碁に触れたことがない私でも、本書は面白く読めた。もちろん、すべてを理解したわけではないし、一息に読めるほど簡単でもなかった。しかし、ときに前のページに戻って読み返したりしながら少しずつ読み進める感覚は心地よかった。

 脳の障害で右脳が機能しなくなった人はそれまで碁が打てた人でも碁が打てなくなるそうです。しかし、左脳の機能をやられた人は、少し弱くなりますが、立派に碁が打てます。これは、碁が右脳を使うことの証明です。(80頁)


 現時点では左脳で碁を理解しようとしているように感じる。しかし、著者によれば、囲碁は主に右脳で打つものだという。左脳偏重で日常を暮らす私にとって、大変ありがたいことであり、囲碁に今後も取り組みたいと思えた部分である。


2017年1月5日木曜日

【第664回】『決断力』(羽生善治、角川書店、2005年)

 決断とは、決めて断つことである。決めることに焦点が当たりがちだが、何かを断つことを含意する。何かを断たなければ何かを決めることはできないのであり、だからこそ、決断は難しい。

 プロの勝負の世界に中学生の頃から身を投じて来た著者は、一局一局の中で決断を続けてきた。そうした人物が語る決断力から、私たちは多くのものを学ぶことができるだろう。

 経験には、「いい結果」、「悪い結果」がある。それを積むことによって色々な方法論というか、選択肢も増えてきた。しかし、一方では、経験を積んで選択肢が増えている分だけ、怖いとか、不安だとか、そういう気持ちも増してきている。考える材料が増えれば増えるほど「これと似た様なことを前にやって失敗してしまった」というマイナス面も大きく膨らんで自分の思考を縛ることになる。
 そういうマイナス面に打ち勝てる理性、自分自身をコントロールする力を同時に成長させていかないと、経験を活かし切るのは難しくなってしまう。(32~33頁)

 何事も経験することが大事であり、経験から学ぶことができるはずだ、という言説に疑問を投げかけるつもりはない。しかし、経験至上主義で捉えると誤る側面があることを著者は指摘している。つまり、ネガティヴな経験が、私たちの現在を縛るリスクがあることであり、そうしたものを克服するマインドセットを涵養することが同時に求められるのである。

 勝負の世界では「これでよし」と消極的な姿勢になることが一番怖い。組織や企業でも同じだろうが、常に前進を目ざさないと、そこでストップし、後退が始まってしまう。(43頁)

 安定を求めたり変化を嫌う個人や組織は恐ろしい。社会や国家全体が成長している局面では、そうしたマインドセットでも対応できることがあろうが、現代社会においてはそうした局面は極めて希少である。前進とは、何らかのスキルを向上させたり能力を向上させるということを意味しないだろう。自分自身の価値観の拡がりを感じたり、度量を拡げるといったことも前進と捉えれば、私たちができること、やるべきことというものを感じ取ることができるのではないだろうか。

 できるだけ可能性を広げて、自分にとってマイナスにならないようにうまく相手に手を渡すのだ。(37頁)


 何度読み返してもこの箇所が好きで読み直してしまう。自分本位で全てを為そうとするのではなく、他者、とりわけ対戦相手にいわばイニシアティヴを渡すという度量の深さ。これが著者の決断力や勝負勘の真髄なのではないだろうか。


2015年4月29日水曜日

【第436回】『先を読む頭脳』(羽生善治・伊藤毅志・松原仁、新潮社、2006年)

 記録によれば、本書を読むのは三度目のようだ。将棋界で長くトップ棋士として君臨する羽生善治さんの思考に関して、人工知能や認知科学を専門とする研究者の方々が解説する本書は読み応えがある。

 羽生さんの言葉を見ると、非常に冷静に自分の行動を眺め、そして的確な言葉で説明する能力を持っていることがお分かりいただけると思います。自分の行動や思考を自分の言葉で説明することを「自己説明」と呼び、この説明能力を磨くことで、効果的な学習ができるようになるという研究が、近年認知科学の分野で行われています。(36頁)

 羽生善治さんの様々なインタビュー記事や著書に触れたことがある方は、首肯されるのではないだろうか。また、将棋界以外においても、あるジャンルにおいて一線で長く活躍される方の発言や書籍を紐解くと同じ観想を抱くことが多い。「自己説明」とは、プロフェッショナルを創り出す一つの要素なのではないか。

 本章の最後で羽生さんは、「言語化の重要性」について言及していますが、思考の言語化が学習に非常に有効であることは、近年の認知科学でも注目されていることです。自分の考えを言語化するという作業は、自分を客観的にモニターして、考えをまとめ、理解したことに対して言語というラベルを貼るということを意味します。その結果、ラベル付けしたその事柄に改めて気づかされ、さらに理解が進むのです。この作業を繰り返すことで、知識が精緻化し、定着していくのです。(167頁)

 自己説明の効果的な鍛錬の一つが日常的に言語化を心がけるということであろう。これはなにも難しいことではない。SNSが発達した現代においては、ブログを用いて自身の考えを開陳して外に開かれたコミュニケーションを取ることは可能だし、より手軽にはFacebook等も用いられるだろう。意識して、自分自身の考えや意見を客観的な視点から文字にすること。そうすることで、私たちは、自分の分野におけるプロフェッショナルとして鍛錬することが可能なのではないか。

 初級者の人や、棋力の低い人の思想では、ある局面を見ると、駒野は位置を確かめてどんな局面にあるのかを理解して、どうなったら嬉しいのか、どうなりたいのか、ということを考えます。例えば、序中盤なら、「駒を得するにはどうすればよいか」とか「飛車や角を成り込むにはどうしたらよいか」といった目標を設定して、そうなるためにはどう指したら良いか、という風に考えます。いわゆる目標状態からの「逆算」です。
 ところが、羽生さんや上級者のプレーヤーの思考は全く違います。ある局面を見ると、見た瞬間にその局面が一局の大局の中のどんな状況かがすぐわかって、どうしたら良いのかといった結論が先に浮ぶのです。これが熟達者の行う「順算」です。(117~118頁)

 羽生さんのような達人たちが、我々素人が想像も出来ないほどの早さで正確な手を指せるのは、この「順算」の能力が大きく関わっていると考えられるのです。そして、この「順算」を支えているのが、「時間的チャンク」であり、これが「大局観」の正体ではないかと考えています。(119頁)

 ここでの指摘は私たちの一般的な通念と逆のことが書かれているのではないか、と私には思える。つまり、プロフェッショナルは先々のことを予見して、そこから逆算して行動を取っているように思うのであるが、著者は違うとしている。逆算ではなく順算こそが、熟達者が行っているプラクティスであるとし、それが大局観と呼ばれるものの正体ではないか、としているのである。たしかに、卑近な例で恐縮であるが、逆算で論理的に検討した内容が、経営者や経営層からの指摘で実務家的でかつ視野の狭いソリューションである、ということはよくある。気づきの多い箇所である。

 問題は自分ではぴったり合っていると思っていても、実は刻々と変化する状況の中で、徐々にズレていってしまう場合があるということです。そのズレた部分で、調子がおかしくなっていることがあるのです。
 時間の経過と共に生じるズレを自覚して、いかに調整して自分に合わせていくか。それを考えることが、おそらく自分自身の努力で調子の波を克服することのできる唯一の方法ではないかと思っています。(143頁)

 スランプと表現しても良いだろうし、単なる調子の浮き沈みと表現しても良いだろう。いずれにしろ、私たちの調子は一定ではないのであるのだから、悪いコンディションの時にどのように対応するか、が求められる。ここでも羽生善治さんは、自分自身の現状を認識することが第一であるとした上で、変化した状況から鑑みてズレた部分をモニターすることの重要性を挙げている。自分の取った言動を変えていなくとも、むしろ環境が変化していれば意味を為さないばかりか環境不適応になることすら起こり得る。心したい対応方法である。

2014年1月19日日曜日

【第243回】『シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代』(梅田望夫、中央公論新社、2009年)

 将棋を指すではなく、将棋を観る。しかも、シリコンバレーから。本書は、ネットで将棋を観賞することについて述べられたものである。

 テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。(144頁)

 文化とは、生活をゆたかにするものであり、日常をしたかかに生きるためのものである。そして、将棋とは、日本の文化である。指せなければ将棋をたのしむことはできないと思われがちであるが、将棋を観賞することの意義を著者は述べる。日本の文化たる将棋界を推進する一人が羽生善治さんであることに異論はないだろう。羽生さんの将棋に対する考え方は、文化の推進者たるにふさわしい。

 「すべての戦型を網羅して全十巻」というところにオールラウンドプレイヤー指向の羽生の真骨頂がすでに出ていたわけだが、より本質的なのは、羽生の「その段階で持っている知識はすべてオープンにする」という過激な思想であった。(40頁)

 ここで著者が引用しているのは、羽生さんが将棋のメジャータイトルを独占して世間の話題となるより数年前の、若手の第一人者として活躍し始めた時代の著書からである。将棋のプロの世界は、他のプロとの真剣勝負の連続である。ゼロサムゲームであるために、将棋においても自分自身の手の内をさらけ出すことは得にはならない。しかし、羽生さんは自分自身が理解し得ている知識を進んでアウトプットしたのである。アウトプットした数年後に、七つのタイトルすべてを取得したのであるから、知識を共有し将棋の持つ可能性を高めることと、自身が勝負に勝つことを両立させたのである。勝負を不利にするリスクを冒してまでなぜ、彼は将棋界を前に進めるようとしたのか。

 厳しいながら、権利のない世界のほうが進歩が加速する。だから、進歩を最優先事項とするなら、情報の共有は避けられない。そういう新しい世界では、「効率だけで考えたら、創造なんてやってられない」から、一見モノマネをして安直に生きるほうが正しいかのようにも見える。「状況への対応力」で生き抜くのが理にかなっているようにも見える。しかし、無駄なようでも創造性を生もうとする営みを続ける以外、長期的には生き残るすべはない。突き詰めていけば「最後は創造力の勝負になる」のだと、羽生は考えるのである。(46頁)

 知識をシェアして世界を進歩させることで、効率的な改善から、創造的なイノベーションへとパラダイムを変える。羽生善治という人物が行なったことは、GoogleやAppleが行なったことと軌を一にして、同じようなインパクトのものを行なったと言っても過言ではないだろう。では、彼にとって創造性の萌芽とはなんだろうか。特筆すべき点が二つ挙げられる。

 結局、手番を指したら、自分の手は消えてしまうので、そこはもう相手に委ねるしかないところですから。悩んでも、どういう手が返ってきても、それを受け入れるしかないということですよね。そういう曖昧さとか、いい加減さとか、あるいは心配みたいなものを、どういうふうに克服していくか。そういうことに繋がる気がしますね。(252頁)

 第一は、曖昧性あるいは他力という考え方である。すべての問題を因数分解し、独力で合理的に解決することはもはやできない。たしかに、予見性が高く、単純な構造の世界であれば、こうした合理的な手法に基づく問題解決ということもできるだろう。そうした文脈において、合理的な問題抽出および問題解決の有効性を否定するつもりは毛頭ない。しかし、現代における諸問題の複雑性やその問題自体が静的ではなく動的である点に鑑みて、新しいアプローチが求められていることももまた事実であろう。そうした際には、ある部分において他者に委ね、曖昧な現実に対して柔軟に対応するということが、問題への創造的なアプローチになり得るのではないだろうか。

 「超一流」=「才能」×「対象への深い愛情ゆえの没頭」×「際立った個性」(中略) 「知の高速道路」が敷設され、癖のない均質な強さは、昔に比べて身につけやすくなった。しかし、「高速道路を走り切ったあとの大渋滞」を抜けるには、加えてこれらの三要素が不可欠なのだ。特に「際立った個性」の強さが、最後の最後の紙一重の差を作り出す源となるのである。そしてそれは、どんな分野にもあてはまる普遍性を有する。(289~290頁)

 創造性に結びつく第二の点は、「超一流」の条件の一つである「際立った個性」と言えるのではないだろうか。個性であるということはすなわち、成功している他者のアプローチをリバースエンジニアリングを掛ければ創造的になれるわけではないということである。リバースエンジニアリングが有効なのは「高速道路」を走る際のアプローチであって、「高速道路」後の「大渋滞」を抜ける際には決して有効ではない。自分自身の内側にあるキャラクターと統合された個性こそが、プロフェッショナルとして活躍するために求められるのである。

2013年10月13日日曜日

【第210回】『直感力』(羽生善治、PHP研究所、2012年)

 直感という言葉を著者がタイトルに取り上げると、なにか天才的なひらめきのようなもののように思えるかもしれない。しかし、本書を読み終えると、その印象は百八十度変わる。著者の実践に裏打ちされた暗黙知が詳らかに形式知化されており、プロフェッショナルの言語化能力の高さに驚くばかりである。直感に関して、著者は大別して三つのポイントを述べている。

 第一に、直感を養うことについて、三つの要素の重要性が記されている。

 その感覚を得るためには、まずは地を這うような読みと同時に、その状況を一足飛びに天空から俯瞰して見るような大局観を備えもたなければならない。そうした多面的な視野で臨むうちに、自然と何かが湧き上がってくる瞬間がある。(19頁)

 細かい点の近くに寄って深く読むことと、高い所から大局を俯瞰して眺めること。カメラのピントを合わせるように、遠くと近くとをバランスよく眺めることである。

 現場へ出かけていって、進行形の勝負を肌で感じて考える。こうしたことも直感を培うためのひとつの方法である。 最近はそうした現場感覚を意識して、タイトル戦が行われている会場へ出かけ、控室で研究する棋士が増えている。その場に身を置き、対局者と同じ時間を共有しながら、自分の頭で考えることをする。リアルタイムで進行を体感しながら、伝えられてくる対局者の指し手について「どうしてここでこの手を指したのだろう」と、考える。 後日掲載された棋譜だけを見て、結果から理論づけるのではない。次の展開が見えない状態で、対局の当事者ではない自分も局面の予想を立てていくのだ。 こうした経験を積むことでも直感を導き出す力は鍛えられる。(23頁)

 現場で経験を積むことの重要性がここでは述べられている。リアルタイムで、現場における変化を経験し、そこで考えること。こうしたことが直感というたぶんに感覚的なものを養うことに繋がるのである。

 直感を磨くということは、日々の生活のうちにさまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にすることではないかと考えている。(35頁)

 一つのことに没頭するだけではなく、多様な価値観を持つことが同時に重要なのである。将棋だけを突き詰めるのではなく、他の分野のプロフェッショナルとの対話にも積極的に取り組む著者の姿勢をそのまま表していると言えるだろう。

 ではこうした直感を磨く領域をどのように見つけるのか。直感を習得する対象についてが、これから述べる二つめのポイントである。

 追いかけ続けてあるときふと、自分はこれが好きなんだと気づくのが、一番自然なことなのではないかと思っている。そして何よりも「コツが分からないこと」を、難しいからと投げ出してしまうのではなく、「なぜなのか」と探求していく気持ちが大切なのではないか。(中略)何が自分に有益となるのかなどに囚われた心を排し、新たな試みを行っていく必要があるのではないだろうか。(70頁)

 直感を養う対象を見つけるためには、とにかく何かを続けることが大事であると著者は説く。その際に、シンプルで表層的なもので対応できるものではなく、尽きずに探求できる深みのあるものが良いとしている。自身にとっての有益性や経済合理性といった表面的な動機ではなく、新たな試みを続けていきたいと自然に思える領域を探すこと。いつ終わるとも分からないプロセスを、継続することが大事なのである。

 何かを学び習得していく、上達してうまくなっていくというのは、その集中する時間を少しずつ延ばしていくプロセスなのではないかと思う。(中略) どんな物事でもいいのだが、何かに集中して一生懸命になって集中する時間を延ばしていく訓練をしておくことが必要なのではないだろうか。その訓練が根気をつけていくことにつながり、他に何か違うことを学んだり覚えたりといったときの基礎体力になるのではないかと思っている。(49~50頁)

 選んだ対象をどのように上達させていくか。当たり前のことではあるが、最初から集中して長い時間取り組むことは難しい。集中できる時間を、意識的に少しずつ延ばしていくこと。これが上達するために必要なステップである。こうして一つのことを深掘りしていく上達のプロセスを踏めるようになると、他のものを上達させる上で共通する重要な基盤となることにも着目するべきだろう。

 第三に、直感を磨きながら、情報をいかに受発信するかについて述べていく。

 本を通じてたとえ他人から見たら意味のなさそうなことでも、自分なりに解釈してみることが、想像力や創造力を生み出す源泉になるのではないだろうか。(78頁)

 情報のインプットの重要性として、単になにかを覚え込むのではなく、自分の文脈に引き合わせながら解釈を試みることを著者は指摘している。つまり、ここでは受動的な読書ではなく、いわば能動的な読書をすることが、直感を磨き上げることに繋がる。

 アウトプットは、単なる出力ではない。記憶するための手段でもない。人は必ず、アウトプットしながら考え、それを自分にフィードバックしながら、インプットされた知識や情報を自分の力として蓄積していくようにできているのではないかと考えている。(117頁)

 インプットの重要性の対の概念としてアウトプットの重要性が挙げられている。能動的な読書や情報収集をかたちにすること。このフィードバック・プロセスを回すことによって、知識や情報を自分の対象領域や文脈に即して直感的に活用できるようになる。


2011年5月7日土曜日

【第24回】『大局観』(羽生善治著、角川書店、2011年)

著者の本をこれまでも好んで読んできた。二十歳前から将棋界の第一人者として活躍する傍ら、将棋だけに邁進するのではなく異分野のプロフェッショナルと盛んに交流をはかる姿勢には棋界を引っ張ろうという気概を感じる。むろん、著者は棋界に対する意識からこうしたことをしているわけではないだろう。異分野の人々との対話から深く内省し、新たな知見を紡ぎ出しているのだろう。

これまでの書籍も刺激的であったが、本書もまた、示唆に富む良書であった。とりわけ、勝負勘や人生観、対人関係といった領域に関して刺激を受けたことについて記してみたい。

第一に、勝負において著者は本書のタイトルにもなっている大局観を重視している。大局観を使う上では、将棋における終局の場面を想起することが大事であるそうだ。「詰み」の場面から逆算する発想を重視し、その逆算の際に読みや直感を大事にする、というアプローチを取るのである。

将棋を指す際には、現在の局面をもとにして数手先を読むということを考えてしまいがちだ。少なくとも私にとってはそうであり、これが素人の発想ということなのだろう。卑近な例で恐縮であるが、これは麻雀を考えれば理解し易い。現在の自分の手や河から今後の局面を想像することはもちろん大事であるが、それ以前に、自分の手が出来上がった状態から現在の打ち手を逆算するのはセオリーである。他者との駆け引きが求められるゼロサムゲームにおいては、逆算と積み上げを用いた戦略的思考が求められるということであろう。

第二に、人生観についてはラッキーに関する記述が興味深い。いつもラッキーなことに恵まれているという人は外発的な偶然性に委ねているのではなく、内発的な必然性を創り出してラッキーを活用できるようにしている、というのである。つまり、どのような状況になっても対応できるように常に準備をする、ということであろう。

ラッキーについて態度や精神論でうやむやな議論をする自己啓発本をするものが多い。それに対して、著者が述べていることは、イチローが大事にする準備に通ずるものであり、クランボルツ教授のPlanned Happenstance Theory を髣髴とさせる至言であるのではないか。プロフェッショナルや研究者が異口同音にいうことには深みと重みが感じられる。

最後に、ビジネスにおける対人関係を想起させる部分があった。コーチングにおいて、教わる側が教える側に対して積極的に質問をすることが大事である、というのである。質問や傾聴といった教える側の知識やスキルばかりに目が行きがちであるが、コーチングにおいては教わる側の言動もまた重要である。

この話は最近、ある方と話していて「援助を受ける力が初期キャリアの人々には重要」という指摘を受けたのであるが、上記の部分を読んでそのことを思い返した。忙しいミドル・マネジャーに管理職研修やコーチング研修と称した負荷を掛けすぎるのではなく、マネジメントを受ける側に対する「援助を受ける力」の強化を行なうことが、ビジネスの現場で求められているのではないだろうか。

<参考文献>
『夢をつかむ イチロー262のメッセージ』ぴあ、2005
J.D.Krumboltz, Luck is no accident 2nd edition, Impact Publishers, 2010