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2019年3月17日日曜日

【第939回】『憲法問答』(橋下徹・木村草太、徳間書店、2018年)


 この二人の組み合わせは意外であり、また対談が噛み合っていることがもっと意外であった。両者の議論がしっかりと噛み合った理由を、木村氏は「まえがき」でこのように述べている。

 橋下さんの主張をよくよく調べたり、聞いてみたりすると、なんの考えもなしに暴走する権力者ではないことがわかります。むしろ、橋下さんは、憲法の要求や、法律の手続きを理解しようと努力し、何かを主張するときには、法的な根拠づけを強く意識しています。私と橋下さんの間には、法や論理という共通の基盤があり、たとえ意見は違っても、そうした基盤のうえに、コミュニケーションが成立するのです。(1頁)

 何かを主張し、それが反証可能であることが科学の前提条件である。ここでは法学という社会科学の一つを相互理解の基盤として二人がコミュニケーションを丁寧にしている理由があるようだ。保守対リベラルというレッテル貼りおよびステレオタイプな対立構造によってコミュニケーションが断絶するのではなく、こうした建設的な取り組みは心地よい。

橋下 僕も憲法を勉強するまで知らなかったのですが、「間接適用説」という考え方は目からうろこでした。きっと憲法に国民向けに特定の価値観を強要するような条文を書こうとしている政治家は、間接適用説という考え方を知らないんじゃないかと思うんですよね。
木村 間接適用説について少し解説します。(中略)間接適用説は、あくまでも憲法による義務を負うのは国家であって、個人の間に憲法が適用されるように見えるのは、あくまでも国家機関が憲法上の義務を果たした結果にすぎないと考えます。(48~49頁)

 憲法とは何か。国家に義務を与える存在が憲法であり、個人に義務を与えるものではない。国民の義務はその例外的な存在ではあるが、原則は上述の通りである。では国民が望ましい言動をとってくれるように憲法は何も為せないのかというと、そのための考え方として間接適用説がある。

 こうした法的思考に基づくルールや当てはめに関する考え方は、人事制度の策定や改訂、および運用解釈をどのように行うかといったことを想起させる。企業における人事管理と近しいものがあり、興味深く読めた。

木村 憲法や法律には「法の一般性」というルールがあります。法律は一般的でなくてはいけません。一般的というのは、固有名詞を入れてはいけないということです。だから「朝鮮学校に補助金を出してはいけない」とするルールや法律は憲法の趣旨に反します。「財務諸表を公開しない学校」というように、固有名詞の出てこない形で法律を作らなければならない。これが「法の一般性」です。(68~69頁)

 この箇所も人事管理で活きる思考様式であり、よくわかる。人事も公平性・公正性を担保することが求められ、特定の人物を狙い撃ちにした施策はご法度だ。

橋下 僕は、政治家になるまでは権力者の権力の行使範囲を縮小させるのが「縛る」ことであり、それが立憲だと考えていました。でも、そもそも立憲とは権力者が権力を行使するときに、その主観ではなく憲法を根拠にするということですよね。権力を縮小することが「縛る」ことではなく、権力者に憲法を意識させることが「縛る」ことだと思うのです。つまり巷では「〇〇してはいけない」と権力を縮小するのが立憲だと思われていますが、逆に憲法を根拠として「〇〇する」というのも当然立憲だと思うのです。権力は適切に行使しなければ国民のためになりませんからね。(56~57頁)

 立憲について考えさせられる箇所である。現代日本のリベラル思潮では権力を縮小することを立憲として捉えられがちであるが、こうした建設的な考え方にも傾聴したいものである。
 
【第310回】『憲法の創造力』(木村草太、NHK出版、2013年)
【第338回】『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社、2006年)

2017年3月5日日曜日

【第685回】『君の働き方に未来はあるか?』(大内伸哉、光文社、2014年)

 労働法で企業と個人とを捉えるとどのようになるのか。本書を紐解くことで、労働法の歴史から理解しながら、現代の私たちが企業で働く上で知っておきたい基礎的な考え方を学ぶことができる。労働法の各論を詳しく知ろうとする方には概要にすぎると思われるかもしれないが、大枠を掴んで理解しようという目的の読書であれば、示唆に富んだ読書体験を得られるだろう。

 どうして未来への希望にあふれているはずの若者が、こんな悲壮な覚悟で社会に出ていかなければならないのでしょうか。本書では、その理由を「雇われて働く」とはどういうことなのか、というところから説き起こしていきます。
 本書では、「雇われて働く」ことは実は「奴隷」と変わらない面があること、こうした状況を改善するために労働法があること、さらに正社員という身分を獲得できると、企業からの優遇があり、この状況はもっと改善されること、しかしこれからの時代は、労働法もどうなるかわからず、正社員の枠も減っていくことを、順を追って説明しています。
 そうしたなか、最終的にめざすべきことは、「やりたくない仕事はしなくてよい」と言えるような自分になることです。たとえば、不本意な仕事であると思うならば、会社を辞めて転職できるようにするのです。あるいは、そもそも人に命じられず、自分の力で働く自営業者になるという道もあります。
 そのときに大事なことは、「仕事のプロになる」ことです。(6~7頁)

 労働法の先生が労働という現象をこのように描き、プロフェッショナルのキャリアの必要性を説いていることは興味深い。企業が労働者に対して保障したり、国家が企業に一定の制約をかけて労働者を保護することは大事であるし、労働法が発展してきた背景にはこうした考え方があることは間違いない。しかし、そうした外部主体に依存するのではなく、自分で自分のキャリアに責任を持ち、エンプロイヤビリティを高めることで、企業と対等に渡り合えるようなプロになることの重要性がここでは指摘されている。

 必要なのは、能力の劣る正社員を解雇しやすくして、正社員のポストを明け渡すことができるようにすることであり、それによって非正社員が正社員ポストを獲得する「可能性」を作り出すことです。(66頁)

 一企業の人事の立場で述べると問題発言となるかもしれない。しかし、マクロ環境を鑑みれば、この考え方は充分に首肯できるものなのではないか。正社員と非正社員という決して適切とは言えない分類を無意味化するためには、ポストの入れ替えを促す仕組みづくりが適していると思われる。

 ブラックかどうかというのは、個人と企業との相性という面もあるのです。だからこそ、個々の企業がブラックかどうかを判定することよりも、働く側にとって企業を選ぶ際に参考になる情報ができるだけ開示されるようにすることが必要になります。そして、それをブラックと判断するかどうかは、個々人の判断にゆだねるほうがいいのです。(90頁)

 ブラック企業という言葉に続き、ホワイト企業という言葉も最近では出てきた。そこにおぼえる違和感を、言語化してくれたように感じるのは飛躍であろうか。もちろん、どうしようもない企業を「ブラック企業」として摘発することは必要であろう。そうしたアナウンスメント効果によって、企業におけるルールが適正化される。しかし、ある程度は個人側の意識に依存するのであるから、客観的に杓子定規で企業を断罪するような運用は避けたいものだ。

 外国から来た留学生が必死に勉強するのは、スキルを身につけるのは自分の責任であると考えているからです。一方、日本の大学生の多くは、驚くほど勉強しません。スキルを身につけるのは、企業に入ってからで、企業にすべてまかせているのです。そして、これが「従属」への入口となるのです。(157頁)

 海外の留学生と比べて日本の大学生がなぜ学ばないのか。企業でキャリアをすすめる上で、日本の企業ではスキルを前提として求められず、ポテンシャルで評価がなされる。それ故に、大学において何かを身につけたり自分自身を高めようという誘因が弱くなる。海外においてはそれと反対であるために、彼我の学生の意識の差が表れるというのは納得的な説明である。加えて、こうした成長を企業に委ねる姿勢が、企業への従属に繋がるのであるから、皮肉なものである。



2016年5月4日水曜日

【第571回】『新しい労働社会【2回目】』(濱口桂一郎、岩波書店、2010年)

 法律を法律の視点からだけで捉えると無味乾燥なものになってしまう。しかし、現実に起こっている事象と法律との関連が述べられると、そこに切実なストーリーを見出せることがある。本書はまさにそうした書籍であり、労働法が企業やそこで働く人々にとってどのような影響を与えてきたのかに思いを巡らせてくれる。

 雇用契約それ自体の中には具体的な職務は定められておらず、いわばそのつど職務が書き込まれるべき空白の石版であるという点が、日本型雇用システムの最も重要な本質なのです。こういう雇用契約の法的性格は、一種の地位設定契約あるいはメンバーシップ契約と考えることができます。日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくてメンバーシップなのです。(3~4頁)

 日本企業における企業と働く個人との関係性をメンバーシップに置いている点が、本書を通底する主張である。日系の企業でキャリアを始め、現在外資系企業に勤めている身として、日系の企業がメンバーシップを雇用の根幹に置いているという点は納得的であり、身をもって理解できる。

 日本型雇用システムにおいては、メンバーシップの維持に最重点がおかれるので、特にその入口と出口における管理が重要です。メンバーシップへの入口は採用であり、メンバーシップからの出口は退職ですが、いずれも極めて特徴的な制度を持っています。すなわち、採用における新規学卒者定期採用制と退職における定年制が日本の特徴となっています。(8頁)

 メンバーシップを根幹に置くと、人事システムの入口では、先達に迎えられる要素を持つ人物か否かが問われることになる。それは長期にわたって安定的に働く長期雇用を前提とした新卒一括採用となり、職務における専門性ではなく人間的な総合性が重視される。その帰結として、ゲマインシャフトとしての企業組織の中で、メンバーとしての社員は終身雇用されることとなる。こうした日本企業の来し方を法的な観点から読み解いていけば、現状の日本企業において起こっている事象と、今後の変化の方向性を考えることができるのではないだろうか。

2016年1月3日日曜日

【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)

 空海の人生の足跡を、著者が史実を基にしながら想像し、紡ぎ上げた歴史小説である。思想家がどのようにして思想家になるのかを辿る足跡は、人のキャリアを辿ることと同じような趣深さがある。

 空海の思想家としての性格は、むしろあざといばかりに煩瑣な美を愛する傾向があり、のちにかれが展開する密教とも、このことは濃厚につながりがあるであろう。(上巻・272頁)

 思想というものは、論理の積み上げと予期できない跳躍との組み合わせから成り立っているという印象を持っている。空海におけるそれは、唐での留学によって学んだものが礎となりながら、彼独自の美意識によって創り上げられたのであろう。

 かれはこの時代にあっては稀れといえるかもしれない比較哲学の徒である一面をもっていた。好みとしても能力としても、かれが思想の比較に関心をもち、そのことに卓れてもいたことは(中略)想像しうる。祆教の教義を聴きつつ、かれはその脳裏においてつねに何ごとかとの比較をしきりにおこない、検すがようにしてきいていたであろう。繰りかえすようだが、比較は空海のもっとも好むところであり、しばしば、かれの知的作業の方法でもあった。(上巻・337頁)

 比較とは学問における作用であり、思想や宗教において比較がされるものとは意外な感もある。しかし、何かを生み出すという知的作用においては、比較という態度は自ずとされるものであり、空海の場合にはそれが顕著であったということであろうか。


2015年7月5日日曜日

【第459回】『労働法入門』(水町勇一郎、岩波書店、2011年)

 労働法の碩学の一人である著者による本書は、さながら労働法の入門書と言えるような、簡潔にして明瞭な書籍である。以下の部分には、日本における労働法の位置づけや、その特徴が端的に記されている。

 日本の労働法は、他の先進諸国の労働法に比べて、当事者間の長期的な信頼関係を重視するという特徴をもっている。これは、一方では、人間関係を大切にし、日本企業の国際的競争力を支える源泉となってきたという点で、日本の労働法の長所ともいえる点である。しかし他方で、そこには、メンバーシップをもたない者を差別したり、組織の論理を重視するあまり個人が組織のなかに埋没してしまうという危険が潜んでいる。(48頁)

 長期的な雇用に基づくメンバーシップを源泉とした日本企業の強みはまた、人材の流動性を妨げるという副作用をも生み出してきた。ビジネスにおいて柔軟な経営が求められる時代においては、人材の流動性もまた求められる。日本における労働法と、それを構成する判例法理では、整理解雇法理が硬直的であるとされてきた。しかし、著者は以下のように述べて、そうした見方が必ずしも正しいものではないと指摘する。

 事業場や職務の限定付きで雇用されていた労働者に対して、その事業場や職務が廃止されることに伴ってなされた解雇の有効性が争われたこれまでの裁判例をみてみると、整理解雇の四要件(または四要素)をそのままあてはめて判断したものはむしろ少数で、①人員削減の必要性(廃止決定の合理性)のみを考慮するものや、それに加えて、②配転の可能性や④手続きの妥当性を考慮に入れて判断するものが多い。そして、このような事案では、結論として解雇を有効とした裁判例が多いことがわかる。逆に解雇が無効とされたのは、人員削減の必要性自体に疑問がある、同じ職務に就いていたのに解雇されなかった者がおりその経緯も明らかでない、有期契約の期間途中での解雇であり期間満了を待たずに解雇する必要性が認められない(労働契約法一七条一項参照)など、解雇という選択そのものの合理性が疑われるケースであった(中略)。
 このように、整理解雇法理は、世間で思われているほど硬直的な厳格なものではない。実際に裁判例では、個別の事案の状況に応じて、解雇の合理性・相当性が比較的柔軟に判断されているといえる。社会的な事象を決して色眼鏡でみることなく、現実に起きていることをつぶさに観察する眼を養うことも、法学の門をくぐる際の重要な心構えである。(57~58頁)

 次に、社員の安全や健康といった、古くて新しいテーマに関する法理について見てみたい。

 労働者が会社に対し損害賠償の支払を求める法的根拠としては、まず、不法行為(民法七〇九条など)が考えられる。しかし、不法行為による損害賠償請求権の消滅時効は三年であり(同法七二四条)、また、労働者側が使用者の過失の存在を立証する責任を負うといった難点がある。そこで、最高裁判所は、不法行為以外の法的根拠を示した。使用者は労働契約上の信義則に基づき労働者の生命や健康を危険から保護するよう配慮すべき安全配慮義務を負うとし、その義務をきちんと果たしていなかった使用者に、債務不履行(同法四一五条)の形で損害を賠償させることを認めたのである(その消滅時効は一〇年となる〔同法一六七条〕)。労働契約法は、これを、「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。」という形で、法律上明文化している(五条)。
 この安全配慮義務は、単に労働契約を締結している労働者と使用者との間だけでなく、事実上指揮監督をして働かせているといった「特別の社会的接触関係」にある当事者間であれば、広くそこに発生する義務であるとされている。(142~143頁)

 最後に、労働者という考え方について、労働基準法と労働組合法のそれぞれの持つ意味合いの違いについて取りあげる。

 労働基準法は、人的な従属関係(「使用」性)のもとに置かれる労働者を対象に、使用者に賃金の通貨・直接・全額・一定期日払いなどの具体的な作為や、法定基準を超える労働をさせないといった不作為を命じている。それとは異なり、労働組合法は、経済的に弱い地位にある労働者に団結活動や団体交渉を行うことを認めて、対等な立場での労働条件の決定を促そうとするものである。この法の主旨(一条一項参照)から、法が適用される労働者かどうかを判断する際には、主として、使用者より経済的に弱い地位にあるという経済的従属性が求められ、労働基準法のように厳格な意味での人的従属性(「使用」性)は要求されていないのである。(188~189頁)

2015年1月24日土曜日

【第407回】『日本の雇用と中高年』(濱口桂一郎、筑摩書房、2014年)

 とりわけ機能分化が進む外資系のスタッフ部門においては、HRの知識であっても、自身が日常的に接しない知識については疎くなる。しかし、顧客たる社員から見れば、どのチームの人間であろうとHRはHRである。社員の方々からの自部門の管掌範囲外の質問に対して、正確かつ網羅的に回答できる必要はないだろう。しかし、せめて相手の質問を的確に理解し、基本的な回答をしながら、適切な担当者を紹介するくらいはプロフェッショナルとして最低限行なえるべきだろう。こうした想いのもとに、本書のような、私にとってやや疎い領域に関しても随時知識を更新するようにしている。(今回もまた、自戒を込めて)

 本書では、戦前から現在に至るまでの、日本企業における人事制度を取り巻く流れが描かれている。そうした全体的な文脈の中において、「中高年」社員が企業の中でどのように扱われてきたかが論じられる。その際には、欧米諸国の企業における「中高年」の取り扱いとの対比を用いながら説明がなされているため、日本企業での「当たり前」が実は「当たり前」でないことが分かる。むろん、どちらの制度が優れているという類いの話ではない。そうではなく、相対化することによって見えてくる本質を理解すること、他国のプラクティスから学ぶべきものは学ぶこと、が重要ではないか。

 一九六〇年代後半には、事態はまったく逆の方向に進んでいきます。一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。これをリードしたのは、経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。日経連が理念としての職務給化を主張していたまさにその時に、企業人事の現場は職務給では配置転換が円滑に実施できないということを認識し始めていたのです。そして、この現場の声が日経連のスタンスを換えていくことになります。(46~47頁)

 現在においても根強く日本の企業人事のパラダイムとして残っているものが職能という考え方であろう。職能を中心にして、年功的な給与カーブ設計、使用者にとって裁量の余地の大きい配置転換、基礎教育も含めた人材育成、生活をケアする福利厚生制度、等が設計される。こうした職能パラダイムは日本企業で昔からあるものではないことに留意したい。戦後すぐの時点では、政府および日本企業は、両者の思惑が一致するかたちで、欧米的な職務給への転換を試みていたのである。しかし、その試みが、一九六〇年代後半時点における景気循環サイクルにおける短期的な不況に対応するために頓挫し、職能パラダイムが一気に主流になった。こうした職能への転換が、人事実務という現場から主張され、経営層や財界トップへと浸透したという点は着目するべきであろう。

 高度成長期には多くの業種でさらに頻繁に配置転換が行われるようになり、配転の効力を争う裁判も多く提起されるようになりました。そして、裁判例の大勢は、本来的な雇用契約の法理、すなわち労働者の職務は雇用契約で定まっているのだからそれを使用者側が変更するには契約を変更するか労働者本人の同意を要する、という法理を採用しませんでした。契約締結の際に包括的に合意しているという説明によって、労働者本人の同意を得ない配転を正当と認めてきたのです。つまり、日本の裁判所は、ジョブは雇用契約の本質的要素ではないと考えたわけです。(68~69頁)

 職能パラダイムは、高度経済成長期において若くて優秀な人材を、将来の管理職候補として幅広い業務を経験させるためにジョブローテーションを組むことで強化されたと言えよう。将来は管理職になれるという長期的な外的報酬と、景気拡大に伴う業容拡大によって手応えのある仕事が多いという短期的な内的報酬。両者が結びつくことによって、年功的な給与カーブに基づく若い時代の低賃金でも優秀な社員はリテインされた、と書くと言い過ぎであろうか。こうした定期的なジョブローテーションが機能するためには、厳格な職務給制度によって異動の度に給与が変更するのでは具合が良くない。小さな給与ダウンが大きなモラールダウンに繋がるからである。職務遂行能力という人間基点の評価項目を設けることで、異動によっても給与変動がないようにすることが、社員に不要な不満を生じさせることを避けられるのである。

 年齢とともに排出傾向の高まる日本型雇用システムの矛盾は、一九六〇年代から繰り返し繰り返し指摘され続けてきました。にもかかわらず、一九七〇年代後半以降はむしろ、日本型雇用システムを高く評価する議論が労働経済学の主流を占め、それがきちんと現実に向かい合うことを妨げてきたように見えます。小池和男氏は『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、一九九四年)で、「しばしば日本の報酬制度は、たんに「年功」、つまり金属や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた」としつつ、勤続二〇年を超えてもなお知的熟練は伸び続けるのだと主張し、それを形成するように日本の報酬制度は組み立てられていると述べています。つまり、とても合理的なしくみなのだ、と。(171~172頁)

 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音なのではないでしょうか。その意味では四〇歳定年制論というのは、その本音を露骨に表出した議論だったのかも知れません。
 「職務遂行能力」にせよ、小池氏のいう「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできないのです。そして、リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているように思われます。(173~174頁)

 職能パラダイムでは、仕事ではなく人間に焦点が当てられる。職務遂行能力とは、本来は、自社において現在から将来において重要な「職務」を「遂行」するために必要な「能力」というような意味合いであろう。しかし、ここから「職務」のトーンが薄くなり、「能力」のトーンが濃くなったのが日本企業における人事実務の実情ではないか。こうなると、ある人材が一度向上させた能力が低下するということは考えづらくなり、現在の「職務」では使えない「能力」をも評価するということになってしまう。

 著者による小池氏への反論には概ね同意するが、私なりに補足するとしたらこうだ。知的熟練論は、本来は、現在および近い将来のビジネスに求められる職務に基づいた職務拡大と職務充実とを射程にしたものであり、単に仕事を幅広く経験すれば良いというものではない。若手社員は、学習カーブが右肩上がりであるために意識せずとも知的熟練が起きやすいが、一定の経験が過ぎた後は、個人が意識してキャリアやジョブをデザインしないと知的熟練は起きない。意識的なキャリアデザインやジョブデザインを試みることなく学習カーブが逓減傾向に陥った中高年社員は、変化の激しいビジネス環境下ではロー・パフォーマーになってしまう。

 こうした中高年のロー・パフォーマーが、企業の収益悪化によってリストラのリスクに晒されることは自明であろう。

 整理解雇自体に対する厳しい姿勢は、物事の反面でしかありません。裁判所は日本型来ようシステムを所与の前提として、整理解雇を一般の解雇よりも厳しく判断すべきとする一方で、解雇回避の努力を尽くした上でやむなく整理解雇をせざるを得ない場合に対しては、企業による被解雇者人選の自由をかなり認めています。(63頁)

 欧米ならば、まさに「恣意の入らない客観的基準」として中高年に有利なセニョリティ原則が用いられるわけですが、日本ではまったく逆なのですね。ここに、中高年問題の本質がよく現れているといえます。(64頁)

 リストラとは、整理解雇に伴って生じる事象であろう。日本における整理解雇の法理においては、四要件が判例をベースに形成されているために厳しく規制されていると一般的には思われている。しかし著者は、四要件が認められた後の整理解雇の対象者を選定する企業の権限に着目し、欧米のような客観的基準が求められず企業側に広い裁量が認められている点が問題の本質であると述べる。司法や立法における判断が現在のビジネスに合わなくなっていることは承知の上で、企業の人事実務に携わる身としても深く銘記したいポイントである。


2014年9月15日月曜日

【第338回】『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社、2006年)

 橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司といった現代を代表する社会学者を何人も輩出した小室ゼミ。その主催者である著者が語る社会科学の本質は、端的で、鋭い。

 私が社会科学を研究しているのは、気の利いた「意見」を言うためではありません。学問とは本来、それぞれの人間が自分の意見を持つための「材料」、言い換えれば議論の前提となるものを提供するためにあるのです。それが学問の使命です。(15頁)

 社会科学の一つとされる法学。中でも最上位の法と位置づけられる憲法に関して、本書ではその生み出された背景とその影響について丹念に述べられている。まず、憲法とは何を対象とした法律であるのか。

 憲法とは国民に向けて書かれたものではない。誰のために書かれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。司法、行政、立法……これらの能力に対する命令が、憲法に書かれている。(53頁)

 大きな権力を持つ国家を制約するために憲法はあり、そうした権力の暴走を守るための役割を担っている。私自身も、学部の時に学んだ憲法学でそのように習ったものであり、憲法学においても主流の考え方なのであろう。著者は、こうした基礎的な考え方に基づきながら、予定説、契約という二つの重要な論点について述べ、それらを踏まえて日本における天皇教について最後に述べている。

 第一に、予定説について見てみよう。

 神様の選考条件は人間には絶対に分からない。しかし、救われることになっている人であれば、その人は間違いなく予定説を信じている。(中略)
 だから、予定説を信じてプロテスタントになることだけでも、あの絶対にして万能の神様のお導きがあったればこそ。そこに「神の予定」を感じるではありませんか。(130頁)

 予定説とは、ルターと並んで宗教改革の旗手と称されるカルヴァンが唱えた説である。最後の審判において、救われるかどうかは予め定められており、それは誰にも分からない。しかし、救われる必要条件として予定説を信じていることは求められることが導き出される。そうすることで神という存在を身近に感じられるというメリットもあるとしている。

 予定説を信じると、その伝統主義もまた色あせて見える。
 なぜなら、神の絶対を信じているプロテスタントからすれば、「昨日まで、そうやって来たから」という理由では納得できない。彼らにとって何より大事なのは、それが神の御心に沿っているかどうかだけです。だから、神様のためなら社会の仕組みなんてぶち壊して、作り替えてもかまわない。(中略)
 近代の歴史は革命の歴史と言ってもいいわけですが、その革命もまた予定説の産物だった。(152頁)

 偉大なる過去からの延長としての現在を描こうとする伝統主義・保守主義に対して、予定説はその時間軸におけるパラダイムを百八十度変換させる。こうした起こるべき未来という視点に立った予定説の考え方によって、そうではない現在の社会を正統に否定するための革命権が生み出される。近代における市民革命を正当化するロジックが予定説によって導出されたのである。

 予定説を信じる人々が登場したことによって、そうした特権は「人権」へと変貌した。一部の人だけが特権を持つのではなく、誰もが同じ特権を持っている。それを人権と呼ぶようになったわけです。(150頁)

 時間軸から生み出された革命権に加え、空間軸、つまりは最後の審判の時点で神の前において平等に立たされるという観点から特権が否定される。その上で、あまねく人々が平等に持つ人権という概念が生み出された。

 近代民主主義の平等や人権という概念が生まれるのには、人間の価値を徹底的に否定する予定説の教えが必要だったと、この講義の冒頭で述べました。
 近代資本主義の成立もまた同じです。利潤を追求する資本主義が誕生するには、まず金儲けそのものが徹底的に否定される必要があった。その資本否定の思想とは、他でもない、あの予定説なのです。(163頁)

 革命権、人権に加えて、資本主義もまた予定説の産物であると著者はしている。神の前における人間の価値の否定が翻って人間の存在性を重要視する人権を生み出したのと同様に、金儲けを徹底的に否定することで利潤を最大化する資本主義が生み出されたのである。この転回的な発想はやや難解であるため、ウェーバーを基にしながら著者は詳細を説明している。

 近代以前の人間なんて、どこも似たようなものです。ことに当時のヨーロッパでは、キリスト教特有の金銭倫理があるから、必要以上にカネを稼ぐのは悪徳だと思われていた。だから、最低限の労働でいいのです。
 ところが、予定説を信じている人たちは違います。この人たちは、安息日以外の週6日、働きづめに働く。
 というのも、予定説においては、すべての人間の人生はあらかじめ神が定めたもうたこと。ならば、自分の職業もまた神が選んでくださったものに違いないという考えが生まれたのです。(172頁)

 これが天職という考え方に繋がるわけであり、プロテスタントがなぜ勤労に励むのか、そうした結果として逆説的にお金が貯まり資本主義の源泉となったのである。

 第二に、契約について考えてみよう。

 ロックは自然人と自然状態という2つを仮定することによって、「人間というのは、放っておいても、じきに契約を交わして社会を作るようになるのだ」ということを理論的に“証明”したというわけです。(192頁)

 自然を所与の条件として、自然状態においても契約を人々は交わし合うということをロックは導き出した。

 ロックの考えはまさしく現在の憲法や民主主義の思想につながるものです。国家権力はかならず肥大化して暴走する。それをくい止めるのが憲法であり、民主主義なのです。(194頁)

 自然状態ではない国家権力は、自己の持つパワーによって肥大化する傾向を持つ。そうした肥大化を牽制し抑制するのが憲法であり、契約に基づいて人々が平等に結びつく民主主義であると著者はする。

 「神との契約は絶対に守るべきものである」という概念が、聖書を通じて教えられていたからこそ、欧米の人たちは人間同士が結ぶ契約についても、やはり同じように守らなければならないと考えたというわけです。
 また、聖書においてモーゼに与えられた律法などを見て、「契約とは言葉で定義するものだ」という考えを持つようになった。(254頁)

 こうした契約の特徴として、言葉で定義されるべきものであると、モーゼを引き合いに出しながら述べられている。こうした感覚は、キリスト教圏では自然な感情として持てるのであろうが、非キリスト者には実感として分かりづらい。分厚い契約書がアメリカの映画で映し出されると私たちの多くは違和を感じるものだ。しかし、あれは契約とは文字に書かれたものである、という文化においては理解できるものなのだろう。

 結局のところ、民主主義とはひじょうに効率の悪い政治システムです。
 何でも投票と議論で決めなければならないから、なかなか物事がスムーズに動かない。それに比べれば、ボナパルティズムやファシズムでは独裁者1人が何でも決めるのですから、決断が早いし、失敗したときの修正も早く行なえるというものです。
 ですから、政治がうまく動かなくなれば、大衆は英雄を求めます。(295頁)

 契約の概念から生み出される民主主義はなにも薔薇色のものではない。時間とコストが掛かる民主主義のしくみに対して、それが機能不全に陥ると独裁制を私たちは求めてしまうことは歴史が示している通りだ。

 「戦争はイヤだ」「戦争はよくない」という平和主義こそが、独裁者を増長させ、大戦争を引き起こしたのです。逆に「戦争もやむなし」という覚悟があれば、かえって戦争は避けられた。これこそがチャーチルの言いたかったことなのです。(332頁)

 前者の例として、ナチスの膨張主義を厭戦意識の強かったヨーロッパ諸国が認めたために第二次大戦は起きた。後者の例として、著者はキューバ危機を用い、戦争を辞さないケネディの強硬姿勢によって核戦争が避けられたとしている。後者については異論もあろうが、平和主義には独裁者を結果的に許容してしまうというリスクを内包していることに、私たちは留意する必要があるだろう。

 第三に、日本に目を転じてみよう。

 文明開化とは要するに日本経済を資本主義にすることです。資本主義こそが主権国家へのパスポートなのです。
 日本を資本主義国にするというのは、明治政府のもう1つの方針である国防の強化にもつながります。資本主義の工業力がないかぎり、日本は国防力を持つことはできません。そこで官民挙げて、明治の日本は資本主義への道をひた走ることになったというわけです。(380~381頁)

 明治期における日本の資本主義化は、主権国家として欧米列強から独立を勝ち取ることと、そうした独立国家である列強から自国を守るために必要とされていた。そのために、資本主義化が金科玉条とされたのである。では、明治期の日本は何をもって資本主義の旗印にしたのであろうか。

 国家元首たる天皇を、日本人にとって唯一絶対の神にすること。天皇をキリスト教の神と同じようにするというアイデアです。
 すなわち「神の前の平等」ならぬ、「天皇の前の平等」です。現人神である天皇から見れば、すべての日本人は平等である。この観念を普及させることによって、日本人に近代精神を植え付けようと考えた。(386頁)

 キリスト教における神を前にした平等という概念を、天皇を前にした平等に擬したのである。これが著者が天皇教と呼ぶ所以である。

 では、天皇教の教義とは何か。
 その主な柱は2つです。1つは先ほども述べた「天皇は現人神にして、絶対である」という教義です。この教義から「天皇の前の平等」という考えが生まれてくる。
 もう1つの重要な柱は「日本は神国である」という思想です。(中略)
 天皇教で言う「神の国」とは、ユダヤ教における「約束の地」と同じ意味を持つ、重大な概念です。(390頁)

 前者は、先述した天皇の前の平等である。後者では、神との契約における約束の地に擬して神の国を創出されたのである。では、こうした現人神を中心に据えた神国日本という民主主義の装置が、憲法の崩壊とあの戦争を招いたのか。著者は明確に否定し、異なる理由を提示する。

 昭和15年、帝国議会はみずから言論の自由を封殺した。そして、軍部を批判した斎藤隆夫を除名処分にしてしまった。議会は任務を放棄してしまったのです。
 日本の運命を決定したのは、憲法でもなければ、制度でもありません。ドイツと同じように議会が自殺してしまったことこそ、日本にとって致命的なことであったのです。(424頁)

 神の国や現人神といった民主主義を擬製しようとしたシステムがあの戦争を招いたのではなかった。そうしたシステムを基にして、権力の暴走を牽制する力を有していた議会が、自らの権力を自らの手で放棄したことが、民主主義を、憲法を亡きものにしてしまったのである。そうした議会を自死に追い込んだ主体がさらにあると著者は主張する。

 では、よい政治家を作るにはどうしたらいいのか。どうやったら、真のリーダーシップが生まれてくるか。
 その答えは言うまでもありません。「よい政治家を作るのはよい国民だ」ということです。(472頁)

 当時の国会議員をして斎藤隆夫を除名処分にしたのは、世論であると著者は喝破する。戦争を肯定し、軍部の膨張主義を後押ししていたのは世論であり、世論を気にする国会議員は斎藤を除名するのを世論の反映と判断したのである。過去の事例をもとに私たちの特徴を理解することで、同じような状況に陥った時に同じ轍を踏まないように心に留めたい指摘である。


2014年7月21日月曜日

【第310回】『憲法の創造力』(木村草太、NHK出版、2013年)

 改憲論が喧しい現政権の動きをメディアで目にすることが多くなった。そうした状況において、日本国憲法にもう一度触れようと思い最近の本を検索したところ、著者の一連の著作を見つけた。決して多いとは言えない著者のfirst nameを見た時に「もしや」と思ったが、やはり高校の同級生であった。同じクラスで学んだことはないために数回しか話をしたことがない間柄ではあるが、同級生の活躍というのは刺激を受けるものである。

 まず、憲法というものの存在について著者は説明を試みる。

 団体とは、要するに、共通の「ルール」に従う「人の集まり」である。「ルール」と「人」の二題要素のうち、「ルール」は頭の中にしかないが、「人」は目に見えるし、触ることもできる。団体の「正体」を、「ルール」だと見るのが擬制説、人間という「実在」だと考えるのが実在説だが、団体の「正体」などという怪しげなものを観念する必要はなくて、擬制説と実在説は同じものを右から見るか左から見るかの違いにすぎない、と評価するのが筆者の立場である。
 さて、国家も団体の一種であり、それを成立させるルールと、そのルールに従う人々から成り立っている。このうち、国家の領域範囲や王位継承の方法、裁判手続の内容、軍隊の指揮権の所在など、国家を成立させる「ルール」の方を「憲法(constitution, Verfassung)」(専門用語では「実質的意味の憲法」)と呼ぶ。また、「憲法』の主要部分を明文化した文書は、「憲法典」(専門用語では「形式的意味の憲法」)と呼ぶ。他方、ルールに従う人々のことを「国民」と呼ぶ。(20~21頁)

 端的に、憲法とは何か、その射程はどこにあるのか、について書かれた部分である。団体・ルール・人という三つの概念から、法学的な見地からの、国家・憲法・国民という概念を明らかにした、簡潔にして明瞭な説明である。

 以下からは、憲法を巡るいくつかの主要な論点についてみていきたい。第一に、国歌起立・斉唱命令について。

 本章の結論は、学校式典での国歌起立・斉唱命令は、先生方の思想・良心の自由の問題ではなく、労働環境としての安全配慮義務やハラスメント、差別の問題として考えるべきだ、というものであった。今後は、そうした命令を出す場合、先生方の思想・信条に十分配慮して、代替業務をお願いすべきだろうし、嫌がる先生に不必要に出された命令はパワハラとして違法無効と評価すべきである。また、そもそも文部科学省は、君が代のためを思うなら、学習指導要領を先に述べたようなより合理的な形に改訂すべきである。(51頁)

 国歌斉唱については、国旗国歌法が制定されて以降においても議論が沈静化することはないようだ。国歌を斉唱すること、その際に起立することを学校において強制されることに対して反発する教師は多い。そうした教師が拠って立つべき法的論拠は、憲法における思想良心の自由ではなく、民法における安全配慮義務やハラスメントにおいて行なうべきであると著者はする。起こっている事象をどのように法的な問題として定義するか、という考え方は、法律の門外漢にとっても非常に興味深い論理付けである。

 第二に政教分離について。

 日本的多神教の下では個々の神々の権威は唯一ではない。このため、国歌は、一定の時期(祭りの時期など)だけ、あるいは一定の事項(建設工事についての安心など)だけについて、「数ある神の一柱」を利用することができる。つまり、場当たり的で安易な宗教利用が生じやすいのである。戦中の日本政府が利用した「国家神道」も、戦争で死んだ兵士の追悼などを管轄するのみであり、人間の生活全般を包括的に支配するようなものではなかった。(134頁)

 一神教と比べた場合に、多神教が有する柔軟性は、政府による宗教利用が容易であるという点が挙げられると著者はする。多神教による宗教の政治利用の可能性について、私たちは自覚的になるべきであろう。そうした自覚に基づいた上で、政教分離の危険性について、私たちは検討を加えるべきである。

 第三は、9条問題についてである。政府解釈を援用すれば、9条は自衛以外の武力の行使を規制したものである。したがって、軍隊を持つこと自体が否定されているわけではない。その上で、著者は9条の意義を以下のように述べる。

 9条の意義は、核兵器と空母はダメ、軍という名前もダメという量的・形式的な規制をするところではなく、実力組織の構築や武力の行使について、常に、「それが自衛のために必要最小限度と言えるか」の説明を求めるところにある。(219頁)

 保有する武力が自衛のために利用される必要最小限度のものであるか否か、がその武力を保有する正当化するための要件となる。したがって、そうした抑制機能を有する9条を改正するということを基にして以下のような帰結を導くことは論理的であろう。

 憲法9条の実質的な改正とは、「必要最小限度性」についての説明責任を廃止することを意味する。それを狙う改憲論は、平和の脅威であり、政府・防衛関係者を含めた日本国民のこれまでの努力を放棄するもので、とうてい是認できない。(219頁)

 時に9条の改正が「改悪」であると言われるのはこうした理由によるものである。近隣諸国の持つ武力に対する自衛ということであれば、現在の憲法解釈でも行なえる。そうした自衛か否かの文脈を9条から外すということであれば、著者が鮮明に打ち出す9条改正は妥当であろう。こうした点を踏まえて、著者が結論として述べる以下の箇所は、日本国民一人ひとりが噛み締めるべきものであろう。

 日本が非武装を選択できる世界の創造は、終わりがないと思えるほど途方もない仕事かもしれない。しかし、世代を超えて受け継がなければならない仕事である。 
 憲法9条は、第二次大戦を直接経験した人々によって、大変な緊張感を伴い解釈され、論じられてきた。そうした解釈論や議論を、次の世代に受け継いでゆくことは、我々の世代の義務だろう。公正で合理的なルールの創造を促す力、個人が尊重される平和な世界を創造する力は、失われてはならない財産である。我々は、憲法の創造力を受け継ぎ、育んでいかねばならない。(224頁)


2014年5月10日土曜日

【第283回】『労働法[第3版]【再読】』(水町勇一郎、有斐閣、2010年)

 労働法では、民法を基礎とする契約の概念が土台となっている。しかし、民法の趣旨である契約の自由を制約する部分があることが、労働法の特徴でもある。具体的には、以下の三つのものが、そうしたケアが求められる状況であると著者は述べている。

 第一は、労働契約が「働く人間そのものを取引の対称とするという側面をもつ」(13頁)ことによるものである。取引の対象が人間であるために、取引を自由にすることは、働く人間の自由を阻害する可能性があるために、取引に制約をかける必要があるのである。

 第二は、「労働力以外に財産をもっていないことが多いという「労働者の無資力性」や、今日の労働力は今日売らないと意味がないため買いたたかれやすいという「労働力の非貯蔵性」ゆえに、労働者は経済的に弱い立場に立たされることが多い」(13頁)という点である。有限な労働資源提供を自由に売買してしまうと、その提供主体である労働者が不利になるため、そこをケアする考え方が必要とされるのである。

 第三は、労働者が使用者に因る指示・命令を受けるという労働の基本的な構造により「労働者個人の自由(自らの判断で行動する自由)が事実上奪われている」(13頁)という状況に基づくものである。

 こうした近代自由主義社会における状況を修正する技法として、労働法の大きな特徴となっているのが集団法としての労働法という考え方である。以下の二点において集団という次元を創造したという。

 第一は、「労働時間規制、社会保険制度など、労働者に一律に与えられた「集団的保護」」(13~14頁)である。憲法25条で保障されている健康で文化的な最低限度の生活を集団的保護によって保障しようとするロジックであると言えるだろう。

 第二は、「労働者が団結して使用者と団体交渉をし、その際にストライキ等の団体行動をとることを認める「集団的自由」」(14頁)である。第一の点が一人ひとりへの保障であったのに対して、それをより強固に守り、労働者の自由を保障するために、集団的自由を創出しようと労働法はしているのである。

 これらが労働法が生まれた背景であり、労働法が射程に置いてきた意義であると言えるだろう。では、今後、労働法はどのように変容を遂げていくのであろうか。著者は三点について述べている。
 
 第一は、「労働法の「柔軟化・自由化」の流れ」(444頁)である。自由な働き方や柔軟な雇用環境を保障することが企業での実務において求められる度合いが高まってきている。そうした際に、労働法の硬さが私たちの自由な労働を疎外する側面が出てしまっているのが実情であろう。それを修正しようとするのが、この柔軟化・自由化の動きであると言えるだろう。

 第二は、「労働法の「個別化」の流れ」(444頁)である。画一的な労働スタイルを守るということは、以前には機能した考え方であり、多くの恩恵をもたらしているということは間違いないだろう。しかし、働き方や家庭での構造が多様になっているために、いかにして各労働者の個別的なニーズに対応するか、が求められているのである。

 第三は、「グローバル化の弊害是正の流れ」(445頁)である。企業がグローバルにおける競争や協働が求められる状況に直面しているということは、個人もまた、グローバルにおける人材競争が激化している。そうした状況への対応を考えることもまた、現代的な労働法のあり方と言えるだろう。

2014年1月18日土曜日

【第242回】『若者と労働』(濱口桂一郎、中央公論新社、2013年)

 著者の書籍は好んで何冊か読んでいるが、どれも日本における労働環境を法的観点から分かり易く書かれている。行政府出身の方らしい観点で、日本企業における労働問題をマクロで捉え、他国との比較に基づきながらの考察は論理的かつ緻密であり簡潔にして読み応えがある。

 日本では、会社というのは「社員」という「人」の集まりだが、その「社員」というのは英語でいうエンプロイーのことを指す、と。つまり、初めに「人」ありき、というときのその「人」は、会社のメンバーである「人」という意味なのですね。初めに「メンバー」としての「人」ありき、という意味で、これを私は「メンバーシップ型」と呼ぶことにしました。欧米においては会社のメンバーなどではあり得ないエンプロイーが日本では会社のメンバーになっているということ、そしてそのメンバーに仕事を当てはめるというのが日本の仕組みであるということを一言で表現する言葉として、なかなかよくできているのではないかと思っています。(37頁)

 欧米の企業では、ジョブに求められる職務要件を明らかにし、その職務要件を満たす人材を市場から調達するというジョブ型の人事が行われる。それに対して、日本ではジョブではなく人ありきでのメンバーシップ型が取られていると著者はしている。すなわち、ジョブ型では人材は入れ替え可能であり、その所属する場所は会社というよりも市場という印象が強いのに対して、メンバーシップ型では人材は会社に属し、会社の一員という意味合いでの「メンバー」なのである。人事管理論でいうところの、職務型の欧米企業に対する、職能型の日本企業という対比構造として捉えれば分かり易いだろう。ここで著者が射程に置いているのは日本で事業を行う内資系企業に限定され、日本で事業を行う外資系企業はここでいうところの「日本企業」ではないという点は自明であろう。以下では、著者が述べる日本企業とは前者を指すものとご認識いただきたい。

 重要なのはどの契約類型であっても、一方が労務を供給し、他方がそれに対する報酬を支払うという点で、何の変わりもありません。(中略)雇用契約は法律上においてはメンバーシップ契約ではないのです。 日本の現実はメンバーシップ型で動いているけれども、日本の法律は欧米と同様のジョブ型社会を前提に作られている。(50~51頁)

 企業実務と法政策におけるズレが端的に述べられている。労働法とは本来、その上位法である民法が想定する欧米的な契約社会と日本社会とのズレを踏まえた上で、社会的な要請に応じて現実に適用させる下位法であるはずだ。しかし、法の根幹を為す思想の部分から本質的なズレがあるという指摘は興味深い。では、どのようにそのズレは修正されているのであろうか。

 日本の裁判所は、さまざまな事件に対する判決を積み上げる中で、解雇権濫用法理や広範な人事権法理など、判例法理といわれるルールを確立してきました。それは、ジョブ型雇用契約の原則に基づく法体系の中で、現実社会を支配しているメンバーシップ型雇用契約の原則を生かすために、信義則や権利濫用法理といった法の一般原則を駆使することによって作られてきた「司法による事実上の立法」であったといえます。(69頁)

 立法の不作為を司法が修正するための判例法理の蓄積による是正。良くも悪くも、日本社会における典型的なパターンの一つであろう。労働環境における判例主義の功罪については以前のエントリーを参照いただきたい(『人事と法の対話』(守島基博・大内伸哉、有斐閣、2013年))。著者が挙げている、ジョブ型の法制度をメンバーシップ型の運用へと是正しようとしている典型的な判例を二つほど以下に挙げてみよう。

 特定のジョブにかかる労務提供と報酬支払の債権契約ではあり得ないような、メンバーシップ型労働社会における「採用」の位置づけです。それは、新規採用から定年退職までの数十年間同じ会社のメンバーとして過ごす「仲間」を選抜することであり、その観点から労働者の職業能力とは直接関係のない属性によって差別することは当然視されるわけです。(73頁)

 まずは、採用の判例としても極めて有名な一九七三年の三菱樹脂事件の最高裁判決の意義を簡潔に著者が述べたものである。要するに、解雇や退職といった出口の厳格な制限を促すメンバーシップ型の運用においては、その代償として採用という入口における企業への制限を緩くしようということである。出口の厳しさと入口の緩さというバランスは、メンバーシップ型の趣旨から鑑みると合理的な運用であると言えるのではないだろうか。

 整理解雇四要件の一つとされる解雇回避努力義務の中には、時間外・休日労働の削減というのが含まれています。ということは、いざというときに残業を減らして対応できるように、平常状態ではいつでも残業をやっているようにしておいた方がいいということです。もし、労働基準法の原則どおりにいつもは残業ゼロで回していたりしたら、いざというときに対応のしようがありません。(92頁)

 第二は、残業の運用である。人事の実務家であれば決して口に出せないことをずばりと著者が指摘している部分である。メンバーの雇用を優先して守るために整理解雇を行うことも制限するというメンバーシップ型の大命題を守るためには残業時間を調整要件にすることを判例では謳われているのである。従業員の心身面の健康という点では問題もあろうが、こうした柔軟な運用が現場の人的リソースの柔軟性を支えている。

 労働社会全体としては日本型雇用システムが変容していき、「社員」の範囲が縮小するようになっていって初めて、それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が、それによって「社員」の世界に入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってきた、というのが九〇年代以降の実相なのではないかと思われます。(131~132頁)

 戦後において大企業を中心に形づくられてきたメンバーシップ型の人事のしくみは、経営が厳しくなるとメンバーになる要件を厳しくせざるを得なくなってきている。その結果が、雇用のミスマッチとも言われる新卒入社者へ求める要求水準の高まりである。欧米型のようなジョブ型ではなく、メンバーシップ型において要求水準が高まるということは、言葉にしづらい人間力という包括的な概念とならざるを得ない。そうした概念をもとに採用を選別されるとなると、表面的なコミュニケーション能力を判断材料にせざるを得なくなっているというのが現在の実情ではなかろうか。人間力をコミュニケーションで測るために、ある企業の選考に落ちることが自分の「人間力」の否定、すなわち人間性の否定と結びつけて誤解されてしまうのである。

 こうしたメンバーシップ型の人事制度の限界に行き着く中で、著者はジョブ型正社員という概念を持ち出す。端的に言えば、労働条件の柔軟性を担保した正社員でありながら中長期的にジョブにマッチさせるというジョブ型を統合させるものであると言えるだろう。こうしたジョブ型正社員を生み出すしくみとして、ドイツで行われているデュアル・システムが参考になるとしている。

 今後社会の中にジョブ型正社員が次第に増えて行き、教育と職業の関係をより密接なものにしていこうとするならば、その将来像の一つとしてドイツ型に近い真の日本版デュアル・システムを構想していくことが求められるように思います。 ドイツのデュアル・システム(中略)は(中略)、高校や大学の教育と企業現場の実習を半端でなく、同じくらいの分量で組み合わせるものです。高校の三年間、毎週の週日のうち三日間は学校に通って基礎科目や職業科目について勉強をし、残りの二日間は企業現場に通ってそこの管理者や先輩労働者に教わりながら実際に作業をやって、職業技能を身につけていくというパートタイム型もあれば、数か月間は学校に通って勉強をし、次の数か月間はずっと企業現場で作業をするというブロック型のやり方もありますが、いずれにしても、座学と学習の両方ともずっしりと思い大変本格的な「組み合わせ方」なのです。 今までの日本ではスキルのない若者を「人間力」で採用して、企業現場のOJTで鍛え上げていくというやり方をするところを、いわば学校教育段階に大幅に前倒しして、パートタイムの生徒や学生であると同時に企業のパートタイム労働者でもあるという形で職業教育訓練を遂行する仕組みと考えれば、本質的に共通する部分もあることがわかります。(269~270頁)

 職業教育を担う主体は、学校と企業の双方にあると述べられている。入社段階で求められる人材スペックが上がるのであれば、入社前に職業観を涵養しておくことは必要であるし、そのために職業経験を持つことは必要であろう。ここで課題となるのは、入社前における職業経験を、自身の職業観へと抽象化することを、現在の企業や学校では担えないということである。企業のラインではそこまでのリソースを提供することはできないであろうし、学校の先生のほとんどは企業での勤務経験がないはずだ。たとえば、企業のHRにおける教育部門や、HRのコンサルタントがこうした橋渡しをできるように雇用契約等のインフラを整備することも考えるべきかもしれない。


2013年12月1日日曜日

【第226回】『人事と法の対話』(守島基博・大内伸哉、有斐閣、2013年)

 人事管理論(HRM)の学者と労働法の学者とが、それぞれの立場から企業における人事に関するテーマについて語るという興味深い対談書である。事業会社で働く人事担当者としては、自分たちが取り組むテーマについて俯瞰しながら、問題を問題として捉まえられるようになる刺激的な一冊である。

 以下では、とりわけ興味深く感じた三点について考察を加えていく。

 第一に、賃金について。

 大内 法律の世界では、労働基準法では「賃金は労働の対償だ」という捉え方で、労働に対する報いとされています。その対償性をどういう基準で判断するかについては不明確なところが残っていますが、いずれにせよ労働に対する対償という捉え方が法律家の賃金論です。一方、人事管理論では、もっといろいろな機能というか、インセンティブの機能も与えている。(69頁)

 人事管理論と労働法という二つの側面から見た賃金観の違いがこれほどまでにくっきりと表れているのが面白い。労働法の考え方は、働く個人に寄り添ったものであるということが分かる。なぜなら、労働の対償としての賃金という考え方には、働く個人が投資した時間や労力に対する償いという概念が内包されているからである。それに対して、人事管理論では企業が主体である。つまり、企業が求める行動を社員に取らせるために、その誘因として、またそうした優秀な人材をリテインするための一環として、賃金を位置づけているのである。ここには、主体の違いに伴う、賃金の捉え方の違いが表れている。人事としては、経営の視点と働く個人の視点とから、両者の均衡をどこに置くかが課題となることは自明であろう。

 第二に、判例法理について。

 大内 いまのお話を敷衍すると、労働法のルールは、法律と判例で構成されていますが、その中の判例は実際に訴訟が起きているところでの紛争を解決するための規範なのです。そうすると大企業とか、組合のあるところが多いわけです。(中略) 判例法理というのは、おそらく大企業限定型というか、大企業によりピッタリするものなのかもしれません。しかし、これが判例という形で法的ルールになると、結局一般化してすべての企業や従業員に適用されてしまうので、どうしてもずれが出てくるのです。(212頁)

 日本における法制度の基本的な考え方は英米法であり、したがって判例主義を取る。こうした法学の教科書的な解釈から鑑みれば、労働法の分野における判例法理のあやうさが、上記の指摘に端的に表れている。指摘されてみれば当たり前のように思えてしまうが、裁判例にまで至るようなケースというのは、企業側が資金的にも期間的にも裁判に耐えられる大企業であることが多い。したがって、判例は大企業のものをもとにして積み上げられることになる。しかし、大企業でのケースを中心とした判例が蓄積されて法理になると、それは大企業だけではなく、日本で事業を展開するあらゆる企業において適用されることになる。ここに、多くの企業における現実と判例との乖離現象が生じる。判例主義を取る以上は宿命的なこの齟齬に対して、どのように対応するのか。人事としては、現実を捉えながらプロアクティヴにきめこまかな対応を心がける、ということしかできないのではないだろうか。

 第三に、定年制について。

 守島 ほんとうは五〇歳だと遅いと思います。というのは、一つのスキル、能力を蓄積して他のところへ移るにしても、独立してものになるレベルまでいくには、やはり、一〇年ぐらいはかかるのだと思うのです。そうすると、五〇歳で始めて一〇年経つと六〇歳ですから、かなり高年齢になってしまいます。例えば四〇歳とか、三五歳ぐらいで一旦のポイントを置いて、そこでもう一回ということはあり得るとは思いますが、五〇歳は少し遅いような気がします。 大内 そうすると、やはり四〇歳定年みたいな話になってくるのですね。第二のキャリアを考えるということだと、四〇歳が限界ということですね。(227~228頁)

 昨年の国家戦略会議での議論で東大の柳川准教授の四〇歳定年制を彷彿とさせる考え方である。多様な生き方や働き方を前提とした場合、ユング派の言葉を使えば「人生の正午」と呼ばれるこうした時期に従業員に自分自身の選択を求めることもあり得るだろう。終身雇用を所与のものとしてきた旧来の日本の大企業に勤務する方には受け容れがたい部分もあろうが、個人的には合理的であると考える。ただし、こうした考え方を受け容れられない多数派に対して、企業として事前にメッセージを与えることは必要不可欠であろう。定年制とキャリアとは車の両輪であり、定年制を変えるのであれば、キャリアの取り組みをも充実させることは人事の対応として外せないのではなかろうか。


2012年4月22日日曜日

【第80回】『法律学習マニュアル[第3版]』(弥永真生、有斐閣、2009年)


 大学院で学ぶことの難しさの一つは、学び方をいかに学ぶか、という点にあるのではなかろうか。大学院にわざわざ進学するということは、研究する内容に対する興味・関心は当然あるだろう。しかし、内容への興味・関心だけで卒業できるのは学部の話であり、修士を取るためには研究内容を論文として正当化させる必要がある。学術的に正当な論文を執筆するためには、研究のプロセスである学び方や研究のしかたを押さえることが求められるが、これが難しい。少なくとも、初めて修士論文を書いた三年前の私にはそう思えた。

 この四月より、二十歳の頃から慣れ親しんできた組織行動論および人事論から労働法へと研究テーマを変えて二つ目の修士号を取得しようとしている。研究に対する基本的な態度やスキルには共通する部分が多いもので、特に先行研究への投入量がものを言う点は変わらない。入学前の約半年間、理論書と判例を何度となく読みこなせたのは、前回の轍を踏んだからであると得心している。しかし、具体的な研究内容はやはり学問領域が異なれば全く異なるものである。それは具体的には、最終的に書くことが求められる学術論文の要素が異なるからであり、そこからリバース・エンジニアリングすれば、研究手法の違いも自ずと明らかになるはずである。

 では、法学にはどういった研究プロセスが求められるのか。その答えの一つが、本書に書かれている。

 まず、経営学と共通する点としては、論文を「芋づる式」に積み上げていく点である。具体的には参考文献や注で指摘されている文献を読み進め、テーマを掘り下げて理解するということである。

 その際には、研究するテーマについて、主要なテキストや体系書がどのように論じ、どこに争点があるのかを整理する必要がある。とりわけ法学においては、一つのテーマに対して複数の学説があることが通常であり、さらには判例と必ずしも一致しないため、どこが共通していてどこが異なるのかを整理する必要があるだろう。

 次に、経営学との最も大きな違いは、論文や学術書に加えて判例を加える必要があるということであろう。判例の原文はお世辞にも読み易いものではなく、本書でも外国語を学ぶような感覚で学べ、と書かれている通り大変な作業である。

 では、判例をどのように分析するか。

 第一に著者は、テーマに関する最高裁や大審院の裁判例を押さえ、必要に応じて下級審裁判例も収集せよ、という。第二に、個々の裁判例の前提になっている事実を踏まえ、要件と効果を明らかにし、その当てはめをどのように行なっているかを整理する必要がある。要は法的三段論法で判例を整理するということであろう。その上で第三に、年表のようなものを作成することで、それぞれの判例の関係性や、時代による変遷の経緯を明らかにするのである。

 と、あたかも分かったような気でここまで書いてきたが、「学ぶ方を学ぶ」ための書籍とは、自身の研究が進むたびに気づきの質と量が増えていくものである。研究の進捗とともに、折に触れて読んでいきたい一冊である。

2012年3月4日日曜日

【第73回】『法と社会』(碧海純一、中央公論新社、1967年)


 法とは文化の一部である、と著者は冒頭で述べている。文化を構成する中心的な要素は、私たちの生き方であり、それは心理学的な表現で言えば一定の刺激に対する反応のありようにある。人間の行動様式のうち、ある集団の成員の多くに共通するものが文化となる。

 こうした文化は社会の構成員たる人間の総和として成り立つものであると同時に、文化が人間を秩序づけるという側面をも持つ。こうした文化の側に立ち、人間を秩序付けする作用を社会統合と呼び、いわば、内面化された社会規範が人間の良心を為すこととなる。

 法の精神から捉えて重要な点は、こうした良心の内容は社会的学習によって後天的に獲得できる、ということである。つまり、なにをもって善とするかという良心のあるべき姿というものは、地理的、時代的な制約を受けて変更するものであるが、良心を更新し続ける能力は先天的な人間の作用である、ということである。

 その結果として、ほとんどの人間は法の規定する良心を学ぶことができるわけであるから行動の自由とともに義務としての制約を受けることとなる。その一方で、こうした法の精神を理解できない方々に対しては、行動の自由が制約される代わりに、一部のペナルティが軽減されることとなるのであろう。

 このような社会統合機能を持つ法の役割を考えれば、法に書かれたもののみをもとに司法が為されることは期待される。裁判官は法のみに基づいて判断を下す、という考え方である。しかし、法が想定していることは、それが規定された当時の時代性や物理的環境に依存するのもまた事実である。こうした法以外の社会的側面を踏まえて裁判官は判断をすべしという主張を唱えたのが自由法論と呼ばれるものである。

 とはいえ、自由法論者といえども、法律からの全面的な解放を主張したわけではなく、ある要件に該当する事実が存在すれば、その要件に該当する効果を当てはめることになる。しかし、法律になんらかの欠缺がある場合においては、法律以外のものを法源として裁判を行うべし、ということであることには気をつけたい。

 著者がまえがきで記しているように、本書は法の入門書である。本書を足がかりにして他の書物を通じて法を学びたいと思う一方で、本書の深みを味読するするためには何度か本書に立ち戻りたいと思う。

2012年2月25日土曜日

【第72回】『民法改正』(内田貴、筑摩書房、2011年)


 著者は学部で基礎レベルの民法しか学んでいない私でもその名を知っている民法学の大家である。その著者が現在、長年勤めた東京大学での教授職を辞して法務省で契約法改正のプロジェクトに携わっている。なぜそこまでして現行の民法を変える必要があるのだろうか。

 明治期に日本の民法が制定された際にいわゆる民法典論争が起きたことは日本史でも学ぶ内容である。代表的な論考は穂積八束の「民法出デテ忠孝滅ブ」であろう。ボアソナードを中心に作成された民法は、帝国議会が始まる前に作成を終えたいという政府側の意図を汲んだ結果、極めて短い期間で作成せざるを得なかったと言う。そのため、解釈なしには適用できないほどシンプルな内容になった。

 さらに著者によれば、条文じたいはフランスの民法を基礎に置いている一方で、解釈論はドイツの民法を前提としているため、条文と解釈論との乖離が生じてしまっている。したがって、民法学において学ぶ民法の解釈論とは、民法の条文の解釈ではなく、民法には全く触れられていない民法の解釈論を学ぶこととなる。その結果、民法学は法文とかけ離れ、よくわからない解釈を必要とする、人にやさしくない法律と言われてもしかたがなかろう。

 これを一般の人々に分かり易くするために民法を改正するということはたしかに必要であろう。しかし、民法改正の理由にはもう一つ大きな要因があると著者はいう。それはグローバルな規模での市場競争における契約のルール策定である。つまり、契約法のグローバルスタンダーと作成に向けて、日本のプレゼンスを高めるために、日本の民法を世界標準に足るものへと変える必要があるというのである。

 民法の第一人者であり、民法改正の現場に携わる著者の本作は、日本で生きる人間として目を通しておきたい書物であろう。


2012年2月19日日曜日

【第71回】『条文から学ぶ労働法』(土田道夫ら、有斐閣、2011年)


 「条文から学ぶ」と銘打っている通り、労働法に関連する各法規の条文について、要件と効果とに切り分けて解説が為されている。法的三段論法の第一段階である規範定立を丹念に行っていることが本書の特長であろう。

 その上で、判例や学説を用いて、法的三段論法の第二段階であるあてはめに関する著述がされている。つまり、要件に事実関係を嵌め込んでいくことで事実を要件に包摂するわけである。この結果として第三段階である結論が出るわけであるが、本書を読んで改めて考えさせられたことは、いかに要件を構成する事実関係を導き出すかが大事であるという点である。労働者と使用者のどちらの立場に立つ場合であっても、両者の関係性に内在する要件と、それを構成する事実関係をいかに用意するかが結果を規定する。

 ここにおける使用者と労働者との主要な関係性は労働契約において成り立つと言えるだろう。労働契約は、労働者による労働の提供と使用者による賃金支払いの交換関係を基礎として構成される。つまり両者による有償の双務契約であり、これを著者は労働の他人決定性と名付けて説明をしている。労働の他人決定性という概念の素晴らしさは、民法632条の請負や同643条の委任と労働関係との違いをこの表現が的確に表しているからである。

 こうした雇用関係の基本を為す法律の一つとして労働契約法がある。労働契約法における最近の主要な争点として整理解雇の権利濫用法理があり、この論点においては四要件を用いて判例が整理されつつある。本書によれば、主張立証責任がそれぞれの要件によって異なると言われている。すなわち、人員削減の必要性、解雇回避努力、人選の合理性の三つの要素については使用者が、解雇手続きの不当性については労働者が、それぞれ主張立証責任を負う。

 法律を現実の諸問題に即して学ぶということは、要件、効果、事実を整理し、主張する必要のある主体を意識する、ということにあるのではないか。もしそうであるとしたら、本書は、そうした法的思考の訓練を行う上で優れたテクストであり、読み返しながらじっくりと理解したい。


2012年2月5日日曜日

【第68回】『解雇の研究』(高橋賢司、法律文化社、2011年)


 本書は、日本における解雇に関する裁判例や学説の変遷について先行研究を丹念に行った上で、解雇法理を積極的に擁護することを主張する研究書である。

 まず著者は、アメリカ企業における hire and fire の原則に批判を加えている。この原則はアメリカ以外の国における労働法だけではなく、私法の体系から鑑みて相容れない考え方であるとする。私法秩序の原則に照らせば、契約関係の存続を維持することが通常であり、そうした私法の論理からすると、たしかに解雇の自由が原則となり得ることはないだろう。

 使用者に解雇権を与えない考え方は、日本において解雇規制を正当化してきた流れと整合的であると言えるだろう。従来、解雇規制に関する学説は、解雇に正当事由を要求する正当事由説、使用者の解雇権を承認しつつ権利の濫用を禁止するという民事法の一般ルールによって修正を加える権利濫用説、解雇を原則的に自由とする解雇自由説の三つがあった。判例が積み重なり、またその判例が2003年の労基法改正で明文化され、2007年の労契法で規定されたことで、権利濫用説が採られたと解釈される。

 権利濫用説は労働者個人を解雇する場合に適用されるものであるが、企業の業績不振に伴う解雇については解雇権濫用法理に加えて整理解雇の四要件(以下、四要件)が求められる。四要件とは、(1)人員削減の必要性があること、(2)使用者側が解雇を回避するために相当な努力をしたこと、(3)選定基準が合理的であって、被解雇者の人選が合理的であること、(4)解雇に至る過程で労働者や労働組合と十分協議を尽くしたこと、であり、これらを欠く場合は解雇権の濫用として無効とするというものである。

 こうした整理解雇法理の主要な部分を為す四要件は、現在どのように適用されているのであろうか。(4)については協議を尽くしたかどうかの客観的な基準が整えられており、(1)と(2)についても整理が進んでいるが、(3)については客観的で画一的な基準がないと、著者は警鐘を鳴らす。

 まず(1)については、判例を四つの観点に分けて捉えることができるという。①経営が赤字であるかどうか、売り上げ・営業成績が上昇しているかどうか、販売費・一般管理費等を削減しているか、という「経営状況確定のルール」、②新規採用を行っていてはならないという「新規採用禁止のルール」、③希望退職者・退職勧奨者など任意退職した者が今後予想される場合、退職者をまず確定しなければならないという「任意退職者確定先決のルール」、④役員の報酬や賞与をある程度減額するなどの方策を検索すべきであるという「経営者の負担軽減先決のルール」の四点から、人員削減の必要性が判断される。

 次に(2)については、配転・出向、希望退職が行われないままの当該労働者の解雇は、解雇権行使の濫用となり無効であると判断される。

 問題の(3)であるが、著者が平成不況時の101件の整理解雇事案を調査したところ、10人未満の少数の被解雇者しかいないケースが91件にも及ぶという。この事実から、著者は指名整理解雇が昨今の日本企業の解雇の実態ではないかと指摘する。その上で、そうした指名整理解雇が果たして企業の再生を可能としたのか、これまでの判例や学説の積み重ねから十分な保護が与えられたのかについて疑義を呈する。実際、執拗な退職勧奨や職場内いじめについては不法行為法理などでの救済がなされるが、解雇や希望退職において、中高年、疾病者、障碍者、勤務態度不良者等が選別された場合の労働契約関係の存続保護法理は現在のところ十分ではない。この(3)について、今後、判例と学説の整理が喫緊事であることは論を俟たないであろう。

 法的正義を用いて不当な解雇から労働者を守るという著者の姿勢には首肯する部分が多い。しかし、組織行動論を研究し、十年弱企業で働き続けている身としては、違和を感ずる部分もまたあったのが率直なところである。とりわけ、職業訓練や職場内トレーニングによって他の職務への配転を行うことを著者は主張するが、これは現実的ではない。むろん、配転を行うことで労働者の潜在的なパフォーマンスを開花させる努力を企業が行うことは必要であろう。しかし、企業が労働者を保護するという文脈で職業訓練と配転を繰り返すことは、財務面が潤沢な一部の大企業であればできるが、それ以外の圧倒的多数の企業にとっては現実的でない。いつまでも教育コストがかかる人材を抱える職場では、部門としての生産性が上がらないばかりか、業務が集中するその他の労働者の心身面に悪影響を及ぼすからである。

 労働法は働く個人の外形的な保護に重きを置きがちであるが、働く個人の内面、職場のダイナミクス、企業行動といった他の要素にも配慮する必要があると言えるだろう。具体的に言えば、組織行動論や労働経済学といった職場を科学する学問を横断的に捉える姿勢が、多様な働き方が表れつつある現在においては必要とされるのではないだろうか。

2012年1月15日日曜日

【第63回】『法哲学』(平野仁彦・亀本洋・服部高宏、有斐閣、2002年)

 なぜ法哲学という学問領域が存在するのであろうか。それはこの文言の字義から自ずと分かるだろう。つまり、法学と哲学とは密接不可分のものであり、どちらかが欠けても、大げさに言えば社会は充分に機能しないのである。

 試みに法哲学的な思考がない人物が法を運用したらどうなるか、という仮想実験をしてみれば法哲学の存在意義が分かるのではないか。そうした者が法を運用しようとすると形式主義に陥るであろう。つまり、法律や判例に書かれてある文言のみを読み込み現実に適用しようとする。一方では文言に抵触しそうな場合のものには総じて保守的に対応するため、個人が取り得る行動範囲が狭くなる。もしこうした者が人事、総務、労務の部署にいれば、社員の創意工夫や積極的な対応に対していつも歯止めをかけることになり、企業の活力に悪い影響を与えるだろう。また他方では、現実に起きている問題を構成要件化することができず、現実問題を法の文言に結びつけることができずに有効な施策を打ち出せないだろう。現実に起こった問題を抽象度を高めて把握し、法的三段論法に落とした上で具体的な対策を講じるためには法哲学が必要なのである。

 哲学という名がつく以上、自由主義理論と共同体論の対立構造がこの分野でも展開されているのが、当たり前なのかもしれないが、興味深い。誤解を恐れずに具体的に記せば、ロールズとサンデルの対立構造が展開されていると言い換えた方が分かり易いかもしれない。昨今の日本でのサンデルの人気を考えれば、コミュニタリアニズムに代表される共同体論が多くの<日本人>にとって親和性が高いと言えるだろう。コミュニティとのつながりを求める「C世代」という言葉がよくメディアで見られるようになった背景にも、コミュニタリアニズムへの親和性の萌芽が見られる。たしかに、サンデルがロールズの自由主義理論における人格概念を「負荷なき自己」と切り捨てる論法は明快であり、納得感が高いように個人的には思える。いずれにしろ、<日本人>の多くはC世代に代表されるように「負荷ありし自己」を希求しているようだ。したがって、法的規範に目的志向を持たせようとする共同体論が中長期的に主流になるというトレンドを予想することが可能であろう。

 ただし、そうなった場合に起こる難題についても私たちは考える必要があるだろう。つまり、現代の私たちを取り巻く環境は、人種や国籍や性別といった属性が多様な「負荷ありし自己」の集まりである。そうした多種多様な人々を、目的指向性の高い法的規範に収斂しようとする共同体論の態度は果たして整合的なのであろうか。本書においても、共同体論への批判の一つとして、共同体論が古代ギリシアの思想を理想に置いていることが挙げられている。古代ギリシアにおける政治が民主的であったとはいえ、奴隷制が認められるなど、限られた「市民」にとって民主的であったに過ぎない。つまり、画一性の高い限定された「市民」にとっての理想的な思想を、多様性の高い有象無象の人々が暮らす現代社会へ応用するのには無理があるのではないか、と自由主義理論の側は反論する。

 このように対立していてどちらが「正解」かが分からないというのを気持ち悪く思う人もいるだろうが、現実とは白黒はっきりしないものであり、法哲学をもってしても然りである。私たちは、コミュニティを求めつつも、現実的にダイバーシティへどのように対応するか、というアポリアに答えを出していく必要がある。こうした状況を悲観する必要はなにもない。本書でも議論の重要性が挙げられているように、自由主義理論と共同体論とを、法的思考を用いた議論を重ねて答えを導き出していけば良いのである。自身の中で思考実験を繰り返すのでも良いし、コミュニティの中で実際に議論するのでも良いし、異なる立ち位置の人との交流の中で議論するのも良いであろう。


2011年12月25日日曜日

【第59回】『雇用社会の法と経済』(荒木尚志・大内伸哉・大竹文雄・神林龍編、有斐閣、2006年)

 ビジネスパーソンの市場価値が強調され始めた2000年前後から、問題解決の手法を論じるビジネス書が流行しているように思う。軸で切ってポートフォリオで分析を試みたり、モレなくダブりなく論理を積み上げたりすることで、解決策を導き出すことはたしかに有用であろう。しかし、こうした手法は、問題を正しく定義できてはじめて効果が生まれるものである。 誤った問題に対して、フレームワークを用いた分析やロジカル・シンキングを試みたところで、誤った解答を正しく導き出す、という笑えない結果を生み出しかねない。

 問題をどのように捉えるかは、観察者がある事象をどのように認識するか、という観察者の視座に依存する。労働に関する分野においても例外ではない。本書では、労働分野における諸問題に対して、法学者と経済学者がそれぞれの観点を披瀝した上でどのように問題解決を行うかを述べるという学際的なアプローチで展開される意欲作である。


 では、労働問題に対して、労働法学者と労働経済学者がそれぞれどのようなアプローチで問題を捉え、解決策を導き出すのか。


 まず、何を問題として捉えるか。著者によれば、労働法学者は、現実に起きている事象のうち、正規分布から外れるような大問題となっているものを対象とすることが多い。世間の目を引くような過労死の問題であったり、名ばかり管理職の問題といったものがピックアップされることは容易に想像できるであろう。それに対して労働経済学者は、正規分布の平均的な範囲に入る企業や個人を対象とする傾向がある。個別の企業や個人といった顔の見えるミクロなものを対象とするのではなく、統計的なデータから見えるマクロなものを対象とする、ということである。


 このように、問題として捉える観察対象が異なれば、解決策は自ずと異なることとなる。労働法学者は、具体的に困っているある労働者を助けるために、様々な規制や政策を行う必要があると主張する。その結果、国家の積極的な介入を是とするようなパターナリズム的な発想を取りがちであろう。他方、労働経済学者は、現に困っている労働者を助けることの必要性は認めつつも、規制や政策を進めるとかえって他の労働者に悪い作用を及ぼすことを危惧する。この結果、ある種のリバータニズム的な発想を取ることが多く、国家の積極的な介入に対して疑問を持ち、市場の自律的な問題解決を肯定する。


 こうした視点の違いが最も先鋭化するテーマとして本書で指摘されているものが解雇規制である。


 日本における法的な運用としては、解雇権濫用法理や整理解雇法理といった諸外国と比べて労働者を保護する傾向が強い。労働法学者がこうした論理構成を為す論拠とするものは主に二つあるそうだ。一つめは生存権や勤労権といった憲法上の権利や人格権であり、二つめは労働契約における実質的な労使の対等性の欠如への対処という考え方である。憲法が保護する基本的人権の尊重という崇高な理念と、使用者側に対して比較劣位にある労働者を保護するパターナリズムが労働法学者の拠って立つものと言えるだろう。


 企業から排除される特定の個人への手厚い保護を行おうとする労働法の考え方に対して、労働経済学者は、解雇規制によって生じる社会的な損失に警戒感を示す。つまり、国家による規制によって企業が外部環境に合わせて柔軟な対応を行うことが難しくなり、企業の経済活動が停滞しかねないというのである。その結果、企業における労働需要が低下し、労働市場の需給バランスが低位均衡し、翻って労働者側にデメリットをもたらす、という論法である。


 観点の提示や問題提起で留まる書物に対しては「ではどうすればいいのか」という不満の声が出るらしい。しかし、表面的な解決策が適用できる状況というのは極めて個別具体的な状況に限られる。そうしたものを無理に職場に適用してもどれだけ意味があるだろうか。個別具体的な事象に対するためには、それを問題として捉えるためにいったん抽象化し、抽象化して捉えた問題に対する解決の枠組みの方向性を抽象的に捉え、抽象的な解決策を個別具体的に落とし込む、というプロセスが必要であろう。具体的な事象を抽象化するためには、学術的な知見が役に立つ。このように考えれば、本書のような観点の提示を行う学術書は、遠回りのように見えてビジネスに使える優れた教材であると言えるだろう。




2011年12月19日月曜日

【第58回】『諸外国の労働契約法制』(荒木尚志・山川隆一編、労働政策研究・研修機構、2006年)

 本書は、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカの労働契約法を比較することで、日本における労働契約法の特徴を明らかにするものである。企業のグローバリゼーションへの対応は画一的なものと捉えられがちであり、法務面でも同じ誤解があろうが、労働契約法の分野においては、二つの大きな違いがある。

 一つめは、大陸法とコモン・ローとの違い、すなわち制定法を重視するドイツとフランスと、コモン・ローに立脚するイギリスとアメリカの労働契約の考え方の違いである。大陸法は伝統的に制定法により積極的に規制してきたのに対して、コモン・ローにおいては制定法による規制に消極的であり、労働市場の自律的な調整機能に委ねる傾向が強い。大陸法においては制定法によって統一的な解釈が行われるのに対して、英米法においては、制定法が存在しない場合、コモン・ローにより個別の解釈の問題となるのである。

 二つめは、EU圏に属するドイツ、フランスおよびイギリスと、アメリカとの違いである。この両者においては、とりわけ解雇規制に関する違いが顕著である。アメリカにおいては一部の州を除いて解雇に正当事由を要求する立法はなく、差別規制等に反しない限り解雇を原則的に自由としている。これを随意雇用原則と呼ぶ。それに対して、ドイツ、フランス、イギリスにおいては制定法によって解雇を行う上での制限が課されている。具体的な要件としては、ドイツにおいては社会的に不当でないこと、フランスにおいては真実かつ重大な理由、イギリスにおいては公正さが、求められるのである。

 上記のような二つの異なる点があるわけであるが、いずれの国においても解雇を制限する潮流が見られることが興味深い。EU圏においては制定法によってそうした流れが創り出され、アメリカにおいては州単位ではあるが判例によって推進されている。では、各国において解雇法理が今後も厳格化するかと言えばそのようなわけではないだろう。グローバル展開を行う企業が各国において柔軟な人事施策を展開し易いように、中庸を目指して法が修正されていると見るべきではなかろうか。このように考えれば、日本のように解雇法理が厳格な国家においては、それが緩和する方向に向かうことが充分に予見されると言えるだろう。




2011年12月10日土曜日

【第56回】『アメリカ労働法[第2版]』(中窪裕也、弘文堂、2010年)

 二年半前、修士論文を書くための研究調査として事業会社のサラリーマンにインタビューをして驚いたことがある。それは、彼(女)らが異口同音に明日以降も今と同じ仕事が今の会社にあることを当たり前のように前提として捉えていたことである。当時私が個人事業主として働いていたために、彼我の契約形態の差異からこうした違和感を抱いたのかもしれない。問題は、明日も同じ仕事ができることをありがたく思って中長期的にチャレンジして職務を深化させるタイプと、それに安住して惰性で職務をこなすタイプがいることである。分析の結果、前者のモティベーションは高く、後者は低いという相関関係がくっきりと出た。調査を行う前に想定していた仮説どおりであったのであるが、あまりに仮説と合致したため後者に該当する方々の将来を心配に思ったものである。

 この調査結果を踏まえて、キャリア理論を説明変数に、コンテンツ系のモティベーション理論を被説明変数として理論化を試みた。実務に即して端的に記せば、社員を取り巻く外的環境や職務特性が近似している条件下であっても、職務の捉え方がモティベーションに影響を与える、ということである。換言すれば、職務に意味付けができる人ほどモティベーションを高められるということであり、逆もまた然りであった。これが企業による社員に対する評価と相関することは容易に想像できるだろう。

 従来、ハックマン&オルダムの職務特性理論をはじめとしたモティベーション理論を理論的背景にして、職務拡大や職務充実を管理者が図ることが王道のモティベーション施策であった。日本においては小池和男さんの「労働の人間化」に関する職務設計の理論が代表的であろう。このアプローチは理に適ったものであり、異議を挟むつもりは毛頭ない。しかし、私の問題意識は、昨今の企業においてすべての管理者が部下の職務を拡大したり充実させたりすることができないのではないか、という点にあった。職務の変化が激しく、また中間管理層の多忙さが増すばかりの現状において、管理者が部下の職務拡充を行うことは想像できなかったし、今では確信的にそう思う。管理者による職務拡充だけに頼っていては、企業において人材を成長に向けて動機付けることは難しくなるだろう。人材育成に携わる身として、コンサルタントであった当時も、事業会社で働く現在も、若手社員が多様に職務を捉えられるようになることに微力ながら注力している背景にはこういった理由がある。

 しかし最近、こうした人的アプローチだけでは不十分なのではないか、と考えるようになった。冒頭で述べた二つのタイプの人材のうち前者には私のアプローチで寄与できることはあるだろう。しかし後者に対しては、人が介在することだけで解決するものではなく、システム、すなわち企業においては人事制度が強く影響を与えるのではないか。さらに遡れば、人事制度に影響を与えるのは労働法であり、現行の法制度やその運用のあり方に問題があるのではないか。平たく言えば、判例法理やそれに伴う人事制度が、後者のような存在を生み出すことを助長しているのではないか、ということである。今後もこうした人たちが企業の中で働き続けられれば良いのであるが、昨今の経済情勢や労働経済学の基礎的な知見から考えれば、まず間違いなく無理である。そうであれば、彼らのためにも、企業のためにも、労働法というシステム自体を改善するべきではなかろうか。

 いやしくも研究者を自認する人間が、これまでの専門である組織行動論で解決できないと言って問題を放棄することは逃げである。人事・人材育成の分野において、問題発見の起点は実務の中に存在する。仮説として見出した問題を解決するための起点は理論の中にある。組織行動論とそれに基づく人事・人材育成の実務で得られた知見をもとにして、労働法での知見を組み合わせることで、問題解決の道を探りたいと私は考えている。

 日本企業における労働法のあり方を考えるためには、日本の法制度や判例を研究することが必要であることは自明であろう。しかし、日本に住み、日本で働く人間が、日本の労働法や判例だけを研究していては、そこにあるパラダイムに捉われてしまい客観視することはできない。地があるからこそ図はくっきりと形を表すのであり、研究においては、対象を明確に捉えるためには比較対象を用いることが必要である。そこで、日本の労働法を考えるために、アメリカの労働法を学ぼうと思い、先行研究の一環として本書を読んだ。

 やや長い前置きはここで終え、以降は本書について述べる。

 法の背景にはその国の文化や社会的土壌がある。筆者によれば、アメリカ社会には労働者を手厚く保護するという労働法的な土壌がもともと存在しないことに特徴がある。アメリカ社会は個人の自由と市場原理を重視し、公的な政策や階級連帯の意識に乏しく、契約をなによりも尊重するのである。

 こうした建国の精神とも言える社会的土壌の結果として、19世紀末から20世紀初頭にかけて確立されたのが随意的雇用の原則である。期間の定めのない雇用契約において随意的に雇用契約を変更できるということであり、すなわち、使用者も労働者も原則的にいつでも自由に契約を終了させることができる。日本では民法が保証する契約の自由に対して、労働者を保護するために下位法として労働法が制定されているわけであるが、アメリカでは日本の労働法的な考え方が元々ないということであろう。解約にあたり特別の理由や予告期間が要求されないことを考えれば、日本の民法よりもさらに厳格な内容であると言えるだろう。

 こうした厳格な運用は、時代を経て次第に労働者を保護するような判例が出され、随意的雇用原則は修正をなされている。

 まず、ニューディール以降に二つの外在的な制限が発展した、と著者は指摘する。一つめは労働協約による正当事由条項である。つまり、不当解雇に対して救済を求めて異議申し立てをする根拠が形成されたのである。二つめは制定法によって一定の理由による解雇を禁止することができるようになった。もともとは合衆国憲法によって、随意的雇用原則に抵触するものとして州法が解雇を禁止する規定を設けることが禁止されていた。しかし、1930年代後半には連邦最高裁が態度を変更してこうした法の制定が可能となったのである。

 さらに、1970年代後半になるとパブリック・ポリシー法理が形成され、現在では40を超える州で採用されるまでに至っている。パブリック・ポリシー法理とは、法制度が体現している一定の明確な規範に反して労働者を解雇することに制約をかける判例法理である。著者は、被用者が違法行為を拒否したことを理由とする解雇、被用者が労災補償の申請など自らの法律上の権利を行使したことを理由とする解雇、被用者が裁判所の陪審員など重要な公的義務を履行したことを理由とする解雇、などをその例として挙げている。日本の労働法と比較すると、私たち日本人にとって当たり前に思える権利がつい最近まで保証されていなかったことに驚く。

 さらに、パブリック・ポリシーと並行して契約法理による解雇制限が行われるようになった。違う側面から述べれば、従来は労働者と使用者とで解雇をしない旨の約定を結んでいたとしてもその効力は随意的雇用原則によって認められなかった、ということである。雇用契約を自由に結ぶことを、雇用契約を制限する契約を結ぶことよりも上位に置いていたのである。つまり、契約の自由じたいを保証するために、自由に制約を掛けることを禁じていたのである。

 このように随意的雇用原則に対する修正の動きを見てきたが、アメリカは州法と連邦法の二元的法体系の国家である。日本のように、地裁、高裁、最高裁といった一元的な法体系から成る国家と異なることは充分に意識すべきである。したがって、すべての州において随意的雇用原則の修正に関する進展の度合いが異なることに注意が必要であろう。しかし、大きな流れとして、パブリック・ポリシー法理や契約法理によって、硬直的な随意的雇用原則に修正がなされていることには着目すべきである。

 グローバリゼーションはアメリカナイゼーションではない。アメリカにおける労働法理も他国の労働法理の影響を受けてここまで述べたような変更が為されている。翻って日本の労働法理に目を向けてみよう。アメリカの労働法を模倣すべしということではないが、他国における労働法とそれに伴う働き方を意識した上でグローバル展開をすることが必要なのではないか。それに加えて、グローバリゼーションへの対応のためにも労働法理を修正することもまた必要になるだろう。